第287話:私は風3
江宮の横にアシスタントのように付き添っている木田が叫んだ。
「只今風速3、4、5メートル」
江宮がこたえた。
「風力そのまま。介助員、報告せよ」
水野がこたえた。
「揚力感知。浮き上がりそうです」
江宮が続けた。
「飛行士、騎乗せよ。風速10メートルまで増速」
木田が横で叫んだ。
「風速6、7、8、9、10メートル」
弛んでいた元網がピンと張って、前に引き寄せられそうになった。腰を落とし、両足で踏ん張る。江宮が叫んだ。
「風力そのまま。介助員、報告せよ」
水野がこたえた。
「揚力増加。これ以上は抑えられません」
江宮が続けた。
「飛行士、報告せよ」
小山がこたえた。
「オールチェックグリーン。あずみ、いきまーす」
なんだよそれ。「あ」だけは一緒か・・・。あっちはカタカナだが。
「朱影リフトオフ。介助員、解放せよ。風速15メートルまで増速。送り開始」
江宮が叫んだ。完全に無視しているな。
元網がピンと張って、倒れそうなほど強い力で引っ張られた。全体重を後ろにかけながら、花山の合図に合わせて元綱を少しづつ前方に送る。風に乗った大凧はふわりと宙に浮き上がり、お傍係と女子からどよめきが上がった。
木田が叫んだ。
「風速11、12、13、14、15メートル」
大凧は地上5メートルほどの高さで上下左右に細かく揺れていた。揚力と重力が拮抗していて不安定な状態に見える。
江宮が叫んだ。
「飛行士、報告せよ」
小山の切迫した声が聞こえた。
「我安定せず。モアパワー」
江宮は頷くとこたえた。
「風速20メートルまで増速。救助員、所定の位置につけ」
一反木綿と箒に跨った鷹町が飛び立ち、大凧の左右の後ろについた。木田が叫んだ。
「風速16、17、18、19、20メートル」
大凧はついに重力に打ち勝ち、天を目指して力強く上昇していく。凧の下からは長さ三十メートルほどの白い尻尾が二本、長くたなびいた。これが無いと凧がくるくる回って安定しないのだ。シーアンカーみたいな役割をするのだろうか?
風の勢いが強まり凄い力で引きずられそうになった時、まるで子泣き爺が背中に張り付いたように全身が押さえつけられ、体勢が安定した。
観衆から大歓声と拍手が上がった。きれいに晴れた青空を背景にした朱色の凧は相当に目立った。忍者物のテレビ版の白い凧に負けじとカッコよかった。
あとは上昇速度に合わせて綱を送り出すだけで良かった。高さが五十メートルに達したあたりで、江宮が叫んだ。
「送り停止。風速そのまま。引手は現況を保持せよ」
見上げると凧の上部から小山が顔をのぞかせた。笑顔で右手を大きく左右に振っている。凄いな。落下防止のため安全索で梯子と腰を繋いでいるとはいえ、怖くないのかな?
良かった良かったと思いながらふと先生を見ると、涙を流しながら笑っていた。ちょっと怖いけど、感動しているみたい。江宮が聞いた。
「飛行士、報告せよ。異常はないか?」
小山は第一声はどこかで聞いたことがあるような言葉だった。
「空は明るく、王都は青かった。ヨーソロ」
どこかの宇宙船じゃあるまいし・・・。
風との綱引きは十分ほどで終了となった。風の減速に合わせてロープを手繰り寄せてゆく。凧は降ろすときの方が気を使って大変だった。最後は介助員が左右から凧をキャッチすると同時に、小山は梯子の最上段からくるりと前に一回転しながら飛び降りた。感激したのかそのまま座り込んで泣いているみたい。皆が集まって小山を祝福している。大凧の初飛行は大成功!無事終わってよかった。
と思ったら続きがあった。先生が江宮と直談判している。
「私は誰よりも風を熟知しております。風使いの名に懸けて決してご迷惑はおかけしません。どうか私を風の翼に乗せてください」
乗馬ズボンにはこういう訳もあったのか・・・。凧を風の翼と呼ぶのもなんかロマンチックだなと言っている場合ではない。俺は羽河と顔を見合わせてから江宮にOKサインを出した。なんとかなるだろう。江宮は先生と手短に言葉を交わしてから大声で叫んだ。
「大凧の試験飛行一回目は無事成功しました。ご協力ありがとうございました。突然ですが、急遽二回目を行います。今回のパイロットは先生です。再度配置についてください」
ギャラリーが静まり返った中で、俺たちは所定の位置に着いた。伯爵とジョージさんはもちろん、イリアさんまでが目を丸くした。先生は既に工藤と水野から騎乗の仕方や降り方を聞いているようだ。
小山が先生にヘッドセットのようなものを渡して、装着位置を調整している。これでやり取りしていたのか・・・。イヤホンモードとスピーカーモードの両方で使えるそうだ。
一回目と全く同じ段取りで先生は無事テイクオフした。唯一違う点は飛行士が自ら風を起こしている事だった。セルフ凧揚げ?先生は手を振らなかった。その代わり・・・歌っている?江宮にあとで聞くと、浅野が昨日歌っていた歌(私は風)を歌っていたそうだ。テーマソング?
