第一章[紅き月下の元、黒猫は歩く]―――〈5〉
ちょっと、長くなるかもしれません
ご勘弁を…
本格的に戦闘に入るので、楽しんでいただけたら光栄です
秋川桜は、目の前で行われている長ったらしい授業を聞きながらうんざりした表情で頬杖をついていた。
現在の時刻は授業終了の鐘が鳴ってから一〇分が経過している。だというのに、いまだ教室で教卓に立つ数学の教師。
正直、授業が終わりになったのならさっさと帰るなりなんなりしたい生徒の面々がヒソヒソと不平不満を並べるのが秋川の耳にまで聞こえてくる。
『あと少し!! 最後まで行かせてくれ!』
と言う先生の必死の形相に誰も口を出さなかったが、やはり思うところは皆あるらしい。
まあ、秋川もそれなりに思うところがあるのだが。
(つかこんなに長く授業ってやっていいものなのか?)
数学の先生の悪い癖か、最後まで問題をやり遂げないと授業を終わらせないのだ。
一応、聞いてはいるものの自分のすでに理解している部分だし、なにしろやる気がない。
いつもは背筋を伸ばして、きちんと授業を聞く少女は、だらんと眠そうに目を緩め、気だるそうな雰囲気を醸し出していた。
(なんか妙に疲れてるな………今日はいつにも増して身体がだるい)
昨日は特に何もしてないはずだが、どうしてこんなにもなー、と頭の中で呟く。
何もする気が起きない。まるで、全力でフルマラソンを走りきった気分だ。
ペンを教科書の上に放りあげ、両手でわしゃわしゃわしゃー、と頭をかく。
今日は生徒会の仕事を早めに済ませて帰ろう。そう心に決めて少女がペンを持ち直すと、数学の教師が解説を終え満足げな顔でテキストを閉じていた。
「ふむ、今日はここまで。すまなかったな長引かせて。んーと、長引いた時間が十分だから……次の授業は十分早く終わらせる。挨拶は良いぞ。今日はお疲れ様」
皆で座りながら軽く会釈。
その後、数学の教師の言葉に各々席を立ち、帰る準備や近い席のやつらと話し始め一瞬で教室が騒がしくなる。
「ゲーセン行こうぜー」
「金がねえ、パス」
「じゃあ、カラオケは!?」
「一人で行ってろ」
そんな耳に届く会話に、暇なやつらはいいよなーなんて思いながら秋川も机の中にある教科書をバッグの中にぐぎゅぅぅぅ、と詰め込んでからゆっくりと席から立ち上がった。
その時だった。
「…………っ」
秋川の視界が霞む。貧血のように身体から力が抜け地面に倒れようとするのを机を支えにして防ぎ、秋川は頭を押さえる
(あれ………昨日、ちゃんと寝たんだけどな)
ズキン、と頭が痛む。
じりじり、と胸が焼けるような感触を覚える。
平衡感覚を失い、思考回路が止まる。
そこで、不意に思った。
唐突に、脈絡もなく、一瞬に。
理由もないはずなのに、原因もないはずなのに。
秋川は、こう思った。
―――あれ、私はどうして、こんなところで学校になんて行っているのだろう?
