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好きを忘れない

作者: ようへい

 私は夢の中で、五歳の子供に戻っていた。

 当時住んでいた田舎の風景が、眼前に広がっている。

「里実、こっちへおいで」

 私の後ろから、おじいちゃんの柔らかな優しい声がした。

 振り返ると、おじいちゃんが家の前で手を振っていた。

私達の住んでいた家はとても古かったが、木とお線香の香りのする家が大好きだった。

「おじいちゃん、今行くよー」

 おじいちゃんの胸に飛び込みたくて私は、全速力で走った。

 胸に飛び込もうとジャンプしたとき、私の夢は覚めた。

 

目が覚めると、私は中学三年生に戻っていて、教室の机に突っ伏して居眠りをしてしまっていた。

「次の公式は、私立高校では必ず出るから、確実に理解しておくように。解き方のコツとしては……」

 前の教壇では、数学教師が熱心な教鞭を振るっていた。

 あの頃の夢を見るのは久しぶりだった。

 私は、小さな農村で一人暮らしをしていた、父方の祖父と一緒に住んでいた事がある。

もう十年も前の話だ。

そうなった理由は、いわゆる家庭の事情というものだ。

まだ小さかった私には、よく状況が理解出来ないままに、祖父の家に預けられた。

引き取られてすぐは、私は泣いてばかりだったそうだ。

おじいちゃんは、そんな私を辛抱強く泣き止むまで慰め、勇気づけてくれた。

子供の私の話も、しっかりと聞いてくれる人だった。

ちょうど一年後に、両親は私を引き取りにきた。

両親とまた一緒に住める事は、とても嬉しかったけれど、おじいちゃんと別れる事はすごく悲しかった。

 私に溢れるような笑顔と暖かさをくれたおじいちゃんは、五年前に天国に行ってしまった。

教室の窓から見える空は、春の柔らかな日差しを吸収して眩しい程だった。

空の中に、二羽の白い鳥が飛んでいるのが見えた。

 今、一緒に飛んでる二羽の鳥は恋人同士だろうか。

もしそうなら、朝から晩まで子作りをして、白い鳥の人口をどんどん増やして欲しい。

白い鳥の方が見ていて綺麗だ。

教室からは、私の育った街の景色も見る事が出来る。

両親に引き取られてから、引っ越してきた大きな街だ。

私がもっと小さかった頃は、街じゅうに沢山の緑があったけれど、最近ではすっかりコンクリートで固められてしまった。

昔遊んだ川の土手や、小さな森なんて今は一つも残っていない。

残酷な時間の流れに、私は急かされているような気分になってしまう。

クラスメイト達は皆、賢明な顔でノートをとっている。

「里実、さっきから外ばっかり見てどうしたのさ?」

 隣の席の早川 香が、ウサギの鳴き声ぐらいの小さな声で聞いてきた。

私達は、小学校から一緒の学校で、お互いの事はよく知り合った仲だった。

アッシュオレンジに染めたセミロングの髪が、この黒髪ばかりの教室ではとても目立つ。

道を歩いていれば十人中八人は視線を投げかける程の美人であるが、ちょっと変わり者だ。

うちの中学は私立であるので、それなりに校則が厳しい。

髪を染めるのは当然、違反になっている。

香の髪は教師の目を否応にも引きつけてしまう。

そして、「素行不良」という評価を下されてしまうのだ。

中学二年生になった彼女は、なにより自由でいる事を信念に選び、その信念を生活に反映させていった。

 気分が乗らない時は、学校は自主的に休日にして、自宅や図書館で音楽や小説を読み漁った。

昔は、キャラ物が溢れていた彼女の部屋は、今やまるで違う景色に変身している。

壁には、有名なミュージシャンや偉人のポスターが貼られ、国内外を問わず、色々な本やCDが積み重なっている。

常にロックやレゲエの音楽が部屋に流れていて、その音楽の雰囲気で彼女のメンタルの状態を知る事が出来る。

「私は、今の私の気持ちに素直でいたい」

それが彼女のよく口にするフレーズだ。

 そんな風に生きている香を、最近羨ましく思う事が増えた気がする。

自分の好きな事を真剣に考えられなくなったのは、何時の頃からだろうか。

今は、まるでベルトコンベアに乗った電化製品のように無個性な生き方をしているように感じる。

今日の授業は、とても退屈だった。

自分で言うのもなんだが、私の成績はこの学校でも上位をキープしている。

今日は、受験生用の対策講義だったが、基本的な内容ばかりなので、私にとっては聞く意味はあまりなかった。

退屈を紛らわせるために、香を少しからかってみようと、ちょっとした悪戯を思いついた。

私は、三個のピアス穴の空いた香の耳に顔を近づけ、そっと告げた。

「香、背中にゴキブリがいるよ」

 そう言うと同時に、香の背中に腕を伸ばし、人差し指を背中に這わせた。

「えっ、うそ!キャアー!」

 教室に香の恐怖の雄叫びが響き渡る。

 教師とクラスメイト達の張りつめていた集中力が、ブチンと切れる音が聞こえた気がした。。

 ここまで香が驚くとは思っていなかった。

 私は自分がした行為の浅はかさを後悔したが、教室の空気が元に戻る事はなかった。

私達二人に教室中から、焦燥の視線が注がれる。

「早川、畑田、静かにせんか!受験生という自覚がないのか」

 私達はとても居心地の悪い思いをしながら、一日の対策講義を終えた。


放課後、私と香は授業中にふざけたという事で、進路指導室に呼び出された。

