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もしかめ、キミのこと

作者: 船酔い
掲載日:2026/02/23

話しかける勇気がない。それだけで、こんなにも毎日が重い。


中学二年生の水島蒼介には、同じクラスに片思いの女の子がいる。遠くから見ているだけで、友達と馬鹿騒ぎして気を引こうとするだけで、それ以上は何もできない。顔も普通、成績も普通、特技もない。そんな自分が嫌いなわけじゃないが、好きでもなかった。


そんな秋、ひとつだけ変わったことがあった。けん玉を始めた。


令和にけん玉、と笑われた。理由を説明できなかった。ただ、やっているあいだだけは、余計なことが頭から消えた。それだけで充分だった。


母に勧められるまま、なんとなく入ったけん玉スクール。そこで待っていたのは、思いがけない再会と、個性豊かな仲間たちと、そして自分でも気づいていなかった答えだった。


恋と受験と、けん玉。転がって、落ちて、また拾い上げる。そういう話です。

## 第一話 遠くから見ること


片思いというのは、どうしてこんなにも重いんだろう。


別に何があったわけじゃない。告白して振られたとか、誰かに取られたとか、そういうドラマチックなことは何もない。ただ、毎日同じ教室で息をしている。それだけで、もうじゅうぶん苦しい。


僕の名前は水島蒼介みずしまそうすけ。中学二年生。十四歳。


自分のことを客観的に言えば、どこにでもいるやつだ。顔は普通。身長は百六十二センチで体重は五十キロちょっと。運動が得意でもなく、勉強が特別できるわけでもない。帰宅部で、クラスの中でもどちらかといえば目立たない位置にいる。友達はいる。うるさいやつらと馬鹿話をするくらいには社交的だと思う。ただ、それだけだ。


好きな子がいる。


篠宮瑞穂しのみやみずほ


同じクラスで窓際の席に座っている。背が高くはないが、姿勢がいいせいかいつもすっきりして見える。髪は肩より少し下まで伸ばしていて、あまり派手なアクセサリーはつけない。制服のリボンを気が向いたときだけ結ぶ。それが妙に様になっていて、いつもじっと見てしまう。


いつから好きになったか、もう正確には思い出せない。気づいたらそうなっていた。


けれど、話したことはほとんどない。


「この宿題ってどこまでだっけ?」みたいな、誰でも聞くような質問を一度した。それだけだ。そのとき彼女は「三十二ページまでだよ」と答えて、また自分のノートに視線を戻した。普通の声だった。でも僕はそのあと十分くらい、その三十二という数字のことをなぜか頭の中でぐるぐる繰り返してしまった。


馬鹿みたいだと思う。自分でもわかってる。


彼女が近くを通るとき、僕は友達と大きな声で笑う。目を引こうとしているのはわかっている。ただそれしかできなくて、それすらも実際には何の意味もないと薄々気づいている。視線を送っても、声のトーンを上げても、彼女はべつに特別な反応をするわけじゃない。その子には関係のない話だから当然だ。


一学期の終わりに席替えがあって、少しだけ近くなった。二列隣になった。視界に入る頻度が増えた分、余計に意識するようになってしまった。それが夏の始まりの話。


夏が終わって、二学期が始まっても何も変わらなかった。


受験の話が出始めた。先生が「そろそろ進路のことを真剣に考えてほしい」と言うようになった。クラスメイトの何人かはもう塾に通い始めていて、放課後の雰囲気が少し変わった。みんなどこかそわそわしている。


僕はまだ何も決まっていなかった。


行きたい高校も、なりたいものも、べつにない。強いて言えば、この居心地のよくない曖昧さが続かなければいい。それだけだった。


秋になって、僕はひとつだけ変わったことがあった。


けん玉を始めた。


きっかけは偶然だ。祖父の家の押し入れにあったのを見つけて、なんとなく持って帰っただけ。令和にけん玉を持ち帰る中学生がどこにいるんだという話だが、なんとなく気になった。


家に帰ってやり始めると、これが思っていたより難しかった。「もしかめ」ができるようになるまで三日かかった。膝を使うタイミング、玉を上げる角度、ちょうどいい力の抜き方。考えることがたくさんあって、やっているあいだは余計なことが頭に入ってこなかった。


それが良かった。


篠宮瑞穂のことも、受験のことも、自分がどこにも当てはまらないような感覚も、けん玉をやっているあいだだけは、きれいに消えた。


学校で話したら確実に馬鹿にされると思ったから、誰にも言わなかった。一週間後、うっかり教室で話題になって「えっ水島ってけん玉やってんの?」と田中(僕と一番つるむ友達)に笑われた。悪意はなかったと思う。でも笑われた。


「令和にけん玉って」と別の友達も言った。「なんで」という顔をされた。


説明できなかった。理由を言葉にしたら嘘になりそうだったから。


学校では話さなくなった。けれど、家では続けた。毎日少しずつ。


そんな秋のある夕方のことだった。


夕飯のとき、母が話を切り出した。


「そういえば、お父さんの知り合いのおばさんがね、けん玉のスクールをやってるって」


僕は箸を止めた。


「ボランティアで。土曜日の午後一時から二時間、毎週公民館でやってるんだって。無料で入れるって言ってたけど、どう?」


「いい」と言おうとした。


でも口をついて出てきたのは「考える」だった。


なんで?自分でも不思議だった。


独りでやるので充分だった。人に教わりたいわけじゃない。上手くなりたいわけでもない。ただ無心になれるからやっているだけで、それを誰かと共有したい気持ちは一ミリもなかった。


けれど「考える」と言ってしまった。


母はそれで満足したのか「そう、楽しそうだから行ってみたら」とだけ言って話を変えた。


その夜、布団の中で天井を見ながら考えた。行かなくていい。行く意味がない。どうせ小学生とか定年退職したおじさんとかがいる集まりで、中学二年生がいたら浮く。絶対に浮く。


行かなくていい。


そう決めた。


土曜日の十二時五十分、僕は公民館の前に立っていた。


---


扉を開ける前に、三回深呼吸した。


中に入ると、想像よりずっと広い部屋だった。体育館ほどじゃないが、バドミントンコートが入るくらいはある多目的室。フローリングの床に、先生らしき女性が立っていた。


「あら、いらっしゃい」


五十代くらいだろうか。背が低くて、まるいシルエットをしている。白髪交じりの髪を後ろで束ねて、ジャージの上にエプロンをしている。けん玉のスクールの先生というより、どこかのお母さんみたいな雰囲気だった。


