ティル
「お嬢様の名前はエステル様って仰るんッスね」
ティルに声をかけられたのは、その日の夜のことだった。
朝となんら変わりない様子で夕食の載ったトレイを差し出すと、野菜スープとパンです、と朝は許されなかったメニューの説明を律儀に行う。
器を手に持って、エステルは目を瞬かせた。
「まだ、温かい、ん、だが……」
久しぶりに声を出したせいか、舌がうまくまわってくれない。たどたどしくなる言葉を恥じながら、それでもエステルは思ったことを素直に口にした。
声をかけてもよかったかと不安に思ったが、ティルは気にすることなくカクンと大きく頷く。
「あ、はい。冷ますの面倒くさかったんで!」
「……パンも、柔らかい、んだが」
「はい。古くなっててカビてないパン探すの面倒くさかったんで!」
でも誰も食事のことなんて気にしてないから、別にいーんスよ。
なんて少年はあっけらかんと笑って見せた。
役目を終えてもなぜか一向に立ち去ろうとしない少年に戸惑いつつ、期待するような視線を向けられてエステルはおずおずとスープを口にする。
温められたスープは一口飲めば冷たくなった体を内側からじわりと温め、柔らかいパンは少し指で引っ張るだけで簡単に食べやすいサイズになった。ふかふかとした食感はどうにも食べ慣れないが、それでも同じ食べ物の筈なのにこうも変わるのかと目を丸くする。
「……おいしい」
小さく呟くと、ティルはまたあの時の無邪気な笑顔を見せてくれた。
彼は自分がなりそこないであることを聞かされていないのだろうか。いや、そんなはずはない。彼は自分をお嬢様と呼んだ。スターレット家の息女がこんな場所に押し込められている理由を聞かされないはずがないのだ。
一度疑問に感じてしまえば、尋ねずにはいられない。
「私と、話をして、平気なのか?」
この質問には二つの意味があった。一つは、彼自身がなりそこないを嫌悪していないのかという疑問。もう一つは、こうすることで彼が罰せられることはないのかという疑問だ。
ティルはきょろりと大きな目を瞬かせて、小首をかしげた。
「なりそこないがどうとかって言う、あれのことッスか」
「……そうだ」
やはり聞いていたのだ。だが、それならばなおのこと彼の態度が不思議でならない。
ティルはんんーっと小さく呻って、考え込むように天井を仰いだ。
「オレ、最近ウィザンドラに来たんスよ」
「え?」
「たびげいにん、って解りまス?」
聞いたこともない言葉だった。エステルが素直に首を振ると、ティルは空っぽになったスープ皿とトレイを手にとった。
スープ皿を持った手を掲げて、こっちがオレたち。トレイを掲げて、こっちがウィザンドラとそれぞれ示す。
「オレたちはもともと色んな国を廻りながら、曲芸……まぁ、人を楽しませる仕事やって、お金貰ってまス」
トレイの周りでスープ皿でくるくると移動させながら、ティルはそう説明してくれた。
人を楽しませる仕事、というのがエステルにはいまいち想像出来なかったが、見ている人を笑わせることが出来るなんて、それはマニに聞いていた魔術などより余程か途方もないものに思える。
テイルは最後にスープ皿をトレイに載せてから、それで、と言葉を続ける。
「本当なら雪が降る前に、南の方にある温かい国に行くところなんスけど、一座の歌姫がこの国で姿を消しちまったんでス」
「見付からない、のか」
「ええ。そんなわけでこの国で冬を越さなくちゃいけないんスけど、この国は雪が積もっちまうと公演はおろかテント暮らしもままならないってんで、雪が溶けて旅が再会できるまで、みんなばらけて仲間捜しながら冬を越えるための資金稼ぎをしてるって感じッスね」
公演、テント暮らし、旅、仲間、資金稼ぎ。
聞き慣れない言葉は不思議とエステルの心を強く引きつけた。エステルはもとより知ることが好きだ。未知のものへの好奇心はいつだって心の中にあった。
「そんなわけで」
だが、話はここまでとばかりにティルは皿の載ったトレイを持って立ち上がってしまう。引き留める言葉は出ない。もとよりそれが許されなかったエステルには、彼を惜しむ気持ちがあっても、それを言葉にするという思考がなかった。
そうだ、彼はマニではない。ずっとここに留まれるわけではないんだ。
そんな当たり前のことにそれでも寂しさを感じずにはいられない。
とても久しぶりに、誰かと言葉を交わした。
それはエステルにとってやはり刺激的で、かけがえのないものだった。
だが、もう次はないかもしれないというエステルの不安は、次に発せられたティルの言葉でいとも容易く払拭された。
「なりそこないとかオレよく分かんないんで、今度はお嬢様のこと教えてください」
いつのまにか何かを我慢するように握りしめていた手が、指先からじわりと熱くなる。
まっすぐに向けることがためらわれた視線をティルに向ければ、彼は変わらずエステルに笑いかけてくれていた。
「今度……」
告げられた言葉の意味を確かめるように、小さく復唱する。
「はい。また明日! お休みなさいエステル様!」
「あ、お……」
また言葉がひっかかってしまう。何度もマニと交わした挨拶のはずなのに、舌がもつれて上手く喋れない。口の中がからからに乾いて、焦燥で鼓動が痛いほどだった。
それでも、ティルは扉の前でエステルの言葉を待ってくれた。
絞り出すような声でなんとか「おやすみなさい」と告げると、にっと歯を見せて笑ってくれる。みっともない、情けない声だっただろうに、ティルはそのことを決して馬鹿にしなかった。
ただそれだけのことで、瞼の奥がじわりと熱を持つ。
その日の夜はあまり眠れず、夜明けがとても遠く感じられた。