 私達は、指導という罰を受ける為に、重い足取りで廊下を歩いていた。

「香、ごめんね。こんな大事になるなんて」

 私のすぐ後を、文句の言葉を呟きながら着いてくる香を振り向いて声を掛けた。

「はいはい。なっちゃったものはしょうがないよ。次からははっきりと嘘って分かる悪戯にしてね」

「それじゃ、悪戯になんないでしょ」

 私達二人は顔を見合わせて笑う。

 香とは小学校からの付き合いだ。

 こんな風に私達は、笑いながら一緒に大きくなってきた。

最近は、あんまり香が学校に来てくれないので寂しく思う。 

「あーあ、めんどくさい。逃げちゃおうかな……。しばらく、学校に来なければ先生も忘れてくれるでしょ」

「単位ぎりぎりでしょ。ちょっと注意されて終りよ。行かないと家に電話されたりして面倒じゃない」

 香は両手を仰いで、自分の身に降りかかった不幸を嘆く。

「まあ、優等生のアンタと一緒ならそこまで怒られないかな……。進路指導の山口とは反りが合わないのよね」

 山口先生は進路指導の体育教師で、大きな体と厳しさで生徒達から恐れられている。

 香はその生活態度から、よく山口先生に呼び出される事が数回あった。

 あんな怖い人と密室に閉じ込められるなんて、考えただけで気が重くなる。

 原因は私にあったが、香が一緒に居てくれるのは心強く感じる。

「先生への受け答えは私がするから、香は後ろで申し訳なさそうに俯いてくれてたらいいよ。香が何か言うと、山口先生がしつこくなりそうだし」

 香は両手を合わせて、私を拝む。

 私達は、進路指導室の前に着いた。

進路指導室は職員室と校長室の間に作られた小さな部屋だ。

 私がドアをノックすると、入れという野太い声が聞こえた。

山口先生の声だ。

 ガラッと引き戸を開けると、部屋の中には長机が一つと幾つかのパイプ椅子が置かれていた。

 パイプ椅子の一つに山口先生が大股を開いて座っている。

山口先生はいつも紺のジャージ姿だ。

それには、ある種のポリシーがあるのかも知れない。

「二人ともそこに座れ。なんで今日、ここに呼ばれたか分かっているか?」

 威圧的で人を挑発するような声に、私は言葉が引っ掛かりそうになる。

私は平静を装い、淡々と反省と謝罪の言葉を並べた。

受験という大事な時に、悪ふざけで皆の勉強を邪魔してごめんなさい、これだけの言葉を、私は何十倍もの言葉で修飾して語った。

 山口先生は、私の話に頷きながら、黙って聞きいていた。

 私が話し終わると、山口先生は大きく頷いた。

「畑田が反省しているというのはよく分かった。まあ、お前はかなり上のレベルの高校を希望しているから、勉強も大変だろう。たまには羽目を外したくなるのも分かるが、場所をわきまえろ。最近、模試の結果が伸びていないぞ」

 私は、はいと短く答え、安堵の気持ちを噛みしめた。

よかった、これで解放される。

「それで……」

 ギロリと山口先生の眼球が鋭く香の方を向いた。

 その瞬間、私は戦慄した。

「早川、お前はどうなんだ。さっきからずっと黙っているが、反省しているのか?」

風のない湖面の様な表情を浮かべて、香は山口先生を見ていた。

それから、少しだけ口を動かして、短くはいと答えた。

 考えが甘かった。山口先生にとって、目の上の瘤である香を無傷で返してくれるはずが無かったのだ。

「本当か?お前はどこまで自分勝手なんだ。前に、学校に意味を感じられないと言ったな。それで学校に来ないというのはお前の勝手だ。だがな、必死で頑張っている同級生の勉強の邪魔をするというのは許せん。どこまで周りに迷惑をかけるつもりだ」

 山口先生の声は少しずつ怒気を含み、どんどん声は大きくなっていた。

最後の方は、もはや怒鳴っていると言っていい。

 私はなにか言わなければと思ったが、上手く言葉が出てこなかった。

 親友が、自分のせいで怒鳴られているのを、止める言葉も言えない。

自分がひどく卑怯な人間に思えた。

香は、じっと視線を山口先生に向けたまま何も答えなかった。

それが山口先生の癇に障ったらしい。

「なんとか言ったらどうだ!」

 大きな手で長机をバンッと叩き、山口先生が大きな声で吠えた。

机を叩いた音が耳に響いて、鋭い痛みが走った。

「先生……」

 香が口を開く。

「そんな大きな声、出さなくても聞こえてます。耳が痛いです」

 私は、香の手を反射的に握った。

「きっ……貴様……」

 山口先生の顔が真っ赤になり、両肩が小さく震えている。山口先生の怒りのマグマが、今にも毛穴から噴き出してきそうだった。

 香の手はとても冷たく、汗をかいていた。

香も恐怖しているのだ。

 私は、心を固く閉ざして噴火の時を待った。

 その時、進路指導室のドアが開く音がして、誰かの声が聞こえた。

「何の騒ぎでしょうか?」

 後ろをゆっくり振り向くと、そこには背の低い老人が立っていた。

 その姿と声を聞いたとき、私は自分の目と耳を疑った。

「おじいちゃん……?」

 私はそう口走っていた。

 そこにいたのは、思い出の中の、祖父と瓜二つだった。

 私は何度も瞼を動かしてその人を見た。

 焦げ茶色の綿パン、薄黄色のYシャツの上に灰色のベスト姿。背筋がスッと伸びているので、実際より背が大きくみえるが、私と同じぐらいの身長だろう。

「隣の部屋まで音が響いてきました。何事かとびっくりしましたよ」

「お騒がせして申し訳ありません。校長先生」

この人が?校長先生?