「水島蒼介です。母の……桐島きりしまさんの知り合いの方から」


「ああ、聞いてるよ。よく来たね。私は田村たむらよ。気楽にしてていいからね」


田村先生は気さくだった。緊張しているのを察してくれたのか、名簿に名前を書かせただけで「あっちで他の子たちと一緒に準備してて」と言って別の参加者の相手をしに行った。


参加者は想像通りだった。


定年退職したらしい男性が二人。社会人の女性が一人。小学校低学年くらいの子が三人。幼稚園くらいの子が二人。


中学生は僕だけだった。完全に浮いていた。


小学生の一人が「おにいちゃんなんで来たの」と聞いてきた。


「……けん玉が好きだから」


「上手いの?」


「そんなでもない」


「じゃあ一緒だね」


その子は満足そうにうなずいて、どこかに行ってしまった。単純でうらやましかった。


スクールが始まる前の五分ほど、僕は部屋の端で自分のけん玉を出してぼんやりと玉を弄んでいた。


扉が開いた音がした。


遅れてきた誰かが入ってきた。


僕は反射的にそちらを向いた。


目を疑った。


篠宮瑞穂が、そこにいた。


---


## 第二話 距離のはかり方


時間が止まったような気がした。


いや、止まったのは僕だけで、扉から入ってきた彼女は普通に田村先生に会釈して、名簿に名前を書いていた。制服じゃなかった。落ち着いた色のロングスカートに、ゆったりしたトップス。派手すぎず、かといって地味すぎない。ちょうど彼女の顔の輪郭が際立つような、そういう格好だった。学校では制服しか見たことがなかったから、なんというか、同一人物なのに違う人間を見ているような、そんな不思議な感覚があった。


彼女が部屋を見回した。


視線が僕のところで止まった。


「あっ」


声に出したのは彼女だった。声に出さなかったのは僕だ。ただ心臓が変な跳ね方をした。


彼女は少し動揺したように一瞬だけ目を丸くして、それからすぐに小さく笑った。


笑った。


僕に向かって。


正面から見た彼女の笑顔を、僕は初めて見た。


教室では横顔か後ろ姿しか見たことがなかった。話したときも、あのノートに視線を戻すまでのほんの一瞬だった。こんなふうに真っ正面から笑いかけられたのは、たぶん生まれて初めてのことだった。大げさに聞こえるかもしれないが、本当にそうだった。


「……水島くん、だよね」


声をかけてきたのも彼女からだった。


「うん」


「びっくりした。まさかここで会うとは」


「俺も」


二言、三言。それだけだったが、僕たちは初めてちゃんと喋った。


田村先生がパンと手を叩いて「はい、始めましょうか」と言った。僕はそれで我に返って、適当な位置に立った。篠宮は少し離れたところに立った。この土曜日の時間、僕たちは同じ空間にいる。それだけで今日来た意味があった。母に感謝する、と心の中で思った。


スクールの最初は基本から始まった。


田村先生は教え方が丁寧だった。「けん玉は力じゃなくて、タイミングと体の連動が全てよ」と言いながら、スローモーションで実演して見せた。小学生たちはわいわいしながらやっている。幼稚園生はほぼ遊んでいる。定年退職の男性二人は意外と真剣で、社会人の女性もメモを取っていた。


篠宮はどうかというと、けん玉は初心者に見えた。玉を皿に乗せる基本動作から始めていて、慣れない手つきで何度も挑戦していた。上手くいかないときに少し眉を寄せる表情が、なんというか、学校では見たことない顔だった。