先生も空の散歩から十分くらいで降りてきた。凄く喜んでいるようでスタッフ一同、一反木綿まで一人ずつ握手してお礼を言ってくれた。これで終わったかと思ったが甘かった。先生の後は平井、その次は藤原が騎乗して凧揚げ大会はやっと終了したのであった。ちょっと疲れたぜ。明日は全身筋肉痛で動けないかも。
先生は改めて江宮に礼を述べていた。
「まさか風に乗って空を飛べる日が来るとは思いませんでした。本当にありがとうございます」
江宮は照れているのか、頭を掻きながらこたえた。
「こんなに喜んでいただけるとは思いませんでした。職人冥利に尽きます」
江宮は職人だったのか・・・。感激のあまり変な事を言い出した。
「馬車の改造が終わったら先生のために真の風の翼を作ります。楽しみにしていてください」
先生は感激のあまり江宮を抱きしめ「ありがとうございます」を繰り返していた。
感動のうちに大凧大会が終わったが、今日は予定が一杯だ。次も江宮案件で、音響装置のテストだ。江宮は大凧一式をマジックボックスの中に収納すると(先生が名残惜しそうにしていた)、平台を縦二枚横十枚並べ左右9メートル・奥行き3.6メートルの簡易な舞台を作り、PA一式を置きはじめた。
まずはJBLの2460に似た一辺一メートルほどの正立方体のようなスピーカーを舞台の左右端に二個づつ、上下に重ねる。てっきりがらんどうの箱の正面に網を張っただけかと思ったら、ちゃんとフロントロードホーンが付いていた。
江宮は自慢そうに言った。
「フロントロードホーンだけじゃないぞ。バックロードホーンとバスレフの技法も組み込んである」
どうやらこれも拡声の魔法と現代の音響技術のハイブリッド製品のようだ。
江宮がバイトしていたジャズ喫茶はライブもやっていたそうで、メインスピーカーに続いて長方体を縦に対角線で二分割したような三角形のモニター(通称転がし)を四個、マイクとマイクスタンドを五個ずつ出した。
江宮はステージから三十メートルほど離れた所に長机を出すと音響用のミキサーに似た器械とマイクを一本出した。ミキサーは左上から右に1から16まで順に番号が書いてあり、番号の下にはつまんで回すタイプのボリュームが数個とスライド式のフェーダーが縦一列に並んでいた。右上端には小さな文字でSoundcraft Series600と書いてあった。
マイクを見せて貰ったが、シュアーの565(ゴーロクゴ)そっくりだった。くすんだ色や質感、手に持った時の重さやバランスも本物そのもの。ボーカル用なのか、スイッチが付いていた。驚いた事に一番下と言うか、コードを繋ぐ所がキャノンコネクターになっていた。何もここまで真似しなくても・・・。
野田がステージの奥左にピアノを置き、伊藤が奥右にギターを持って立ち、浅野が前の真ん中に上がった。上から見ると浅野を頂点にした三角形になるだろう。モニタースピーカーは浅野の前左右と野田と伊藤に一個ずつ。
浅野が左手を上げると伊藤がギターを弾き出した。曲はブリリアント・グリーンの「愛の星」。歌と演奏は最高だったが、スピーカーから出る音はばらばらで聞くに堪えない。ミキサーの前にいる江宮は工藤と水野に手元のマイクで指示を出している。
工藤と水野が手分けして野田と伊藤の楽器用のマイクの位置を調整すると、ようやく音がまとまってきた。コーラス用のマイクの位置も調整すると、すべての音がフラットに聞こえるようになった。
一曲目が終わると、野田と伊藤から細かい注文が江宮にとんだ。しかし、現在の仕様ではフロントとモニターの二系統の出力しかできないようで、モニターを各人の希望に合わせて調整することは無理みたい。仕方ないよね。
二曲目は越路吹雪の代表曲の「ろくでなし」だった。浅野はハンドマイクでステージの上を動きながら歌ったが特に問題はなかったようだ。試しで入れた野田と伊藤のコーラスも良かったと思う。三曲目に入る前に、浅野はMCを入れた。
「最後の曲です。大凧の成功を祝って『私は風』」
昨日も思ったけど、三人組とは思えない程の圧倒的な音圧を感じた。特に今日はフットベースも無い(調整中らしい)のに何の不足も感じなかった。先生は相変わらず感動しているようだった。江宮が心配していたハウリングの問題は起きなかった。
赤影にガンダムとガガーリンを混ぜてしまいました。すみません。真の風の翼とは何でしょうか?シーアンカーは海錨と書きます。船を安定させたい時に使います。最悪、船尾からロープを海面に流すだけでも効果あります。
Soundcraft S600は80年代に活躍した16イン8アウトのミキサーです。8トラックのマルチトラックレコーディングの定番的なミキサーでしたが、まれにPA用に使っている人もいました。