第7話:水面渡り
目が覚めると知らない枕だった。寝心地は悪くはなかった。洋子は「泊りはまずいから」と言って夜明け前に帰っている。カーテンの隙間から朝日が射していた。時計を見ると三時と四時の中間より少し前だった。日本時間の朝七時前くらいか?三時半とでもいうのだろうか?丁度良い時間みたい。
窓は奥行き五十センチ位の広い出窓になっていて、奥のカーテンを開けると五メートルくらい先に煉瓦の壁が見えた。今日の夜見た煉瓦の壁が建物全部の周りに立っているのだろう。
出窓の奥行き=壁の厚みと考えると、石造りの外壁がそのまま建物の柱を兼ねる造りになっているのかもしれない。
思ったよりホームシックみたいなのは無かった。これも健康の影響か?先のことはわからないが、これからに対する不安と期待の方が大きいみたいだ。イエー、ワクワクが止まらないぜ。なんちゃって。
本当は軽くランニングしたいところだが、今日の所はやめておこう。寝巻代わりに着た作務衣みたいな上下のままでタオルを持って洗面所に行った。男子の半分くらいが集まっていた。目覚まし無いのに皆早起きだな。
ヒデが眠そうな目で顔を洗っていたが、間違っても「昨夜はお楽しみでしたね」などとは言わないぜ。
「よう、眠そうだな?枕が変ると寝れないタイプ?」
「ああ、タカか。そういう訳じゃないんだけどな。ちょっと走ったら目が覚めそうなんだが」
他の連中も特に調子が悪い奴はいなさそうだった。逆に健康の影響なのか、花粉症が治ったか、水虫が治ったとか、そういう話が出た。
顔を洗いながら皆の話を聞いていると昨晩早速、女子寮に忍び込もうとした勇者が、いや不届き者が出たらしい。不届き者は渡り廊下を警備していた女騎士につかまり、こっぴどく説教されたそうだ。俺はクラス一の問題児の顔を思い浮かべた。
仲間外れを防ぐため、それぞれ食堂に行く前には、隣に声をかけていこうと約束して部屋に戻った。
軽くストレッチしてから作務衣を脱いで、チェストに入っていたスウェットの様なシャツとズボンに着替えた。シャツは前ボタンで、ズボンは緩めのウエストを紐で占めるようになっていた。ランドリー用と思しき籠に作務衣を放り込む。
制服の夏服も入っているが、洗濯・アイロンOKの生地なので大丈夫だろう。そろそろ行こうかと思ったらノックの音が聞こえた。ドアを開けると、ヒデと志摩豊作が立っていた。
志摩は若干十七歳ながら、月刊プレジデントと現代農業を定期購読している渋いナイスガイだ(なぜ?)。身長は俺と同じくらい、中肉中背で顔も普通、どこをどうとっても平均的日本人そのものだが、なんと江戸時代から続く豪農の長男で、一番多い時で小作人が百人以上いたらしい。今でも家の周辺を歩くと、爺様・婆様から「お坊ちゃん」と声をかけられるそうだ。
志摩のご先祖様が偉かった(?)のは戦後の農地改革の際に、お上に徹底的に逆らって土地を絶対に売らなかったことだろう。十年以上タダ同然で貸し出すことを条件に、先祖伝来の土地を全部守り切ったのだ。
ご先祖様の努力が報われたのは、昭和に入ってからだ。所有地の一角を新幹線が通り、駅まで出来ることになったのだ。土地の売却益と駅周辺の開発、貸しビル、マンション、アパート建設と貸し出しなどで、地元では志摩財閥と呼ばれているらしい。
話はここで終わらない。志摩の母の兄が日本有数の大企業(東証一部上場済み)の創業者で、ろくな跡取りがいないため、後継者候補としてスカウトされているのだ。
このことが原因で離婚一歩手前の夫婦げんかになり、今でも家庭内でこの話はタブーになっているそうだ。わざわざ校区外のうちの高校に入ったのも、家を出たかったからみたい。
大農家の長男として跡を継ぐか、大企業の跡取りの道を選ぶか、彼のぜいたくな二択はまだ続いているらしい。
「そろそろ行かないか?」
「工藤はもう行ったらしいぜ」
「俺も今出ようとしていたんだ。冬梅は?」
「さっき、楽丸と一緒に行ったよ」
朝食に何が出てくるか昨日の軽食を参考に話しながら歩いていくと、ラウンジで洋子と初音にあった。カウンターにセリアさんの姿が見えたので、手を振っておく。洋子がつぶやいた。
