第114話:フィフスアタック1
7月11日、火曜日。今日は朝からどんよりしていて、今にも雨が降り出しそうな曇り空だ。空気もなんか湿っぽい。湖沼地帯最後の日だからすっきり晴れて欲しかった。ちょっとばかりうらめしい。
俺の希望的観測かもしれないが、昨日のキングメタルクラブが多分ラスボスだよな。あれ以上の魔物なんて出てこないよな。俺は頭の中に湧き出したリヴァイアサンを慌てて消去した。あれは海の魔物だ。平和な湖にはふさわしくない。そうに決まっている。
ぶつぶつ言いながら走っていると、平井から話しかけられた。そういえば朝のランニングは参加者が増えたな。お世話係の人達も普通に走っている。
「どうしたの?悩み事?」
どうやら平井は心配してくれてるようだ。
「すまんすまん。今日は大丈夫かなあと思ってさ」
平井は大きな声で笑った。
「何が出てきてもあたしがぶっ飛ばしてやるわ」
平井の向日葵のような笑顔を見ていると、それだけで胸のつかえが消えていくようだ。
「平井は小さな巨人だな。俺なんかよりずっと大物だ」
俺の賛辞を平井は再び笑い飛ばした。
「何言ってるのよ。私は下手投げじゃないわ」
俺が野球部だからそっち方面の冗談にしてくれたのか。
「いやいや。いろんな意味で成長していると思うぞ」
何の気なしに言った言葉がどこに突き刺さったのか分からないが、平井は真っ赤になると肘打ちを食らわせて走っていった。
「エッチ!」という叫び声を聞きながら道路わきに倒れ込み、悶絶しながら考えた。俺のどこが悪かったのだ。そういえば、昨日キングメタルクラブを倒した後で平井と何かあったような。しかし何も思い出せないのであった。
今日の朝ご飯はガレットだった。そば粉に似た茶色っぽい生地を円形に薄く焼いて、その中にハム・潰したじゃがいも・チーズ・卵を入れ、パセリを振って四角く折りたたんだ料理だ。最後、ひっくり返して目玉焼きをサニーサイド風にするのが平野流か。いつも通りカットフルーツとミックスジュースで美味しく頂きました。
食後紅茶を飲んでいると志摩がやってきた。囲碁と将棋の校正が終わったそうだ。今日から翻訳に取り掛かるとのこと。そういえば水野のリバーシと五目並べの取説はうまくいっているのかな?
ラウンジに行くとカウンターにいたロゴスさんに呼ばれた。今日の午後、商業ギルド来訪とのこと。契約書関係かな?
伊藤が隅のテーブルでカットハウスいとうの準備をしていたので、化粧水・ハンドクリーム・日焼け止めクリームのサンプルの状況を聞いた。
「一応できたぞ。今は利根川が最終チェック中だ」
「今日、商業ギルドが来るんだけど、サンプルを渡せるかな?」
「良いけど、クリーム関係の容器が無いぞ」
こういう時には江宮商店しかない。俺はカウンターでロゴスさんと紅茶談義をしていた江宮を引っ張ってきた。事情を話してハンドクリームと日焼け止めクリームの容器の作成を頼む。
「いつまでだ?」
「出来れば今日の夕方まで」
当然断るかと思ったが、答えは違った。
「簡単でいいならいいぞ」
「やった!」
「ついでに、化粧水の容器も作ろうか?」
「いいのか?」
「そのまたついでにシャンプーとリンスの容器も作ろうか?」
「本当?助かる!」
大喜びの俺に江宮は頭を掻きながらこたえた。
「悪い、実を言うとな、もう作っているんだ」
「え?え?え?」
「だって物を売る時にパッケージは必須だろ?」
仰る通りでございます。当然と言えば当然だな。何で気が付かなかったんだろ。お恥ずかしい限り。この時が来ることを考えて密かに試作していたらしい。江宮は続けて言った。
「Slitsのロゴを入れるのならデザインに統一性があった方がいいだろ?」
「もちろん」
「じゃあラベルも作った方がいいんじゃないか?」
「その通りだ。浅野に相談してみる!」