この中学に入学して、校長先生に会ったことがなかった。

香や他の生徒もそうだろう。

行事や式典では、何時も教頭先生が代理を勤めていた。

学校外での仕事や体調が悪くなり易い事が、その理由だと聞かされていた。

「そうでしたか。このお二人は何をしたのですか?」

初めて校長先生が、私達に視線を向けた。

怒られている私達を、校長先生は何かを図るようにしばらく見つめてきた。

その視線からは、昔の祖父のような慈愛に満ちた暖かさはなかった。

それが、この人はまったく別人だと私に教えてくれた。

「授業妨害です。受験講習中に大声を出しまして。こっちの早川という生徒はご覧の通り、素行に問題のある生徒でして、厳しい指導が必要だと判断したのです」

山口先生の真っ赤な目は、ジッと香にむけられたままだった。香も視線を外さずその眼を見据えていた。

 校長先生は人差し指で頬を軽く引っ掻いた。

「おやおや、二人とも怖い顔をしていますね。山口先生も、早川さんも少し冷静になりませんか?この部屋はまるで刑事ドラマの取調室みたいですよ。山口先生もそんなに怒ると、血圧が上がりますよ。早川さんも、可愛らしいお顔が台無しです」

校長先生はニコニコした顔を浮かべ、二人の顔を交互に見た。

「校長先生。そうは仰いますが、早川の行動には目を見張るものがあります。何度も注意を呼びかけてもなんの反省も見当たらない。こいつは大人を舐めているんです。指導中に冷静さを欠いた事は面目ありませんが、このまま終わらせる訳にはいきません」

私は心がぐにゃりと曲がるような痛みを感じていた。

何故、香がそこまで悪者にされるのだろう。

誰も香の良い所を知らないのだ。

香の良さを、堅いボールに固めて、眼の前のゴリラにぶつけてやりたかった。

「なるほど。山口先生の情熱は本当に頭が下がります。そんな情熱的な指導を何度も受けて、自分のスタイルを曲げない所をみると、早川さんにもそれなりの考えがあるのではないですか?」

 校長先生は、ゆっくりと香の顔を見る。

「どうですか、早川さん?」

 香が、私の手を強く握り返してきた。

「私は……今の自分にとって、何が一番大切なのかを知りたいだけ。自分の気持ちを揺り動かすものを出来るだけ沢山、知りたい。お行儀よく、学校の中に居たんじゃ見逃してしまうものが沢山あるような気がする。初めて、学校をサボった時、すごく悪い事をしてるんだって思った。気分が悪いまま、本屋に気まぐれで立ち寄ったら、ちょうどある小説家のサイン会をしていたの。本はそれまであんまり読まない方だったけど、それも気まぐれで、その人の本を買ってサインを貰った。近くのカフェでその本を読んだわ。その小説がとても面白くて……。それまで、小説がこんなに面白いものだとは思わなかったわ。それから私は本が好きになれた。これって、あの日に学校をさぼらなかったら私は一生、本を嫌いだったかもしれない。学校に来ないのは悪い事だと分かっています。でも、学校以外でも学べることは沢山あると思うんです。私はそれを見逃してしまいたくないんです」

 そう言った香の顔は紅潮していた。

香が人前で、これだけ自分の気持ちを表すのは滅多に無い。

「なるほど……」

 そういって香の肩を三回、校長先生は優しく叩いた。

「早川さんの気持ちはよく分かりました。今日はもういいですから、お帰りなさい」

 ガタッと音を立てて山口先生が椅子から立ち上がる。

「ちょっと待ってください。こんな自分本位な考え方を許されるのですか?言っている事がめちゃくちゃです。子供の屁理屈です。そんな屁理屈を認めていたら学校教育は成り立ちません」

