第275話:夏祭りの準備が始まる1
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8月18日、月曜日、晴れ。空を見上げると、真っ青なキャンパスの所々に綿埃のような小さな雲が散らばっている。いつものように雨は降らないようだ。
今日は休みで教会に浅野たちが歌の指導に行く日だ。洞窟地帯から帰ったばかりなのに、みんなよく頑張るな。ちなみにミドガルド語の講義は明日から始まるそうだ。
ランニングが終わってラウンジに戻るとカウンターから呼ばれた。
「商業ギルド様が二十日土曜日の午後にお見えです」
何かあったっけ?思い出そうとしていると利根川が背中を叩いた。痛いな。
「バニラエッセンスの交渉よ」
以前、利根川と平野に頼んでいたバニラエッセンス(原料はお化けカズラの消化液)のレシピが完成したので、商業ギルドと交渉するそうだ。
「頑張ってくれ」
部屋に戻ろうとしたが、利根川が袖を掴んで離してくれない。
「どうした?」
利根川はすがるような顔で言った。
「行かないで」
視界の隅で小さな影が逃げるように消えた。俺はうんざりしながら答えた。
「平井が見ているからといって小芝居をするのはやめろ」
利根川は舌を出しながら手を離した。
「ごめんごめん。でもこういうことってあんたの方が得意でしょ」
ビジネスの規模がどの位になるのか分からないので、俺に交渉の代打を頼みたいそうだ。利根川のカンは正しい。お菓子の香料としてバニラはとてもとてもとても役に立つのだ。俺はあきらめた。
「分かった」
利根川はわざとらしく喜んで俺の両手を握った。
「ありがとう。見本はちゃんと用意するから」
上機嫌で食堂に向かう利根川を見送って部屋に戻った。ひとしきり木っ君に愚痴を言ってから朝ごはんを食べに行った。ラウンジでは鷹町がカウンターで馬車の手配を頼んでいた。
ミケの譲渡はレイナさんに断られたので、草原で適当な動物を探すそうだ。変なのを拾ってこなければいいが・・・。本当は中原や冬梅に召喚させるのが良いのだろうが、中原は卵にかかりきりだし、冬梅は系統がちょっと違うからな・・・と考えていると、江宮から話しかけられた。なんだろ?
「どうした?」
「ダイヤモンドのかけら、というか粉を用意してくれないか」
昨日話した浅野の件に必要らしい。利根川にも頼んだけど断られたそうだ。
俺はアイテムボックスからきんちゃく袋を三つ出して渡した。
「ダイヤモンドの粉末だ。荒いのと細かいのとその中間で三種類作った。足りなくなったら言ってくれ」
江宮があっけにとられていたので、ついでにこれも渡しておこう。見かけはただの肩掛けカバン(一昔前の学生カバン風)なのだが・・・。
「マジックボックスだ。今お前が使っている部屋十ケ分くらいある」
ダイヤ粉もマジックボックスもどっちも昨日の晩作っておいたのだ。マジックボックスとは名前だけで実際は俺のアイテムボックスにつないでいるだけだが。馬車作りも控えているので、これで作業効率が上がれば万々歳だ。江宮が感激して抱きついてきたが、男から抱きつかれてもうれしくないんだよな。
食堂に行くと思っていたより混んでいたので、外に出てみた。薪を割る音が聞こえたので行ってみると夜神だった。額の汗をぬぐいながら一心に斧を振っている。斧使いになるための修行の一環なのだろうか。横に千堂がいるのは良く分からないが、広背筋が大事なのはボクシングと一緒なのかも。
今日の朝ご飯は広島風のお好み焼きだった。薄いクレープのような二枚の生地の間に山盛りの千切りキャベツと各種具材が入っている。蕎麦のような麺入りと無しの二種類あったが、迷うことなく麺入りを選んだ。
少し酸味の効いたソースが最高にうまかった。夜神がうまそうに麺無しを食べていたので薪割りのことを聞くと、斧を振るうために必要な背中の筋肉を鍛えるため、宿舎で必要な薪は当面夜神が朝夕割るそうだ。俺は聞いた。
「お前は魔法使いだろ。斧術とかどうでもよくないか?」
夜神は麦茶を一口飲むとこたえた。
「まずは魔力が切れた時に身を守る手段が欲しいというのが一つやな。もう一つはせっかく戦神の斧があるからこれを活かしたいんや。やっぱりゆかりみたいなの(「燃えよ剣」のことか?)ってカッコいいやろ。ああいうの、やりたいやん」
強敵と対峙して決め台詞に続き「戦神の斧」と叫ぶ夜神のイメージが浮かんできた。まあ確かにわからなくもない。頑張ってくれ。
食堂を出ようとしたら、浅野につかまった。今日の孤児の指導に付いてきて欲しいそうだ。子供たちとの共演について相談したいことがあるとのこと。もちろん同意したが、ついでに帰り道に冒険者ギルドに寄ってもらうことにした。洞窟地帯で討伐した魔物を買い取ってもらおう。
