第19話:社会
今日で異世界も五日目。昨日と同じく天気は曇り。ただし風はあったので息苦しくはない。昨日に続いてランニング掃除を行う。今日が終われば明日は休みだと思うと足が軽くなった。まあ休みだからって何の予定もないけど。後でみんなと相談しよう。
早めに食堂に行ってデッキでぼんやりしていると、メイドさんが紅茶を持ってきてくれた。昨日厨房で声をかけたラウラさんだった。黒髪に茶色の瞳。どことなく日本人の顔に似ているような気がする。
「昨日は失礼しました。ラウラと申します。まさかお声をかけられると思っておりませんでしたので、ぞんざいな返事をしてしまいました。申し訳ありません」
「いや、こっちこそいきなり声をかけてごめん。ラウラさん、一人だけ髪が黒いでしょ。俺たちと一緒だからなんか親近感があってさ」
「やっぱりこの髪だったのですね。納得しました。私はハニカム山脈の小国の出身で、私の一族はたまに私のように髪の黒い人間が生まれるのです」
「そうだったんだ。ひょっとするとうちの世界出身の人がご先祖様にいるかもね」
ラウラさんは笑顔でこたえた。
「もしそうなら嬉しく思います。お許し頂き、ありがとうございます。一つご相談がございまして、声をおかけしました。よろしいでしょうか?」
どうせそうだと思ったよ。俺に気があるんじゃないか?、と思ったのは早とちりだったようだ。
「俺で分かることならなんでも」
「ありがとうございます。先日から平野様が厨房にお見えになっているのですが、日に日に顔が険しくなっていくのです。コック長も大変気にしているのですが、貴族様ですので迂闊に声をかけることもできず、どうしたらよいか困っているのです」
俺はまるで熊のように毛むくじゃらのコック長の顔を思い浮かべた。確かに平野の目からこの世界の料理を見たら、いろいろ言いたくなることがあるかもしれない。でもそれをストレートに言っていいかどうか悩むほどの常識は平野にもあったようだ。
俺が今朝から考えていたアイディアにぴったりはまりそうだ。試しに話してみると、ラウラさんは手を叩いて賛成してくれた。早速コック長と相談してくれるそうだ。俺も食事の時に羽河に相談してみよう。
話は終わったが、ラウラさんかまだ何かもじもじしている。
「他にも何かあるの?」
「あの、花山様なのですが、どなたか想い人はいらっしゃるのでしょうか?」
「どうして?」
「お世話係のメリー様が事あるごとにお声がけしているようなのですが、反応がほとんどないので」
よりによって花山か。日本ではどちらかというと怖がられる人NO.1だったのに、なんでだろ?でも確かにこの世界では花山は周りの注目を集める存在だ。男からは恐れや警戒、女からは憧れや好意みたいなのを感じる。
「恋人はまだいないみたいだよ。ひょっとすると、この世界では花山みたいなのがモテるの?」
「はい。花山様のように体が大きくて強そうな人はモテると思います」
ラウラさんは顔を赤くしながら言い切った。弱肉強食の世の中では分かりやすい強さは何より大事なのかもしれない。
朝ごはんのメインはトマトが入ったオムレツだった。卵の甘みとトマトの新鮮な酸味をシンプルな塩味が引き立てておいしかった。食事前に羽河を捕まえてラウラさんに相談したアイディアを話してみると、手放しで賛成してくれた。羽河もなんかやらねば、と思っていたみたい。後は任せて、と言ってくれたので安心だな。
座学は社会だった。具体的には社会制度と爵位、宗教そして通貨の話だった。言うまでもなくこの世界は俺たちの時代で言うと近代以前、つまり中世の時代だ。当然身分制度ありきで、自由とか平等とか基本的人権なんて概念は無い。身分は大まかに四つに分かれる。
・王族:王位もしくは継承権を持つ人、およびその家族
・貴族:爵位を持つ人、およびその家族
・平民:官職や爵位を持たない一般人
・奴隷:誰かの所有物となった人間
人数的には平民が圧倒的に多く、全体を例えるならば超平べったい山。真ん中がほんの少し盛り上がっていて、これが貴族。そして中心には針が植えられているのだが、これが王族。奴隷は平民の下に埋められているという感じ。
貴族は上から順に公爵・伯爵・侯爵・子爵・男爵・騎士に分かれる。最も位の高い公爵は、継承権は持たないが王家と血のつながりがある。公爵と伯爵は領地を持っているが、侯爵・子爵・男爵の中には、領地を持たず、官位だけの家もある。考えるとローエン伯爵って、宰相様より偉いのね。ちょっとびっくり。