「山口先生、今日はこのくらいでいいでしょう。早川さんから、学校に出てこない理由をしっかり聞いた事はありましたか?」

「それは……。いえ、聞いていた訳ではありませんが……」

 この人は、香そのものを見ていないと思った。

この人が腹を立てていたのは香の行動そのものだけなのだ。

 何も香が何も語ろうと今までしなかったのは、山口先生がこういう人だからだろう。

「今日、早川さんは気持ちを打ち明けてくれました。それは大きな前進ではありませんか。二人とも疲れている様子です。今日の所はこれでお開きとしましょう」

 山口先生はそれ以上何も言わず、私達は校長先生と一緒に廊下に出た。

その間、私達はずっと手をつないだままだった。

 廊下に出ると校長先生は、優しい声で話しかけてきた。

「お疲れ様でした。怖い思いをしましたね」

「あの……、ありがとうございました。香をかばってくれて」

私の声は、緊張で口が渇いていた為か上ずった声だった。

「もっと早く助けてくれてもよかったんじゃない?」

 香はふてぶてしくそう言った。

 私は、校長先生が怒りださないかと心配だった。

「きちんと反省は必要ですよ。授業は真面目に受けてくださいね」

 そう言うと校長先生は、ゆっくりと廊下を歩いて行った。

 後姿も、私のおじいちゃんとそっくりだった。

 私は、まだこれは夢の続きではないかと疑った。



太陽が山の向こうに沈んで、辺りは薄暗くなり始めていた。

香と一緒に帰るのは、久しぶりだった。

香は、学校に来ても途中で早退してしまう事が多いから。

「はー、今日はすごい疲れた。里実、あんたは大丈夫?あんな修羅場、経験少ないでしょ」

 香はすっかり元気だった。 

 私は、山口先生の怒鳴り声が、まだ耳に響いているような気がして気分が悪かった。

「香……、ごめんね。私、何も言えなくて……。原因は私なのに」

 香に肩を思いっきり叩かれた。

不意打ちだったので、体が前のめりに倒れそうになった。

「なに言ってんの。マイロードを突き進む者にとっちゃ、あんなの日常茶飯事、朝飯前なのよ。あんたが気にする事ないわ」

香は、前歯を出し笑った。香の顔だけが昼間のように明るく見えた。

「それに手握ってくれたじゃん。あれ嬉かったよ」

「ありがとう、香」

 その時、制服のポケットのケータイのバイブが揺れるのを感じた。

着信を見てみると祐二からだった。

「なになに?カレシから?出てあげなよ」

香がニンマリと笑う。香は恋愛話が大好きだ。

 私は、着信ボタンを押した。

「よう、もう学校は終わったのか?」

「うん、今帰っているところ」

 祐二は、私達と同じ中学の一つ先輩で、今は高校一年生になっている。

彼と出会ったのは、私が二年生の時の運動会だった。

私は当時、時保健委員をしていて、保健室に待機していなければならない時間だった。

運動会では、怪我人が増える為、誰かが必ず保健室に居る必要があったのだ。

 祐二は、リレーで派手に転んでしまい、保健室に片足を引きずりながらやってきた。彼の右ひざは血まみれだった。

 私は、出ている血の量に驚きながらも、なんとか傷口を消毒し、ガーゼを当てた。

「痛くないですか?」

 私は自分の処置の正確さにあまり自信がなかった。

「保健の先生より、上手だよ」

 彼は日焼けした顔をくしゃくしゃにして笑った。

 思えば、あの笑顔に私は魅かれたのだろう。

 その年のクリスマス、私達は付き合い始めた。

「合宿はどうなの?」

「やっぱり、高校野球はすごいよ。中学では、俺もそれなりだと思っていたけど、此処じゃ完璧に子ども扱いだ」

 彼は、県下でも有数の野球の名門校に進んだ。

 今は夏の大会に向けての合宿で遠くへ行っている。

 中学を卒業してから、祐二は部活ばかりで、最近会えていない。

 寂しいと思っても、私も受験生という事もあり、どうすることも出来なかった。

「祐二、今日ね。校長先生に会ったよ」

 祐二に今日の不思議な出来事を教えてあげたいと思った。

「校長?ホントか?俺、結局三年間見たことなかったな。何時も居ないから、ユーレイ校長なんてあだ名が合ったぐらいだぜ。どんな人だったんだ?」

 祐二の声を聞くと、心の奥に温泉が湧き出したみたいに温まってきた。

「それがね、その校長先生って私のおじ……」

「わりぃ、もう行かなきゃいけないみたい。また連絡するな」

 そう言うと電話は一歩的に切られてしまった。

 私は、祐二の無自覚の冷たさに血が沸騰するような怒りを覚えた。

「ちょっと里実、顔怖いよ。なに?電話切れちゃったの」

 私は乱暴にケータイをバックにしまった。

「部活が忙しいんだって、勝手に連絡してきて勝手に切られた。ふざけないでよ」

「まあ、忙しくても声聞きたいなんて健気じゃない」

 香は恋愛に対しては、私よりとても純粋だった。

見た目は遊んでいそうだが、私の知る限りまだ誰かと付き合った事はまだ無い。

キスなんて事になったら、香は顔を真っ赤にして倒れてしまうかもしれないと思う。

 バックの中で、またケータイのバイブが揺れた。

 祐二かと思って、見てみるとそれは母からの着信だった。

 一瞬、祐二からかと思い、喜んでしまった自分が情けない。

「ごめん、香。お母さんだ」

 電話に出ると、耳を突き抜けるような母の大声が聞こえた。

「里実ッ、あんた今どこにいるの?」

 とても不機嫌な時の声だ。

「今、帰ってる所だよ」

「学校の先生から電話を頂いたわよ。貴方、あの早川さんと授業中にふざけていたらしいわね。何をしているの。そんな風に躾た覚えはないわよ。私が、どんなに恥ずかしい思いをしたか、分かりますか?今すぐに帰ってらっしゃい、聞きたい事が……」

 私は堪らずケータイを切った。無感情なツーという音が残る。

「何?どうしたのさ?」

 香が心配そうにしていた。

「山口先生が家に連絡いれたみたい。お母さんが早く帰って来いって」

 香が、近くの小石を蹴り飛ばした。

「なにそれ、陰湿過ぎじゃない。校長に邪魔された腹いせってわけ?」

 私の事で真剣に悔しがってくれる香を見ていると、勇気が湧いて来た。

「私は大丈夫よ。母のヒステリーなんて何時もの事だし」

 私は、今の私に出来る精一杯の笑顔を香に見せた。



家の前に着いて、香と別れると無性に暗い気持ちになった。

 空を見ると雲が厚くなって、ひと雨きそうな感じがした。

 私の家は、周りの住宅から比べると、無駄に大きな西洋風の作りをしている。

この家は、母の趣味だ。

 家に入ると、すぐに母の声がした。

「遅かったわね。こっちに来て、座りなさい」

 電話の時より、幾分か母は落ち着きを取り戻しているようだ。

リビング中央に置かれた、大きなダイニングセットに、私と母は向かい合って座った。

「どういう事か、説明して頂戴」

 私は学校で在った出来事を母向けに、辺り障りがないように説明した。

校長先生の乱入は話さなかった。

校長先生に自分の娘が怒られている現場を見られたなんて知ったら、母は発狂するだろう。

 話終えると、母は大きなため息をついた。

「里実、最近成績が伸びてないでしょう。きちんと授業を受けていないからじゃないの?このままじゃ、第一志望が危ういかもしれないって、塾の先生が前に仰っていたでしょう」

