第3話~マッチと老婆~
満月が綺麗な夜だ。
ロミルダが吐血し倒れた時、すぐ医者に診せたのでなんとか一命は取り留めたが、かなり深刻な状態だと言われた。医者が言うには余命1週間。延命の方法もなければもちろん根治の方法もない。
グレゴールは絶望した。この老いぼれよりもこんな若い娘が先にこの世を去るのか。グレゴールが己の非力さと運命を呪った。全てを投げ出したかったが、愛しい孫娘の顔を見るとそういう気持ちさえも落ち着かせられた。
ロミルダは薬で様態が安定し、何事も無かったかのように気持ち良さそうにベッドで眠っている。
グレゴールがロミルダの将来を案じ、頭を抱えていると、玄関の扉を叩く音が聴こえた。
こんな遅くに誰だ。グレゴールは腰を上げ、玄関の扉を開けた。
するとそこには、見たことのない老婆が薄汚い粗末な黒いローブを纏い杖をついて佇んでいた。老婆の顔は皺が不気味なほど深く刻まれており、その顔だけでは性別すら分からない。目玉は大きくかなりの目力がある。 グレゴールが老婆だと判断したのは、まっ白の髪が腰のあたりまで長く、爪には赤いマニュキュアが塗られており、顔にはうっすら化粧をしているからだ。
不気味な老婆にグレゴールは目を奪われていた。
「客人が訪ねてきたというのに、何も挨拶なしとはなってないねぇ。ま、あたしの方もこんな夜遅くに訪ねてきたんだからお互い様かね」
老婆は驚いて言葉を忘れていたグレゴールに冗談交じりに話し掛けてきた。
「ご婦人、こんな時間に一体何の御用ですかな? 生憎、この家は狭く、この爺と孫娘2人分の寝床しかありませんぞ?」
グレゴールはようやく我に返り不気味な老婆に要件を訊いた。
すると老婆はさらに不気味に笑った。
「泊めて欲しいなどとは言わんよ。あたしはあんたが困っているという噂を聞いたからちと訪ねてみただけじゃよ。孫のことで、困っているのだろ?」
グレゴールは眉間に皺を寄せた。村人ならそのことを知っていてもおかしくはないが、この老婆は村人ではない。何故ロミルダのことを知っているのだろうか。グレゴールは老婆に対する不信感を拭いきれなかった。
「怖い顔をするのぉ。大丈夫じゃ。危害は加えぬ。むしろお前達のためになる物を持って来たのじゃよ。ほれ」
そう言うと老婆は1つのマッチの箱を懐から取り出した。
「何ですかな? それは」
「マッチじゃよ。見て分からんか?」
老婆はニタニタと不気味な笑みを浮かべマッチ箱をカタカタと振った。
グレゴールは眉間に皺を寄せた。
「それは分かる。そのマッチが何なのだと訊いている。冷やかしかなんかなら帰ってくれ!」
グレゴールは次第にイラつきはじめ語気を荒げた。
しかし、老婆は動じることなくグレゴールの顔を見た。そして、グレゴールに耳を貸せという仕草をした。
不快だったが何故かグレゴールは素直に老婆に耳を貸してしまった。
老婆は静かに呟いた。
「このマッチはな、”生命のマッチ”だよ。このマッチに生かしておきたい者の血を浸し、マッチを擦り火を点ける。すると不思議なことにその火が燃えている間はその者は活力に満ち、絶対に死なない」
嘘のようなことを老婆は言い出したのでグレゴールは鼻で笑った。
「誰がそんな戯言信じるものか。魔女じゃあるまいし……」
グレゴールは言いながら目の前の老婆を改めてよく見た。”魔女”ではない。という方が難しい。そんな風貌をしているこの老婆は、もしかしたら本当の魔女でこのマッチも本当に生命のマッチなのではないか。
グレゴールは顎の髭を親指と人差し指で撫でながら考えた。
すると老婆が笑い声を上げた。
「どうせ医者も匙を投げたんじゃろ? だったらマッチを擦って蝋燭に火を点けるくらい騙されたと思ってやってみたら宜しい。放っておけば孫は死ぬのじゃろ?」
老婆の言うことは最もだった。放っておけば1週間でロミルダは死ぬ。仮に、老婆の言うことが嘘だったとしてもロミルダに不利なことはない。ならばこの老婆の言う通り、マッチを擦って蝋燭に火を点けるくらい試してもいいかもしれない。助からなかったとしてもそれは運命なのだ。
「1つ、聞いて良いか? ご婦人よ」
グレゴールは真剣な表情で老婆に問い掛けた。老婆はじっとグレゴールを見つめた。
「もし、その話が本当だとして、灯した火が消えたらどうなる? 死ぬのか?」
グレゴールの問に老婆はくすくすと笑った。
「その者の命が尽きていなければ死なんよ。火が燃えている間、その者の命の時は、病の進行諸共止まる。火が消えればまたそこから時が流れ始めるだけ。故に死にかけであればもちろん死ぬ」
「ほう、つまり、長生きさせたければ火を消すなと? 病の苦しみも消えるのか?」
「ああ、その通りじゃ」
老婆は深く頷いた。
病の苦しみも消え長生きができる。最後に1つだけ確認しておかなければならないことがあった。マッチを擦るのはそれからである。
「このマッチを擦るにあたって、何か代償はあるのか?」
魔女は鼻で笑った。
「なくはないが、気にすることはない。あたしが思うに、お前さんの願いは孫娘を病から解放し、長生きさせること。それに比べればマッチの代償など取るに足らんことよ」
老婆が初めて質問を濁して答えた。グレゴールは腕を組んだ。
「取るに足らんかどうかはわしが決めることだ。ロミルダが長生き出来ても幸せになれんなどということがあるのなら意味がない」
「それはお前さん達次第じゃよ」
老婆はニタニタと笑っている。
「そもそも、そのマッチをわしに幾らで売ろうとしておるのじゃ?」
グレゴールの言葉を聞いた老婆はケラケラと笑った。
「金なんていらんよ。あたしはただ、人助けの為にやっているまで。それと、あたしの魔法がどれほど強力なものかを試したい。それだけじゃ」
「魔法? ふん、そんな面妖なもの。金もいらん、マッチを使う代償もない。そんなうまい話があると思えるか? どうせわしらを騙そうというのだろう」
グレゴールは戸惑いながらもニタニタと笑う老婆に言った。
「いらぬのならあたしは帰るよ。別に押し付けるつもりではないからのぉ」
そう言うと老婆はクスクスと小さく笑いながらグレゴールに背を向けた。
「待ってくれ。くれるのなら、貰うだけ貰っておこう」
グレゴールの言葉に背を向けた老婆はゆっくりと振り返った。やはり不気味な笑みを浮かべていた。
「あたしからも1つ、頼みがある。軍や教会にはあたしの存在を教えないでおくれ。あたしの見た目ではあたしが何を言っても火あぶりにされてしまうのでな」
老婆は不気味に笑いながらマッチ箱を1つグレゴールの手のひらの上に置くとまた振り返って夜の森の中へと歩き出し、やがて闇の中へと消えるようにその姿を消失させた。
グレゴールは手のひらに置かれた小さなマッチ箱を眺めた。ただのマッチだ。気休め程度に擦ってみてもいいだろう。
グレゴールはまた老婆が消えた暗い森の木々を見ると静かに玄関の扉を閉めた。