鎖の森と少年
昔々、山々に囲まれた小さな村のそばに――
誰も足を踏み入れたがらない森がありました。
獣が棲むわけでも、幽霊が出るわけでもない。
それでも、村人はその森を「生きている」と噂して恐れていたのです。
森の木々は、天に向かって叫ぶようにねじれ、
黒い鎖が幹から枝へ、地面から小道へとうねるように伸びていた。
まるで、大地そのものが“縛られて”いるかのように。
そして時おり、鎖はわずかに伸びる――
触れたものすべてを、死に追いやりながら。
花は枯れ、
動物は逃げ出し、
森の近くにある家々は、目に見えない重みで崩れ落ちていった。
絶望した領主は、村の広場に人々を集め、叫んだ。
「――この《鎖の森》の呪いを断ち切れる者には、大いなる褒美を与える。
金、土地、何でも望むものを……ただし、この地をこの苦しみから解放してくれ!」
その場から、三人が一歩前に出た。
一人目は、村で最も強い男・ガラン。
体は岩のように硬く、誇り高く、誰よりも力に自信を持っていた。
二人目は、村で最も賢い男・ラズル。
すべての魔導書を読み解き、論理を信じ、呪いを迷信と笑い飛ばす者だった。
三人目は、ただの水車小屋の少年・ノエル。
力も知識もなく、口数も少ない彼に、皆は首をかしげた。
――「なぜお前が?」
ノエルは、ただ一言だけ答えた。
「もし、誰も戻って来なかったら……
誰かが、“希望”を連れて帰らなきゃ。」
***
旅立ちの朝。
霧が地面を這い、空気は鉄の匂いを含んでいた。
三人が森に足を踏み入れると、鎖たちはまるで眠る蛇のようにうねっていた。
だが、彼らには触れてこなかった。
「……興味深いな」
ラズルが呟く。
「鎖は体ではなく、“心”に反応しているのかもしれない。」
ガランは鼻で笑った。
「馬鹿げてる。ただの呪われた金属だ。」
だが奥へ進むにつれ、森の闇は濃くなっていった。
そして彼らは、根に縛られた“人影”を見る。
灰色の影は人の形をしていた。
恐怖に歪んだ顔、虚ろな目、震える口元。
彼らは絶えずつぶやいていた。
「……自分には無理だ」
「……どうせ誰にも認められない」
「……私は、足手まといだった」
それは、かつて森に挑んだ者たちの残響――
後悔と、恐れの声。
最初に倒れたのは、ガランだった。
一体の影が、彼の目をじっと見つめてささやく。
「お前の“強さ”は……見せかけではないのか?
本当は、失敗が怖いんだろう?」
彼は歯を食いしばった。
だが声は次々に現れる。
子どもの頃の屈辱、
仲間に追い抜かれた記憶、
誇りの裏に潜む孤独。
「やめろ……!」
彼は叫ぶ。だが、その声は震えていた。
鎖は静かに、しかし確実に彼を絡め取る。
どれだけ力強く抗っても、それは抜けなかった。
――最後には、喉を押し潰すような静けさだけが残った。
金属が木々の間で、かすかに鳴る音が響く。
***
ラズルはそれを冷ややかに見ていた。
「内側から脆かっただけだ。
あれでは、当然の結末だな。」
ノエルは悲しげに彼を見つめた。
「……誰だって、怖いんだよ。
君だって。」
「私は違う。
理性こそが、恐怖を超える鍵だ。」
ラズルはそう言って、別の道へと進んだ。
ノエルには「別れて進もう」と言ったが――
それは“嘘”だった。
一人で行けば、誰にも邪魔されずに“解決”できると思ったのだ。
だが、森は――理屈では動かない。
鎖が、忍び寄るように彼の背後を這っていた。
「お前は、壊れそうな自分を“知識”で隠している」
「お前は、愛し方を知らない」
「お前は、空虚なだけ」
「……嘘だ!」
ラズルは叫ぶ。
計算し、分析し、必死で“答え”を探す。
けれど――
“自分を受け入れない者”に、答えは届かない。
彼の精神が崩れたとき、
鎖は彼の存在を、ゆっくりと閉じ込めた。
最後に残ったのは、彼の中でこだまする一言だった。
「……知恵もまた、“恐れ”の一種かもしれない」
***
ノエルはひとり、道なき道を進んでいた。
心臓は早鐘のように鳴っていたが、
――不思議と、“恐怖”はなかった。
強くも、賢くもない。
でも、それでいい。
彼は、ただ“助けたかった”。
そのとき、今までとは違う声が聞こえた。
優しく、そして悲しみに満ちた声。
「……たすけて……
お願い、わたしを……解放して……」
ノエルが声の主を探すと、
そこには淡い光に包まれた草原が広がっていた。
中央には、無数の銀の鎖に吊られた一人の少女。
黄金の髪が波のように流れ、
透き通るような肌がかすかに光っていた。
「君は……誰?」
「私は、“自分の心”を閉じ込めた者……」
少女は涙を流しながら答えた。
「憎しみや裏切りが怖くて……森に、私を守ってと願った。
森は応えたの。――私ごと、すべてを縛って。」
ノエルは、ただ静かに一歩を踏み出す。
鎖は震えた。
警告するように、空気が揺れる。
それでも彼は止まらない。
「もう、隠れなくていい。
恐れは、弱さじゃないよ。――“人間らしさ”だ。」
少女は首を振る。
「でも……また傷ついたら?
また誰かに、拒まれたら……?」
ノエルは微笑んだ。
「その時は、その時だよ。
僕は“役立たず”って言われてきた。
“不器用”“無意味”って。
でも……他人の言葉より、自分の真実を信じたい。
その“真実”が――君だ。」
その瞬間、
鎖がひとつ、またひとつと砕けていく。
まるで鐘の音のような音を響かせながら。
少女は、ノエルの腕の中に落ちてきた。
そして森は、悲しみから解放された。
黒ずんだ木々は芽吹き、
空気は生命の匂いに変わっていった。
***
ノエルが少女を連れて村に戻ると、
彼女は隣国の“失われた王女”であることが判明した。
領主は約束通り、ノエルに褒賞を与えようとしたが――
彼が望んだのは、ただひとつ。
「この森を、すべての人に開いてください。
もう、誰も閉じ込められないように。」
後日、ノエルは隣国へ招かれ、
王女と共に、花と音楽に包まれた式を挙げた。
両親は泣きながら見守り、
式の後、かつて鎖に覆われていた森には、
銀の鈴が咲き乱れる“癒しの庭園”が生まれた。
それから幾年が過ぎ、
子どもたちは“鎖の森”の物語を聞いて学んだ。
「もっとも重い鎖は、鉄ではなく――
自らの“恐れ”で作られたもの。」
「そして、弱さを受け入れた者だけが、
それを断ち切れるのだ。」
新しい空の下、
その森は“贖罪”と“真実”の象徴となった。
おわり。
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