 母にとって、今の私に期待する事は名門高校に合格する事だ。

母の実家は昔からの名家というやつで、一人娘である母は、お嬢様として育てられた。

両親に逆らったことなど、母はなかったという。

そんな母が唯一にして最大の親不孝が、父との結婚だった。

父はその頃、会社を興し飛躍的に大きくした実業家という事でそれなりに有名な人だったそうだ。

その父と母は共通の友人のパーティーで知り合い、交際を始め結婚を決めた。

 その結婚が問題だったのだ。

最初、父との結婚に母の両親はすごく反対したらしい。

父の会社は、とても挑戦的な経営をしていたらしく、母の両親はそこに引っ掛かっていたのだ。

けれど、母は自分の結婚が失敗になる事など考えてもなかったのだろう。

自分のする事に絶対の自信を持っている人なのだ。

両親を強引に説得し、母は大好きだった父と結ばれた。

しかし、母の両親の心配は的中した。

父の会社が行き詰り、一時期は倒産するかという瀬戸際まで落ち込んだらしい。

 私がおじいちゃんの家に預けられたのはその時だった。

 母も父の仕事を手伝うようになって、私の世話どころではなかったのだ。

 母の実家に預けられなかったのは、母のプライドだったように思う。

 一年後、父の会社は持ち直した。

 これで幸せな生活が戻ってきたと母は思っただろう。

 その思いも、結局は踏み躙られる事になった。

父の会社は大きくなっていった。

けれど、父は仕事が多くなり、あまり家に帰って来れなくなっていった。

本当かどうかは分からないが、父が愛人を作っていたという噂もあったそうだ。

自分が、父に構われなくなっていく事が酷く悲しかったのだろう。

母はその頃から、私の教育に異常的なまでに熱中するようになった。

小学校三年生の時、私はそれまで通っていた公立小学校を転校させられ、母の選んだ私立小学校に編入させられた。

私立の学校は誰も知っている人が居なくて、とても転校が嫌だった事を思えている。

その小学校で、香に出会えた事には感謝しているけれど。

今まで、お習字だけだった習い事もピアノ、水泳、ソロバン、学習塾と増えていった。

私に構う事で、父への葛藤を紛らわせていたのだろう。

そんな事をして長引かせていた母の悲しみにも、遂に限界の時が訪れた。

三年前のクリスマスイブの事だ。

その夜、私と母はクリスマスのお祝いを準備して、父の帰りを待っていた。

久しぶりに父が早く帰って来ると母と約束したのだ。

母はまるで私と同じ歳の子どものようにはしゃいでいた。

笑顔でフライパンを振って、鮮やかな美味しいごちそうを作った。

時に鼻歌を歌いながら、楽しそうに料理をつくる母はとても可愛らしかった。

けれど約束の時間になっても父は帰ってこなかった。母が父のケータイに連絡すると、父の秘書の人が代わりに出たらしかった。

少しの時間、話しをしてから母は電話を置いた。

それから、リビングのテーブル一杯に並べられた料理の所に移動すると、両腕で一気に料理を払いのけた。

母が愛情を込めて作った料理が、宙を舞いリビング中に飛び散り、お皿が金切り声を上げて割れた。

父は約束を忘れて、仕事相手とのクリスマスパーティーに出ていたのだ。

その四ヶ月後、父と母は離婚した。

父はこの家を出て行き、私達は父からの慰謝料と教育費を受け取りながら生活を送っている。

それからの母は、輪をかけて私の成績や進路に敏感になっていった。

先生からの注意の電話など、母には耐えがたい恥辱であっただろう。

「今、大事な時なのよ。受験というのは、試験だけじゃなくて内申書も見られるんですからね。先生方にも、いい印象をもって貰わないといけないの」

 私はただ、はいとしか答えなった。

余計な言葉は、小言を長引かせるだけだと経験から分かっていた。

「まったく、ちょっとふざけてみようなんて考えがよく授業中に浮かぶものね。人と違う事をやってみたいって思うあたり、あの人に似たのかしら」

 あの人とは父の事だ。

昔、愛した人をよく悪く言えるものだと、私は悪態をつきたくなったがぐっと堪える。

「それと、早川さんのお子さんとは、もう付き合っては駄目よ」

 私は咄嗟に、どうして?と叫んでしまった。

 母は、さも当然の事であるように言った。

「あんな訳のわからない子と一緒に居てもロクな事にならないからです。ご近所にも、里実も同じような子と思われたらどうしますか?そんな恥をかくのを防ぐ為です」

 今日はなんという日だろう。これほど耳触りで最低な言葉を、こんなに聞かなければならないなんて。

「そんな事知らない……」

 私は、泥水の底から拾うように声を出した。

「何?何て言ったの」

私は立ち上がって、大声で言ってやった。

「知らないって言ったの。なによ、恥って。香が大人しかった時は、いい子ねって言ってたくせに。香がどれだけ私を支えてくれているか、お母さんには分かんないでしょうね。どうしてそこまでお母さんに従わないといけないの。私は首輪をつけたペットじゃないのよ。誰と付き合って行くかなんて、自分で決めるわ」

