第60話:安楽椅子
6月27日、風曜日。晴れ。昨日の夜中に雨が降ったみたいで路面は黒く塗れていたが、雲の切れ間から明るい日差しが注いでいた。西の空は雲が一つも無いので、今日は晴れるみたい。暑くなりそうな予感。
朝のランニングから戻るとラウンジで工藤に捕まった。将棋の金と銀をどう翻訳するか迷っているみたい。
「とりあえず思いつくのは近衛兵かな?」
「俺もそう思うけど、金と銀の二種類必要なんだ」
「近衛騎士と近衛兵、あるいは将軍または参謀と近衛騎士でどうだ」
「どっちがいいかな?」
他のを聞くと、歩→歩兵、香車→槍兵、桂馬→騎兵、飛車→戦車にするとのこと。飛車の裏は龍のままで、王と玉は特に分けずに王様で統一するそうだ。角だけまだ決まっていないけど、もう少しだ頑張れ。
食堂に行こうとラウンジを出たら、教室(大会議室)との間にある礼拝所で浅野が祈っているのを見た。それほどまでに痛いのか。
今日の朝ごはんは、イングリッシュマフィンだった。昨日の夜食べたマフィンはお菓子だが、イングリッシュマフィンは甘くないパンだ。オーブンで焼くけど、円形で平べったいので、パンケーキに近いかも。バターやジャムを塗ったり、具材を挟んだりして食べるのだ。いつも通り、ミックスジュースとカットフルーツでいただきました。
食後ラウンジでぼんやりしていたら、利根川に会った。顔色が良くなかったので、声をかけると少し前にいただいた女神様のご褒美を昨日の晩、ついに飲んだそうだ。おかげで「火魔法」のスキルがついたとのこと。
錬金術との相性バッチリで良かったじゃないの。おめでとうと声をかけたが、まだ気分が悪いのか無言で手だけ振って部屋に戻っていった。レベルアップせずにスキルが付くことの副作用みたいなのかもしれない。
魔法学は川や沼・池・湿地帯に現れる魔物だった。王都周辺の川の魔物はほぼ駆除しているそうだが、少し離れると全くの手つかずの状態なので、気を付けるようにとのことだった。
ミドガルト語の講義は、ただひたすら我慢するだけで終わった。
精神力のほぼすべてを使い果たしてラウンジで休憩していると、玄関先でシロがうるさい。誰か来たみたいだ。セリアさんが駆け込んできた。
「木工ギルドのテイラー様とワッツ様がお見えです」
テイラーさんは契約書のひな型、ワッツさんは安楽椅子の見本を持って来てくれた。まず契約書から受け取った。所々読める単語があるのは講義が少しは役に立っているということだろうか。
ワッツさんが持ってきたのはイメージ通りの安楽椅子、ロッキングチェアだった。木製のしっかりした造りで見かけは抜群。試しに座ってみたが、まったく問題なかった。背もたれやひじ掛けの大きさや高さも問題なし。
「そちらの安楽椅子が早速売れましたぞ」
「早すぎませんか?」
「なんのなんの、作るためにはまず注文を頂かなければなりませんからな。お得意様に担当がご機嫌伺いの際にご案内したところ、十人中十人からご注文を承っております」
簡単なラフスケッチと大雑把な説明だけで先を争うように注文してくれるそうだ。
「お陰様で営業も工房もやる気になっておりましてな、久々に忙しくなりそうですぞ」
商売繁盛で何よりですな。それだけ新しい物に飢えているということなのかな。とりあえず、契約書はチェックして結果はFAX(?)で連絡することを約束した。
平野から頼まれていたざると竹串を注文したが、竹の在庫が残り少ないとのこと。とりあえず手持ちの五十本の中から十本渡したが、また竹の採取にいかなければならないようだ。
お昼ご飯は、バジルのようなハーブが効いたスープスパゲッティだった。爽やかな香りがするコンソメベースのスープの中で、柔らかめの麺が胃に優しい感じだった。浅野がおいしそうに食べていたので一安心。デザートはマスカットのジェラートだった。
練兵場に行くと、伯爵と鍛冶ギルドのバーニンさんが待っていた。まず伯爵から武器・防具の開発に関する契約書のひな型を渡された。内容を検討してから改めて結果を伝えることで、まずは了解。
