第十話
綾子が目を開けると車は高速を走っていた。
1時間ほど眠ってしまっていたらしい。
村木を見ると、寝る前と変わらない姿勢のまま運転していた。眠っている間も休憩していないのだろう。
綾子はタオルケットを直すと、フッーと息を吐いた。
車のどこかに種が落ちていたのかもしれない。
亜季と呼ばれていた女性は、村木の浮気相手。
いや、もう一人の想い人だった。
亜季の胸の痛みが、綾子の胸に残っていた。
いま、亜季はどうしているのだろう。
村木の事を思い、今も胸を痛めているのだろうか。
会いに来る事も電話をかける事も出来ず、村木の携帯番号を見つめながら眠れぬ夜を過ごしているのだろうか。
空を見上げると月が明るく輝いていた。
「トイレとか大丈夫?」
ぼんやり外を見ている綾子に、村木はそう声をかけた。
大丈夫ですと言いかけたが、止まれるならお願いしますと言い直した。
了解と短く返事をすると、車内は沈黙が支配した。
小気味の良いジャズは綾子が眠りに付いた事を気遣って消されていた。
平日のサービスエリアには大型トラックが何台か止まっているだけだった。琥珀色の街頭の灯りが駐車場に溢れていた。
夜の風が綾子の頬を撫でた。
夜風に当たったおかげで、亜季の胸の痛みは感じなくなっていた。
夜の冷たい空気を吸い込むと、綾子は大きく背伸びした。
自動販売機で温かいコーヒーを買うと、綾子は車に戻った。
運転席の窓を開け、村木は煙草に火を点けていた。吸っているというよりは、ただふかしているだけのように見えた。
車内に入ると薄く煙草の香りがした。
窓が開いているからか、外とそれほど気温差を感じなかった。
コーヒーを手渡すと村木は無言で受け取った。手の届く距離に居るのに村木の瞳は何処か遠くを見ていた。
亜季もこんな気持ちだったのだろうか。
側に居れば居るほど、距離を感じていたのだろうか。
「聞いてもいいですか?」
綾子がそう切り出すと、村木は視線だけ投げた。それを良し、と解釈した綾子は言葉を続けた。
「なんで彼女がいなくなったのか。心当たりがあるんじゃないですか?」
村木は黙っていた。
「10年も付き合っていて、何もないのに居なくなるなんて考えられないんです」
答えを知っているのに、わざとらしいなと綾子は思った。
「それも勘ってやつか?」
村木は笑った。
その笑いには始めてあった時の嘲るような笑い方ではなかった。
「どう取ってもらっても構わないです。ただ、彼女以外に居るような気がして・・・」
村木は目を見開いた。
やっぱり。心の中で綾子はそう呟いた。答えはわかっていたはずなのに、そうであって欲しくないと期待している自分が居た。
「そうか。今日初めてあった人間にも分かるんじゃ、香苗が気付かないわけないよな」
つぶやきのようなその声も、静かな駐車場でははっきり綾子の耳に届いた。
村木はそれ以上何も話さなかった。綾子もそれ以上聞く事は出来なかった。
いや、聞く必要がなかった。
村木は香苗に別れを告げていないのだ。
別れが告げられなかったのか、別れを告げる前に香苗が居なくなったのか。
しかし、亜季が思っていたように、村木に別れを告げる事は出来なかっただろう。
愛情なのか同情なのか区別のつかなくなってしまった香苗への気持ち。
愛情と不安が混じる亜季への気持ち。
村木には未だ、どちらも選ぶ事が出来ていない。
世の中に絶対など存在しない。
時は流れ、景色は変わる。
命は生まれ、そして死んでいく。
愛は熱を失い、記憶は薄れていく。
幸せな瞬間にどんなにしがみ付いても、そこに留まる事は出来ないのだ。
記憶も、想いも、人も、場所も。いつか姿を変えるのだ。
村木も香苗も亜季も。誰も悪くない。
走り出す車の中で、綾子はそう思った。