僕はなるべく彼女を見ないようにして、自分の練習に集中しようとした。


しようとした、だけで、五分に一回くらいは目が行ってしまった。


「水島くんはもう少しできるの?」


一時間ほど経って休憩に入ったとき、篠宮が話しかけてきた。


「少しは。もしかめとか、とめけんくらい」


「すごい。私、大皿にも乗せられなかった」


「コツがあるから」


言ってから、ちょっと待てと思った。コツを教える流れになっている。自分で言い出した。なぜ。


「教えてもらえる?」


断れるわけがない。


「…膝をうまく使うこと、かな。玉を引っ張り上げるんじゃなくて、体ごと少し沈んで、戻るタイミングで玉が浮く感じ」


言いながら実際にやってみた。玉がすっと上がって大皿に乗った。


「ああ、なるほど」


篠宮がやってみた。最初は上手くいかなかった。二回目もだめだった。三回目、玉が皿の上でぐらりとしてから、ゆっくり乗った。


「乗った!」


彼女がぱっと顔を上げた。さっきの笑顔と同じ、でも今度はもう少し嬉しそうな顔だった。


「やった、ありがとう」


どういたしまして、と言おうとしたら「水島くんっていつからけん玉やってるの」と続けて聞いてきた。


「最近。二ヶ月くらい」


「え、短いのに上手いじゃん」


「上手くはない」


「謙遜しなくていいって。学校では全然知らなかったけど」


「…学校では言ってないから」


「なんで?」


少し間があった。


「馬鹿にされるから」


正直に言ったら、彼女は少し考える顔をして「そっか」とだけ言った。笑わなかった。馬鹿にもしなかった。


ただそっかと言って、自分のけん玉を手に取った。


「私は祖母がやってたんだよね、子どものころ。久しぶりにやりたいなって思って、ここ見つけた。水島くんはどこで知ったの」


「母が教えてくれた」


「そっか」


また話が続いた。篠宮瑞穂は、喋りやすかった。


学校では声をかける勇気もなかったのに、ここでは普通に話せている。場所が変わると、こんなにも違うのか。それとも僕が変わったのか。よくわからなかった。


スクールが終わったのが午後三時だった。


「また来週ね」と田村先生が言って、参加者がそれぞれ帰り始めた。


僕と篠宮は自然と同じ方向に向かった。公民館から駅まで行く道が同じだったからだ。


「帰り道、同じ方向?」と彼女が聞いた。


「たぶん」


「じゃあ一緒に帰ろ」


それだけだった。特別なことは何もなかった。ただ、夕方の風の中を、篠宮瑞穂と並んで歩いた。


五分くらいの道のりだったが、長く感じた。いい意味で。


---


翌週の月曜日、学校で彼女と目が合った。


いつもなら視線を逸らすところだった。でも今日は違った。篠宮も少し笑って、小さく会釈した。


僕も会釈した。


クラスが騒々しかったから誰も気づいていなかった。気づいたのは田中だけで「あれ、篠宮さんと知り合いだったっけ」と後で聞いてきた。


「ちょっとな」


「へえ」


田中はそれ以上聞かなかった。僕はそれでよかった。


土曜日がくるのを、この秋で初めて楽しみにした。


---


## 第三話 けん玉スクールの人たち


十月の終わりになると、スクールの雰囲気が少しずつ変わってきた。


参加者たちがそれぞれ自分のペースで上手くなっていた。小学生の子たちは吸収が早くて、三週間で大皿から中皿、小皿へと着実に進んでいた。特に一番背が低い子、名前を聞いたら「こうた」と教えてくれた子は、とめけんまで一人でできるようになって田村先生に褒められていた。


定年退職の男性二人は六十代くらいで、一人は元会社員の谷口さん(たにぐちさん)、もう一人は元教師の松村さん(まつむらさん)だった。二人はいつも並んで来て、並んで練習していた。どちらも不器用そうに見えるが、毎週休まずに来て、毎週少しずつ上達していた。


「人間、何歳になっても初めてのことをやるのは大事なんだよ」と松村さんが教えてくれた。「脳への刺激になる。退職してから初めてのことを意識的にやるようにしてるんだ」


「他には何を?」と聞いたら「カリグラフィー、料理、それとフランス語の勉強」と答えた。松村さんはなんというか、かっこいい大人だと思った。自分のことを自分で決めている感じがした。


社会人の女性は宮本さん(みやもとさん)、二十代後半くらいで、IT企業に勤めているらしかった。「残業続きで頭がおかしくなりそうだったから、何か全然違うことをやりたくて来た」と言っていた。


「けん玉やってると余計なこと考えなくなりますよね」と僕が言ったら「そう!それ!まさにそれ」と宮本さんが言った。分かち合えた気がした。


篠宮はといえば、毎週来るたびに少しずつ上達していた。最初は大皿すら怪しかったのが、今では小皿まで安定してできるようになっていた。進歩が速い。


「瑞穂ちゃんはセンスがあるよ」と田村先生が言っていた。


「篠宮さんって呼ばれてる」と彼女が笑いながら言った。「ここでは瑞穂ちゃんでいいよ」


田村先生はけん玉だけじゃなく、人を見るのが上手い人だった。誰かの調子が悪いときはさりげなく声をかけるし、誰かが上手くいったときは一番先に気づいて褒める。押し付けがましくなくて、でも放置もしない。


「田村さんって、昔から教えてたんですか」と聞いたら「いや、もともとは会社員だったよ。けん玉は子どものころからずっと好きだったの。好きなことを誰かと一緒にやると楽しくなるから、ここ始めたの」と教えてくれた。


好きなことを誰かと一緒にやる。


シンプルだけど、なかなか簡単じゃないと思った。僕は今まで、好きなことを誰かと一緒にやったことがあっただろうか。


スクールが終わった後、帰り道が同じになるのが習慣になった。篠宮と並んで歩く五分間が、週の中で一番密度が高い時間になっていた。


「水島くんって、他に趣味あるの」


「ないな。けん玉くらい」


「なんか、それっていいと思う」


「え」


「一個だけ好きなもの、ちゃんとある方が、なんかかっこいい」


そういう見方があるのか。なるほど、と思った。


「篠宮は」


「私は色々気になるけど続かないんだよね。昔、書道とかピアノとかフルートとかやってたけど、どれもそんなに続かなかった。けん玉は続きそうな気がしてる」


「なんで」


「なんでだろ。楽しいから、かな」


屈託なく言う。


その楽しいを、僕はこっそり自分の胸に仕舞った。


---


十一月の初めの土曜日、スクールに行くと田村先生がパンフレットを配っていた。


「来年の二月に、中部地区のけん玉大会があるから、興味ある人は出てみたらどう?」


大会。


その言葉を聞いた瞬間、それぞれの反応が面白かった。


小学生の子たちは「出たい!」「出る出る!」とはしゃいだ。定年退職の二人は「どんな内容なんですか」と真剣な顔で聞いた。宮本さんは「私はまだ無理かな」と笑った。


篠宮は「どうしよう」と言いながら僕を見た。


「水島くんは出ないの?」


「考えてない」


「考えてみたら?」


なぜ君に言われると考える気になってしまうのか。


「篠宮は」


「私はまだ実力がないから。でも水島くんならいける気がする」


大会に出ることは、その日は決めなかった。でも帰りながら、なんとなく意識し始めていた。


---


十一月の中旬、珍しいことが起きた。


スクールに、初めて見る人が来た。


十六歳か十七歳くらいの男だった。高校のジャージを着ている。背が高くて、手足が長くて、全体的に余裕を持った感じで立っている。けん玉を手に持っているが、手に馴染んでいる感じがある。初心者じゃない。


