#2
目が覚める。
今何時だ、と眠け眼でデジタル時計を探す。
7時半。間に合わないわけではないが、少し危ない時間だ。
顔を洗い、寝癖を直し、少し容姿を整えてから階段を降りて居間へと行く。
台所には俺の彼女、桐崎葵が制服の上にエプロン姿でお弁当を作っていた。
セミロングの黒髪に水葵を形どったヘアピンを付けた、清楚系の美少女。だと思う、俺の中では。
クラスにいる眼鏡を掛けてるけど実は美人で、あまり目立つのが得意じゃない引っ込み思案の女の子って感じ。いや、例えが直球すぎたな。
今は眼鏡じゃなくコンタクトだし、性格は昔とちょっと変わってしまったようだ。
あと小柄で、身長だけ高いことが取り柄の俺と並ぶとかなり小さく見える。
丁度腕を伸ばすと頭の位置に手が来るので撫でやすいのがとてもいい。あまりしたことないが。
黒崎白崇のリアルは充実している。
何故なら彼女と同居中だからだ。幸せ絶頂期である。そう思っていた時期もありました。
現実は時に厳しい。
「おはよう。」
「おはよ。ちゃんと起こしましたからね?」
「分かってる分かってる。」
かなり眠そうな顔で返事したからか、葵は少し不機嫌そうな顔で俺の顔を覗きこんだ。
怒った顔も可愛いな。いや、そんなことを考えてる場合ではない。
「また遅くまでお姉ちゃんとゲームしてたんでしょ?」
「いや、無理矢理付き合わされたんだって。今日1限からだし、途中で頼みこんで寝かせてもらったよ。」
結局、寝ることができたのは3時だ。今にもベッドに戻ってダイブしたいぐらい眠い。
大学が近くなければ余裕で遅刻コースだったな。この家に感謝だ。
「もう、お姉ちゃんにはちゃんと注意しておきますから、次はちゃんと1回で起きてくださいね。」
「ふぁい...」
いやはや、年下の彼女に起こしてもらうなんて情けないというかなんというか。
早くも尻に敷かれてる感じが凄い。もっとしっかりしなくては。
「朝ご飯できてますよ。早く食べないと遅刻しても知らないですからね。」
ダメだ、うちの母親に見えてきた。まさにこんな感じだった。
俺は椅子に座って、手を合わせて朝ご飯を食べ始める。
葵は高校3年。つまり受験生なのだが、さすがに受験生に朝食を作らせるのはどうかと思う。
もっと年上としてしっかりして、勉強に集中できる環境を作らなくてはと思うのだが、なかなか実行できてない情けない彼氏である。
弁明しておくと、俺だけの責任では決してない。
もっと諸悪の根源が...
「うううーうううー」
それはこの世のものとは思えない奇妙な呻き声をあげる、もう一人の同居人である。
葵の姉、桐崎舞。21歳、無職。いわゆる引きこもりニートである。
もう一人妹がいるのだが、その下2人と対比して、桐崎三姉妹最大の汚点と呼ばれる。
大学を中退し、家でオンラインゲーム三昧。
元々桐崎家がかなり裕福なのをいいことに3年間好き放題である。
なんやかんやあり、今は葵に面倒を見てもらっている。
かなり大きな物音がしたあと、葵は舞の部屋から出てきて溜息をついた。
「ダメ、起きない。」
「もうほっといたほうがいいぞ...」
俺が寝てからもしばらく続けてたようだし、無理もない。
ついさっき寝たところじゃないかという疑惑すらある。
ああなってしまっては、まず昼まで起きないだろう。
「ごちそうさま。」
俺は朝食を食べ終えて食器を片付けると、自分の部屋へ戻って支度をする。
講義が始まるまであと1時間弱。
大学まではバイクで40分程度だ。少し急げば間に合いそうか。
支度を終え、ヘルメットを持って玄関へ行こうとすると、後ろから葵に呼び止められる。
「ちょっと待って!」
「ん?」
「はい、これ。」
葵から手渡されたのは先程台所で作っていた弁当だった。
男物のものはないからか、少し可愛い絵柄がついている弁当箱だ。
大柄の男が持つとちょっと痛い。見られたら少し恥ずかしいな。
「いつも食堂のメニューだと飽きると思って。」
何てデキる彼女なんだろう。何故か自分が誇らしい。
いや、誇らしくないな。よく考えたらさっき受験生に家事やらせたらダメだ、年上としてちゃんとした生活しないとと反省をしたところだった。
せっかくの好意をむげにするわけにもいかないし、素直に受け取ることにする。
「ありがとう。じゃあ、行ってくる。」
ここで俺の頭の中に悪魔の囁きが聞こえてきた。
葵の頭の撫でるチャンスだと。今なら自然に頭を撫でても誰も咎めない。
最大の障害である舞も寝ている。
俺はすっと手を伸ばした。
だが、葵はすっと後退して手は空を切った。
あ、あれ?おかしいな?