伊藤が目を丸くしている横で、なんだか話がとんとん拍子に進んでしまった。名前もデザインも全て「女神」シリーズにしても良いかもしれないな。ある意味これは女神様のプロパガンダになるのかも。
江宮はさらに続けた。
「でも問題がある」
「なんだ?」
「蓋だ。まず、シャンプーやリンスのポンプ式の出し口は再現できなかった」
上から押すと適量出てくる奴だな。確かにあれは難しそう。
「となるとねじ式かコルク式になる。俺はなんとかねじ式で作れたけど、それがこの世界で再現できるかどうか分からない」
「分かった。そこは商業ギルドに頑張って貰おう。最悪、コルク栓でも問題ないと思うぞ」
ボトルや容器の見本は利根川に渡すように頼むと、江宮は笑顔で部屋に戻っていった。
安楽椅子で呆けていた羽河を起こして「女神」シリーズについて提案したら、即OKが出た。丁度利根川が通りかかったので、「女神」シリーズの話をすると大喜びで賛成してくれた。「話題性と信頼性で大ヒットするわ」と断言してくれた。
ボトルとクリームの容器は江宮が作成済みであることを伝えると、二人はしきりに感心していた。
「流石は気配りの江宮君ね」
「黙って作っている所が渋い」
ラベルのことを話すと、浅野には羽河と利根川が頼んでくれるそうだ。流石に今日は間に合わないが、契約には間に合うだろう。製品名は「女神のシャンプー」「女神のリンス」「女神の化粧水」にした。
ハンドクリームと日焼け止めクリームの製品名に「女神」を入れるのはやめることにした。シャンプー・リンス・化粧水は高級品として売っても良いが、クリーム、特にハンドクリームは実用品として売りたいのだそうだ。
今日もミドガルト語の講義は朗読の続きだった。なんだか、耳から聞こえる情報と目から入ってくる情報が少しづつシンクロしてくるような感じだ。俺だけじゃなくて、みんなもそうみたい。
最初からこのやり方でやっとけばよかったかも。やっぱ朗読は偉大だな。そう思っているのは俺だけじゃなかったようで、講義が終わると羽河が立ち上がり先生に断ってから話し始めた。
「みんなも感じていると思うけど、この朗読は読み書きに関して凄く効果があるような気がします。授業だけでは物足りないので、夕食後の時間に試験的に行ってみたいのですが、どうでしょうか?」
全員が拍手で賛成した。羽河は笑顔でつづけた。
「それでは月曜日の夕食後からはじめたいと思います。月曜日の夕食の時はタブレットを持ってきてください」
全員が拍手で了承した。先生がハンカチを顔に当てていた。どうしたんだろ?
馬車に乗って出発する頃には雨が降り出した。大降りでないだけまだましか。雨の中を走る馬車もまたオツなものだ。西の門を出ると、いつも通りロボが待っていた。浅野の乗る四号車に随伴している。
目的地に着く頃には雨は霧雨みたいになってきた。空の恵みによって生き返った緑が鮮やかで、その上に乗った水の透明感を際立たせている。雲の切れ目から幾条も差し込む明るい光によって、タルコフスキーの映画のように水と空気が混ざった様な幻想的な風景に変わった。
俺のささやかな感傷は伯爵の怒鳴り声によって吹っ飛んだ。
「皆様、雨に濡れた草地は水の中と同じですぞ。くれぐれもキラーフィッシュにご用心を」
今日も河童を先頭にして湖を目指す。雨のせいか、河童はご機嫌だった。横断した水路は三本とも幅は二メートルほどしかなかったが、地面ぎりぎりまで水位が上がっていて流れもジェットコースターのように速かった。落ちたら助からないぞ。
残念ながら、今日は三平も釣りはできないようだ。散発的に襲ってくるキラーフィッシュを撃退しながら進んでいく。
湖に着く頃には雨はきれいに上がっていた。もうしばらくしたら雲も全て無くなり、きれいな青空になるだろう。暑くなるんだろうな。いつものようにトイレの設置が終わると、伯爵が今日の課題を告げた。
小さな巨人=里中君です(野球狂の詩)。