「朝ごはん、何かな?」
みんな考えることは一緒のようだ。
食堂の両開きの扉を開けると、活気のある掛け声とニンニクをオリーブオイルで炒めた様な匂いが押し寄せてきた。匂いを嗅ぐと急に腹が減ってきた。
「イタリアンレストランみたい」
洋子と初音が歓声を上げた。中に入ると右手は幅十メートル以上ある長いカウンター、その奥がオープンキッチン、左手はテーブル席になっている。吹き抜けの天井では巨大な三枚羽の扇風機がゆっくりと回っていた。
床も壁もカウンターもすべて木目で、テーブルクロスの白さを際立たせている。テーブル席の後ろは、西側も南側も大きな窓があり、明るくて開放的なカントリー調のダイニングだった。
給仕はおらず、セルフサービス形式になっており、カウンターで注文し、そのまま受け取るシステムのようだ。食券こそないが、まるで学食みたい。一番左側からパン、スープ、サラダとメインがのった皿の順にとっていき、最後に飲み物を選んで完了だ。
パンもスープも数種類から選べたが、とりあえずテーブルロールのような丸っこいパンとコンソメぽいスープを頼んだ。
メインの一皿は野菜をドレッシングであえたようなサラダが付いた鶏肉ぽい肉のソテーだった。飲み物はいろいろあったが、迷った末に紅茶みたいなのを選択。まあ、無難なところだろ。
いや、ワイン位ならいいかな、と思ったが勇気が出なかっただけ。花山が左手にトレイ、右手に例のピッチャーを持って悠然と歩いていたが、流石にあれは真似できない。手前のテーブルに冬梅がぽつんと一人で座っていたので、五人で押し掛けた。
「楽丸はどうした?」
「木田さんに引っ張られていった」
楽丸は窓際のテーブルにいた。横には浅野、そのまた横に木田が並んでいる。浅野の左右を木田と楽丸で固めた不動のポジションだ。誰かが神社の狛犬みたいと言ったが当たっていると思う。
木田は身長165センチ以上、女子では背が高いほうだ。髪はサイドを刈り上げたベリーショートで、背の高さもあってしょっちゅう男と間違えられているが、そんなに気にしていないみたい。やや吊り上がった眼と広めの額で、高校生なのにお母さんの匂いがするしっかり者だ。保育園の時から現在まで常に浅野と同じ学校で同じクラスだったらしいが、そんなのありえるのか?
母親同士が学生時代から友達で、同い年の子供で、ご近所さんということで、小さい時から互いに子供を預けあう仲だったらしい。
いわば兄弟同然で育ったわけだが、小学校に上がる前に浅野の母親が亡くなったこともあり、浅野より背が高いせいか、相性なのか、同い年なのに面倒見が良いお姉さんと素直で可愛い弟という関係が固定しているみたいだ。
楽丸は中学の時から浅野と一緒の学校になったみたいだが、一部の男子から浅野を守るガードマンとして活躍(?)している。浅野のお世話係その2という訳だ。浅野が向かいに座った伊藤と話しながら笑っていたので少し安心した。木田と楽丸が険しい顔をしているが、まあ大丈夫だろう。
伊藤晴は我がクラス一の問題児だ。身長は俺よりちょい高め、顔はまあ、アイドル系というか、なんとか二枚目?ロン毛に校則にギリギリ違反しない範囲で脱色している。成績はパッとしないが、スポーツはそこそこ得意で、男女問わず人当たりは良い。
当然、モテるのだが、こいつはそれをいいことに際限なく女の子と仲良くなろうとするので、二股三股四股と際限なく広がっていき最後に破綻するのがパターンだ。いつか刺されるぞ、ほんとに。
昨日女子寮に忍び込もうとしたのはおそらくこいつだ。ターゲットは浅野だろうな。ある意味尊敬するぜ。木田と楽丸には伊藤にスクイズを決められないよう頑張ってほしい。
パンが固いだの、鶏肉の塩がきついだの、ドレッシングが酸っぱすぎるだの、紅茶は案外おいしいとか話しているうちに食事が終わった。
カウンター右端の返却口にトレイを置いてふと気づいたのだが、花山がいない。よく見ると、北側の窓の右横に扉が付いている。もしかすると・・・。
