第150話:黒の森1
7月19日、日曜日。朝起きると、皮のなめしは終わっていた。今日も快晴。南の空に三段重ねのホットケーキのような雲が出ているだけだ。ランニングから帰ると、ラウンジで浅野が待っていた。
「できたよ」
浅野が渡してくれたのは三十年物のワインのラベル三種類だった。ついでなので、四十年物と百年物のラベルも各一種類、依頼しておく。文面は、以下の二種類。
「極上の葡萄酒 赤 女神の涙 四十年」
「極上の葡萄酒 赤 女神の涙 百年」
浅野は百年と聞いてびっくりしたが、受けてくれた。
そのまま江宮の所に行こうと思ったが、先日誰かが使っていた会議室がまた使用中になっていたので、ノックしてみた。中には木田と羽河がいた。机の上には、色違いのワイドパンツやトートバッグが並んでいた。
「もうできたのか?」
木田が面倒くさそうにこたえた。
「服飾ギルドで試作したものが出来たのよ。今はそのチェック中」
色は、生成り・サンドベージュ・灰色・紺・黒の五種類しかないみたいだ。俺はつい言ってしまった。
「どうせなら太腿がゆったりして裾がすぼまったアラビアンスタイルや、反対に裾が広がったフレアタイプがあったらいいかもな」
木田の目が吊り上がった。
「どうしてあんたがそこに気が付くのよ。おかしいでしょ」
俺は謝った。
「す、すまん。つい口に出てしまったんだ。あと股上は深めと普通の二種類を最初から用意した方がいいと思う」
木田は杖を取りだそうとしていたが、俺の口は止まらなかった。
「先生からお叱りを受けた魔法陣のデザインだけど、一度商業ギルドの意見を聞いた方が良いかもしれん」
詠唱を始めた木田を止めてくれたのは羽河だった。
「まあまあ、たにやんも悪気はないみたいよ」
俺は慌てて会議室から逃げ出した。外に出ながら「色はワインレッドもあった方がいいと思うぞ」と言葉を投げた。木田が何か叫んでいたが俺には何も聞こえなかった。
次に向かったのは地下室だ。相変わらず合言葉を要求された。
「月に代わって?」
恥ずかしいとか言ってる暇はない。俺は叫んだ。
「お仕置きよ!」
鍵が開いたので、慌ててドアを開けて階段を降りた。木田は追って来ないようだった。中に入ると、エールを使った蒸留が始まっていた。原酒が足りなくなったのだろうか?どっちみちジンを作らなきゃいけないもんな。佐藤が相変わらずテーブルに突っ伏していた。頭の横には梅酒の壺が四本置いてあった。
「ありがとうな。助かるよ。お礼じゃないけど」
そう言ってから樫の空き樽を三つ出した。
利根川は少しだけ感心したような顔をした。
「あんたにしては気が利くわね。貰っとくわ」
最後に厨房リニューアル準備室に行った。江宮が真面目な顔で冷蔵庫をいじっていた。扉を開けると自動で明るくなるように設定しているようだ。
「おはよう。皮を持ってきたぞ」
江宮は考え事をしているようで、黙って受け取ってくれた。悪いと思うが、念のため聞いてみる。
「商業ギルドが一度見せて欲しいと言っているんだが、もう見せても大丈夫かな?」
江宮は黙って首を振った。駄目みたい。
「分かった。見せても良くなったら教えてくれ」
江宮がOKサインを出したので、手を振ってから食堂に行った。
今日の朝ごはんはボンゴレ・ロッソだった。同じアサリを使ったパスタでも、ビアンコとの違いはトマトソースを使っているところだ。ニンニクの香りにアサリのうま味とトマトの酸味が加わり、隠し味としてしょっつるの風味を感じる至福の朝食だった。
朝の講義は、語学はお休みにして今日から遠征が始まる南の森林地帯、いわゆる黒の森の説明だった。みんないつにもまして真剣に話を聞いた。
大昔はハニカム山脈まで平原が広がっていたそうだが、ハニカム山脈の裾野から始まる黒の森は千年以上の時を経て大きく広がり、北は王都の南を流れる川まで、西は王都から南に伸びる街道まで到達している。
というより、川と街道で森の拡大を抑えているのが正しいのかもしれない。事実、南の街道の維持と整備がこの国の生命線の一つであるらしい。緑の侵攻に飲み込まれた地域にはかって多くの都市があったそうだ。
森が北に進むのを抑えているのは川だが、実は川の北にある女神の森が黒の森の北上を抑えているのではないか、という意見もあるようだ。確かに、あの結界にはそういう意味があってもおかしくないと思う。
ある意味、ミドガルト王国の領土の約四分の一を食ってしまったと言われる黒の森は、その旺盛な生命力がもたらす恵みも膨大で、王都の中級から上級の冒険者の八割が活動しているのがこの黒の森なのだそうだ。
森の外縁から奥に行くほど森は深くなり希少な植物や魔物が取れるが、比例して遭遇する魔物は強くなり危険性も高まる。冒険者は自分のレベルを熟知したうえで、ギルド発行の地図を頼りに活動しているそうだ。
先生は特に警戒すべき魔物について話した。
「特に注意すべき魔物はトロールでも森の主と呼ばれる白蛇でもありません。仮に出会ったら逃げれば良いのですから。本当に注意すべきなのは蜂や蟻などの昆虫系の魔物と食肉植物を代表とする植物系の魔物です。
