第五話
あの小さな葉を見つけてから3日。
今日も綾子は電車に乗っていた。
綾子の隣を抜ける電車も、その次の電車も植物の塊のようだった。
街に出る事も考えたが、人ごみの中に入った途端、出られなくなりそうで怖くなった。それはまるでジャングルのように、自分が行くべき道を見失ってしまいそうだった。
色々な人が利用する電車に乗って居る事が、観察をする上で一番効率が良かった。
そして、それは自分自身のためにも、一番安全だった。
3日間の観察で、綾子は仮説を打ち立てていた。
一つ目として、植物はその人の感情、または気持ちを表しているのではないかという事だ。そう考えたのは、カップルには常に一対の花が胸に咲いている事にあった。
そして、二つ目に、見える植物はその人間に秘められた可能性なのではないかという事だった。
可能性について考えたのは、電車で塾の宿題をする小学生を見た時だった。頭に生えた小さな苗木が、教科書を読み進めるごとに少しずつ成長しているように見えたのだ。
たくさんの走り書きと、植物のスケッチを多く書き記したノートを眺め、そして、小さくため息を付いた。
休暇はあと3日で終わってしまう。
社会生活を送る上で、この不思議な現象との折り合いをどうつければ良いのか、綾子は悩んでいた。
しかし、悩んでも何の解決にも繋がらず、ただ電車に揺られているだけなのだ。
ため息を付くと、鼻に異臭を感じた。
思わず眉間に皺を寄せると、綾子は辺りを見回した。そして、ある一点から目が離せなくなった。
それは人かも疑わしかった。
今までは体の一部に植物をはやしたり、植物が絡まっていたりしていたが、どう見ても人間で、その存在を不快と感じることは無かった。
しかし、目の前のそれはすでに人とはいえなかった。
頭部はすっぽりと紫色した幹で覆われ、その幹の部分からぬるぬるとした光沢のある茶色の葉が生えていた。幹には小さな穴が開いており、ピッーと小さな音を立てながら呼吸しているようだった。その音が鳴るたびに悪臭が広がり、周りの木々や花の色をくすませた。
その異様な姿が見えないはずの人々も顔をしかめたり、ハンカチで口元を押さえた。
綾子は全身の毛が総毛立つのを感じた。気持ち悪さに頭がガンガン痛み、全身が警告していた。
逃げろ!!
何度も心でそう念じても、体がいう事を聞いてはくれなかった。
目を閉じたくても、恐怖で目を閉じる事が出来ない。
昼間の車中に居るのに、ここだけ時が止まったような、真っ暗闇の中を一人で歩いている様な絶望感が心に広がった。まるで暗闇が背中まで迫っているようだった。
すると木の幹がむくむくと盛り上がり始めた。幹の中を何十万、何百万という虫が這いずり回っているように形を変え、そして人の顔をようなものになった。
空っぽの、空洞の目が、そして口がにたぁと綾子に笑いかけた。
それは本能だったのかもしれない。
すでに閉まりかかっている扉に体ごとぶつかると、閉まろうとする扉に手をねじ込ませた。異物を感じた扉は反射的に大きく開き、電車の中から綾子を吐き出した。
ホームに投げ出された綾子の前で扉は閉まり、緑の固まりは何事もなかったかのように発車した。
その場で投げ出された状態のまま電車を見送った。
遠くから心配して駆けつけてくる駅員の声が聞こえてきた。綾子はよろよろと立ち上がり、駅の構内にあるトイレに向かった。
汗が滝のように噴出してきた。
壁に手をそえて立っているのがやっとだった。
頭で鐘がなっているようにガンガンと痛み、床はまるでマシュマロで出来ているんじゃないかと思うほど柔らかかった。
トイレまでの数メートルが、何十メートルにも感じた。たどり着かないかもしれないとまで考えた。
何人かの人が余りに酷い綾子の状態を見かねて声を掛けてきたが、綾子は右手をパタパタと振り断った。
今は誰とも関わりあいたくなかった。
トイレに入り、個室で一人になると、綾子は思いっきり吐き出した。体中のすべての物を吐き出そうとするかのように、何度も何度も嘔吐を繰り返した。
吐き出すものが無くなり、黄色い胃液が出てもそれでも吐く事をやめられなかった。口の中に胃液の苦さが広がり、涙がボロボロこぼれた。涙なのか、鼻水なのか、よだれなのか分からない位、綾子の顔はぐちゃぐちゃだった。