「あ、翔也くん」


田村先生が声をかけた。


「久しぶり。ちょっと顔出しに来た」


「わあ、来てくれたの。みんな、この子は沢村翔也くん、以前ここに来てたのよ。今は高校でいろいろ頑張ってるけど、ここで育った子なんだから」


沢村翔也さわむらしょうや


田村先生の説明によると、中学のころからここに来ていて、現在は高校でけん玉部に所属している。地区大会で何度か入賞している、実力のある選手らしい。


「よろしく」と沢村は言って、参加者を一通り見回した。


その視線が僕のところで一瞬止まった。


「中学生?」


「そうです」


「何年?」


「二年」


「どのくらいやってる?」


「三ヶ月くらい」


沢村は何も言わなかった。品定めするような目だった。悪意があるわけじゃないと思うが、なんとなく落ち着かない視線だった。


「ちょっとやってみせてよ」


言われて、なんとなくやった。もしかめを三十秒ほど続けてから、とめけん、飛行機。一通りの技をひとつずつ。


沢村は静かに見ていた。


「まあ、基本はできてるね」


「ありがとうございます」


「二月の地区大会、出る?」


「考えてます」


「出ればいいじゃん。来月まで練習したら一応形になると思う」


上から目線のように聞こえなくもなかったが、言っていること自体は励ましだった。悪いやつではなさそうだ。


ただ、その沢村の視線が、次に向いた先が気になった。


篠宮だった。


「君も来てるんだ」


「はい、今年から」


「篠宮さんだっけ。俺のこと覚えてる?」


篠宮が少し考える顔をした。「……あ、もしかして小学校の」


「そう、同じ小学校」


「そっか、びっくりした」


二人が話しているのを、僕は少し離れたところから見ていた。


別に、何でもない。旧知の仲なんだろう。ただ、なんとなく胸のどこかに、小さな引っかかりが生まれた気がした。


---


## 第四話 技と心のあいだ


十二月に入ると、けん玉の技の幅が広がってきた。


田村先生に教わりながら、一本土台、つるし一回転、灯台といった技に挑戦し始めた。基礎ができていれば応用は速い、と先生は言っていたが、実際にはそれほど簡単じゃなかった。灯台は特に難しくて、玉をけんの先端に立てる技なのだが、何度やっても不安定で倒れてしまう。


「焦らなくていい」と田村先生は言う。「今日できなくても、体が覚えてくから」


沢村翔也は、それから二週に一回くらいの頻度でスクールに来るようになっていた。彼が来るたびに空気が少し変わった。彼は実力があるし、動作に無駄がない。見ているだけで参考になるが、同時にある種の緊張感も生まれた。


沢村は誰にでも話しかけるタイプだった。小学生たちにも、松村さんたちにも、篠宮にも。特に篠宮とはよく話していた。小学校の同級生だったということもあるのか、自然に打ち解けていた。


篠宮が笑っている。沢村と話しながら笑っている。


別にいい。別に関係ない。


関係ないが、集中力が少し散漫になる。


「水島」と沢村に名前を呼ばれた。「お前、地区大会の申し込みした?」


「まだです」


「早めにしといた方がいい。俺も出るから、お前が出るなら少し教えてやる」


「……ありがとうございます」


なぜこの人は上から来るのか。でも実力があることは事実だし、悪意はないと思う。素直に受け取ることにした。


二月の地区大会。出るとしたら約三ヶ月ある。参加資格に年齢制限はなく、中学生のカテゴリーがある。技の難易度と完成度を採点する個人戦と、チームで行う演技部門がある。


「出ることにします」


気づいたら言っていた。


沢村がわずかにうなずいた。「よし、なら来週から少し教えてやるよ」


「あ、はい」


こうして僕は、沢村翔也に手伝ってもらいながら地区大会へ向けて練習することになった。


---


十二月の中旬、練習の合間に篠宮と話す機会があった。


「水島くん、大会出るんだ」


「うん、なんかそういう流れになった」


「すごい。私、見に行っていい?」


「……来るの?」


「応援したいから。ダメ?」


ダメなわけがない。でもどう答えていいかわからなくて「別にいいけど」とだけ言った。


篠宮が「じゃあ行く」と言って、またけん玉の練習を再開した。


その場面を、スクールの端から沢村が見ていた。


気のせいかもしれないが、何かを考えているような顔に見えた。


---


週に一度のスクールだけでは足りなくなって、僕は家での練習量を増やした。


一日一時間。学校から帰ってきたら、夕飯の前に。


けん玉をやっていると、時間の感覚がなくなる。最初はそれが好きだった。でも最近は少し変わってきた。考えないようにしているつもりで、実際には考えていることがある。篠宮のことを考えている。あの笑顔を考えている。


大会が終わったら、何か変わるだろうか。


何かが変わるとしたら、どう変わればいいのか。


答えは出ない。だからまたけん玉をやる。玉が糸の先でぐるりと回って、小皿に乗る。乗ったり落ちたりを繰り返す。それだけのことが、なんとなく自分の呼吸みたいになってきていた。


十二月の末、田村先生が「冬休みも自主練頑張ってね」と言って今年最後のスクールが終わった。


帰り道、篠宮と並んで歩いた。


「冬休み、どこか行くの」と聞いた。


「実家に帰るくらい。水島くんは」


「特に何も」


「けん玉の練習?」


「それくらいかな」


篠宮がくすくす笑った。「真剣だね」


「笑うことか」


「笑ってない、感心してる」


感心、という言葉が気になって、どう返せばいいかわからなかった。


「篠宮は冬休み、スクールないけど、けん玉やる?」


「うん、家でやるつもり。年始に祖母のところに行くから、一緒にやろうと思って」


「お祖母さんもけん玉やるの?」


「うん、昔からやってる。私がけん玉始めたのも、子どものころ祖母に教えてもらったから」


なるほど。それが理由か。


「大切な人だね」


「うん、大好き」


迷いなく言った。


その言い方が、どこか清々しかった。


駅の手前で別れた。「良いお年を」と彼女が言った。「うん」と答えた。


その夜、年が変わるまで家でけん玉をやり続けた。


---


## 第五話 大会の影


一月が始まった。


新年最初のスクールは三連休の中日だった。参加者が全員揃った。僕も、篠宮も、松村さんたちも、小学生たちも、そして宮本さんも、沢村も。


「今年もよろしく」と田村先生が言って、スクールが再開した。


沢村の指導が本格的になった。彼は教え方が実は上手かった。上から目線に見えるが、技術的な説明は具体的で、どこを直せばいいかが明確だった。


「灯台の時、重心が後ろに行きすぎてる。もう少し前に、玉の真上に乗る感じで」


言われた通りに調整した。するとあれほど決まらなかった灯台が、三回に一回くらい成功するようになった。


「そう、その感覚」


沢村の声に珍しく感情が乗った気がした。


大会まで五週間を切っていた。出場種目は個人戦の技の連続演技。持ち時間三分で、できる限り多くの技を正確にこなす。


「お前の課題は精度だ」と沢村は言った。「もしかめとか灯台とかの基礎技術は上がってきてる。でも緊張したときに崩れる。大会の雰囲気は練習と全然違うから、その精度を高くしておかないといけない」