どちらも人間と根本的な思考や戦略が異なります。昆虫系は個体ではなく集団で攻撃をしかけます。食肉植物は動けない代わりに呪いのように強力な匂いを武器にします。どちらも難敵です。出会わないことが最大の防御です」
講義の最後で先生は逃げ方について教えてくれた。いわく逃げると決めたら何も考えるなと。なまじ誰かを助けようとか、荷物をどうしようとか考えてはならぬと。持って帰れるのは自分の命だけだと。
皆がしんと静まりかえった中で、俺は先生に断ってから声を上げた。
「みんな、話があるんだ。実は湖の女神様から、スキルレベルを8に上げるポーションを貰った。平野、中原、冬梅は除外するとして、このポーションが必要な奴はいないか?」
俺が右手で掲げたポーションに皆の目が吸い寄せられた。真っ先に手を挙げたのは三平だった。
「ボクはマグロを釣りたいんだ。そのためにポーションが欲しい」
流石は三平、シリアスな空気を粉々に破壊してくれた。
次に手を挙げたのは利根川だった。こっちも自分の都合しか考えてないな。
「錬金術のレベルを上げたいのよ。スキルレベルが8になったら、多分いろんなものが作れる。さすがに金は無理だけど、損はさせないわ」
俺は三平と利根川を交互に見た。そして迷った末に三平を指名した。
「今回は三平に預ける。マグロと言わずリヴァイアサンでもクラーケンでも思う存分釣ってくれ」
三平は大喜びで万歳しながら俺の席までやってきた。みんなは一斉に拍手して祝ってくれた。
利根川は少しだけ悔しそうな顔をしながら言った。
「たにやん、あんた救いようのない馬鹿ね。仕方ないから今日は譲ってあげる。でも次は私よ。分かった?」
俺は「分かった」と応えながら三平に薬瓶を渡した。三平は止める間もなく一気に飲んで目を回した。倒れかけた三平を支えながら思った。この思い切りの良さがこいつの長所なんだろうな。いつの間にか俺の横に来た先生が話しかけた。
「攻撃魔法ではない錬金術のレベルを上げるのは難しゅうございます。だからポーションでレベルを上げようという利根川様の考えは間違っていませんよ」
となると、俺は当分「美味し!」を耐えなければならない訳だ。気が重いぜ。
ラウンジでは先生のレクチャーを受けて各パーティのリーダーが集まってミーティングしている。隣の席でぼんやりしていると、カウンターから呼ばれた。
「雑貨ギルド様がお見えです」
丁度ミーティングが終わったみたいなので、会議室とお茶の手配を頼んでから羽河に声をかけた。
そのままニエットさんと一緒に会議室に入った。化粧瓶の別紙・クリーム瓶の別紙・ねじ蓋の契約書を受け取り、羽河に預けた。羽河は確認と署名するために、一時退席した。
俺はニエットさんに五連星の取説を預けた。
「これは、光闇の碁盤と石を使う遊びの取説です。光闇の取説に加えてもらえませんか?」
ニエットさんは素直に驚いてくれた。
「なんと一つの遊戯盤で二種類の遊び方ができるのですか!駒が二種類しかないからこそですな。素晴らしいと思いますぞ」
ジョージさんと同じ反応が返ってきた。光闇の取説が八ページ増えるが、見積もりは変わらずで良いことになった。良かった。
ついでに特注盤について聞いてみた。そういうのは常識みたいで、ニエットさんも想定していたそうだ。「それよりも」といってニエットさんが気に病んでいるのは碁石を削る作業が捗らないことだった。
石を材料に同じ大きさ・形のものを短時間で大量生産するのはなかなか大変らしい。三か月ほどかければ増産体制は整うそうだが、それまでどうつなぐのか、考えなければならないようだ。二人で考え込んでいると、羽河が戻ってきたので中断した。
「化粧瓶の別紙・クリーム瓶の別紙・ねじ蓋の契約書、全て問題ありませんでした。署名したので、一部お持ちしました」
書類を受け取ったニエットさんは署名を確認してから手を差し出した。
「見本が出来たらお持ちしますので、技術指導をよろしくお願いします」
笑顔で了解した俺を見て羽河は宣言した。
「これで化粧瓶、クリーム瓶、ねじ蓋は契約成立という事でよろしくお願いします」
ニエットさんと握手を交わしながら俺は頼んだ。
「白と黒の染料を用意して貰えませんか」
「すぐ手配します」
そう答えてくれたニエットさんをラウンジまで見送ってから、俺は食堂に戻った。今日のお昼ご飯を受け取っていると、迎えの馬車が来たようだ。
三平くんはマグロを釣るそうですが、海も無いのにどうやって?それにしても大谷選手のジャイロフォークは凄いですね。どうやって投げているんだろう。サークルチェンジとどう違いのか?私はカーブとシュートと変なスライダーしか投げられませんが、可能性として三つ考えました。どれも右投げ前提です。
1.中指と人差し指で挟んでリリース直前に右に捻りながら抜くようにして投げる。
2.1と逆に左に捩じりながら抜くようにして投げる。
3.中指と人差し指で挟んでリリース直前に中指を下にはじくようにして球に回転を与えながら投げる。
でも2は無いな。可能性としては3が高いような気がする。