 その瞬間、頬に鋭い痛みが走った。

母が頬を打ったのだ。

「生意気な事、言うんじゃない」

 母に手を上げられたのは久し振りだった。

「親に歯向かうなんて、信じられません。そうやって大声出せば、親が黙るとでも思ったの。それも早川さんの入れ知恵かしら?」

「香を馬鹿にしないで!」

 もう片方の頬を打たれ、眼に涙が溜まる。

「どうしたの。何時もの貴方はもっと物わかりが良いのに。やっぱり、あの子のせいなのね。今から電話して、もう関係を持たないで欲しいと私が直接言ってあげます」

 そういうと母はコードレスの電話機に近づいて、本当にダイヤルを押し始めた。

 頭の中の思考が、ぼーっと遠くなった。暗い闇の向こうから、不気味な動物の鳴き声を聞こえた気がした。

なんでこんな状況になっているのだろう。

訳が分からなかった。

やめてよ。

香は意外とショックを受けやすんだから。

お母さんが、そんな事言ったら泣いちゃうかもしれない。

私がとった行動は、自分でも信じられない事だった。

私は電話機を母の手から奪って、窓に向って力一杯投げつけた。

ガラスの割れる音が夜の静寂を切り裂さいた。

 母が大きな声で絶叫した。

 私は、何かに駆り立てられるように玄関に走り、靴を履いて外に逃げ出した。

 家の門を出ると、何人かの人が外に出て来ていた。

ガラスの割れる音で、何事かと思ったのだろう。

 そんな人達に、姿を見られるのが酷く息苦しく感じて、全速力で走った。

 自分がこれほど走れるとは、自分でも驚きだった。

 途中、何人かの人にぶつかったが、まるで体が一つの巨大なエンジンになったかのように、私は夜の道をひたすら前だけを見て走った。

 どれだけの距離を走っただろうか。そんな事を少し考えたら突然、息がどうしても苦しくなって、胃の中の物が込みあがってきた。

小さな公園のベンチを見つけて、堪らずそのベンチに倒れこんだ。

走るのをやめると、酷い眩暈と疲労が全身を包んだ。

体中の皮膚が鉄になったかのように、体が寒く重かった。

いつの間にか、大雨が降り出していて、制服がびっしょりと濡れている事に気が付いた。

 ベンチに寝転んだまま、空を見ると大粒の雨が私の体を痛めつけた。

無我夢中で走っていたので、此処が何処か見当もつかない。

 私は、苦しい体に力を入れて、屋根のあるテラスを見つけて、そこへ移動した。

 小さいが、よく手入れされている公園だった。テラスの傍にはもうアジサイが咲いていた。

 そのアジサイと降り続いている雨を見ながら家にいるであろう、母の事を考えた。

 今頃、家はどうなっているだろう。

ガラスがあれだけ派手な音を出したのだ。

もしかしたら、誰かが警察を呼んだかもしれない。

もしそうなら、母は恥ずかしさで死んでしまっているかもしれなかった。

家には、もう帰れない。

疲労で重くなった頭で、それだけは鮮明に考えられた。

私がとった行動は、母との決別への片道チケットだったのだ。

あんな事をした私を、母は許してくれる事はないだろう。

今まで、口論する事はあっても、あんな暴力的な行動を取った事は無かった。

何かに取り憑かれていたのではないかと思うほどの怒りの衝撃が全身を走っていた。

自分のした事の恐怖で体が酷く震えた。止めようと両肩を抱いてみても一向に収まる事はなかった。

自分の体が酷く冷たくなっている事に気がついた。

これからの事を考えれば考えるほど、心の中に重い氷の塊が育っているように感じた。

大分休んでいるのに、呼吸はずっと深く荒かった。。

このまま、ずっと震えていたら、どこかにスッと消えてしまえないかなと思った。

ぴしゃりと水音がした。

誰かが、雨で濡れた道を歩いて近づいて来る音だった。

私は伏せていた顔を上げた。

もしかしたら、私を探しに警察が来たのだろうか。

そこに立っていたのは、クリーム色のカッパを着て、腕には防犯という腕章を付けた小柄な人物だった。

フードを深く被っているので顔がよく見えない。

「畑田さんじゃないですか?どうしました?こんな所でびしょ濡れになっているなんて」

ひどく、懐かしい声がした。頭がジンと痛む。

 この包み込んでくれるような温かい声は……。

「酷く震えていますね。風邪を引いてしまいます。私の家がすぐ其処なので、とりあえず来てください」

 その人物はフードを取った。

その顔は、おじいちゃん、いや校長先生だった。

 