「どうやって上げるんですか」


「本番だと思って練習する。誰かに見てもらいながら、見られてる状況で同じようにできるか確認する」


「見てもらう人が」


「俺がいる」


そう言って沢村が腕を組んだ。僕はそれを受け入れた。


一月の後半、大会前の最後の二週間。沢村が毎週スクールに来るようになった。


ある日の練習後、沢村と少し話した。


「お前、何で始めたの。けん玉」


「なんとなく。祖父の家にあったから」


「そういうもんか」


「沢村さんは」


「俺は元々スポーツやってたけど怪我して、リハビリ中にここ来た。田村さんに誘われて」


「そうなんですか」


「どんな怪我だったとかは聞くな」と沢村が言った。笑いながら。「まあ、けん玉始めてよかったとは思ってる。やり続けてよかったとも」


「なんで」


「やり続けることでしか、わからないことがあるから」


そういうものか、と思った。受験のことが頭をよぎった。進路、高校、将来。まだ何も決まっていない。でも何かをやり続けることで、見えてくることがある。そんな気がした。


「篠宮さんって、どういう子なの」と沢村が聞いた。


唐突だった。


「え」


「いや、小学校は一緒だったんだけど、当時そんなに仲良かったわけじゃなくて。けん玉スクールで再会して、ちょっと気になった」


気になった。


その言葉の意味を、一瞬考えた。


「普通にいい子だと思います」


「そっか」


沢村はそれ以上言わなかった。けれど「気になった」という言葉は、僕の胸の中でしばらく残った。


---


大会前の最後の土曜日。


スクールが終わった後、田村先生が参加者全員に向けて言った。


「大会に出る人、頑張って。でも、結果よりも大事なのは、自分が積み上げてきたものを信じることよ。けん玉はその人の積み上げが全部出るの。焦らずにね」


帰り道、篠宮と並んで歩いた。


「緊張してる?」と彼女が聞いた。


「少し」


「水島くんならできるよ」


「なんで」


「いつもちゃんとやってるから。私ずっと見てたから」


ずっと見てた。


その言葉がうれしくて、なんとも言えない気持ちになって、それを顔に出さないようにするのに少し苦労した。


「篠宮も来るんだよね、大会」


「うん、もちろん」


「ありがとう」


素直に言えた。


篠宮が少し照れたような顔をして「どういたしまして」と言った。


---


## 第六話 大会当日


二月の第一日曜日。


大会会場は市の体育館だった。


電車に乗って一人で会場に向かった。スポーツバッグの中にけん玉が入っている。ずしっとした重みが、今日は少し違う重みに感じた。


体育館に入ると、思ったより多くの人がいた。小学生から大人まで、何十人もの参加者が準備している。中学生カテゴリーも十人以上いる。みんな真剣な顔をしていた。


「水島」


声をかけられて振り向くと沢村だった。「来たか」


「来ました」


「あがるな。いつも通りやればいい。それだけ」


「わかりました」


沢村はそう言って自分の準備に戻っていった。


田村先生も来ていた。「うまくいくことを祈ってるわよ」と言ってくれた。


観客席も賑やかだった。家族連れが多い。


そして、篠宮瑞穂がいた。


コートの入口に近い席に座って、スマートフォンをいじっていた。僕が会場に入ったのに気づいて、立ち上がって手を振った。


手を振り返した。


「緊張してる」と彼女が近づいてきて言った。


「まあ」


「大丈夫、見てるから」


「見てる、か」


「全部見てるから」


なんかよくわからない力が出た。


---


個人戦は午前に行われた。


中学生カテゴリー、参加者十三名。持ち時間三分。


呼ばれた順番は七番目だった。前の六人の演技を緊張しながら見ていた。うまい子がいた。とめけんや灯台を当たり前のようにやる子が何人かいた。


自分の番が来た。


会場の前に出ると、音が少し変わった気がした。周りの声が遠くなる。


けん玉を構えた。


深呼吸した。


最初の技、もしかめ。


リズムを探した。体の重心を少し落として、玉が自然に動く流れを作った。二十回、三十回、五十回。音が周りからぽつりぽつりと聞こえた。続けた。百回で止めた。


次、大皿小皿。


次、とめけん。


次、飛行機。


次、一本土台。


次、灯台。


灯台の時、少し玉がぐらついた。倒れなかった。


心臓が速く動いていたが、手は思ったより静かだった。


三分が終わった。


採点の発表まで少し時間があった。


観客席に戻ると、篠宮が「すごかった」と言った。


「灯台、止まるかと思ってドキドキした」


「俺も」


二人で笑った。こんなふうに笑えるとは思っていなかった。


結果は四位だった。


表彰式で名前が呼ばれたとき、篠宮が拍手してくれた。田村先生も、松村さんも、谷口さんも。沢村は「まあまあだな」と言って、笑った。


四位で満足か、と聞かれたら正直わからない。でも悔しくはなかった。もっとうまくなりたい、とは思った。


帰り道、電車の中で篠宮と並んで座った。


「来年また出る?」と聞かれた。


「出ると思う」


「じゃあ私も出る」


「え」


「一緒に出たい」


そう言って彼女は窓の外を見た。夕暮れの景色が流れていく。


一緒に出たい。


そういう言葉を、篠宮は屈託なく言う。それがうれしくて、それで充分で、それ以上を望むとどこかに消えてしまいそうな気がして、僕はその言葉を心の中に静かに仕舞った。


---


## 第七話 秘密と嘘のあいだ


二月が終わって三月になった。


卒業シーズンで、三年生が学校からいなくなっていく。教室の空気が少し広くなったような感じがした。来年度、自分たちが三年生になる。受験生になる。


そのことをしっかり考えなければいけないのはわかっていた。


けれど、もうひとつ気になることがあった。


ある日のスクールで、沢村と篠宮が話しているのを少し遠くから見ていた。


二人の距離が、どことなく近い気がした。


沢村が何か言って、篠宮が笑った。


笑顔の種類が、僕と話しているときと違うような気がした。


気のせいかもしれない。そうじゃないかもしれない。判断できなかった。


「何見てんの」