「桜? どうしたの、大丈夫?」
ポン、と軽く肩に触れるようにして詩塔楓が手を置く。
すると、何事もなかったかのように秋川を襲う頭痛がひいた。
「―――え?」
「え、じゃないよ~どうしたの。また寝てないの?」
ぷく~、と頬を膨らます親友は『またですかコイツこのやろう』というふうに秋川を睨んで腰に手を置く。
過去に秋川が無理して寝ずに仕事をしていたことを思い出しているのだろう。
その時の楓ほど怖いものはなかったと秋川は記憶していた。
「いや、別に寝てないわけじゃない。ただ、ちょっと貧血がな。栄養が足りてないのかもしれないなー。あははははっ」
「んもう! バカみたいなこと言ってないで少し保健室に行きなよ! 生徒会の人たちには私から言っておくから!!」
「そういうわけには……」
「いいからッ!!」
ぐいぐいと背中を押され秋川は苦笑いを浮かべる。
(まったく。楓には敵わない……)
「わかったから。背中を押さないでくれ。帰る用意してから保健室に行くから…………………いや、ホント行くから」
楓の半眼での視線から逃げるように秋川は背を向ける。
教室の後ろにあるロッカーへと移動し、スカートのポケットから手慣れた手つきでカギを取りだして、ロッカーにかけた自分の南京錠を開ける。
中から帰ってから使うものだけを取り出してから再び、パンパンになった手提げバッグにぎゅぅぅぅ、と詰め込んだ。
基本、秋川は教科書を学校に置いて帰らない。家でこまめに予習復習をするために全てを持って帰るため少女のロッカーの中には体育館シューズしか残らないことが常だった。
しかし、今日はそうはいかないらしい。
「…………、」
カバンの中の体操服が邪魔で教科書が入らない。工夫して入れてみるものの変化なし。
先ほどと同じように無理やり詰め込んでみるも、それではチャックが閉まらない。
これほど体操服を鬱陶しいと思ったこともないような気がする。
「…………………しょうがない」
いくつかの教科書を置いていくことにしよう。
取りあえず、あまり勉強しないであろう日本史と国語を置いていくことにする。
適当にロッカーの中に教科書を突っ込み、南京錠を閉める。
すると、バキンと音がした。
「ん?」
見ると秋川の閉めた南京錠が、真っ二つに割れて地面に落ちていた。
「あれ? 南京錠ってこんなに簡単に壊れるものだったか」
手に取って見ると切り口はまるで日本刀で切られたように綺麗だった。
新しい南京錠……買わなきゃな~、と考えながら取りあえず割れた南京錠をカバンに放り込む。
「桜、どうしたの?」
「いやちょっと、な」
深く考えることもないだろう。物なんてやつはいつか壊れるものだ。適当に言葉を返し、秋川は教室の出入り口へと楓と共に足を向けた。
まずは保健室だ。楓が納得するほどの検査を受けてから(学校で受けれる検査などたかが知れてはいるが)秋川は家に帰ることになるだろう。
と、教室を出ようとした彼女たちは足を止めた。
なぜなら、先ほどまで授業をしていた数学の先生が二人を呼びとめたからだ。
「秋川、少し話したいことがあるのだが、今はいいか?」
「へ? 私にですか」
「そう、キミにだ。この話は個人的な情報が入ってくるから別の部屋するのが理想だなのだが、これから何か急ぎの用でもあるのかね?」
問いかける先生は楓を横目で見る。個人的な情報、ということは楓が居たらいけない話なのだろう。
もしかしたら、会長としての話かもしれないし、いずれにしろ聞いておかなければならない話だ。
「すぐに終わるんですよね」
「ああ、大丈夫だ。五分も時間はとらん」
五分も時間を取らない重要な話とは、どれほどのものか疑問の残るところだが仕方がない。
あとに延ばしてもいいことなんかないのだ。
「では、少し秋川を借りる」
「はい、わかりました。じゃあ、桜。私、先に行ってるからきちんと保健室来なきゃダメだよ!」
「ああ。わかってるよ」
ぶー、と頬を膨らめせる楓に苦笑いを堪えながら秋川は言う。
短い言葉だが、はっきりとした返答に満足したのか、楓は先生に軽く挨拶をしてから教室を出た。
「で、先生。何の用ですか? 別の部屋ってことは相当重要な話とは思いますが……」
「場所は補修室だ」
「………補修室ってありましたっけ?」
一年のときにすべて覚えたつもりだったが、どうやら知らない教室があるらしいい。
「生徒会長が何を言っているんだ」
そう言って、先生は手を秋川の右頬にあてた。
まるで、宝石でも見るような目で秋川を見て、先生はニヤリと笑った。
「秋川。キミは今から補修の時間だ」
