大精霊マニ
ささやきかけてきた声は、自分に向けられているのではないと理解していても背筋が凍るほど怒りに満ちていた。
エステルの手首を掴んでいるのは、大人の男の手だった。骨張った大きな手は熱く、冷え切った少女の手を触れた箇所からじんわりと温める。
手の中にあった燻製肉が突如として炎に包まれる。彼女の小さな手は熱を感じることもなければ火傷を負うこともなかったが、驚いて放り出された肉は塵一つ残らずに消滅してしまった。
「望んでくれ」
エステルが振り返るといつのまにか彼女の背後に一人の青年が傅いていた。この小さな地下牢ではいささか窮屈に感じるほど背が高く、均整の取れた屈強な体つきをしている。
青年は底の見えないような深い青の瞳に憎悪を宿して、少女の頬に手を宛がった。
覗き込む顔は甘やかさはないものの、とても凛々しく端正であった。町を歩けば自然と女性の目を引きつけ、真剣な眼差しで相手を見つめられれば胸の高鳴りを抑えることなど出来なかっただろう。
「お前が望むなら今すぐにでもこの屋敷もろともあいつらを消してやる。俺はもう我慢がならない。どうしてお前がこのような扱いを受けなければならないんだ」
心から不遇を嘆く声。
青年は少女の頼りなげな肩を抱いて、その首筋に額を寄せる。深みのある赤い髪は短く硬質に見えたが、頬に触れる感触は柔らかい。
「マニ」
エステルは青年をそう呼んだ。
ただ名前を呼んだだけだ。だが、その瞬間にマニは顔をあげ、蕩けるような笑みを浮かべた。たったそれだけの事が至上の喜びであると言わんばかりに頬が上気し、少女を見つめる眼差しが揺れる。
しかしエステルは腕を振り上げ、容赦なくマニの頬を叩いた。
叩いた手の平がじんと痛む。だが、少しも腹立たしさは収まらない。
叩かれたマニはきょとりと目を瞬かせていたが、やがてエステルが自分を叩いたのだと気付いて、不安げに眉尻を下げた。
「エルマー?」
「違う」
少女の不機嫌を察して、マニはおどおどと視線を彷徨わせる。見た目で判断するなら年の頃は二十歳を過ぎていてもおかしくはないというのに、その様子はまるで母親に叱られた幼子のようだ。
何かを言わなければならないのに、何を言ってよいのかも分からない。
そんなマニの態度が、ますますエステルの表情を険しくさせた。
「私はエルマーじゃない。エステルだ」
「いいや、お前はエルマーだ。エルマーの魂を持っている。俺にはそれが分かるんだ」
このやりとりを何度繰り返してきただろう。どれだけ訴えかけてもマニはそれを理解しない。
マニはエステルをエルマーと呼んだ。歴史書に名を連ねる偉大なる魔術師エルマーと。
そしてマニは自分をエルマーの杖だと語った。
マニの姿はエステルにしか見ることが出来ない。マニの声はエステルにしか聞くことが出来ない。それはマニが【精霊】であり、エステルが【契約者】だからだ。
そう教えてくれたのはマニだった。
エステルは学ぶことが出来ない。本を読むことも、疑問に感じたことを尋ねることすら許されていなかった。それゆえエステルの声に応じて知識を与えてくれるのはこの世でマニただ一人だった。
だがマニはあらゆる疑問に答えるかわりに、決して自分の存在を他人に話してはいけないとエステルに【誓約】させた。
儀式はエステルが覚えている限り、とても単純なものだった。マニが羊皮紙になにやら不思議な紋様を書き、聞き慣れない言葉でなにかを呟くと、描かれた紋様が淡く光を帯びた。
後で聞いたが、マニが呟いたのは古い精霊の言葉で『ここに、言葉における誓約を交わす』という意味だったらしい。
そして、先にマニが「俺は決してエステルの問いかけに対し嘘は言わない」と口にして、その紋様の中央に口づけた。次はエステルの番だと言われ、エステルもマニに先んじて言われていた通り「マニの事は決して誰にも話さない」と言って、マニと同じ場所に口づける。
これも一つの魔術だとマニは教えてくれた。
「試しに誰かに俺のことを話そうとしてみるといい」
そう言われて、エステルはたまたまその日水桶を運んでくれたメイドに、マニのことを話そうとした。だが、その瞬間喉がひきつり僅かも声が出なくなる。焦るエステルにマニは落ち着いた声で他の言葉を話してみるようささやきかけた。
ありがとう、という言葉はすんなりエステルの唇からこぼれた。
大精霊マニ。彼はそう名乗った。
幼いエステルには大精霊が理解できない。だから大精霊とはなんなのかと問うた。
マニは少しだけ寂しそうに笑うと、忘れてしまったんだなエルマー、とエステルの頭を撫でた。
精霊とは大気中の魔力――人が『魔素』と呼ぶモノが寄り集まって意思を宿した存在である。だが、本来それは肉眼などで視認出来るものではない。
人間の住む物質界と、精霊の住む精神界の二つは表裏一体で、同じ空間にありながら魔素の流れを除いて互いに干渉することはないからだ。
この定理を提唱したのが、かのエルマー・スターレットである。
が、提唱された当時はエルマーの認知度も低く、この発言は多くの魔術師のひんしゅくをかった。
精霊とは古くは創世記にも綴られる高位生命体を指す。
伝承に記された彼らは万物そのものであり、人間が何人も集まって行うような儀式魔術を指先一つで発現させる力を持ち、時に災いをもたらし、時に救いを与えてくれた。
伝承に名を残す精霊は魔術師にとって信仰の対象ですらあった。
それらを単なる魔素の集合体だと言われれば、反発するモノが多くあっても仕方がない。
だが、それでもエルマーは自らの主張を曲げることは無かった。
精霊は野生動物と同様、人間ほどの知性を持たないが本能は持っており、好ましい環境に定住する。海や湖などで水の魔素が豊富になったり、火山周辺で火の魔素が濃くなるのは、彼らがその場所を居心地がよいと感じているからだ。
そして、精霊は自我を持つことで産まれ、物質化することで死ぬ。魔素を多分に含んだ鉱石や植物は彼らの死骸であり、死した動物に精霊が解けて消えることで、魔獣が産まれるのだと。
そして、永き時を生きて高い知性を持つようになった存在こそが『大精霊』であり、神話などに記されている存在の全ては、この大精霊であると唱えた。
この主張が認められるよう、エルマーは文字通り人生の全てをかけた。
マニは精霊について実に多くのことを話して聞かせてくれたが、幼いエステルが理解出来たのは、とにかくマニがとても強くて賢いオバケのような存在であるということだけだった。
そう話せばマニは笑ってエステルを抱きしめた。なるほどその方が余程分かりやすい。さすがエルマーだと彼女を褒め称えた。
エステルは今まで誰かから褒められたことなど一度もなく、抱きしめられるその温もりも知らなかった。彼女はマニに褒められたい一心で、貪欲に知識を欲していった。
この狭い牢獄が世界であるエステルにとって、マニの存在は全てだったといっても過言ではない。マニが居れば他になにもいらないと思えたほどに、彼はエステルの支えだった。
あの事実を知ってしまうまでは――。