教会に行くのは俺・浅野・木田・小山・千堂・野田の六人になった。一応小山と千堂が護衛という立場だが、俺以外はみんな何らかの攻撃手段があるんだよな(浅野だって目つぶし光線持っている)。
平野から子供たちへのお土産を預かりラウンジでボケっとしていると、お堂の掃除&鍛錬組(工藤、尾上、一条、ヒデ、初音、楽丸、夜神、洋子)が出発するのと入れ替わりみたいにベルさんが到着した。俺たちも出発しよう。
馬車が動き出すと、浅野の相談が始まった。
「今日の練習の前に正式に『女神の森少年少女合唱団』の結成を宣言するんだけど、団長をエルザちゃんにしようと思うんだ。どうかな?」
エルザは孤児院の子供達とピクニックに行った時に、川で流されて浅野が救出した女の子だ。金色に輝くふわふわの巻き髪に青い目をしたフランス人形みたいに可愛い女の子だ。
「まだ小さいけど大丈夫か?」
浅野は首を振った。
「小さいけど大人びているというか、しっかりしているから大丈夫。既にソプラノのリーダーだし、アンサンブルも含めて合唱全般を取り仕切っているから」
木田も特に反対していないから大丈夫かな。浅野は続けて話した。
「夏祭りで子供たちが歌うのは『Sing』と『上を向いて歩こう』の二曲にしようと思うんだけど、どうかな?」
もちろん誰からも異存はない。浅野が嬉しそうに笑うと、野田が続けた。
「その時のピアノの伴奏をマエノリ君にまかせようと思うんだけど、どう思う?」
俺はベルさんを見たが、深く頷いていた。ピアノをアイテムボックスから出すと駆け寄ってくる子供が何人かいたが、背が高く痩せた男の子がマエノリ君だそうだ。歌はいまいちだが、ピアノには並々ならぬ興味があるようで、教えた訳でもないのに見様見真似で弾けるようになったそうだ。
教会にピアノを寄贈するまではマエノリ君がピアノに触れるのは週に一度、一時間ほどしかなかったから天性の音感があると野田は断言した。
「それよりなによりマエノリ君は、音楽が、ピアノが好きなの。彼にチャンスを与えて欲しい」
音楽家として成長するにはたくさんの人の前で演奏するのがなによりなのだそうだ。音楽に関して一番詳しい野田の提案なので反対はなかったが、今日ぶっつけで試験して決めることになった。
いつも通り騎士と教会組の護衛(監視)の馬車各一台を引き連れて馬車はのんびり進む。環状線を下り東の大通りとの交差点の手前で馬車が止まった。一呼吸おいて人が歩く位の速度で動き出す。なんだろ?
気になったので御者に聞くと、前方の交差点で二台の馬車が衝突したとのこと。片づけが終わるまでは徐行なのだそうだ。この世界に来て初めての交通事故に遭遇したので詳しく聞いてみた。
「事故の原因は何ですか?」
「環状線を南から北に走って来た馬車に大通りを東から西に走っていた馬車が突っ込んだようです。基本的に大通りを走る馬車が優先なのですが、環状線を走っていた馬車の御者が新米で取り決めを良く分かっていなかったこと、大通りを走っていた馬車が急いでいて左右の確認を怠ったことが原因です」
「こういう事故は多いの?」
「事故の件数は時期や時間帯によって増減します。夏場は比較的少ないのですが、来月から収穫の時期を迎えますので様々な物資が王都に集まります。当然馬車の数も増えるので、事故は増えるでしょう」
御者は淡々と話した。暗に「仕方ないんです」という気持ちが伝わって来た。確かに信号もウインカーも何もないからどうしようもないかもしれないが・・・。事故の現場と思しき場所は既に片づけられていたが、道路の脇には壊れた馬車が二台と倒れこんだまま動かない馬が数頭残っていた。
道路に残った血の跡が生々しくて、考え込んでいるうちに馬車は教会に着いた。よし、頭切り替えていこう。浅野と木田は子供たちが集合すると、院長やシスターの立会いの下で『女神の森少年少女合唱団』の結成を宣言し、団長にエルザを指名した。エルザは見事なカーテシーと誇らしげな笑顔で応えた。予想していたみたい。
揃いの制服を作って夏祭りに出場すること、そこで披露する曲を発表すると子供たちは大喜びだった。既に院長先生から聞いていたのだろうが、改めて浅野から聞いて実感が湧いたみたい。
しかし、マエノリ君にピアノを任せることを提案すると、子供たちだけでなく院長先生たちもどよめいた。こっちは完全に予想外だったようだ。マエノリ君が真っ青になっている。大丈夫かな?
ゲイン君はデビューがいきなり大規模フェスとはハードルが高いかもね。