肩で息をしながら、袖で乱暴に顔を拭いた。
口の中に広がる苦いつばを飲み込むと、綾子は一つ深呼吸をした。それは自分を落ち着かせるためだった。
しかし、深呼吸した後に嗚咽と涙があふれ出てきた。
普段の綾子だったら外で泣く事は無かった。そもそも人前で泣く事を苦手としていた。それなのに、駅の構内のトイレで綾子は一人泣き崩れていた。
果てしない絶望感。
身を焼き尽くすような憔悴感。
自分自身に感じる嫌悪感。
袖を口にくわえると綾子は犬のように唸りながら、ぎりぎりと歯噛みした。嗚咽は唸り声に変わっていた。
『死にたい』
私なんか生きていてもしょうがない。
だめだ。
『死にたい』
死にたい・・・・。
だめだ。何を考えている・・・。
『生きていて何かいい事があるの?』
『どうせ何も変わらない』
だめだ。
『死にたい』
悲しむ人が居るでしょ。
でも、悲しみは一時。人は忘れる。
死にたい。
忘れないよ。
私が存在した事も、私が忘れる。
忘れて欲しい・・・。
だめ。
辛いよ、悲しい。
死にたい・・・・。
もう、楽になりたい・・・・・。
トイレの床にへたり込んでいた綾子は小さく微笑んだ。
楽になろうと決めた瞬間、まるで羽が生えたように体が軽く感じた。さっきまでの痛みや悲しみが嘘のようになくなり、ふわりと甘いお菓子に包まれているような感覚が体を支配していた。
綾子は顔をハンカチで拭うと、個室を出て姿見の前に立った。髪はぼさぼさ、顔はぐちゃぐちゃだったが、顔だけが夢見心地のようだった。
櫛で丁寧に髪をすき、唇には紅を差した。
どの電車にしようか。
いつもはうるさい位の電車の音も、人が歩く音も何もかもが遠く感じた。すれ違う人の顔もすりガラス越しの様にぼやけ、肩が触れる前に消えていった。
駅の構内には綾子しか居なかった。
誰も居ない駅のホーム。
立ち止まり辺りを見渡すが、何の音も、何の気配もしなかった。
うどん屋の湯気も立ち上る事をやめ、カフェの氷も溶ける事をやめた。
風の音も、心臓の音も、自分の歩く音も、息づかいも。
何も聞こえなかった。
綾子はいつも利用している路線のホームに行くと、ベンチに座った。
電光掲示板には何も写ってない。
どんなに待っても電車は来ないのだ。
ベンチに座っている時間が長かったのか、短かったのか綾子には分からなかった。時を感じるものが何も無かったから。
心は不思議なほど静かだった。そのかわり、思考というものが綾子から抜け落ちていた。
ぼんやりと世界を眺めていると、綾子の目に一人の男の姿が映った。
誰もいない世界のはずなのに・・・。
静かな水面に小さな波紋が出来た。
視線の先にいる男の目に、綾子は映ってないようだった。
向かいのホームに居る男の顔は青白く、髭は伸びて顔を覆っていた。疲労感が全身を覆っていた。
体には小さな蔓が男を飲み込むように絡みついていた。胸には小さな二輪の花が咲いていた。異なる2種類の花は同じ場所から生えているが、お互いをけん制しあうかのように別の方向に顔を向けていた。
足がふらふらと男の方に向かった。
ふらふら、ふらふらとホームに向かって歩いていると、物凄い力で押し戻された。背中から倒れこむと、電車の警笛が大音量で聞こえてきた。
綾子の数センチ先には電車があり、綾子はたくさんの乗客に囲まれていた。
「馬鹿やろう!死にたいのか!!」
顔を真っ赤にして怒る中年男性を綾子は呆けた顔をして見上げた。
駅のホームにはたくさんの人がごった返し、ざわざわとした喧騒が綾子の耳に飛び込んできた。
思考が一気に綾子に戻ってきた。
その後、助けてくれた人々に頭を下げ、駅員室でしっかり事情を聞かれる事となった。しかし、事情を聞かれても綾子にはうまく答える事が出来なかった。
自殺願望などないし、死のうと思ったわけではない。
電車であの変なものを見たあとから、まるで夢を見ているように感覚が麻痺し、自分で自分を制御する事が出来なくなっていたからだ。それをうまく説明する事は出来なかったし、説明した所で自殺願望をもっている頭のおかしい女と思われるのが関の山なので黙っていた。