05. Case Aika
タニヤはクスリの製造にとりかかるだとかで去って行った。
マティウスは集中治療室へと送られたが、問題はないようだ。まだ、精密検査があるらしい。
彼らを元の世界に戻すには、闇の滴である僕の血と、無の滴であるシナガワの血で奇跡を起こしたらオーケー。だが、それはもうちょっと後にする。
全てが終わり、僕は診察室で椅子に深く腰をかける。壁がないのが何ともいえないが、そこには突っ込まないでおこう。失われた診察室の壁を見ていると心が痛くなる。
「ちょっと疲れたかも。もう、トラブルは勘弁してほしいね、シナガワ。僕は君に言いたい」
シナガワは相変わらずの無表情。こともなげに彼は言った。
「何も問題はない」
「目の前にあるよ! 診察室の壁がなくなっているじゃないか! これはシナガワにレッサーパンダを買って来てもらう他ないね。僕にはセラピーが必要だ」
「何を言っているのやら。そんなにレッサーパンダが欲しいのか?」
「何度もドアを蹴破られたりしていると、君もきっとそう思うようになるよ」
「考えておいてやるよ」
僕は失われた診察室の壁を眺めた。待合室に並べられた椅子が見える。
待合室は入口のドアへと続いている。このドアだけは破られたくない。
入口のドアが問題なく開かれた。誰かと思うと愛佳が入ってきた。
良かった。入口のドアは蹴破られなかった。
僕達の目の前に立っている少女、愛佳は別の物語世界、イル・モンド・ディ・ニエンテからやって来た。
その世界では誰も彼もが狼狽えており、何かというと愛佳に縋り付く。
彼女が感情を失ってゆき、時々、死にたいと呟いてしまうのは、その辺りに理由がありそうだ。
「愛佳ちゃん! 元気にしていた?」
「愛佳か? 久しぶりだな」
この年齢の頃は少し見ない間にも著しく成長をするものだ。愛佳は随分と大人びていた。夕日を思わせる橙色の毛は長く、膝下まで届いている。金の瞳は太陽よりも明るく輝いており、輪郭は細いながらも豊かな曲線。四肢は真っ直ぐに伸び、そこに窮屈さは見当たらない。
彼女は言った。
「ここに来るまでにテレビを見たんだ。飽浦とシナガワが極悪人だと言われていたよ」
僕の頭の中にある頭痛の種。何かの植物の種だろうと思っていたのだが、それは大きな認識違いだったようだ。
核種はウラン235。
次から次へと持ち込まれるトラブルで、連鎖的な核分裂反応を起こしそう。僕の頭は瞬時に蒸発。診察室に太陽が出現するだろう。
「そうきたか」
シナガワがウンザリしたように言った。度重なるトラブルに疲れが出たのか、壁に背をついていた。
「髭を生やしたセレブと白髪の博士が、シナガワと飽浦に脅されたと証言をしていたよ。今度は何をしでかしたんだい?」
シナガワは失笑を漏らした。
「その髭セレブと白髪博士も同じ穴のムジナなんだがな。俺に悪いレッテルを貼付けてしまえば、俺が何を証言した所で、世間は信用しなくなる」
「でも、シナガワ。髭セレブも白髪博士も社会的地位は高そうだったよ。二人が悪いことしていても、周りは何も言わないのかい?」
「告発する者は嫌われるものなんだ。好き好んで嫌われ者になる奴はいない」
「でも、悪いレッテルを貼られてて、シナガワはそれでいいのかい?」
「中国マフィアが大きくなりすぎていることが気になる。それにしても悠馬はどうした? 一緒に来たんじゃなかったのか?」
愛佳はこともなげに言った。
「悠馬は攫われちゃったんだよね」
素晴らしい! 一日に三人も攫われた! しかも別々の事件で!
新記録達成!
これを快挙と言わずして、何と言うのだろう?
