台風一過
涙は一夜で出なくなった。
マニが姿を見せなくなってから二十の昼と夜が廻った。
地下牢はあの日から冷たいままだ。間もなく豊穣を祝うネルカの祭りが執り行われる時期。それが過ぎればそう日も経たずにウィザンドラは白に染まるだろう。
雪とはどういうものだろう。
白くて冷たい、ということはマニから聞いている。だが、マニが語る自然物は端的で記号的であったため、イメージがしやすいのかしにくいのか良くわからなかった。
ともすれば脳裏を過ぎるのはマニと語らった事ばかりだ。
それも当然だろう。マニ以外の誰も、エステルと語らおうというものはいなかったのだから。
あれから随分と日が経つのに、エステルは相変わらずあまり飢えを感じることはなかった。これだけ寒さに震え、あまり眠れぬ夜が続いているにも関わらず、体が不調を訴えることもない。
マニが与えてくれた恩恵だと思っていたが、どういうことだろうかと疑問に思う。
疑問に思うが、それまでだった。
もう問えば知識を与えてくれた存在はいないのだ。
あんなこと、言わなければ良かったのか。
石壁に背を預けながら、エステルはぼんやりとそう考える。だけれど、それは無理だとすぐさま否定した。あの時あの激情を抑えられたとして、それが果たしていつまで保ったか。
もうマニは姿を見せてくれないのだろうか。
そうも考えて、喉の奥が苦しくなった。名前を呼びそうになる気持ちを必死に押さえ込む。あれだけ酷いことを言ったのだから、きっともうここには来ない。そんなことは解っていた。
だが、名前を呼んでもマニが来なかったとき、その事実が浮き彫りになってしまうようで。
寝ても覚めても、エステルの考えることはマニのことばかりだった。
それがまた一層エステルの孤独を深める。姿を消してまで苦しめるのかと理不尽な怒りさえわいた。
つい先ほど目覚めたばかりであまり眠たくはない。だが、考えたくなくてエステルは再び毛布にくるまった。このまま目を閉じ続けていれば、思考のループに煩わされることもない。
そう思っていたのに、突然扉の外がバタバタと騒がしくなってエステルは顔をあげた。
「余計なことはなさならないよう。貴方の役目はただ食事を運び入れるだけ。宜しいですね?」
「はぁい! 張り切ってがんばりまっス」
話し声が二つ。一つはあまりハッキリとした記憶ではないが、いつも食事を運んでくる壮年のメイドのものだ。だが、もう一つの声は知らない。
若い子供の声に聞こえる。少年だろうか、その辺りはやや曖昧だ。
とにかく、食事の時間が来たと言うことなのだろう。体を起こすのは億劫であったが、それでもエステルは身にまとっていた毛布を床に敷き、とかずとももつれない髪はそのままに乱れたエプロンドレスだけを調えた。
やがて鉄扉が開かれる。
「おっはよーございまーッス! 朝食をお持ちいたしましたー!!」
牢獄に響いたのはなんとも陽気な声で、エステルはその勢いに気圧されるように思わず身を引いた。
トレイを持っていたのは年の頃はエステルとそう変わらなさそうな若い少年だった。背丈もエステルと大差なく、ほっそりとしている。若草色の柔らかそうな髪を後ろで一つくくりにした少年は、にこにこと愛想の良い笑顔を浮かべてエステルにトレイを差し出した。
「えーっと、本日の朝食はでスねぇ」
少々耳慣れないイントネーションで朝食の説明をしようとした少年の背後で、オホンとメイドが咳払いをする。すると少年は慌てたように背筋を伸ばした。
「あ、申し訳ございません。ご挨拶がまだでした!」
「必要ありません! ティル。彼女に関しては今後も極力関わらないよう。会話も必要なければ交わさないようになさい」
「へ? え? で、でも」
なにか言い返そうとしたティルは、しかしメイドの鋭い視線を前に口をつぐむ。どうやら彼はここに来てまだ日が浅いらしい。
「宜しいですね?」
「……はい」
それだけ告げると、メイドはさっさと踵を返して階段をあがっていってしまう。
だが、ティルはそれをすぐには追いかけず、そろりとエステルに向き直った。それから、トレイを持ったまま固まっているエステルにニカリと歯を見せて笑ったのだった。
エステルは咄嗟にどんな反応をすればいいのかも解らず、ただ呆然と少年を見つめ返した。この少年は自分がなんであるのか、どうしてここに閉じこめられているのか知らないのだろうか、と疑問を抱く。
だが、当然問いかけは口をついて出ることはなく、少年は今度こそ背を向けて、階段をかけあがっていってしまった。
あんな無邪気な笑顔を、エステルは今まで一度も向けられたことがなかった。驚きすぎて心臓がいつもより騒がしい。
だが、昂揚していた気分もそう長くは続かない。
きっと彼は今頃、自分の立場をあれこれ聞かされているに違いない。自分がなりそこないだと知れば、きっともうあんな笑顔を見せてくれることはないだろう。
クズ野菜のスープに固くなったパンを浸してかじる。エステルの食事はいつも代わり映えがしない。時折与えられる【恵み】を除けば、毎日ずっと同じメニューだ。
それなのに一生懸命メニューの説明をしようとしていた少年を思い出して、エステルは小さく笑った。
たった一人であんなにも賑やかになれる人を、エステルは今まで見たことがなかった。
ティルと呼ばれていた。エステルは屋敷に仕える使用人の名を知らない。誰も名乗ってくれなかったからだ。ティルという名前は少年が名乗ってくれたモノではなかったが、それでもエステルは少年の名前を覚えていようと思った。
例え明日からあんな風に笑いかけてくれなくなったとしても、あの騒がしかった短い時間がとても新鮮で、かけがえのないものに思えたのだ。