第229話:帰ってきた
羽河は資料を工藤に返すと、俺に言った。
「王女様からワインのお礼の手紙が届いたわよ」
そういえば王女様に先日のお詫びをかねて三十年物のワインを三種類・各三樽送っていたのだった。羽河は続けて言った。
「極上のワイン九樽と美麗なラベルをありがとうございました。本来は尊爵物の献上ですが、事情により言葉のみの御礼となることをお許しください的なことが長々と書いてあったわ。これまでの無礼については一切不問とするそうよ。良かったわね」
俺は密かに胸を撫でおろした。王族の恨みは恐いからな。解決してよかった。羽河は笑顔で続けた。
「王様と王妃様にもワインを三種類各一樽ずつ送ったそうよ。そのうちどちらかから何かリアクションがあるかもしれないけどよろしくね、だって」
浮ついた気持ちがまたどん底に急降下した。あの王女様、いったい何をやってくれるんだ。思わず顔をしかめた俺に羽河は笑顔で話しかけた。
「きっと九樽分の恩義を一人で抱えるのが厳しかったのね。仕方ないわ。ケ・セラ・セラでいきましょう」
明日のことを今日心配してもしょうがない。そう割り切るしかないようだ。俺は食堂から外に出た。夕日は最後の名残りが西の空に見えるだけだ。呼ぶ前からブラックスネークの太郎がやってきた。親愛の表現なのかぐるぐる巻きにして舌で顔を舐めてきた。
パニック映画ならばこのまま一呑みという場面だが、そういう訳にはいかない。
「苦しい。そろそろ放してくれ」
太郎は渋々ぐるぐる巻きを解いた。顎の下を撫でながら話しかける。
「留守番ありがとうな。ほら、ご褒美だ」
俺はオークの内臓を丸ごと出した。太郎は喜んで食べ始めた。俺も腹が減った。食堂に戻ろう。
今日のご飯は鳥の竜田揚げ、付け合わせはポテトサラダとペペロンチーニ。スープはポタージュだった。ジャガイモが違うせいか、なかなか思うような片栗粉が出来なかったため、デビューが遅れた竜田揚げだが、遠征から帰ってきた日に出迎えてくれるとは嬉しい限り。同じ揚げ物でも唐揚げとはまた違ううまさなんだよな。
メニューも付け合わせも凡庸かもしれないが、逆にこれこそ日常食べてきた御飯という感じがして嬉しかった。先生は既にエールとの無限ループに突入しているようだ。デザートはイチゴのショートケーキだった。女の子が歓声を上げていた。うまいし懐かしいしで、今までで最高のデザートだった。
お腹が一杯になったので、紅茶を飲みながらお留守番組の野田や平野に山岳地帯の話をしていると、二人の顔がどんどん険しくなってきて、最後には怒りだした。
曰く、私をおいてみんなで面白いことをしてズルい!なのだそうだ。そんなこと言われても命がけの危険と背中合わせなのだが、と説明してもそれを含めてもズルいと言われてしまった。次の洞窟地帯には断固としてアドベンチャーズも参加すると言ってるけど、冗談だよね。
憤懣やるかたないといった平野に、鬼熊を退治して解体も終わっていると話すと、平野は花が開いたような笑顔になった。
「早く見せて。早く早く」
状況の変化に追いつけない野田を置いてきぼりにして、平野は厨房にぐいぐい引っ張っていく。途中利根川がいたので、「借りるぞ」と佐藤に声をかけて無理やり連れて行った。
厨房の地下に着くと利根川は顔をしかめて言った。
「帰って来たばかりなのにあんたもせっかちね。二人一緒は嫌よ」
こいつ絶対勘違いしている。
「そっちじゃない。こっちだ」
そう言って大きなテーブルの上に解体済みの鬼熊の肉や内臓を並べていく。ほとんどの肉が食用になるという事で、肉と一部の内臓は平野が、一部の内臓と血液は利根川が引き取ることになった。残りの内臓・頭部・爪・毛皮・骨などは冒険者ギルドに持って行こう。
