第十一話
波の音が耳に届いた。風に運ばれて潮の香りがした。
曇りだったならあたりはほとんど暗闇でしかなかっただろう。
幸い、今夜は月明りが惜しげもなく大地を照らしてくれていた。
「懐かしいな」
海を見ながら、村木はそう呟いた。
綾子の鼻腔に潮の香りに混じって、どこからか花の香りがした。
それはかすかな香りだった。
ほんの一瞬だけ夜の闇は消え、青空の下に眩しそうに立っている村木の姿が見えた。
「きっと、彼女ここに居ますよ」
綾子ははっきりと村木に告げた。
村木は海を見つめたままうなずいた。
「ああ、俺もそう思う。なんか香苗が近くに居る気がする」
夜の浜辺は波の音をまといながら、どこまでも続いていた。
「海は広いな、大きいなー」
綾子は村木の後ろを歩きながら、そう口ずさんでいた。
鼻歌交じりに綾子が歌い終えると、村木は笑った。
「その歌、海に来たら誰でも歌いたくなるのかよ?」
そう言われて、綾子は戸惑った。
「えっ?いや、なんとなく。気付いたら口ずさんでいました」
そうか。といい、また歩き出す。
なんとなくそう言われてしまった後では、歌を口ずさみ辛くなってしまった。
「どこに向かっているんですか?」
そう声を掛けると、村木はずっと真っ直ぐ先を指差した。
「あの写真を撮った場所が向こうにあるんだ」
指の先を追って見ると、砂浜が途切れ高台のようになっていた。
高台に近づく毎に、甘い香りがふわりと香った。
丁度影の部分に階段があった。階段の上を見上げると、月がスポットライトのように高台を照らしているように見えた。
階段を上りきると、ザァーと強い風が吹いた。腕で顔を覆った後、目を開けるとそこは一面花畑だった。
まるでここだけ春が来たかのように、花が咲き乱れ月明りの下でキラキラと輝いていた。
様々な色や形をした花が、風にそよそよと揺れている。それはとても幻想的な景色だった。
よく見ると花自体が淡く光を放っていた。
しかし、光を放っていない花もあった。それに顔を近づけると、綾子は軽いめまいに襲われた。
『どうして』
ここにきて、何度そう呟いただろう。
香苗は圭一との10年間をベンチに座りながら、思い出していた。
受験や就職、たくさんの事があった。2人で旅行にも何度も出掛けた。家族より近い存在で、お互いが必要としている存在。そう信じて疑った事は1度だってなかった。
しかし、最近の圭ちゃんは別人のように見えた。
お互い仕事が忙しくてすれ違ってしまっているのは分かっていた。圭ちゃんが寂しく思っている事も知っていた。
でも子供の頃からなりたかった仕事に就けて、それをすぐに辞める事は私には出来なかった。
初めてここに来た時の写真を手に持ち、香苗は写真の中の圭一をじっと見つめた。
涙が幾度も幾度もこぼれた。
涙でかすんで圭一の顔がゆがんだ。
圭ちゃんから、女の匂いがしたのはいつからだろう。
柔らかなコロンの香り。
始めは気のせいだと思っていた。でも、家に帰るたびに圭ちゃんからはコロンの香りがした。
長く一緒に居ると見たくないものまで見えてきちゃうのかもしれない。
圭ちゃんが嘘を付いている事がすぐ分かった。
私への気持ちが冷めてきている事も・・・。
私達はもうだめなのかもしれない。
綾子がはっと我に帰ると、花はくしゃくしゃに枯れた。
そして、くしゃくしゃに枯れた花を養分にまた花が咲いた。
『圭ちゃん・・・』
どれくらいキスをしただろう、どれくらいエッチしただろう。
世界中で圭ちゃんの事を1番知っているのは私以外にいない。だって、10年も圭ちゃんの隣にいたんだから。
そしてこれからも、圭ちゃんの隣に居るはずだった。
圭ちゃんのお嫁さんになって、圭ちゃんの子供を産んで、お母さんになって。
朝起きたらおはようを言って、夜寝る前にはおやすみを言うのは私だった。私だったのに!
