西日の差す喫茶店にて-臨時休業の日-
『臨時休業いたします。店主』
店の扉の貼り紙には、手書きでそれだけ書かれていた。
わたしは抱えていた仕事が午前中で一段落つき午後から休みを取ることにしたのだが、このまま家に帰るにしてはまだ時間が早すぎたので、いつもの喫茶店へ来たのだった。
照りつける太陽がわたしの影をくっきりと壁に映し出した。9月に入ってしばらく経つというのに、まだ暑い日は続き、額ににじんできた汗をハンカチで拭った。
そして、貼り紙をもう一度見た。
これまでいつ来ても店が閉まっていることはなかったので、休みを特に意識したことはなかったけれど、そういえば定休日はあったのだろうかと扉のあたりを見回してみたが、どこにも書いていないようだった。今度来た時、店の中で探すか、もしくはマスターに聞いてみよう。
今日はここでいつものコーヒーを飲むつもりだったので、店が休みなのはやっぱり残念だけれど、マスターにもちゃんと休んでほしいと思った。マスターあってのこの店、体は大事にしてもらいたい。
だから、夏休みなどではなく、臨時休業と書いてあるのが気になった。何かあったのだろうか。
いつまでもここにいても仕方がないので、気を取り直して駅前まで戻ろうと振り向いた時、足元にセミが落ちているのに気が付いた。
灰色のお腹を出してひっくり返り、もう死んでいるのかと思ったけれど、近づくとジジっと鳴きながら羽をばたつかせ円を描いた。
その様子を見ながら、彼らにとってこの猛暑の年に産まれてきたのはよかったのか、それとも不幸だったのか、そんなことが頭に浮かんできた。土の中から這い出てくるタイミングを一年早くするとか遅くするとか、そんなに都合よく合わせられるのかどうかわからないけれど、この一度きり与えられた生をしっかりとまっとうできただろうか……。
セミはひっくり返ったまま、また動かなくなった。
表情のないように見えるその目には、わたしはどう映っているのだろう。大きな何かが目の前にあって、自分に向かって迫ってきているように見えるのだろうか。それも、踏み潰されそうな恐怖をもって。
そんなわたしの心を読んだのか、セミは今度は激しく羽をばたつかせながらくるくると回り、何かの拍子に突然飛び立ち、逃げるように歩道の脇にある植え込みの中に突っ込んでいった。コンクリートの上などではなく、人目につかない、木の枝の間だったり、土の上だったりで死んでいくのが彼らにとっては救いなのではないかと、そんなことを思った。
わたしは駅のすぐ手前にあったチェーン店のコーヒーショップに入った。
店内には流行りの歌が流れていた。このチェーン店にはコーヒーが飲みたくなるとよく通っていたが、いつもの喫茶店に行くようになってからは足が遠のき、家でたまにドリップコーヒーを淹れるかインスタントコーヒーを飲む以外は、コンビニのコーヒーや缶コーヒーで済ましていた。
久しぶりにこの店に入って、そういえばこんな雰囲気だったなと思い出したが、それ以外の感情は湧いてこなかった。ただ、こことは全然違う場所にある、以前よく通った店の中にいるような錯覚に陥った。
少し来ないうちにメニューには知らない名前のものが増えていた。少し気にはなったが、今日はあまり興味をそそられず、カウンターでブレンドコーヒーを注文して、お盆に載せられた紙コップのコーヒーを受け取った。
外の見える席を探し店内を見回すと、ちょうど窓際の席が空いていたので、スーツ姿の若者やノートを広げている学生らしき人たちの後ろや横をぶつからないように避けて向かった。
席についてしばらくぼんやりと外を眺めた。
慌ただしく通り過ぎていく初老の男、日傘を指しながらベビーカーを押し器用に持ったスマートフォンに目をやっている若い女、数人の女子学生、寄り添って歩く高齢の夫婦、自転車に乗った大人と子供……駅前なのでいろいろな人が通り過ぎていくが、そんな人々を見ているのもすぐに飽きて、気が付くとわたしはテーブルに置いたスマートフォンの画面をいじっていた。
こんなことをしに来たのではないとスマートフォンを脇によけ、紙コップを手にし、中身をこぼさないようにプラスチックのフタを外しコーヒーをすすった。けれど、まだ熱すぎて味はよくわからず、そっとフタをはめ直した。
かばんの中から単行本を取り出した。最近あまり読んでいなかったので、内容を思い出そうとしおりを挟んだページの最初まで戻って読み直したが、さわがしい音楽に邪魔をされて文字が頭に入ったと思うそばからこぼれ落ち、なぜだかまったく集中できなかった。前はこんなことはなかったのに……。
何度か読み直してみたものの、次第に音楽だけではなく近くにいる人やその他のいろんなことも気になってしまい、おまけに仕事のことまで頭に思い浮かんできてしまったので、もう本を読むのはあきらめて、開いたのと同じページにしおりを挟み直してかばんにしまった。
スマートフォンの画面が光り時計が表示されたが、当然のことながらさっきからほとんど時間は経っていなかった。
熱いとわかっている紙コップのフタを外してお盆に置き、コップを両手で挟むように持ち、肘をついてコーヒーを少しすすってみたが、やっぱり熱いお湯が口の中に入ってくるだけだった。唇を離して、その格好のままふーっと息を吹きかけると、表面は小さく波打ち、さざ波ができた。
ふと視線を窓の外に移すと、見覚えのあるふたつの人影があった。喫茶店のマスターとその姪だった。
わたしはなんだかこの店にいることを見られるのが後ろめたい気がして、目を合わせないように思わず下を向いてしまったが、なにをやっているんだろうと逆に恥ずかしくなって目線を上げると、姪は横幅のあるリュックを背負っていた。
あれはたぶん猫か小型犬のキャリングバッグだと思う。前に同じようなものを見たことがある。そういえば、マスターは猫を飼っていると言っていたし、それにカウンターに写真も飾ってあったんだった。だから、たぶん猫だろう。
今日の臨時休業は、ひょっとして猫を病院に連れて行ったとか、そんなことだったのだろうか。
わたしは手帳を出して、今日の日付に喫茶店が休みだったことを記した。ついでに猫のイラストを添えてみた。そういえばどんな猫だっただろうとカウンターに置いてある写真を思い出そうとしてみたが、写真立てのイメージは頭に浮かんでくるものの、肝心の写真はほとんど記憶になかった。黒猫だったような気がしたけれど、どうだろう……今度行ったときにこれも確かめてみよう。
ペンをしまう時、手帳に挟んである夏の旅行の写真が目に入った。
目の前を動くものがあった気がして顔を上げると、窓ガラスに店内が映っていた。スマートフォンを眺めながらコップを口にする人、相変わらずノートを広げてペンを動かしている人、パソコンを開いて一心にキーボードを叩いている人、向かい合って仕事の話をしているような人たち……。わたしも少し前までは彼らと同じような客だったのだと思うと、この店のことが急にいとおしく思えてきた。
コーヒーを早く飲み終えて帰ろうと思っていたが、もう少しここにいてもいいかと思い直した。
店を出ると音楽の代わりに街の音が耳に入ってきた。車の音、自転車の音、人々の話す声、道路工事の音、街路樹の葉がこすれる音、聞き分けられないさまざまな音たち。セミの声も混じっていた。
駅の改札へ向かう短い間に、そんな音を耳にしながら、乾いた空気を少しだけ肌に感じた。