救出する側の身にもなって欲しい。
今度は僕が攫われたい。
ソファーの感触を楽しみながら、暖炉の暖かさを感じ、救出されるのを待ちたい。小気味の良いジャズを聴き、窓から見える摩天楼を眺めたりすると更に気分は良くなるだろう。
カプチーノが欲しい所。そして、ドーナツを食べたりする。
なんだ。攫われるのは悪いことじゃない。むしろ、良いことじゃないか。
どうりで皆こぞって攫われたりするわけだ。今、ようやくにしてわかった。
声を大にして言いたい。次は僕を攫って欲しい。
シナガワの方を見ると、無表情ではあったが、口の端が僅かに引きつっていた。
疲れているのだろう。いつになく沈黙の時間が長い。
「いや、悠馬は大丈夫だろう。大丈夫に違いない」
かなり適当を言っている気配。
その後、シナガワからのアイコンタクトを受けたが、彼の目は死んでいた。おそらく他殺。少なくとも二度は殺されている。三度目の犯行が行なわれようとしていて、それが今だ。
僕の目も殺されようとしている。防衛しなくては。
「あっ、シナガワの言う通りだよ。悠馬君なら大丈夫。絶対、大丈夫なはずだよ」
「本当かな?」
愛佳は診察室にあったソファーに座る。座り方も大人びてきている。騒々しくない手足の動き。指先まで神経が行き届いている。
品性は当たり前の動作の中に出てくるものだ。指先の動きを見ていたら一目でわかる。愛佳は良い女性になりそうだ。彼女は形の良い唇を動かした。
「悠馬を攫っていったのは中国マフィアと言っていたけれど?」
愛佳の言葉にシナガワが苦虫を噛み潰したような顔をした。最低でも十匹は噛み潰したはずだ。相当苦かったらしい。眉間にシワが寄っていた。
「まずいな。放射性物質の作業員にされるかもな」
ティアラとアレクを作業員として作業する前に、横槍を入れて無理にやめさせた。おかげで、人員が不足したのかもしれない。
白髪博士が辻褄合わせに中国マフィアに発注し、悠馬が攫われても不思議ではない。
悠馬の髪は茶色く、緑の瞳は翡翠の色に似ている。外国人に見えないこともない。
そして、悠馬は少しばかり世間知らずな所があって、放射性物質の作業員としては丁度いい。何も知らない者ほど使いやすいものはない。
放射性物質の作業員と聞いて、愛佳の弓眉がひそめられた。
「何それ? 放射性物質だって? 危険そうだね。悠馬は本当に大丈夫なんだろうね?」
彼女は心配している。少女を悩ませたままというのは、どうにも居座りが悪い。
どうしたものかと、シナガワを見ると、唸って腕組みをしていた。
「マティウスは問題なかったが、悠馬はちょっとな」
「ああ、マティウス君は色々とアレだからね。比べちゃいけない」
愛佳がソファーから立ち上がった。真っ直ぐに伸びた背筋。実に良い姿勢だ。
「僕が悠馬を助けに行く。シナガワと飽浦は大変そうだし、僕一人でなんとかするよ」
間違いなく愛佳は悠馬を助けにいくだろう。それを見てシナガワは僕に話かけてきた。
「飽浦、女神の出撃だ。用意をしろ」
「わかったよ。わかった。助けに行けばいいんだよね?」
席を立ち上がると、待合室から声が聞こえてきた。
聞き覚えのある声。女性が二人来たようだ。入口は蹴破られていない。
「ココですね。姫様。飽浦とシナガワはココにいるようです」
「ありがとう、アレク。助けてもらったお礼を言わなくちゃ」
見ればティアラとアレクがやって来たようだ。
ティアラはタニヤとマティウスの主君。アウラヴィスタ国王女。
髪は肩まで届かないほどで、眩しく輝いており、ピンクダイヤの煌めきを散らしている。肌は白瑪瑙のように透き通り、周りの空気も彼女を祝福していた。
ティアラは少し怯えた表情を見せ、透き通った目をこちらに向けた。一つ一つの所作が慎ましい。
隣にいるアレクはティアラの護衛で槍術使い。漆黒の髪は夜空のようで、少し暗めの赤色の瞳は凄みがあり、その鋭い輝きはピジョン・ブラッドを思わせる。一見、男性にも見えかねない中性的な顔立ちで、無表情で凄いことをやってのける。
細い腕だが力はかなりある。アレクに人を投げさせたら彼女の右に立つ者はいない。何故なら、彼女が投げるからだ。
アレクは深々と礼をした後、僕達に言った。
「シナガワ、飽浦。姫様とオレを助けてくれたらしいな。アウラヴィスタ国の国難になる所だった。タニヤもすっかり騙されていたらしい。改めてお礼を言う」
おそらくタニヤは、自分が騙されたと吹聴している。
本当のことを言ってもいいが、これ以上混乱を広げたくない。身内には甘く。それが人間の習性だ。
シナガワが二人に向き直る。
「とにかく、二人とも無事で良かった」
タニヤの件はおくびにももらしていない。シナガワもこれ以上の騒ぎは望んでいないのだろう。
ティアラは小さな頭を下げた。
「ありがとうございます。飽浦さん、シナガワさん」
彼女の小さな声は透き通っており、その声音を聞くだけで、爽やかな風が通り抜けた心地がする。
だが、そろそろ行く時間だ。
悠馬を早く助けに行かなくてはならない。このままだと彼は放射線の餌食になる。
「ティアラちゃん。僕達は別の人を助けに行かないといけないんだ。また、後でね」
「私も手伝います!」
ティアラの小さな拳が握りしめられている。真摯で真っ直ぐな瞳を見ていると、断るのも躊躇われる気がした。
シナガワがそれを聞いて短く言った。
「急場凌ぎで戦力が足りない。アレクを借りていいか?」
「いいですけど、私にできることはないでしょうか?」
中国マフィアは組織が大きい。
シナガワがアレクを借りたほど。単独行動を好むシナガワが、助力を必要とするのは珍しい。
余程の事態だと予想される。
正直に状況を説明してもいいが、ティアラは責任感が強過ぎる。
心配性の彼女にこと細かく教えてしまうと、彼女は心配で心が押し潰されてしまう。
ティアラが悩んだりしないように、僕はニッコリ微笑むことにした。
「大丈夫だよ。ティアラちゃん。僕達はいつもこうさ。だから、安心してくれたらいいよ」