次にバーニンさんは昨日俺が頼んでいたものを早速持ってきてくれた。鍛冶ギルドが作っている訳ではないが、その顔の広さで探してきてくれたらしい。ありがたいことだ。三種類あったので一度全部預かり、試してみてから必要な物だけ購入することで了解して貰った。これで何とかなるかな。
鍛錬ではヒデの手裏剣投げが一段と進歩した。なんと一度に三枚同時に投げられるようになったのだ。それも左右にも上下にもどちらも三十センチほどの間隔をあけて投げられる。これは既に名人というか、マジックの領域ではなかろうか。勇者のイメージとはちょっと外れているが、本人は満足そうなので良しとしよう。
練兵場から帰ると俺は羽河を探した。ラウンジでぼんやり紅茶を飲んでいたので、まずは木工ギルドとの契約書のひな型と武器・防具に関する契約書のひな型を渡す。
「ありがとう。後で先生にチェックして貰うわ」
先生は、ロッキングチェアの上で目をつむっていた。寝ているのかもしれない。
「頼む。それと、これ使ってみないか?」
俺はバーニンさんから預かった武器をテーブルに広げた。
「鞭?」
そう、俺が探して貰ったのは鞭だったのだ。馬車用の細くて短いもの、ワイバーン用の太くて長い奴、そしてその中間位の太さ・長さの鞭の三種類。色は乗馬用は黒、ワイバーン用は緑、中間は真っ赤だ。
「なんかさ、羽河が鍛錬にあまり出てこないのは、自分の気に入った武器が無いからじゃないかなと思ってさ、どうだろ」
「そうね、ナイフは得意だし、手裏剣も使えるんだけど、なんかピンとこないのよね」
羽河は興味深そうに鞭を触りながら呟いた。一応興味を持ってもらったようで良かった。
「とりあえず三つとも試してみてよ。要らない奴は返品するから」
「分かった。気にかけてくれてありがとう」
これで終わりかと思ったら違った。
「それじゃあ私から素敵なお知らせがあるの」
「何?」
羽河は気を持たせるように紅茶を一口飲んでからこたえた。
「商業ギルドとの交渉の日が決まったわ」
「え!いつ?」
羽河は笑いながらこたえた。
「明後日、二十九日・火曜日の八時半、場所は王女様居住の白鳥宮だって。八時前にお迎えの馬車が来るそうよ。出来れば委員全員来て欲しいって」
俺はごくりと唾を飲み込んだ。最初の山場だな。商品に自信はあるし、王女様のバックアップがあるので間違いないとは思うのだが、緊張するぜ。グッと手を握りしめた俺を見て羽河は続けた。
「今のに関連してもう一つお知らせがあるの」
「?」
「王女様が明日の夕方、再度のご訪問よ」
「え、なんで?」
「目当てはドライヤーね。一刻も早くご自分の目で確かめたいそうよ」
俺は声も出なかった。おかしくないか?王族っていろいろ忙しいんじゃないの?羽河は笑いながら俺を励ましてくれた。
「まあ、興味を持ってくれただけでも良しとしましょう。王室御用達なら、商業ギルドも力を入れてくれるんじゃない?」
「そうだな。そう思うことにしよう」
力なく笑ってから紅茶を飲んだが、何の味もしなかった。とりあえず、今日の夕食後に生活向上委員会のメンバーで打ち合わせることにした。
早めに食堂に入ると、野田がチェンバロを弾きながらベルさんと打ち合わせしていた。今日の演目は、エルトン・ジョンみたいだ。リストよりははるかに親しみやすくて良いのではなかろうか。
今日の晩御飯はミートボールのシチューだった。ベースになったのはトマトのスープで、赤ワインが深いコクを生んでいる。ミートボールは牛とオークの合いびき肉を丸めて揚げてから煮込んだみたいで、噛むと中から肉汁が溢れてくる。いつものように鮮度抜群のひき肉で作っているので、練り物感が全くなく肉のうまみが存分に味わえるのだ。
焼き鳥のつくねも良かったが、煮込んだ奴も別のうまさがあるなと思った。