直後。
ガコン!! と船の船体同士を打ちつけたような鈍い音が響き、辺りが紅く染まり始めた。
紅く染まる壁。紅く染まる机。紅く染まる椅子。紅く染まる黒板。紅く染まる―――月。
人間を除く空間全てが紅く染まり、まるで初めから何もいなかったかのように生き物の姿がその場から消えた。
いや、生き物すべてではない。すくなくとも秋川と目の前の先生、そして椅子から立ち上がる二人の少年と少女だけが教室に存在した。
「ふむ……準備は万端。始めよう」
秋川の頬に触れた手を離し、先生は呟くように言う。
それが合図だった。
グリン!! と明後日の方向を向いていた少女と少年が首を秋川の方に向ける。
《キヒヒヒヒヒヒヒヒッ!! お迎えにあがりました、秋川桜様》
《お目覚めの時間ですヨ》
少年と少女、二人の口から一度フィルターにでもかかったかのような不自然な声が出ると同時、ピシリと音がした。
直後。
ブチン!! と少年の首が真上に勢いよく飛んだ。
―――バチン!! と少女の身体がのけ反るような形でクの字に折れた。
首が飛び、残された身体だというのに少年から血は流れず、その足は崩れない。
―――頭が背中につくほどにクの字に曲がり、立てる状態ではないというのに少女はその両足を地面につける。
そして変化は唐突に、脈絡もなく、不意に起こる。
少年の身体に首が繋がっていた部分から、白い棒のようなものが勢いよく飛び出した。
それは、人間の骨だった。小学生の保健体育ででも習いそうな腕の骨が肉の無いまま少年の身体から飛び出したのだ。
しかし、それは白骨ではなかった。鉄を極限まで磨いたような、加工された鋼を思わせるような光沢のある銀色だった。
―――少女の身体のクの字に曲がる頂点の場所から、ピンク色の球体が突き出た。
―――腹を食い破るようにして出てくるそれは、人形の頭だった。
―――しかし、巨大だ。明らかに人間の中には入りきれないその頭の体積は、まるでバランスボールほどの大きさで、それでいてずっしりとした重量を感じさせる。
少年の身体から飛び出した白銀の腕が地面に手をついた。
―――少女の身体から突き出た人形の身体が見え始めた。
白銀の骨の手がグググと力を入れる。
―――人形の身体がずぶずぶと腹からにじり出る。
そして、メキメキと音を立てながら二つの身体から一つずつの『怪物』が出現した。
少年の身体から出たのは、白銀の骨で身体を形作るガイコツだった。しかし、そのガイコツには一つだけ眼球があった。赤く光るその瞳には秋川の姿だけが映っている。
―――少女の身体から出たのは、女の子のおもちゃのような赤ん坊の人形だった。しかし、その人形は巨大だった。天井にも届きそうな人形は無機質な瞳を秋川に向ける。
(……なんだこれ)
秋川は、思わず手元にあるカバンを落としながら今の状況にただ混乱していた。
(……………なんだこれ)
少女は、ただ今の状況に混乱していた。
(…………………………なんだこれ)
少女は、ただ今の状況に混乱していた。
(なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ!!??)
ズキリ、と頭が痛む。
強制的に大量の信号を脳に送られているような痛みが頭に流れる。
少女は、ただ今の状況に混乱していた。
しかし、それは彼女が『今ここで何が起きているかがわからない』ゆえの混乱ではない。
今に起こっていることが全て理解できていることへの混乱だ。
(………どうしてわかる?)
『堕天人形』。
『教会』の研究機関計画『クオーツエフェクト』によって作られた失敗作品にして、殺人兵器。
(私は………どうしてわかるんだ!?)
それらが理解できることにまったく違和感を感じなかったことに、違和感を感じていた。
それはまるでリンゴをリンゴと見ただけで理解できるような。
頭上に広がる青く綺麗なものを『空』だと認識できるような。
そんな違和感のない、自然な理解だった。
「術式は正常。これから五分後には稼働しそうだ」
先生が腕を振るうと、虚空からひと振りの剣が現れた。
日本では絶対にお目にかかれないであろう、儀礼的な、諸刃のロングソードだ。
それの柄を手に掴み、無造作に横に振るった。
先生と秋川の距離は、三メートルほど。
どうやっても、その刃は秋川に届くことはないはずだが、
「がっ!!??」
秋川の身体は横からの衝撃を受け、宙を舞う。
ガシャン!! と音を立てて窓を打ち破り少女の身体は大きな運動場へと弾きだされた。
魔術。
