第七話
表札には村木と園島の2つの名前があった。
玄関を開け、男が中に入り綾子を招きいれた。
「おじゃまします」
綾子が玄関に入ると、男は廊下の電気を点けた。
明るくなった廊下を見ながら、綾子は両手で鞄を固く握り締めた。
床には一面を覆うように、種がばら撒かれていた。村木はその種にまったく気付いていないのか、綾子を置いて部屋の奥に消えた。
客人用のスリッパの上にも、いくつもの種が乗っかっていた。
スリッパを持ち上げ種を払いのけると、パラパラと小さな音を立てて落ちた。
落ちた種は床にあった種と交じり合い、どれか分からなくなった。
スリッパに種が残っていない事を確認すると、廊下に優しく置きゆっくりと足を入れた。
スリッパの下にある種がパチンと小さく潰れる音がした。
どうやっても避けきれない量の種を踏み潰しながら、綾子は部屋の奥に向かった。
リビングはすっきりしていて、あまり生活感を感じなかった。そして玄関同様、種が部屋中を覆っていた。
村木はソファーに深く腰を下ろすと、深いため息をついた。
綾子は座ることも出来ず、部屋を見渡した。
すっきりと落ち着いた部屋にはフラットなソファーとテーブルが置かれ、キャビネットの上には村木と女の写真が飾られていた。
村木は穏やかに微笑み、女はそんな村木の頬に笑顔でキスをしていた。
写真の中の男と、ソファーに腰をかける男では別人のようだった。
「彼女だよ。香苗って言うんだ」
写真を見ている綾子に村木はそう言った。
「香苗さん・・・。いまどちらに?」
表札や部屋に置かれている荷物からも2人が同棲しているのは明らかだった。
「さあ・・・。分からない」
村木は天を仰ぐように頭をソファーにつけ、目を瞑った。
「付き合って9年。一緒に暮らして1年。それが半月前に突然いなくなった。荷物もそのままで、ここを出て行ったとは考えられない。会社にも実家にも、警察にも行った」
掃除されていない部屋、手入れのされていない髪。村木は香苗がいなくなったその日から、会社にも行かずずっと探し続けていた。一番近い存在だったはずなのに、突然何も言わずに居なくなられた事に、村木は打ちのめされていた。
写真と比べても、この半月で体重がかなり落ちてしまったのだろう。
あまりに憔悴しきった姿に視線をそらすと、窓辺の蕾が花を咲かせようとしていた。
倍速の映像を見るように、わずか数秒の間に花を開かせた。
花の甘い香りが鼻腔を掠める。
『ねえ、圭ちゃん!とっても日当たりがいいよ!』
手を大きく広げ、はしゃぐ香苗を尻目に、俺はコンセントの位置や使い勝手の良さを確認していた。
『ここにはさ、キャビネット置こうよ!それで2人の写真とか飾るの。それでさ、こっちは寝室ね。圭ちゃんシンプルなの好きだからさ、真っ白い大きなベッド置こうよ。それで、それで』
不動産屋と話をしている俺をまったく無視して、香苗は部屋の中をくるくると移動した。
長く付き合っていて、香苗にとって2人で住む事は長年の夢だった。
学生の頃から早く一緒に住みたいと、耳にたこが出来てしまうんじゃないかと思う位聞かされていた。社会人になっても生活の基盤が出来るまで同棲を渋る俺に、香苗はよく辛抱したと思う。
香苗の両親に改めて挨拶をしに行き、結婚を前提での同棲を許可してもらった。
『ねえ、圭ちゃん!圭ちゃん!ここがいいよ!部屋も広いし、日当たりもいいし!』
『でも、ここ住宅街だぞ。買い物だって不便だし、通勤だってバス使わないといけないし』
俺も香苗も仕事をしている以上、交通の便は良いほうが良かった。
『住めば都だよ!それになんか気に入っちゃったし!ね~、圭ちゃん。お願い~!!』
一度お気に入りが出来てしまっては、今後どんな物件を回っても、あれが良かったと言い出すのは目に見えていた。
不動産屋にお願いしますと言うと、香苗はやったー!と部屋の中をぴょんぴょん飛び跳ねた。満面の笑みを浮かべる香苗の頭を撫でてやると、香苗は嬉しそうに笑った。
はっと我に帰り、花を見ると花は枯れていた。見る間に茶色くしぼみ、床にポタリと落ちると消えた。
ぼんやりと窓を見る村木は何かに思いをはせているようだった。
「ここに引っ越してきた時の事考えているんですか?」
考えるより先に口に出ていた。
村木はまいったな。と笑った。
「なんかな。香苗が居なくなってから、よく昔の事ばかり思い出すんだ。喧嘩した事、馬鹿みたいに笑った時の事。本当、日常のどうでもない事ばかり思い出す・・・」
そう話す村木の側で、また一つ花が咲いた。
『圭ちゃん!撮るよ~』
引越しの荷物が片付くと、香苗は夢の新居をパシャパシャとカメラに収めていた。
『ねえ、圭ちゃん。ここでたくさん思い出作っていこうね。ずっと一緒に居ようね』
そう言うと香苗は照れたように笑った。
『ずっと居るだろ。もう10年も一緒なんだぞ』
呆れたような俺に、香苗は頬を膨らませた。
『人生は80年なんだよ!たかだか10年なんて、まだ足りないよ。圭ちゃんがおじいちゃんになっても、私がおばあちゃんになってもずっと一緒に居たいの!』
はいはい。と冷たくあしらう俺の背中に、タックルしてそのまま抱きついてくる。
『ねえ、圭ちゃん。いつか私もお母さんになるのかなぁ。圭ちゃんの子供産むのかなぁ。ねえ、圭ちゃんは男の子と女の子どっちが欲しい?』
『どっちでもいいよ』
背中に張り付いたまま香苗がじたばたと暴れる。
『え~。冷たい~』
『男でも女でも元気な子であればいい。まあ、俺の子だから、どっちに産まれても可愛い子が産まれて来るのは間違いないからな』
そう言うと、香苗はケタケタと笑い声を上げた。
『男の子なら圭ちゃんに似てもいいけどさ、女の子なら可哀想だよ~』
『お前に似たら、香苗に似て馬鹿な子になっちゃうだろ。それだとこれからの人生大変だぞ』
『ひどいー。圭ちゃんだってこないだ、ご飯茶碗に間違えてお味噌汁入れようとしていたじゃん。短冊切りがどんなものかも分からないくせに~』
言ったな~。と振り返ると、香苗のわき腹をわしゃわしゃと攻撃した。きゃーと身をよじりながら、逃げようとする香苗を執拗に追い詰めていく。
『おらおら、ごめんなさいと言え。じゃないとずっとくすぐり続けるぞ』
そう言いながらも、ごめんなさいと言える余裕を与えず攻撃し続けると、香苗は笑いながらバシバシと手を叩いた。
存分に弱ったな。そう判断した俺は手を離す。
『ごめんなさいは?』
肩で息をしている香苗は目に涙を浮かべながら悔しそうに、ごめんなさいと呟いた。
それに満足した俺はにやりと笑った。
圭ちゃんのドSと呟いて別の部屋に逃げる香苗に勝利の高笑いを贈った。