失ったもの
幼いエステルでも、マニが何を言っているのか理解出来た。
だがそれでも、そのようなことを信じたくなくて、震える声でマニに尋ねた。
「私は、いつお前と【契約】したんだ?」
エステルは契約を知らない。物心ついたときからマニは当たり前のようにエステルの傍にいたからだ。言葉の誓約を交わしたように、なにかの儀式を行ったわけではない。
「ああ、その時のことはよく覚えている。エルマーが十七歳の時だ」
エステルはもうすぐ七歳になる。なので、この十七歳の時というのは確かにエルマーのことなのだろう。
思い出さないか? と問われてエステルは下唇を噛んだ。自分の理解力が乏しいのでなければ、エステルが今なりそこないとして扱われているのは、契約によって自身の魔力の全てがこのマニに奪われているからに他ならない。
しかも、それは自分がそうと望んだのではなく、覚えてもいない前世の契約によるものだと彼は言うのだ。
エステルは今の今まで、自分はマニに救われているのだと思っていた。いや、事実救われていたのだ。このような牢獄で独り凍えることもなく過ごせているのは、マニが傍にいてくれたからだ。マニが抱きしめてくれるだけで牢獄の臭気はかき消え、肌寒さもなくなり、不思議と飢えも感じなかった。
それでも、とエステルは目を閉じる。
もしも自分がなりそこないなどではなかったら。
父は自分に関心を持ってくれたかもしれない。
母は自慢の娘と褒めてくれたかもしれない。
兄は色々な勉強を教えてくれたかも知れない。
姉は仲良くお茶を飲んでくれたかも知れない。
妹は小さな体を抱きしめさせてくれたかも知れない。
使用人達は親切に世話をしてくれたかも知れない。
あの家族の一員として、幸せに過ごすことが出来たかも知れない。
いや、そうなる筈だったのだ。
エステルは背後の鉄扉へかけ寄り、強く手を叩きつける。
だが「自分はなりそこないなどではない。精霊憑きだ」と叫ぼうとして、自分の声がまったく出ない事に気がついた。
「エルマー?」
背後から心配するようなマニの声が聞こえる。だが、エステルは今その声を聞きたくなかった。喉が引きつり、それでも声を絞り出そうとして、じんわりと喉の奥に血の味が広がった。
喉を押さえて咽せると、慌てたマニがエステルの体を抱きしめる。
だが、その時初めてエステルはマニを拒絶した。
身をよじり、体に触れることを強く拒んだ。
そのまま冷たい扉に身を寄せて、ずるりとしゃがみ込む。
やがて口をついて出たのは、震えるような小さな嗚咽だった。
間もなく、エステルは七歳の誕生日を迎えた。
エルマーじゃない、とエステルは繰り返しマニに訴えた。
エルマーじゃない。エルマーなどになりたくなかった。自分がエルマーでなければ、このような牢獄に繋がれ続けることもなかった。自分をエルマーと呼ぶこの精霊がいなければ、エステル・スターレットとして、スターレット家の娘として普通に生活することが出来たのだ。
「返してくれ」
「……」
マニは自分の名前を呼ばなくなった。ただ、困ったような顔で、膝をついたままエステルを見上げていた。
「返してくれ。お前が私から奪ったもの全て」
「俺は……」
エステルの言葉に、マニは瞳を大きく見開いた。何かを言おうとして口を閉じ、視線をエステルの足下へ向ける。俺は、ともう一度小さな声が石壁に響いた。
「私から奪った魔力で、私から家族の愛を取り上げ、生活を取り上げ、あげくその力を使って私の家族を殺そうと言うのか」
喉がヒリヒリと焼け付くようだ。
マニの体がびくりと震える。やがて自分の手を見下ろしてから、再びエステルを仰いだ。
「……俺は、俺はただ……お前の傍に」
そうだ。
マニはただ、エステルの傍にいた。
前世の契約に従い、慕っていた契約者に尽くしていたにすぎない。自分のことを他言するなと言ったのも、その方がエステルにとって安全だからだと彼は答えてくれた。誓約があった以上、それはマニにとって真実だった。
そこにエステルに対する悪意など微塵もなかったことを、エステルは理解している。
たとえエルマーとしての記憶を持っていなくても、自分を慈しんでくれていた。自分をなにより大切にしてくれた。愛してくれていたのだと知っている。
それでも、奪われたと、裏切られたと感じる気持ちを抑えることなど出来なかった。
どうしようもないほどの憤りが渦巻いていた。体の中で荒れ狂うそれを、吐き出さずにはいられなかった。
他にぶつけるモノなどなにもなかった。
エステルにはマニしかいない。
「私は、エルマーじゃない」
それでも、そう訴えずにはいられなかった。
「私をエルマーと呼ぶな」
マニは何も言わず、エステルの言葉を聞いていた。
「私はなりそこないになんてなりたくなかった。エルマーなんて知らない。契約なんて知らない。父様、母様、兄様、姉様、グロリア……ッ。皆が私に冷たいのは、全部全部お前のせいだ! お前がいなければ私は……私はッ」
これ以上言ってはいけないと思っても、一度溢れ出したものはどうしようもなかった。堰を切ったように零れていく感情を、どう止めればいいかエステルには解らなかった。
「マニなんか大嫌いだ!」
すっと地下牢の空気が冷めていく。
いや、冷めたのではない。もともとこの場所の空気は冷たかったのだ。汚水の臭気が鼻をつき、エステルは自分の体を抱き込むようにして毛布の上に丸くなった。
嗚咽は出ない。ただ、ひどく体が震えた。
それでも、マニの名前を呼ぶことは出来なかった。
七歳の誕生日。
その日からエステルは独りになった。