宰相などの重要職を除けばよっぽどのへまをしない限り官位は長子に受け継がれるので、統治の上手下手によって浮き沈みのある領地貴族より、代々官職を継承する法衣貴族の方が安定しているそうだ。
騎士は領地を持たず、王家や男爵以上の貴族に仕える家来という感じ。こちらも王家創立以来という名門騎士家もあれば、戦争で上げた武勲や功績によって一代限りの騎士となったものもいる。
人口では圧倒的多数(おそらく国民の九割以上)を占める平民だが、どういう存在かと言えば、日本国憲法の前文で保障されている主権をはじめ、第三章の基本的人権・個人としての尊重・法の下での平等・公務員の選定と罷免・選挙・思想及び良心の自由・信教の自由・集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由・居住、移転及び職業選択の自由・教育を受ける権利など殆どの権利が無い人達と言えば分かりやすいと思う。
じゃあ誰が持っているかといえば全ては王様に集約されるのだ。領土そのものが王様のものだから仕方ないよね。領地においてはそこを治める貴族が王様に代わることになる。
経済的にも数十人程度の王族と人口比で言えば数パーセントの貴族がほとんど全ての富を独占していると考えてよいだろう。端的に言えば、王都の約三分の一は貴族街で占められていて、平民は許可がない限り立ち入ることもできないのだ。
平民以下の扱いになる奴隷はもっと悲惨だ。奴隷になる理由は主に三つだ。
まずは戦争によって捕虜になった者。貴族や裕福な平民であれば、家族が身代金を支払うことで放免されるが、そうでない者は奴隷に落とされる。捕虜にした国や貴族は捕虜を奴隷商人に売ることで、戦費を補填するわけだ。
次は犯罪者だ。犯罪を犯してつかまり裁判にかけられた時、罪の内容や大きさによって奴隷に落とされるのだ。戦争奴隷と同じく奴隷商人に売ったお金は、被害者の賠償や協力者への報奨金などに充てられる。ちなみにこの世界では懲役刑は存在しない。もちろん、要注意人物として長期間監禁されることはあるが、それは刑罰ではない。
ついでにと説明されたが、この世界の刑罰は死刑を除くと、大きく分けて罰金・強制労働・体罰・奴隷落ち・死刑の五つだ。罪の内容や大きさによって刑は変わるし、爵位や官位の剥奪、鉱山行き、国外追放などのオプションが追加されることもある。
強制労働は道路・橋・水路・水道などのインフラ整備、城壁や建物の建設・修理、開拓、開墾、伐採、工場などで一定期間労働することになる。食事や寝る場所は用意されるが無報酬だ。もし脱走して捕まると奴隷落ちが確定となる。
体罰は鞭打ち一回などの軽微なものから手足の切断まで様々だ。死刑の場合、王宮前の広場で公開の絞首刑になるらしい。見せしめもかねているのだろうな。なんとなく江戸時代を想像した。
奴隷になる最後の理由は経済的な問題で奴隷になった人だ。例えば人からお金を借りて返せなくなった場合の最終手段がこれだ。自分で家族あるいは自分自身を奴隷商人に売ってそのお金で賠償するのだ。
美人であったり、特殊な技能を持っている場合は、条件付きで奴隷になることもある。戦争奴隷や犯罪奴隷が使いつぶすことを前提に、銀山をはじめとする4K産業で過酷な労働を強いられる(生存率が一年で五十パーセントらしい)のに比べたら、ましな扱いを受けるかもしれない。
もちろん奴隷だからといって何でも、例えば法律に違反することをやらせることはできない。逆に最低限の衣食住は用意しなければならないし、殺すことはもちろん虐待することも禁止されているが、それはあくまで建前の話であり、たとえそういう扱いを受けても奴隷は訴えることすらできないのだ。
悲惨なのは上三つ以外で奴隷になった人だ。この世界では非合法ではあるが、人さらいが職業として成立している。誰かから依頼されて、指名あるいは非指名で誘拐してくるのだ。
誘拐された人間は依頼人とぐるになった奴隷商人によって奴隷に落とされ、他の奴隷商人に転売される。するとその転売の書類が奴隷であることのまたとない証明になってしまい、奴隷であることが確定してしまう。一度奴隷になってしまうと、平民に戻ることはほぼ不可能だそうだ。
だからこの世界では子供が一人でうろうろするなんてことはありえない。浮浪児でさえ集団で行動して自衛する。普通に生きていたのにある日突然さらわれて奴隷になるなんて、そんなのありか?