私は言われるままに校長先生の後を着いて行った。

もう何かを考える事に疲れてしまっていた。

「着きましたよ。狭い家ですが遠慮せずにどうぞ」

校長先生の家は、あの公園のすぐ横にあった。

純和風の家で、ウチとは正反対だった。

家の中に入ると、古い木の香りとお線香の匂いがした。

おじいちゃんの家と同じ匂いだ。

がちがちになっていた体が、少し解れる。

校長先生は着ていたカッパを玄関で脱いで、すぐ家の奥へ消えて行った。

玄関の靴箱の上には、ハスキー犬の陶器製の置物が置かれていた。

鋭い眼光を持ったその置物は、この家の狛犬のように思えた。

少しの時間が経って、校長先生はタオルを持って戻ってきた。

「お待たせしました。これで体をまず拭いてください。床は濡れてもいいので、早く中へ」

校長先生の貸してくれたタオルからも、お線香の香りがした。

靴下まで濡れていたので、裸足で家に上がらせて貰った。

貸して貰ったタオルは、軽く頭と体を拭いただけでずっしりと重くなった。

「今、湯をはっています。まだ少し震えていますし、体を温めなさい」

 そのまま脱衣所に案内されると、着替えだとグレーのスウェットを渡された。

 校長先生はゆっくり入って下さいと言い残して、家の奥へと行ってしまった。

 私は、重い濡れた制服を脱いで、脱衣所の洗面台で自分の顔を見た。

 髪は濡れてぼさぼさになって、母に打たれた頬は赤く膨らんでいた。

 我ながら不細工な顔だと思った。

熱いお湯に体を浸けると、疲れが湯に溶けていくようだった。

 相当体に無理をさせて走ったせいだろう。

関節という関節が、鈍く痛くなっていた。

体が温まり、ほぐれていくのが手に取るように分かった。

お風呂場は檜作りになっていて、檜の香りがお風呂場中に立ち込めていた。

浴槽にもたれると、木の柔らかな感触が肌に心地よかった。

今の自分の置かれている状況に、まったく実感が持てない。

けれど、両頬の確かな痛みが、これが現実なのだと教えてくれる。

 これから私はどうすればいいのだろう。

 校長先生は今、家に連絡を入れているかもしれない。

 母の顔を見るのが、堪らなく怖い。

頭に浮かんだのは、香の所に行く事だった。

しかし、すぐにそれは出来ないと思った。

母も香の所に行く事はすぐ考え付くだろうし、もう連絡が言っているかもしれない。

私が香の家に居る事を母が知ったら、どんな酷い言葉を香に投げ付けるか想像もしたくなかった。

 私は、湯船の中に頭から浸かった。

 ブクブクと私の息が口から洩れて水中に響く。

 何も解決策を考えられない自分が、とてもちっぽけな存在だと認めたくはなかった。

 お風呂から出て、置かれていたドライヤーで髪を乾かしてスウェットに着替える。

下着も濡れて湿っぽかったが、これは着ない訳にはいかない。スウェットのサイズはちょうどよかった。

 脱衣所のドアがノックされ、校長先生の声が聞こえた。

「もう出られましたか?」

「あっ、はい。着替え、ありがとうございます」

「では、こちらの居間へ来て下さい。温かい食べ物を用意しましたから」

 私は、脱衣所を出て、廊下に出た。

廊下には、明かりがなくて薄暗かった。

歩くと少し軋んだ音がして、少し吃驚した。

廊下を少し歩くと、襖から明かりが洩れている部屋があって、そこから校長先生の声が聞こえた。

「こちらですよ」

襖を開けると広い和室があった。

中央に卓袱台と座布団が三枚敷かれていて、そのひとつに校長先生が座っていた。

 部屋の中には、沢山の家具や装飾品が置かれていた。

 どこかのお土産品らしき、ペナントや日本人形やこけし、絵の描かれたお皿。壁には、般若面やお福面が飾られていた。

 どこかの骨董市のお店のようだった。

 校長先生は、茶色の作務衣姿で座布団に座り、お茶を飲んでいた。

卓袱台の上にはラーメンが一つ用意されていて、とても食欲を掻き立てる良い香りがした。

「ラーメンはお好きですか?温まりますよ」

 私は自分が酷く空腹だという事にやっと気がついた。

 壁にかかっている時計をみると、時間はもう午後十時を回っていた。

「あの、助かりました。着替えとかタオルとか……ホントにありがとうございます」

「服のサイズが合ったようでよかったです。背格好が似てるので大丈夫だとは思いましたが。こちらにお座りなさい」

 空いてる座布団を進められ、私はそこに座った。

「ありがとうございます、じゃ……頂きます」

 私は、ラーメン丼を持ち上げて、食欲の赴くままに食べた。

 食べれば食べるほど、お腹が減るようだった。

 食べている途中、急いで食べ過ぎたため酷くムセてしまった。

校長先生が急須からお茶を淹れてそっと出してくれる。

「さっきは吃驚しました。畑田さんがびしょ濡れでベンチで蹲っているのですから。体調は本当に大丈夫なのですか?」

「はい、お風呂に入ったら、震えも止まりましたし、もう大丈夫です。私の名前、ご存知だったんですね」

校長先生は慈愛のこもった笑顔を浮かべた。おじいちゃんにやはりそっくりだ。

私が、泣いていた時はいつもこの笑顔をしてくれた。

決壊したダムのように、大粒の涙が次々と溢れてきた。

自分の意思では、止めることが出来なかった。

「あなたの事はよく聞かされていましたからね。今日、学校で会えた時は嬉しかったですよ」

 私は空になったラーメン丼を卓袱台において、ティッシュで鼻水を拭いた。

「聞いていたって、誰に?」

 校長先生が腰を上げた。

ついにお母さんの所へ連れて行かれるのかと体を固くした。

 その時、玄関のドアが開く大きな音がして誰かが、どたどたと廊下を走って来る音が聞こえた。

襖を力任せに誰かがドンッと開けた。

「里実っ、大丈夫?ずぶ濡れで迷子になってたんだって」

 香がそこに立っていた。

「ご到着のようですね」

 私は今の状況が、ますます分からなくなった。


「じゃ、香と校長先生は元々、知り合いだったの?」

 香は校長先生からの連絡で駆けつけたのだった。

私の話も香から聞いていたという訳だ。

「この家の隣に公園があるじゃない。幼稚園ぐらいまでは、よくあの公園で遊んでたのよ。よく、この家にボールとか入れちゃって、取りに行っている内に仲良くなってね。今でも、ちょくちょく遊びに来させて貰ってるのよ。あと、人生相談とかね」

 香の登場にすごく驚いたが、傍に香がいるというのはとても嬉しかった。

「それで、何があったの?そんな真っ赤なホッペしちゃってさ。お母さんと喧嘩したの?」

 私は、事の顛末を話してしまいそうだったが、香に電話されそうになった事を言う事は出来なかった。

「うん。ちょっと進路の話とかで、揉めちゃってさ……」

 私は香を傷つけたくなかった。

「あんたのとこは、厳しいもんね」

 ボーンと、廊下のねじ巻き式の置時計が午前零時を告げた。

「勇じいさん、今日私達を泊めてくれない?明日は学校、休みだしさ」

 香のいきなりの提案に私は面食らった。

「ちょっと、香。いくらなんでも迷惑だよ」

「私は、何回か泊まらせて貰ってるよ。あんたが今着ているスウェットも、私の置き着替えだし。勇じいさんも一人暮らしだし、賑やかなのもいいでしょ?」

 勇じいさんというのは、校長先生の本名、勇三郎からきているらしい。

「私はかまいませんが、早川さんのお母様が心配するのではないですか?」

 私は校長先生の言葉に胸が痛くなった。

「いえ……。それはないと……思います」

 その姿をみた校長先生は、何も言わず布団を用意して来ると部屋を出ていった。

 私は堪らず、香に抱きついた。

そして今度は、静かにもう一度泣いた。

 香が背中をずっと擦ってくれていた。

 


私達は、客間に敷かれた布団で眠る事になった。

 客間には、今のような沢山の装飾品はなく、床の間に水墨画の掛け軸が掛かっているだけだった。

 私達は、並べられた布団に入り、これからの事を相談した。

 布団からは防虫剤の匂いがした。これも、昔のおじいちゃんの家の布団と同じだ。

「もし、帰りずらいんなら、しばらくウチに居なよ。里実だったら私の親、文句言わないだろうしさ」

「ありがとう」

家を出るとき、私はケータイも財布も持たないで出てきてしまった。

ケータイには祐二からの連絡が入っているかもしれない。

母がそれを見てしまわないか心配だった。

「ケータイが無いの、困るな……」

 香が難しい顔をする。

「確かにね。カレシも心配するだろうし。着替えとか、学校の教科書は私の貸せるけど、そればっかりわね。隙を見て、一回家に戻って取ってくるしかないわね」

「うん、解約されてなければいいけど……」

 母ならやりかねない。

「弱気な事言わない。今日はゆっくり寝て明日に備えよう。ここから里実の家までは、私が案内するから」

 電気を消すと、部屋は墨のような暗闇に落ちた。

 布団の心地よさもあって、私は直に眠りに落ちた。

 


