魔術師エルマー
エステルはエルマーを知らない。
後世に名を残す偉大な魔術師が祖先であることも、マニに教えられなければ一生知ることなくその生を終えていただろう。
マニはエステルをエルマーと呼ぶ。
「私の名前はエステルだ」
「いいや、お前はエルマーだ」
そんな風に言われ続けていれば、あるいは自分はエルマーなのだろうかと思ってもムリはない。そして、エルマーがどういう人物であるのか、興味を持つのも当然と言えた。
「エルマーはどんな魔術師だったんだ?」
問うと、マニは不思議そうな顔でエステルを見た後、またあのどこか寂しげな笑みを浮かべるのだ。
「忘れてしまったんだな、エルマー」
エステルはマニのこの顔があまり好きではない。なぜだか自分がとても酷いことをしているように感じるからだ。だが、エルマーを知らないこともエステルにとっては恐怖だった。
マニがエステルに優しいのは、彼がエステルをエルマーだと思っているからだ。
それが自身の前世であると言われても、エステルにはあまりピンと来なかった。
なりそこないである自分と、そのような凄い魔術師がどうして同一で結べよう。
故に、エルマーを知りたかった。
知れば少しはその存在に、近づけるかも知れない。そう思ったのだ。
「エルマー・スターレットは、美しかった」
そう言って、マニはエステルの金の髪を一房手に取った。
髪の色も瞳の色も、エルマーとまったく同じだと言われてエステルは安堵した。エルマーは男であったが、それでも老若男女問わず、目を引くほどに美しかったという。
あまりに美しすぎて、王妃が頑なに同席を拒否していたというのは彼に纏わる有名な逸話の一つだ。
「エルマー・スターレットは、聡明だった」
知識欲が旺盛で、真理の探究に余念がなかった。
エステルの体を膝に抱えて、マニは懐かしそうに語った。エルマーは自分の知らないこと、理解の及ばない事があるといつも怒っていたと。そうして自分が納得いくまで徹底的に調べ上げ、あらゆる知識を吸収していった。
「怒りっぽかったのか」
「怒りっぽかった」
マニは笑った。彼はよく怒っていた。
誰に対しても厳しかったが、なにより自分に厳しい男だった。己が愚かであることが我慢ならない男だった。誰の前でも冷静さを欠かない男だったが、精霊である自分たちには良く色々な顔を見せてくれたと、マニは目を細めた。
そんな気高いエルマーを、精霊達はみな慕っていたのだという。
「俺もよく怒られた」
「どんな風に?」
「一番は、この愚鈍、だったな」
役立たずとも言われたし、愚かだと呆れられたこともあった。口も辛辣だったがよく足が出る男で、底の厚い靴で蹴られるとさすがに痛かったと。
「酷いな」
「俺が至らなかったんだ」
でも、とマニはエステルを抱きしめる腕に力を込める。
「エルマーは俺を、一番の精霊だと言ってくれた」
エステルにとって精霊とはマニのことだ、それ以外を知らない。
一番の精霊ではなく、唯一の精霊だ。
「エルマー……お前とこうして再び出会えるまで、とても長かった」
それ以上の時を独りで生きてきた筈なのに、この数百年が地獄のようだった、と。
肩に額を押し当てられ、首筋をマニの髪がくすぐる。そろりといつもマニがしてくれているように頭を撫でれば、ますます抱える腕の力が強くなった。
「お前をこんな場所に閉じこめておくのは許せないが、今が幸せだと言ったらお前は怒るだろうか」
「……私もマニがいてくれてよかった」
「ずっとふたりでいよう。ここなら誰も俺からエルマーを奪えない」
マニの力があれば自分はなりそこないではない、普通の人間になれるかもしれない。
牢獄の外でもっと自由な暮らしが出来るのかも知れない。
しかし、その言葉をエステルは呑み込んだ。マニがここにいようと言うのなら、それでも良いかと思えたのだ。外への憧れがないわけではない。だが、マニはなにかを不安がっているようだった。
マニが悲しいのは嫌だと思う。
だが、同時に一つの不安も胸中にあった。
「私はなりそこないだ」
魔術師エルマーは類い希な才の持主で、内包する魔力も生まれながらにとても高かったという。
だが、対してエステルはなんの魔力も持たないなりそこない。
だというのに、ここでマニに必要とされ、エルマーと呼ばれていても良いのだろうかと。いつかマニはその違いに気付き、自分の元を離れていってしまうのではないかと。
「エルマー以外の人間は等しく愚かだ。なりそこないと精霊憑きの違いも理解できていない」
「……精霊憑き?」
知らない言葉にエステルは目を瞬かせる。なんだ、それはと尋ねれば、マニは優しい顔でエステルの頭を撫でた。
「この国の言うなりそこないとは、ようするに生まれつきの魔素拒絶症だ。本来は魔力によって肉体を蝕まれた人間が、ごく稀に後天的に発症する。体内の魔力を異物と判断して吐きだし、体外の魔素すら拒絶するようになった結果、体内にいっさいの魔力を蓄えなくなるのが魔素拒絶症だ。一切の魔術を執り行えなくなり、医療魔術すら受けられなくなるかわりに、魔術では傷もつかなくなる」
「むむ」
マニの言い回しはいつも難解だ。なんとか魔術が使えなくなるかわりに、魔術が効かないというのは理解できたので、続きを促す。
「精霊憑きとは、精霊と契約を交わすことで体内の魔力を精霊に分け与え、そのかわりに精霊を使役できる人間のことだ」
「ん、と?」
「人間が精霊と契約を交わすと、その二者の間でのみ物質界と精神界の隔たりが失われる。儀式や術式を持ち入らずとも、互いに触れ合い言葉を交わすことが出来るようになる。魔素は万物に宿るが本来は物質界よりも精神界により適する元素だ。ゆえに人間の魔力は精神界との隔たりを失った時より、精霊の器が蓄えきれなくなるまで体内の魔力を精霊に向けて流すことになる」
「私には……魔力があるのか?」
「ああ、今も俺の体にはエルマーの温かい魔力が流れ込んできている」
そう言って、マニはこの上なく幸せそうに微笑んだ。