香苗は奥歯を力いっぱい噛み締めた。
ギリギリと音がして、口の中に血の嫌な味が広がる。
『許さない・・・』
圭ちゃんと私の仲を引き裂いた。
私から圭ちゃんを奪った。
私には圭ちゃんしかいないのに。
何も知らないくせに。何も知らないくせに!!
死ねばいい。
私から圭ちゃんを奪う存在すべて。死んじゃえばいいんだ!!!
綾子は息を止められたような気がした。
どさりと尻餅をつく。
気のせいだったのだろうか。一瞬花に食べられそうな気がした。
花はしばらくすると、茶色く黄ばみ枯れていった。
花が跡形もなく消えると、やっと息をする事が出来た。
体中から嫌な汗が噴出し、額に汗が流れるのを感じた。
憎しみの気持ちが綾子の足跡に音もなく忍び寄っていた。
震える拳を口元に当てると、綾子は何度も深呼吸をした。
駅で起きたような感覚が、体を支配しているような気がした。立ち上がろうと力を込めると、体中に小さな蔦が絡み付いていた。
村木はさきほどから一人ベンチの脇に立ちすくんでいる。
声を出そうとする綾子の口を何重にも折り重なった蔦がそれを阻んだ。
まるでガリバーのように花畑に張り付けられた。細い蔦の何処にそんな力があるのか。蔦はギリギリと綾子の体を締め上げた。
目の前には月が見えた。まるでこの高台に落ちてきてしまうんじゃないかという位大きく見えた。
手や足を力いっぱいばたつかせるが、体に絡みつく蔦はびくともしなかった。
苦しい・・・。
意識を失いかけたその瞬間、泣くような声が聞こえてきた。
声のするほうに視線を動かすと、香苗が居た。
地面に膝をつき、香苗は子供のように泣いていた。
そして、花の香りが綾子の視界を奪っていった。
『圭ちゃん、圭ちゃん、圭ちゃん・・・』
泣きすぎて、もう声がうまく出なかった。
胸が苦しくて、頭はガンガン痛くて、喉もひりひりして、泣きすぎてまぶたは熱を帯びていた。
許せない。
圭ちゃん。
どうして。
悲しい。
苦しいよ。
助けて・・・。
どんなに押さえ込もうとしても憎しみが湧き上がって来た。
しかし、それと同じ位、圭一への愛情も湧き上がって来る。
たとえ他の人に心を奪われていようが、圭一を思う気持ちに何も変わりはなかった。
離れたくない。側に居たい。ずっと居たい・・・。
でも、一緒に居ても、もう前のようには戻れない?
知ってしまった。
裏切りを。
気持ちの変化を。
あの陽だまりのような日々は帰ってこないのだ。
どうして。
悲しい。
好きだよ。
大好きだよ。
許せない。
ひどいよ。
苦しい・・・・。
楽しかった思い出ばかりが頭を駆け巡る。
10年分の思い出はそう易々と尽きてはくれない。
頭を掻き毟り、頭を思いっきり地面にぶつける。
クワーンと頭の中で鐘がなり、思考を止める事が出来た。しかししばらくするとまた記憶の再生を始めてしまう。
香苗は何度も頭を打ち付けては、休み、打ち付けては、休んだ。
そうしている内に朝が来て、夜が来て、また朝が来て。
ご飯を食べない事も水を飲まない事も何も気にならなかった。
何日も心の葛藤と戦っているうちに、声は完全に出なくなってしまった。
肌は木の幹のようにごわごわして、女の手ではなかった。
どんなに足掻いても胸の苦しみは治まることはなかった。圭一が居なくなるかもしれないという思いは、香苗の心を完全に蝕んでいた。
体中がズキズキと痛み、ベンチに腰を下ろすのもしんどかった。
圭一の写真はすっかり黒くなり、所々はげてしまっていた。
涙が枯れないのは本当だったんだ・・・。どんなに泣き続けても、また涙が流れてくる。
『ケイ・・・チャ・・・ン』
会いたいよ・・・。圭ちゃん・・・。