身分差が一目で分かるのが名前だ。貴族の場合、名前+爵称+家名の三つのパートに分かれる。メアリー先生を例にとると、以下の通りになる。
メアリー(名前)+ナイ(爵称)+スイープ(家名)
くだいていうと、スイープ家のメアリー男爵ということになる。真ん中の爵称は次のように貴族としての格によって異なる。「/」の左は男性、右は女性に適用される。騎士の「ド」は男女共通だ。
王族・公爵:フォン/ファー
伯爵:エル/エラ
侯爵:ダン/ダウ
子爵:カル/カイ
男爵:ナラ/ナイ
騎士:ド
爵位を持つ人の家族の場合は、スイープ男爵家のメアリー様と考えればよい。ちなみにメアリー先生は爵位持ちだそうだ。魔法学校の教職に就く際に騎士として尊爵され、教頭になった際に王命によって男爵位を授かったそうだ。教職員だけでなく生徒の殆どが貴族の子弟なので、当然というか必要なんだろうな。
これが平民になると、爵称はもちろん、家名も無しで名前だけになる。さすがに名前だけでは誰が誰なのか区別がつかないので、〇〇村のジョンとか肉屋のトラヴィスとか、果ては「大酒のみのドライバ」とか、あだ名みたいなのを付けることになるそうだ。
ここで一旦中休みになった。俺たちは全員腑抜けのようになっていた。改めて異世界に来たことを実感させられた気分だった。ちなみに俺たちの立ち位置は、三日目に赤毛の女の子に聞いた通り、他国の貴族様、ということになっている。それらしくふるまってくれ、と言われてもどうしたらいいのさ?
中休み開けは宗教についてだった。基本的にこの大陸の宗教はミトカ神を祀るミトカ教しかない。国や場所によって宗派の違いはあるが、基本的に同じ宗教だ。一神教であり、ミトカ神以外を崇拝するものは異端者として厳しく処罰される。
ミトカ教にはミトカ神の布教のための組織として教団があり、その長である教皇は王様とは別の意味で絶大な権威を誇っている。
ミトカ教には地域ごとに参拝や神事を行うための教会があるが、総本山はこのグラスウールにあるジャスフェル神殿となる。ジャスフェル神殿は貴族街にあり、貴族以上あるいは特別な許しを得た者しか参拝できない。
唯一の例外である光臨祭(12月の末日の0時から1月2日の12時までの三日間に限り、貴族街と城下町を隔てる東西の門が解放され、ジャスフェル神殿への往来が叶う)を除くと、平民は城下町の東西にある教会にお参りすることになる。
ミトカ教の教えはシンプルで、今生で善行を積むと来世でも人間に、功徳によっては貴族に生まれ変わることができる。何度かの生まれ変わりの中で積み重ねた善行があるレベルに達すると天国にいける。天国では老いることも苦しむことも無く、永遠に若く美しいままで楽しく暮らすことができる。
反対に罪を重ねると、死後は地獄に落とされる。地獄でつらく苦しい修行を耐え忍ぶと、ようやく人間に生まれ変わることができる。修行のつらさに耐えかねて逃げ出してしまうと、人間ではなく獣や、悪行の度合いによっては魔物に生まれ変わる。いったん、魔物になって死んでしまうと生まれ変わらず、魂は消滅してしまう。
善行を積むと天国に、悪行を積むと地獄に、という非常に分かりやすい宗教だ。工藤がなんか言いたそうにしているが、横にいた志摩が必死に抑えていた。宗教はデリケートな問題だからな、我慢してくれと俺は祈った。俺の祈りが通じたのかどうかわからないが、工藤はがまんしてくれたようだ。
最後は通貨、お金の話になった。通貨の単位はペリカ。それを聞いた瞬間、「ガタン」と大きな音がした。見ると、佐藤が椅子に腰かけたままでひっくり返っている。幸い最後列だったので誰も巻き込まずに済んだようだ。隣にいた利根川が心配そうに引き起こしているが、顔が真っ青でガタガタ震えている。いったいどうしたんだ?