皆を連れてドアを開けると踊り場みたいになっていて、右側には三段くらいの小さな階段があった。降りると幅十メートル、奥行き三メートル程のウッドデッキになっていた。四人掛けのテーブルが四つ置いてある。真ん中のテーブルで花山が悠然とエールを飲んでいた。
「花山君、一人でずるい」
洋子の声に気づいた花山はピッチャーを上げてかすかに微笑んだ(ような気がした)。ウッドデッキには腰までの高さの手すりが付いているが、真ん中は二メートルほど空いていてそこから庭に降りられるようになっている。食堂の裏とは思えない立派な庭で、なんと直径十五メートルほどの池が目の前にあった。
池の縁は石を敷き詰めた遊歩道になっていて、所々に黄色と紫の花が植えられていた。池の奥はきれいに剪定された木立になっていて、遊歩道が一本奥へと続いている。
木々が茂っているので、奥は見えない。ウッドデッキから左を見ると南棟が見えるが、右を見ると渡り廊下の中間位から目隠しの塀が池の所まで続いており、北棟は見ることができない。
「わーきれい」
「池だよ、池」
俺たちが外に通じるドアを開けたのを見ていたのか、一条と小山あずみ、そして尾上と工藤が踊り場に現れた。
「素振りするのに良さそうな庭だな」
尾上、お前はたまには剣道から離れたらどうなんだ。一条、その剣道バカをうっとり見つめるのはやめろ。小山はやれやれと肩をすくめた。
小山あずみはお母さんが古武道の師範らしく、何か相通じるものがあるのか、一条や平井と仲が良い。身長は俺と同じ位なので約170センチ(正式な情報は非公開なので推定。失礼を承知で聞いたら「禁則事項です」と返された)、切れ長の目に腰まで届きそうな黒髪ロングストレートのすらりとした和風美人さんだ。一条・平井と合わせて黒髪三姫の一人でもある。俺は昨日からどうしても知りたかったことを聞いた。
「なあ小山、お前忍者なんだろ。忍術ってどういうことができるの?」
「えー、そんな大したことはできないよ?」
「ちょっとだけ見せてくんない?」
「うーん、どうしようかなー?」
可愛らしく小首をかしげるが、周りの期待を感じたのか、小さく頷いた。
「わかった。ちょっとだけだよ」
小山はポケットから取り出した赤いリボンで髪を首の後ろでゆるくまとめると、何の予備動作もなくそのまま踊り場から飛んだ。
まるで体重を感じさせない動きで右側の手すりの右端に着地すると、そのまま軽やかに手すりの上を走って中央の切れ目の手前でジャンプ!空中で一回転すると、危なげなく左側の手すりに着地!手をついて前転を二回、端からジャンプするとムーンサルトできれいに庭に着地した。
ロングスカートでこれだけの動きができるのも凄いが、パンツが全く見えなかったことも凄いと思う。俺は二重に感動したが、動き自体は体操選手でもできる技だ。俺の物足りない、という気持ちが伝わったのか、小山はにっこり笑うと池の左端の方に歩いた。
「これから忍術ぽいの見せるね」
池の前で止まった小山の横顔が引き締まっていく。静かな緊張感のようなものが伝わってきた。忍者風の印を結ぶと、小山は一声叫んだ。
「忍法水面渡り」
小山はそのまま池の上に右足を乗せた。誰かが「あっ」と声を出したが足は沈むことなく、左足が続く。一歩、二歩、三歩、四歩と沈むことなく確かに水の上を歩いている。右端まで渡り切るとターンして再び歩いて戻ってきた。
「見事!」
工藤が叫んでいた。いつの間にか増えたギャラリーから盛大な拍手が上がった。思わず小山に声をかける。
「いやあ本当に凄いなお前。どうやっているの?」
「うーん、右足を出して沈む前に左足を出してそれを繰り返す感じ?」
それが出来れば誰も苦労しないよ。そうだ天然だ!ここに天然がいるぞ。しかし、一番衝撃を受けたのは最前列で見ていた花山だった。いつもポーカーフェースの花山の愕然とした表情を初めて見た。いつもは細めている目を大きく見開いて、顎が外れたみたいにぽっかり口を開けていた。
「皆様、そろそろ講義の時間でございます。黒板を持って会議室にお集まりください」
セリアさんが踊り場の後ろから叫んでいた。俺たちは興奮が冷めぬままいったん部屋に戻った。
忍法はロマンです。