もう一度手を伸ばす。
また後退されて手は空を切った。もう手は届かない位置まで行ってしまった。
おかしいぞ、これはよくある恋人イベントの類だと思ったんだが。
なんか空振りし続けてると無性に恥ずかしくなってきたぞ。
「何してるんですか?早く行かないと遅れちゃいますよ?」
「そ、そうだな。すまん。」
玄関の扉を開け、逃げるように外へ出た。
これだ、最近の悩みその一。
向こうは色々してくれるのに、こちらが何かしようとすると露骨に避けられる気がする。
何か怖がってるような。いや、態度は普段通りなのだが。
この同居生活に至るまで色々とあったのだ。致し方ないと言えばそうなのだが...
もう一度言う。幸せ絶頂期である、そう思っていた時期もありました。
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バイクで50分そこから徒歩で10分で教室へ着いた。
何とか講義に間に合ったようだ。人がざわざわと騒ぐ中、俺は適当な席についた。
この講義は遅刻すればまずいが、出席さえすればあとは何とかなると評判なので人がやたら多い。
特にやることもないので、鞄からノートを取り出した。
タイトルはマイ姉さんのFPS講座。
内容はタイトルの通り、講義とは全く関係のない桐崎舞によるFPSについての知識が可愛い文字で書いてある。
文章を書くのが下手なのか、まとめるのが下手なのか、講座という名前にしてはただの箇条書きなのだが。
これが俺の最近の悩みその二である。
俺は高校時代にネットゲームはしたことはあるが、それほどがっつりはしていなかった。
なのでその辺の知識もそれほどなく、舞には興味を持たれていなかったのだが。
偶然舞がやっているFPSを代わりにプレイする機会があり、俺はそこで本気を出してしまったのだ。
俺の本気は舞の目に止まり、彼女がリーダーをしているFPSのチームにスカウトされたというわけだ。勿論強制で。
割り勘で高性能PCを買わされ、毎日FPSの練習に駆り出されている。おかげで寝不足だ。
俺の本気というのは、物心ついたときから使えた能力のようなものだ。
"意識の加速"だと死んだ俺の父親は言っていた。
「えー、皆さんおはようございます。今日は前回やった...」
教授が教卓に立って講義を始める。
俺は教授の姿を視界に入れて、右人差し指に力を入れながらぐっと集中して教授を見つめる。
「加速...!」
すると周囲の音が乱れ、教授の動きが減速し、俺の世界に切り替わった。
ここは全てスローで動く世界。...俺の意識を除いて。
正確に言えば、俺の意識だけが加速し、それ以外が遅く見えているのだ。
人間離れした集中力が為せる技だ。何故そこまでの集中力を得ることができたのか、よく分かっていない。
ただこの能力は、現実世界にとってかなりのアドバンテージだ。
俺はこの能力を単純に"加速"と呼び、日常的に使用してきた。
本を人より数十倍の速度で読むことができる。FPSで敵より早く正確に頭を撃ち抜くことができる。
迫り来るパンチをいとも簡単に避け、相手を一方的に殴ることできる。
俺はこの加速を全てにおいて良いことに使ってきた訳ではない。時には悪用もしてきた。
FPSで使うことだって悪用と呼べるかもしれない。フェアではない人力チート、所謂イカサマと同じことだからだ。
以前はこの加速を使うことを嫌っていたこともあった。今は使うことに何の躊躇いも持ってはいないが。
俺は加速した世界の中、目だけを下に向けて腕時計を見る。
体感時間ではかなりの時間が経ったように思うが、現実では加速を発動してから10秒。
もう限界だ。
俺は息をふーっと吐き、集中を解いた。
するとスローだった世界は元に戻り、普通の速度の世界が戻ってくる。
俺の加速はいつまでも出来る訳ではない。他が遅く見えるほどの集中力がそれほど長く続くわけがないのだ。
加速している間は心拍数が異常に上がり、情報量の倍増から脳への負担も増える。
つまり、加速には相応の疲労が掛かってくるのだ。加速を長く使えば使うほど比例してそれは増えていく。
最長10秒。一度20秒ぐらい使ったときがあったが、その後すぐに貧血で倒れた。
カンカンカン。
時代遅れとも言える黒板に、教授がチョークで文字を書き込む音が聞こえる。
出席さえすればあとは何とかなるとのことだったが、不安になって黒板に書かれていることを確認した。
内容はほぼ高校時代の復習だった。そういえば、次の段階へ進むための前準備の講義だと教授が言っていたことを思い出した。
だが、あまり自信のない分野の内容だった。実を言うと、高校時代に不登校になったりしていた時期もあったりして偏った学力しか持ちあわせていない。
"マイ姉さんのFPS講座"を読んでいる暇は無さそうだ。とりあえずノートに写さなくては。
俺は鞄からノートを取り出し、黒板に書いてることを黙々と書き写し始めた。