先生も説明を中断して話しかけた。
「佐藤様、いかがなさいましたか?」
「いや、その、自分でも分からないんですが、『ペリカ』という言葉を聞いた途端、気を失いそうな恐怖に襲われて・・・」
「続けても大丈夫でしょうか?」
「はい、もう大丈夫です」
佐藤は気丈に応えたが、右手は利根川の左手を握ったままだった。がんばれ。
先生の講義が再開した。紙幣は無し。全て硬貨になるのだが、その種類は以下の六種類。
・銅貨=1ペリカ
・大銅貨=10ペリカ
・小銀貨=100ペリカ
・銀貨=1000ペリカ
・金貨=10000ペリカ
・大金貨=100000ペリカ
発行は全て王家直轄の財務局が行っている。発行量や金貨銀貨の金や銀の含有率は極秘だそうだ。なお、大金貨は象徴的な存在で、市場に出回ることはめったにない。王家が恩賞として与える際に使われることのこと。記念通貨みたいなものか。
不動産など高額の取引となると、通貨で賄うのはいろいろ問題があるので、契約書や手形などで決済しているそうだ。
この国の平均的な世帯の生活費が月に金貨一枚、一万ペリカらしい。日本の平均を仮に30万円と考えると、1ペリカ=30円ということになるのか?ここで羽河が異議を唱えた。
「どこの世界でも通貨として勘定すべきものとして最小の単位は決まると考えると、1ペリカ=1円と考えるべきでは?」
すると利根川が異議を唱えた。
「それを言うならば利子や利息の一円以下の計算単位として『銭』が存在しているので、1ペリカ=1銭、すなわち1ペリカ=0.01円と考えるべきでは?」
正直言って俺には何を話しているのかよく意味が分からなかった。皆も同じだったと思う。実際にこの国でお金を使ってみて、この世界での金銭感覚をつかんでいくしかないのではなかろうか。
ここで先生が手を二回叩くと、教室の扉が開いてセリアさんと金髪の女の子、確か伊藤のお世話係の子がミカン箱位の大きさの箱を持ってきて皆に小さな巾着袋を配り始めた。
「やはりお金は持ってみないと実感が伴わないと思います。その袋の中には、銅貨・大銅貨・小銅貨が各十枚、銀貨が五枚、金貨が一枚入っています。王家からの贈り物でございますので、ご自由にお使いください。
明日は休日ですが、馬車による王都の見学を計画しております。途中、市場や貴族街の商店も訪問する予定ですので、その際にお役立てください」
全員が大きな歓声を上げた。袋の中のコイン36枚全て合計すると16110ペリカ、仮に1ペリカ=30円なら約48万円もの現金支給だ。それも三十人全員なんて、流石は王様、気前がいいなあ。合計すると約1500万円だぞ。凄いじゃないか。
明日が大いに楽しみになってきた。しかし、一人だけ喜んでいない人間がいた。佐藤だ。自分の巾着袋を利根川に押し付けている。
「なによこれ?」
「すまん、利根川。悪いがこれ、お前が預かってくれ」
「え?いいけど、いつまで?」
「出来ればずっと、俺が死ぬまで預かって欲しい」
佐藤のあまりにも真剣な顔に利根川は黙って受け取ると、俯きながら自分の胸に抱え込んだ。なんかそこだけ違う空間になっているような気がした。とりあえず明日は四時半前にラウンジに集合とのことだった。
佐藤君はペリカが苦手みたいです。なんで?