田中に言われた。学校の話だが、なんとなく思い出した。田中は鋭い。あいつに気づかれたら、冷やかされる。


「別に」


「大会で四位だったんだろ。すごいじゃないか」と田中が言ってきた。大会のことは学校で少し広まっていたらしい。


「そんなでもない」


「いや普通にすごいって。俺に言えよそういうこと」


怒っているというより、少し寂しそうに見えた。


「ごめん」


「謝るなよ、別に。ただ言ってほしかった」


田中のことが友達として少しかわいく思った。いつもうるさいが、根っこにあるものが優しい。


「じつは篠宮も来てた」と言ったら、田中の反応が変わった。


「え。篠宮さん?なんで」


「けん玉スクールで知り合って。大会見に来てくれた」


田中が黙った。珍しく黙った。


「……おいお前、もしかして」


「何も言うな」


「言ってないけど」


「顔に書いてある」


「そうか」


田中はそれ以上言わなかった。ただ、その日の放課後、「なんかあったら言えよ」とだけ言った。


それがうれしかった。


---


三月の後半、スクールで少し変なことがあった。


篠宮の様子が少し違った。


いつもより口数が少なくて、何かを考えているような顔をしている。けん玉の集中力は落ちていなかったが、練習の合間に遠くを見ている時間が増えた。


帰り道、いつもより会話が少なかった。


「何かあった?」


聞こうとして、やめた。聞けなかった。


踏み込めない距離がまだそこにあった。


「なあ」と代わりに言ったのは「来月のスクール、春になるね」だった。


「そうだね」と篠宮は言った。


「桜、見えるかな、公民館から」


「見えると思う」


「じゃあ春になったら見よ」


「うん」


それだけだった。でもその「うん」は、少し柔らかい声だった気がした。


---


春休みに入った。


田中からLINEが来た。「そういえばけん玉、俺もやってみたいんだけど」


「え、急に」


「水島がはまってるもん見たら気になった。どうやって始めた?」


「ネットで調べたら売ってる」


「安いの教えて」


「どの値段が」


しばらくけん玉の話が続いた。田中は翌日、自分で買ってきたらしく「全然できない」「もしかめのもができない」と動画を送ってきた。


「膝使ってるか」


「使ってる気でいる」


「使えてない」


「どういうこと」


文字で説明するのに苦労した。でも悪くない苦労だった。


新学期が始まる前日、田中から「少し上達した」という動画が届いた。本当に少しだけ上達していた。


---


四月、新学期が始まった。


三年生になった。受験生になった。


クラスが変わった。


篠宮とは別のクラスになった。


廊下ですれ違うとき、目が合う。会釈する。それだけの距離に戻ったような気がした。


いや、土曜日がある。スクールがある。そこでは変わらず話せる。


そう思いながら最初の土曜日を待った。


---


## 第八話 失踪


四月の第三土曜日。


スクールに行くと、篠宮が来ていなかった。


初めてのことだった。今まで一度も休んだことがなかった。


「瑞穂ちゃん、今日は都合が悪いって連絡あったよ」と田村先生が言った。「来週は来るって」


そうか、と思って練習した。集中できなかった。


次の土曜日も来なかった。


田村先生は「ちょっと体調が悪いみたい」と言った。


連絡先を知らない。学校で話しかけることもできなかった。廊下ですれ違っても、会釈するだけで何も聞けなかった。聞く理由が見つからなかった。聞けるほどの関係を、まだ作れていなかったのかもしれない。


三週目も来なかった。


田村先生も少し心配そうな顔になっていた。


「体調なのかな、それとも何か事情があるのかな」


僕には何もわからなかった。


四週目の土曜日、スクールが終わって帰る準備をしていたら、沢村が声をかけてきた。


「篠宮さんのこと、知ってるか」


「知らない。体調悪いって聞いてる」


沢村が少し黙った。


「実は、俺も詳しくは知らない。ただ……少し前に、ちょっと話して、その後から来なくなったから、関係あるのかもしれない」


「話した、って」


「余計なこと言ったかもしれない」


「何を言ったんですか」


沢村は言わなかった。「悪かったと思ってる」とだけ言って、先に帰っていった。


---


その夜、ずっと考えた。


沢村が何を言ったのか。篠宮が何を考えているのか。体調なのか、他の何かなのか。


何もわからないまま眠れなかった。


翌日月曜日、学校で篠宮を見かけた。


元気そうに見えた。少なくとも、体が悪そうには見えなかった。友達と話して笑っていた。


でも廊下で目が合ったとき、彼女の目が少しだけ揺れた気がした。


---


五月の連休明け、スクールに篠宮が戻ってきた。


「久しぶり」と田村先生が嬉しそうに言った。


「ご心配かけてすみませんでした」と篠宮が言った。


練習が再開した。


休んでいた一ヶ月のあいだも、篠宮はけん玉を続けていたらしく、腕は落ちていなかった。むしろ少し上手くなっている気がした。


帰り道、少しだけ話した。


「体調、大丈夫になった?」


「うん、ごめんね。心配した?」


「少し」


「ありがとう」


それ以上のことは聞かなかった。聞けなかった。


でも、戻ってきたことがうれしかった。


---


## 第九話 本当のこと


五月も後半になって、スクールの帰り道、篠宮が立ち止まった。


「ちょっと話してもいい」


公民館から駅までの道の途中に小さな公園があった。そこのベンチに二人で座った。


「一ヶ月休んでたのって、体調じゃなかった」


「うん」


「沢村くんに言われて、少し混乱してた」


「何て言われたの」


篠宮が少し間をおいた。


「私のこと好きだって言われた」


思ったより、胸に来た。


「沢村さんが」


「うん。急で、びっくりして。どうしていいかわからなくて、けど正直に言うとすごく困って。嫌いじゃないけど、そういうふうには見てなかったから」


「それで、どうしたの」


「断った。でもそれで沢村くんを傷つけちゃったかもって思って、でもこっちも正直な気持ちを伝えないといけないって思って、なんか色々ぐるぐるして、スクールに行けなくなってた」


