第九話
車の中には小気味の良いジャズが流れていた。
村木のセンスなのだろうか、カップルでドライブしているならとてもいい雰囲気になるような曲ばかりだった。
村木は黙って車を走らせていたし、綾子も流れる景色をぼんやりと眺めていた。
ナビを見ると、到着予想時刻は午前3時を少し回った時間を示していた。
「寝ていてもいいよ」
村木はそう言うと、後部座席に手を伸ばしタオルケットを綾子に差し出した。
ありがとう。といいながら、綾子はタオルケットを体に巻きつけた。
今日は変な一日だったと改めて思う。
朝家を出た時は、知らない男の車に乗り行方不明の女を捜しに行く事になるとは思わなかった。
タオルケットの暖かさと、車の振動から綾子はまぶたが重くなっているのを感じた。
『別れようと思っている』
車を止めると、突然そう切り出された。
そう言う圭一の顔を見ることが出来なかった。10年も一緒に居る彼女と別れる事はそう容易い事ではないだろう。
別れて私と付き合って欲しいと亜季は素直に口にする事が出来ずにいた。
圭一が同棲する彼女とうまくいっていない事は知っていた。
始めはただの同僚だった、気付くと2人でご飯と食べる事が多くなり、2人でお酒を飲む事が多くなった。
圭一に対して淡い気持ちはあった。しかし、それは到底叶わないものだと亜季は分かっていた。
10年は短くない。2人の絆は深いはずだ。
そう、浅い訳が無い。
何度も自分にそう言い聞かせた。
なのに、その圭一は自分の気持ちを知ってか知らずか、彼女との別れを口にしてきた。
『中途半端なのは分かっている。でも最近の俺は亜季の事ばかり考えている気がする』
圭一の言葉のひとつひとつに胸が高鳴った。
何度夢見た事だろう。
圭一が自分を好きになってくれる事を。自分を選んでくれる事を。
『香苗とは別れるよ。ずるいかもしれないけど、俺と付き合ってくれないか?』
本当にずるいですね。
心の中で圭一にそう言った。
ちらりと圭一の顔を見ると、真っ直ぐな目で亜季を見ていた。胸が自然に高鳴る。
そして馬鹿な期待をしている自分を叱咤した。
別れる訳が無い。
それに付き合ったとしても、10年も一緒に居た彼女に勝てる訳が無い・・・。
亜季はいつも付き合った後の事を想像して、そしてため息をついていた。
想像の中だけでも楽しい事を考えればいいのに。
そう何度も思うが、10年一緒に居たという事実が不安としてまとわりついて離れなかった。どんなに一緒に居ても、どんなに心を独占しても彼女の存在が圭一の中から消える事はないのだ。
彼女の存在を含めて圭一を愛する覚悟が亜季には出来ていなかった。
亜季はイエスともノーとも答えず、曖昧に笑った。
悲しげに笑う亜季の顔を見て、圭一の方が顔を崩した。
『本当、ごめんな』
亜季は首を横に振ると、運転席の圭一にもたれかかった。
体温が伝わってくる。
圭一に触れて初めて亜季は、圭一がここにいるんだと実感した。
今この瞬間は私だけのもの。
両手を腰に回すと、膝枕をしてもらうように亜季は圭一のお腹に顔をうずめた。
優しく頭を撫でる圭一の手が愛しくて、胸が苦しかった。
『ねえ、私の事、好き?』
亜季は圭一のお腹に顔をうずめたまま聞いた。
『うん。好きだよ』
頭を優しく包まれ、首元に小さなキスが振ってくる。
この瞬間で世界が終わればいいと思った。
圭一と抱き合ったまま、幸せなまま終わってしまえばいいと。
嬉し涙なのか、かなしい涙なのか分からなかった。
圭一に泣いている事を悟られないように、亜季はきゅっと目をつぶった。