試合中の覚醒はお約束です!
相手投手がホームベースに向かって、渾身の一球を投げ込んで来た。
(打てる……!)
その瞬間、打席に立っていた唐沢はそう確信した。糸を引くように真っ直ぐストライクゾーンに伸びて来た直球目がめて、唐沢はバットを振り下ろした。その時唐沢は、世にも不思議な体験をした。
次の一球が勝負になる。
唐沢には痛いほど分かっていた。
9回裏、ツーアウト満塁。
ホームランが出れば一打逆転である。
さっきのフォークボールが外れて、これでツーボール・ワンストライク。
相手投手はボール球が先行して、どうしてもストライクが欲しい場面……当然次に投げるコースは若干甘めになり、打ちごろの球が来やすい。いわゆる『バッティング・カウント』だ。次が勝負の分かれ目になることが、打席の唐沢には痛いほど分かっていた。
(打てる……!)
バットを切るように振り下ろしながら、唐沢はその時不思議な体験をした。
周りの景色が徐々に見えなくなり……視界がだんだんと黒く染まっていった。
しばらくすると、球場は完全に真っ暗になった。見えるのは、スローモーションで向かって来るボールと、それを今にも捉えようとするバットの先端だけ。
(まさかこれが……覚醒……ゾーンに入るということなのか……!?)
唐沢は目を見開いた。一流の打者にだけ感じられる、超感覚。彼らは集中するとボールが止まって見えたり、つまり人とは違う、独自の感覚で球を捉えているのだと言う。唐沢は最近読んだ野球漫画を思い出し、それが今自分の身に起こったことに驚いた。
(これが……!)
一直線に向かって来たボールはだんだんとスピードを緩め、バットに当たる直前で完全に静止した。すると、突然投手の背中にある巨大な電光掲示板が輝きを放った。
「何だ……!?」
唐沢はバットを構えたまま、呆然と映像を見上げた。そこに映し出されたのは、優しげな目を浮かべた相手投手の顔と、ベッドに寝ている一人の少女の姿だった。
『お兄ちゃん……絶対優勝して来てね』
『ああ、千歳。約束するよ。だからお兄ちゃんが勝ったら、勇気を出して手術するんだぞ』
『うん……分かった』
映像の中で、やせ細った少女がにっこりと頷いた。
(ち……違う! これは超感覚じゃないッ!!)
唐沢は戦慄した。
彼が今見ているのは打席を極めたが故の感覚ではなく……敵投手の回想シーンだった。
『……高田! ついに完成したな。魔球”ジャイロカーブ”』
『ああ。ありがとな、島根。これで全国で戦える……』
『妹の千歳ちゃんも、勇気付けられるな』
『……そうだな』
画面の中で、相手投手と捕手が泥だらけの顔で笑い合った。
(こ……こんなッ!?)
映像はやがて相手高校の秘密特訓に切り替わり、やがて部員たちの衝突や監督の病気を乗り越え、部員たちが優勝に向けて決意を固めるシーンへと替わっていった。唐沢は真芯でジャストミートしたバットを構えたまま、ごくりと唾を飲み込んだ。
……打ち辛い。
非常に打ち辛かった。
一体どんな原理かは知らないが、今唐沢は打席で相手の回想シーンを見せられている。
(こんな……! 妹の手術をかけた勝負だなんて……ッ!? ここで打ったら、まるで俺が悪者みたいじゃないかッ!?)
唐沢のバットを握る手に汗が滲んだ。確かにスポーツものの漫画やドラマでは試合中の回想シーンはお約束だが、それを試合相手に見せつけるなんて、あまりにもルール違反ではないだろうか。
唐沢の今までの野球人生で、これほどの絶好球で、そしてこれほど打ち辛い球もなかった。
今唐沢がバットを振り抜いてしまえば、巨大映像で光り輝く千歳ちゃんの笑顔は、悲しみの涙へと変わってしまうだろう。最初から知らなければ、これほど悩み苦しむこともなかったのに。
『お兄ちゃん。手術が終わったら、お好み焼きたんまりご馳走してね』
『ああ。任せとけ』
『ほんと!? 約束だよ!』
(う、うおおおおおおッ!?)
仲睦まじい兄妹の映像を見上げたまま、唐沢は心の中で叫んでいた。
(だけど、だけど俺だって……今日この時を目指してやって来たんだッ!!)
唐沢はバットを握りしめる手に力を込めた。
この一球で、決着をつける。
そう決心した途端、再び唐沢に不思議なことが起こった。
真っ黒だった景色がだんだんと白みを帯び始め、やがて球場が真っ白に染まって行った。唖然とする唐沢の前で、今度は電光掲示板に唐沢自身の過去が映し出された。
(これは……俺の回想!?)
唐沢は真っ白な世界で映像を食い入るように見つめた。
自分の背より長いバットを抱きかかえている、幼い頃の自分。雨の日も風の日も、歯を食いしばって素振りを繰り返して来た小学校時代の自分。卒業文集には、『将来の夢はプロ野球選手』と書かれている。中学にはほんの少しスケールダウンして、『甲子園出場』になった。そして現在。夢を叶え、憧れの舞台に立っている自分。
(そうだ……! たとえ病気を抱えた妹がいなくたって……俺にだって、俺の過去があるんだッ!!)
不意に涙が溢れそうになるのを必死で堪えながら、唐沢は改めてバットを強く握りしめた。そろそろ唐沢も限界だった。時間にしたら、ほんの数コンマ零秒に満たないかもしれない。だけど同じ格好でずっと構えていたせいで、手がプルプルと震え出していた。お互いの回想シーンがあまりにも長く、不本意ながら尿意も催していた。
この一球で勝負を決めなければ。
唐沢がそう決意した、その時だった。
再び真っ白な世界が黒く染まり始め、今度は掲示板に相手捕手の回想シーンが流れ始めた。
(バカな……!?)
映像の横に並んだ、出場選手18名の名前を驚愕の表情で見つめ、唐沢はとうとうそこで気を失った……。