人智を超えたその力が働いたことを彼女は理解していた。そしてそれがわかってしまう異常性もまたもや理解していた。
地面を滑り切れず、身体を回転させてゴロゴロと地に転がる。
地面に着地し、一〇メートルほどいったところでようやくその動きを止めた。
「つぅ………けほっけほっ!」
舞い上がった土煙りが、少女にせき込むような息を強制させる。
手を地について身体を起こすと、制服は汚れているが身体には何の傷もないことに気付いた。
「クソっ………」
何が起きているのかがわからない。
それだけが、唯一秋川に理解できないことだった。
立ちあがり、学校の方を見ると屋上から煙が上がっていた。断続的に起こる爆発が学校を揺らし、ニ階三階部分の窓を破壊する。
まるで戦場のよう。
見慣れないその様子を見て、秋川はそう思った。
天を仰ぐと、赤く染まる空や信じられないほどの数の星が頭上を支配していた。
それはプラネタリウムのような幻想的なものと同時、通常ではありえない不気味なものだ。
そして、一番に目につくのが紅く染まる巨大な月。通常の月の五倍ほどはあるだろうか。クレーターが肉眼で確認できる大きさのそれは空の中心に陣取り、辺りを照らす。
名を『紅月』。
それは、月だけを指すのではない。『堕天人形』が作り出す隔離空間を、そう呼ぶのだ。
世界から切り離されたこの空間から抜けだす方法は一つ。作り出した本人、すなわち『堕天人形』を破壊すること。
そこまでを理解して秋川は校舎を見た。
目に映るのは、ゆっくりとこちらに近づいてくるニ体の『堕天人形の姿だ。
秋川を外に弾きだした剣を手元で回転させながら数学教師―――クリストファー=ミカエルは眉をひそめる。
「ふむ。どうやら、一匹ネズミが入り込んでるみたいじゃないか」
あれほど『無駄なことはするな』と言い聞かせておいたのに。計画が狂ったらどうしてくれるのだろうか。
しかし、ネズミの一匹やニ匹、心配するほどのものではないだろう。今回の計画はすでに最終段階に入っている。
一体が軍隊の一部隊にも匹敵する堕天人形を三〇体。そして、それをまとめるのは魔術師である自分だ。
これほどの戦力を前に一人でどうにかできるほど世界は甘くはないだろう。
《クリストファー様》
《私たちも暴れたいヨ》
彼の背中に人形の声がかかる。
人形の方に首だけを動かし肩越しにそれらを見てから、
「行け」
ガン!! と窓が砕け散った。
ミカエルの答えが聞こえたのかは分からないが、教室の窓を打ち破り人形は運動場へと飛び出す。
勢い余ってクイーンの器を破壊したりしないか、正直不安だ。
男は天井を―――それより向こうの何かを見る。
断続的に揺れる建物に断続的に聞こえる爆音。屋上で起こる戦闘はどうやら時間がかかりそうだ。
「……仕方ない。面倒だが、不安の種は自分で摘んでおこう」
ダラリと下げた諸刃の剣を改めて握りしめ、ミカエルは下から上に振りぬいた。
瞬間。
ゴガガギガゴガガガギギギゴギギ!!! と壮絶な音を立てて校舎が一刀両断された。
支えになっている柱がいかれでもしたのか、壁には大きな亀裂が走り気持ちの悪い不協和音が絶えずミカエルの耳に届く。
しかし、彼の攻撃で校舎が倒壊することはなかった。
倒壊はしたものの、それの原因はミカエルでないことは明らかだったのだ。
なぜなら。
彼の攻撃で校舎が倒壊する前に、別の大きな衝撃が真上から校舎に叩きつけられたからだ。
「!?」
ゴウン!!! と大きな衝撃音と共に瓦礫がミカエルに向かって降り注いだ。
彼は、ロングソードを持つ手とは反対の手を軽く振るう。
虚空から現れた剣は、八〇センチもの長さのロングソードよりやや短く小ぶりに見えた。
それを握り、ミカエルは運動場の方へと思い切り飛んだ。
魔術により強化されたその脚力は、人間の限界をいとも容易く超える。瓦礫の崩落範囲から一秒以内に逃れることなど朝飯前だ。
途中、身体に当たりそうになる瓦礫や机などを剣で弾き飛ばしながら彼は安全圏に辿り着いた。靴の底を滑らせて衝撃を殺す。
(つまらん。ヤケになって魔術でも暴発させたのか……ッ!!??)
そこで見た。
彼に向って砲弾のように飛んでくる一人の少年の姿を。
ガッキィィィィィン!!! と金属音が辺りに鳴り響いた。
クリストファー=ミカエルは左右の剣を交差して相手の攻撃を受け、色素の薄い目を持つ少年は彼に向けて漆黒の槍を叩きつけていた。
「こんにちは、先生。秋川のお迎えに来ました。彼女、どこにいるの?」
「知らんよ。本当に知りたければキミが探せばいいじゃないか。なぁ―――神谷!!」