「なるほど」


「なんか、水島くんに話したくて」


「俺に?」


「うん。水島くんって、なんか聞いてくれそうだから」


僕は何も言えなかった。


少し間があった。風が吹いて、公園の木が揺れた。


「水島くんって、誰か好きな人いるの」


唐突だった。心臓が止まりかけた。


「なんで」


「なんとなく。いる?」


「……どうかな」


「その答え方はいるってことじゃん」


「そうじゃないかもしれない」


「隠さなくていいよ」


「隠してるわけじゃない」


篠宮が少し笑った。


「水島くん、正直な人だと思う。だから話せる気がした」


「ありがとう」


「私もちゃんとしないといけないと思ってる、いろいろ」


いろいろ、というのが何を指すのかわからなかった。聞けなかった。


帰り際、「また来週」と彼女が言った。


「うん、また来週」


---


翌週、沢村が久しぶりにスクールに来た。


篠宮と普通に話していた。


二人の間に以前のような気まずさはなかったように見えた。沢村が何かを受け入れたのか、それとも篠宮がうまく立ち回っているのか、わからなかった。


沢村が帰り際に僕に声をかけた。


「来年も大会出るよな」


「出る予定です」


「俺、今年は全国予選まで行く。お前もそのつもりで練習しとけ」


「俺はまだそのレベルじゃない」


「今はな。でも来年はわからん」


沢村が背を向けた。


「篠宮さんのこと、ちゃんとしろよ」


歩きながら言った。振り向かなかった。


意味がよくわからなかった。でも何かを言われた気がした。


---


## 第十話 夏の答え


六月が来た。梅雨が来た。


学校では受験の話が本格化していた。志望校調査票が配られて、先生との面談が始まった。


僕はまだはっきりとした志望校がなかった。なんとなく偏差値が届きそうな高校を書いたが、そこに行きたいのかどうかはわからなかった。


先生との面談で「水島、何かやりたいことはあるか」と聞かれた。


「……けん玉が続けられればいい」


言ってから、先生の顔が少し固まったので言い直した。


「何でもいいんですが、一つのことをちゃんと続けられる場所がいいと思っています」


「それは大切なことだ」と先生は言った。言葉だけ。


田中は志望校が決まっていた。商業高校に行って、将来は起業したいと言っていた。あいつは意外としっかり考えている。


「水島もけん玉でどうにかなればいいのに」と田中が言った。


「けん玉でどうにかは難しい」


「いや、スポーツとか技術系の推薦もあるじゃんか」


「調べたことなかった」


「調べろよ。お前、地区大会で賞取ってるんだろ」


それは考えたことがなかった。


その夜、少し調べてみた。けん玉の成績で推薦を出している高校は少ないが、ないわけではない。スポーツ推薦という枠の中で、競技けん玉の実績が加点されることがある学校が、いくつかあった。


田村先生に相談してみた。


「あるわよ、そういう学校。本気でやるならそれも選択肢に入れていい」と言ってくれた。「でも実績を作るには今年の大会で成績を残すことが大事。来年の二月に向けて、今から本腰入れていこ」


そうか、けん玉が、道になりうるのか。


---


七月、梅雨が明けた。


スクールの帰り道、篠宮と公園のベンチに座った。習慣になっていた。


「水島くん、最近なんか変わった?」と篠宮が言った。


「変わった?」


「なんか目が違う気がする。練習のときの目が」


「受験のこと、少し決まりかけてて」


「どんな風に?」


「けん玉で推薦、みたいな方向を探してる」


「え、すごい」


「すごくない、まだ全然」


「でも、なりたい方向が決まったんじゃん。それってすごいことだと思う」


篠宮が真剣な顔で言った。


「篠宮は」


「私はまだぼんやりしてる。高校は普通の進学校に行く予定で、その先はまだわかんない」


「けん玉、続ける?」


「続けると思う。水島くんが続けてるから」


「俺が続けてるから?」


「なんか、続けてる人が近くにいると、自分も続けたくなるじゃん」


そういうもんか、と思った。


影響を与えていたとしたら、うれしい。


「一つ聞いていい」と僕は言った。


「何」


「俺のことって、どう見てる」


聞いてしまった。


篠宮が少し黙った。


「どうって」


「友達として、とか、同じスクールの仲間として、とか、そういう意味で」


うまく誤魔化せていなかったと思う。


篠宮が少し考えた。


「水島くんがいると、安心する」


「安心」


「何か言っても否定しないし、押し付けてこないし、でもちゃんと聞いてくれる。そういう人ってなかなかいないから」


「それって」


「あとは自分で考えてよ」と彼女が笑った。


答えじゃない。でも答えを持ってきてくれた気がした。


公園を出て駅まで歩いた。夏の夕方、空が赤かった。


「来年の大会」と篠宮が言った。「一緒に出よう」


「うん」


「頑張ろう」


「うん」


「私も頑張るから、水島くんも頑張って」


「頑張る」


「約束」


「約束」


---


## 第十一話 秋の練習


夏休みが終わった。


三年生の秋は忙しかった。


学校では模擬試験が連続した。塾に通い始めた。勉強の量が増えた。


それでも、土曜日のスクールはやめなかった。


週に一度の二時間が、パラメーターをリセットしてくれる時間になっていた。


田村先生が新しい技を教えてくれた。月面着陸。宇宙遊泳。難しくなっていくほど、集中の質が変わった。体の末端まで意識が通る感覚。玉とけんが一本の軸でつながる感覚。


「水島、かなり良くなってる」と沢村が言った。彼は全国予選を突破して、全国大会に出場することになったらしい。


「全国、すごいですね」


「まあ、やることはやった。来年お前も目指せるかもしれない」


「俺は推薦が先で」


「じゃあ推薦取ってから全国を目指せばいい。どっちかじゃなくていい」


その言い方が少し格好よかった。


田中が本格的にスクールに来るようになった。


春に独学で始めて、夏に田村先生に会いに来て、秋から正式な参加者になった。


「なんかはまっちゃって」と田中は言った。「なんでこんな楽しいんだろ」


「そういうもん」


「水島ってさ、けん玉始めてから何か変わった気がする。なんか……落ち着いた?」


「そうか」


「前はもっとそわそわしてた気がする。なんか常にどこか引っかかってる感じ。今はなんか、ちゃんとそこにいる感じ」


田中の言葉が意外だった。自分ではあまりわからなかった。


「けん玉のおかげ、かな」


「それと、篠宮さん?」


「うるさい」


「そういうことにしておく」


田中はにやりとして練習に戻った。


---


十月に入ったある日、スクールの後で田村先生に少し話しかけられた。


「蒼介くん、ちょっと時間あるかしら」


田村先生に下の名前で呼ばれるのは初めてだった。


「いつから来てたっけ、ここに」


「去年の十月くらいです」


「そっか、一年になるんだね。最初に来たときのこと覚えてる?」


「覚えてます。すごく落ち着かなかった」


「今は?」


「今は……来ると落ち着きます」


田村先生が笑った。「そういう場所になったんだね、ここが」


「先生がそういう場所にしてくれてるから」


「そんなことない。みんながここをそういう場所にしてる。あなたも、その一人よ」


そういう言い方をする人だった。いつも。


「来年、本気で大会行こうと思ってます。推薦のことも考えて」


「応援してる。けど無理しないで。勉強も大事だからね」


「無理とは感じてないです。両方好きでやれてるから」


田村先生がまた笑った。今度は少し別の笑い方だった。


「一年前と全然違う答えね」


「そうですか」


「最初に来たとき、あなた、なぜここに来たか自分でもわからないって顔してたから」


確かに、そうだった。


理由もわからず扉を開けた。


今はわかる。


少しだけ、わかる。


---


## 第十二話 玉と糸のあいだ


二月が来た。


二回目の地区大会。


今年は個人戦と、チーム演技部門の両方に出た。チームは田中と、小学生のこうたくんと、三人でエントリーした。


個人戦。


去年の四位から、今年は三位になった。


もっと上を狙っていたから、少し悔しかった。一位になった子はほぼ完璧で、技の難易度も精度も明らかに高かった。勝てる気はしなかったが、それでもあと少しだった気がした。