鬼熊の体重は約四トン以上あった。可食部位の割合を半分位と考えると、約二トンか。当然のように平野が言った。
「ごめん。保管庫の整理が終わるまで預かっといて」
「分かった」
アイテムボックスに収納すると、平野はにやにや笑いながら利根川に聞いた。
「ところで何がせっかちなの?」
利根川は真っ赤になるだけでうまく切り返せない。平野は俺を見てウインクしながら言った。
「私は二人一緒でもいいよ」
もちろん丁重に辞退したが一つだけお願いしなきゃいけないことがある。
「明日女神の森に行くんだ。何かお供えを一品作ってくれないか」
「どんなのがいいの?」
「どうせなら鬼熊の肉を使ったやつがいいかな」
平野が選択したのはリブロースだった。とりあえず骨付きで五キロ渡したからなんとかなるだろう。一階に戻ると食堂では伊藤が井上陽水を熱唱していた。テーブルでは浅野が明るい顔で騒いでいる。あの氷の世界は何だったのだろうか。風呂に入りたかったので、飲むのはやめて部屋に戻った。
木っ君を窓際に置き、着替えを持って風呂場に行く。脱衣場に入ると、丁度ヒデと志摩が出る所だった。ご飯の前に風呂に行ったのだろう。服を脱ぎ出すと頭がほんのちょっと軽くなった。
浴室に入ると中原が一人湯船につかっていた。
「冒険の 旅は続くよ ホトトギス」
しまった。油断していた。耳を塞ぐことができなかった。
肩を落としながら体を洗っていると、中原が話しかけてきた。
「山は楽しかったみたいだね」
「なんとか生きて帰れたよ」
「羨ましいな」
「ヒデ達から聞いたのか?」
「うん、おかげでのぼせそうになった」
「どこが羨ましんだ?」
「なんか生きてる、という感じがする」
「そうか?」
「だから僕も行きたい」
「洞窟地帯に行くのか?」
「うん、それに今度は僕も役に立てそうな気がする」
俺は少し考えてからこたえた。
「分かった。一緒に行こう」
中原は笑顔で頷くと上がっていった。中原がいなくなると一人の風呂場は急に広く、真夏なのに寒々と感じた。窓の外は既に真っ暗だ。俺は体を洗うと湯船には入らずそのまま上がった。身体を拭いて脱衣所に入り髪の毛を乾かすと頭が少し重くなった。帰って来たみたい。こいつにも名前を付けてやらなきゃならないな。
部屋に戻ると机の前に座って話しかけた。
「お前に名前を付けなきゃならん。姿を見せてくれ」
髪の毛を掻き分けて黒い蜘蛛が机の上に飛び降りた。
よーく見ると・・・やっぱり可愛くない。顔を近づけてさらによく見てみる。黒い複眼が光を反射してきらりと光った。
「決めた。お前の名前はブラックパールだ。日本語で言うと黒真珠だな。海賊みたいでカッコいいだろ?」
蜘蛛の名前にしては大げさすぎる気もするがまあいいだろ。黒い蜘蛛は前足でパチパチと拍手するとぴょんぴょん飛び跳ねて喜んだ。可愛いといえば可愛いかもしれない。
とりあえず、藤原と浅野以外には絶対に姿を見せないように厳命した。その後、机の上で人差し指と中指を足に見立てて追いかけっこをして遊んでやった。蜘蛛も興奮すると鳴き声みたいなのを上げることを知った。
疲れたので、木っ君の鉢をいったん外して窓枠にお供えを並べた。今日は、ピラフ・ピザトースト・鶏肉の竜田上げ・桃のジェラート・イチゴのショートケーキだ。手を合わせ目を瞑り演習が無事終わったことを感謝すると、美味し!の声と共にペタン・ペタン・ペタン・ペタンという音が響いた。最後に明日お伺いしますと念じると、「よかろう」という声が聞こえた。
ダークスパイダーに名前を付けました。蛇、猫、木、蜘蛛・・・次は何かな?