 私は夢の中で又、五歳に戻っていた。

 私は、当時の家の縁側で泣きじゃくっている。

 隣にはおじいさんが居て、私の頭をゆっくりと撫でてくれている。

「今日はどうして泣いているんだい?」

「お、お母さんの、夢、みたの」

 私の言っている事は泣きながら喋っているので酷く聞き取り辛い。

 私は昔から泣き虫だ。

「お母さ、ん。さとみの事、嫌いになった、から、来てくれ、ない」

 おじいちゃんは、私を抱っこして自分の膝に乗せた。

 背中におじいちゃんの体温を感じて、私は安心した。

「お母さんは、里実ちゃんの事を嫌ってなんかいませんよ」

 おじいちゃんは、タンポポの綿毛のような言葉で私を包んでくれる。

「ほんとに?おじいちゃん」

「里実ちゃんとお別れする時、お母さんはどんな顔でしたか?」

 私は、母と別れた夜の事を思い出した。

 そうだ、母は泣いていた。

 いや、自分では泣いていないつもりだったかも知れない。

だが、嗚咽が漏れないように口を横一文字に結び、目じりを吊り上げたその表情は、泣き顔以外の何者でも無かった。

 私を何度も抱きしめ母は、何度も顔を見せてと言った。

「お母さんは、里実ちゃんの事が大好きですよ。貴方が生まれた時、お母さんはとても幸せだと言っていました。時に、その愛情は伝わり辛くなる時もあります。それは、人が生きている限り避けては取れない時間なのです」

 私は、おじいちゃんに抱きついた。

「さとみ、お母さんに会いたい」

「今すぐは会えなくても、里実ちゃんもお母さんも、お互いが大好きです。だから会えます。それまで、好きという気持ちを大事になさい。その気持ちは、ずっと忘れてはいけないものですよ」

 幼い私は、おじいちゃんの言葉と、心臓の鼓動を聞きながら眠りに落ちていった。

 


目を開けると、十五歳の私に戻っていて、眼の前には客間の天井があった。

 体を起こして、枕元に置いてあった香のケータイをみた。

時間は、午前五時をちょっと過ぎた頃だった。

 香は、まだ小さく寝息をたてながら眠っていた。

 外は少し明るくなり始めている。

 私はもう眠れる気がしなくて、香を起こさないように廊下に出た。

 洗面台で顔を洗い、口を濯いだ。

 客間に戻ろうかと廊下に出ると、私の髪を朝の涼やかな風が通り向けた。

 風が流れてくる方に歩いて行くと、中庭に面した縁側に出た。

 その縁側に校長先生が、昨夜の作務衣姿のまま座っていた。

「おや、お早いですね。枕が合いませんでしたか?」

「おはようございます。いえ、何だが目が覚めてしまって……。私も、ここに居てもいいですか?」

 私は校長先生の横に座って、庭の植物を眺めた。

「綺麗なお庭ですね」

「妻が生前に作ったのですよ。それからは殆ど手入れが出来ていませんが」

 昨日の夜、香から校長先生の奥さんは十年前にお亡くなりになった事を知った。

 おじいちゃんと同じ様にこの人も、十年前に一人ぼっちになったのだ。

「昨日から、迷惑ばかりかけてしまってすいません」

 校長先生は、ゆっくりと顔を振る。

「とんでもない。辛い時はお互い様です。それに香さんの親友なら、何時だって大歓迎ですよ」

「香の事、大事なんですね」

太陽が登り、庭がどんどん光に満ちてくる。

「彼女が幼稚園の頃から知っていますしね。孫のようなものでしょうか……。教師としては、特定の人に熱心になりすぎるのはいけないと分かっているのですが。人の感情は、思い通りにならないものです」

「それは私も思います。私とても酷い事、お母さんに言ってしまいました。その時の私は、お母さんを憎んでさえいました。私は、お母さんが大切なはずなのに……」

 そのとき、頭に暖かい温もりを感じた。

 校長先生が頭を撫でてくれたのだ。

「その気持ちを忘れなければ大丈夫です。愛情が伝わり辛くなる時は、人生で必ずあります。けれど、お互いに愛情があるなら大丈夫。また仲直りできますよ」

 その時の校長先生は、本当のおじいちゃんの様だった。

 校長先生のその言葉は、お母さんの事で泣いている私におじいちゃんが話してくれた事だったから。

 その時の優しい眼差しや、手の暖かさまで一緒だった。

 私は、まだ夢の続きを見ているのではないかとさえ思った。

「ありがとう、私大丈夫だよ。仲直り出来るよ」

「その意気です。頑張るんですよ」

 私は、目を閉じて心からおじちゃんに約束した。

「ところで、畑田さん」

 校長先生が私を呼ぶ。

「はい」

 私は、目を閉じたまま答える。

「さすがに年頃の女性に抱きつかれたままだと、少し照れてします……」

 そう言われて、私はいつの間にか校長先生に抱きついてしまっていた事に気が付いた。

 私の顔が、一秒で熱くなった。

「ちょっと、あんた達何してんの?」

 香が何時の間にか、起きて来ていて、私達を指差して絶句していた。

「ちょっと、なに抱き合ってんの?え、うそ……。勇じいさん、教え子に手を出すのは、フリーダムな私でも、どうかと思うよ。一応、教師でしょ。てか里実には、体のデカいカレシいるんだから、勇じいさん殺されちゃうよ。あっ、でも選ぶのは里実だし、愛に歳は関係ないし……。えっ、ありなのかな?あれ……」

 香はあたふたと表情を変えて、自問自答を繰り返している。

 香のその表情の七変化が、とても面白くて。

私は、大きな声を出して笑ってしまった。

 校長先生も小さな声で笑う。

「何笑ってんの?ちょっと?昨日の夜なんかあったの?ねぇ、教えてよ」

 私はすっかり登った太陽の輝く青空を見た。

 今日の天気は、昨日の雨が嘘のような快晴だった。



                                              終わり


 

 

 

 

  

 

 

 


 

 

 


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