チーム演技は二位だった。田中がかなり上手くなっていたのと、こうたくんが予想以上の活躍をした。


「来年はもっとうまくやれた」と田中は言った。「俺が失敗しなけりゃあ」


「十分だったよ」


「十分で満足するな。お前が言うなよ、けん玉の鬼が」


「鬼じゃない」


「褒めてる」


大会会場に篠宮がいた。今年は自分も個人戦に出場していた。初出場で六位だった。


「悔しかった」と彼女は言った。「もっとできると思ってたのに」


「来年もあるから」


「うん、来年も出る。絶対」


---


帰り道の電車の中で、去年と同じように篠宮と並んで座った。


「一年経ったね」と彼女が言った。


「そうだね」


「水島くんに大皿のコツ教えてもらったの、覚えてる」


「覚えてる」


「あれから色々あったね」


「色々あった」


電車が揺れた。外はもう暗かった。


「高校、どこ受けることにしたの」


「市内の、けん玉の実績が使える学校。推薦で話が進んでる」


「そっか、じゃあ離れちゃうかも」


「まあ、そうかも」


「スクールは続けるよね」


「続ける。田村先生のところ、ずっと続けたい」


「じゃあ同じだ」と篠宮が言った。「私も続けるから」


少し間があった。


「水島くん」と彼女が言った。


「何」


「前に、好きな人いるか聞いたじゃん」


「うん」


「あれ、聞けなかったけど、答え聞いてもいい?」


聞かれた。


心臓が動いた。


窓の外の景色は暗い。電車の音がごとごと聞こえる。隣に彼女がいる。


「いる」


「誰」


「……近くにいる」


篠宮が少しの間、黙った。


「そっか」


「そっかだけ?」


「もう少し考えさせて」と彼女が言った。


答えじゃない。でも、拒絶でもない。


「わかった」


「待てる?」


「待てる」


「なんでそんな余裕あるの」と彼女が少し笑った。


「余裕はないけど、待つのは好きじゃない、けど、待てる方がいい」


「なにそれ」


「うまく言えない」


「でも意味はわかった」


篠宮が窓の外を見た。


「ありがとう、正直に言ってくれて」


「ありがとうって変じゃない?」


「変じゃないと思う。うれしかったから」


うれしかった、という言葉を、僕はゆっくりと受け取った。


---


駅で別れた。


家に帰って、けん玉を取り出した。


夜の部屋の中で、一人でもしかめをした。


玉が揺れる。けんの端から端へ。大皿、小皿、大皿、小皿。止まることなく続ける。


去年の秋に始めたとき、これをやっている間だけ無心になれると思っていた。


今はもう少し違う。


無心じゃない。むしろいろんなことを考えている。


でも、考えながらけん玉を続けられる。それが去年との違いだ。


玉が落ちた。


床に当たった音がした。


拾い上げて、また始めた。


篠宮のことを考えながら。受験のことを考えながら。田中のことを、田村先生のことを、沢村のことを考えながら。


それでも玉は動く。


糸の先に玉がある。玉とけんのあいだに、糸がある。引っ張りあって、そのあいだで何かが決まる。離れていても、つながっている。そういうものかもしれない。


---


三月、受験が終わった。


推薦の話は最終的にうまくいった。来年度から通う高校が決まった。けん玉が続けられる場所が決まった。


田中は商業高校に合格した。「起業するからな」と言った。「応援してる」と答えた。


篠宮は進学校に合格した。廊下で会ったとき、互いに「合格したよ」と報告した。


「よかった」と彼女が言った。


「水島くんも受かったんだね」


「うん」


「高校になってからも、スクール続けよう」


「うん」


「その、、話の続き、高校生になってからしよう」


「話しって」


「電車の中でしたやつ」


「……わかった」


篠宮が少し笑った。


「待っといて」


「待ってる」


---


四月の最初の土曜日。


公民館の多目的室に、僕はいつも通り一人で入った。


あの扉を初めて開けた日から、一年と半年が経っていた。


田村先生がいた。松村さんと谷口さんがいた。小学生のこうたくんと仲間がいた。田中もいた。


篠宮はまだ来ていなかった。


五分後、扉が開いた。


入ってきた篠宮が、部屋を見回して、僕を見て、笑った。


また正面から笑顔を見た。


何度見ても、何も変わらない。


「遅れた」と彼女が言いながら近づいてきた。


「まだ始まってない」


「よかった。じゃあ今日もよろしく」


「よろしく」


田村先生がパンと手を叩いた。


「はい、始めましょうか」


けん玉を手に取った。


玉の重さを確かめた。


糸を張る。


全部ここから始まる。また今日も、ここから始まる。


---

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


この物語を書きながら、ずっと考えていたことがあります。好きなことがひとつある人間は、強い。うまくなりたいわけじゃなくても、誰かに見せたいわけじゃなくても、それをやっているあいだだけ自分でいられる場所がある。それだけで、人はけっこう遠くまで歩いていけるんじゃないか、と。


蒼介がけん玉を続けたのは、上手くなりたかったからじゃありませんでした。でも続けたことで、出会いが生まれて、居場所ができて、自分の輪郭が少しずつはっきりしていった。好きなことは、そういうふうに人を変えるのだと思います。


令和にけん玉、と笑った人も、最後まで読んでくれたなら少しだけけん玉が気になっているかもしれません。もしそうなら、とても嬉しいです。


またどこかで会いましょう。

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