デザートはシュークリームだった。パリッとした皮と濃厚なカスタードクリームの対比が最高だった。ベルさんがシュークリームを驚愕しながら食べていた。
既に生活向上委員会のメンバーに集合はかけていたみたいで、夕食後に羽河のテーブルに全員集まると、羽河が話し始めた。
「それじゃあ緊急の会議を開きます。まずは私から報告があります。木工ギルドとの契約書のひな型と鍛冶ギルドとの契約書のひな型を先生にチェックして貰った所、問題はありませんでした。木工ギルドには魔法の連絡箱でお知らせ済みです。鍛冶ギルドにもその旨伝えて正式に締結する予定です」
全員パチパチと拍手した。また一歩前進だな。拍手が終わると志摩が心配そうに聞いた。
「王女様はどうする?」
木田がこたえた。
「夕方来てお風呂入ってドライヤーを試して帰るんじゃない?」
羽河が首を振ってこたえた。
「まさか、晩餐を楽しみにされているそうよ」
工藤が確かめるように聞いた。
「風呂入って飯食ってお酒を楽しむか。まるでここは温泉センターだな。でも、打ち合わせは無いんだろ?」
羽河が頷くと、みんなほっとした顔になったが、次の一言で引き締まった。
「前より気楽でいいけど、その代わり失言には注意してね」
前回と同じく、王女様用に教室を手配することにした。
「それじゃあ次は商業ギルドだな」
「メンバーは?」
「委員全員と先生」
「打ち合わせに持っていくものは?」
「ウイスキーの見本が計九本」
「ラベルはどうする?」
「手書きで良いなら俺が描こうか?」
「ミドガルト語で書けるのか?」
ここで木田が声を上げた。
「これでいいなら」
そう言うなり浅野のポケットに手を突っ込むと、メモ帖みたいなのを引っ張り出した。
「この前、カオルとエレナさんがごそごそやってるのを見てたのよ」
浅野が止めようとしたが、メモ帖は既に羽河の手に渡っていた。羽河が感心したように大きく頷くと、皆にメモ帖を開いて見せた。ミロのビーナスぽいイラストとミドガルト語の文字が並んでいる。なんかこう上品で洒落たデザインだった。
「極上の火酒 女神の森 樫 十年」
いつの間にか後ろに立っていた先生が読みあげてくれた。工藤が大声を上げた。
「これでいこうぜ」
みんな拍手で賛成した。浅野が照れたように真っ赤になった。絵本もそうだけど、浅野って絵心あるんだな。
「せっかくだから水や氷と軽いつまみも持っていくか?」
「賛成!」
「取説は?」
「翻訳が終わってないわ」
利根川が肩をすくめてこたえた。
「ウイスキーのボトルはどうする?」
「雑貨ギルドが間に合わなかったら、江宮にお願いだな」
「分かった」
江宮が頷いた所で、俺は発言した。
「ボトルを雑貨ギルドに発注してから思いついたんだけど、ウイスキー用のロックグラスみたいなのを作らないか」
工藤が真っ先に乗ってきた。
「いいなそれ、前回ショットグラスだけ作ったけれど、あれに合わせてタンブラーやゴブレットも欲しいな。せっかくうまい酒ができたのに、何か足りないと思っていたんだ。それだよそれ」
志摩ものってきた。
「どうせならピッチャーやアイスボックスも欲しいな」
珍しく羽河も追従した。
「それならワイングラスも作ってよ。赤ワイン用も白ワイン用もどっちも欲しいわ」
江宮が自信ありげに頷いた。
「まかせてくれ」
まったくもって頼りになる奴だぜ。夜はパブになる喫茶店でバイトしていたという噂は本当かもな。
「こいつで決まりだな」
工藤の声に全員大きく頷いた。商業ギルドへのプレゼンには間に合わないが、食堂で使う分は雑貨ギルドに見本を渡して量産して貰うことにしてお開きになった。
部屋に戻ったらいつも通り出窓にお供え物を置いた。今日はシュークリームを三個。いつも通り目を閉じると、一瞬後には消えていた。
羽河さんは運動が苦手みたいで、鍛錬はあまり熱心ではなかったようです。
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