雨の日の来客
雨の日は憂鬱だ。
猫っ毛な髪が湿気を吸ってぺたんこになるとか、低気圧で頭痛がするとか、そういった物理的な話ではない。
元々霊感の強い私だけれど、雨の日は特に見えやすいようだ。
決まって招かれざる客―――幽霊が私のもとにやってくる。
時刻は夕暮れ。
雨模様のため外は暗く、既に日没を迎えたかのよう。
今日の彼女も長い時間雨に打たれていたようだ。
すりガラスの引き戸になっている店の玄関をすり抜けてきた足音は、水分を多分に含んでいる。
……べちゃ。
………べちゃ。
水に浸けて絞っていない雑巾を床に叩きつけたような音。
私は店の入り口に背を向けると、作業台に置いた骨董品の手鏡を磨くふりをして背後の様子を伺う。
鏡越しに見えたのは、黄色いレインコートを着た女。
フードを被っているが、その下から覗いている長い髪はびしょ濡れ。
髪の毛全体が照かっていて、まるで海草を貼り付けているかのよう。
俯き加減で顔は見えず、血の気の引いた真っ白な手には包丁が握られている。
彼女は体を左右に少しだけ揺らしながら、私のことをじっと見つめていた。
暫くすると帰るので、このまま気付かないふりをしていれば、危害が及ぶことはない。
この〈レインさん〉と命名した彼女と出会ったのは半年前。
病気がちで入退院を繰り返す祖父の代わりに、大学を休学中の私が骨董店の店番を始めた頃からの付き合いだ。
かれこれ七度目の来店だが、未だに直接見る勇気はない。
〈レインさん〉以外にも常連がいる。
両足がない〈軍曹さん〉は、ぽた、ぽた、と軍服から滴る水滴の音が。
頭がない〈学生さん〉は、きゅ、きゅ、とシューズが湿った床を擦る音が来店の合図。
他にも〈お医者さん〉や〈お婆さん〉がいるが、皆雨に濡れてやってくるせいか、個性的な足音をさせていた。
その日は〈レインさん〉の他に、新しい来客があった。
いつの間にかうたた寝をしていたらしく、こつ、こつ、という乾いた足音で目が覚める。
私は上半身を作業台に預けた姿勢のまま、持っていた手鏡で背後の様子を探る。
それは黒いロングコート姿の人物だった。
体格が良いので男だろうか。
フードを深く被りマスクを付けているため人相はわからない。
革手袋をつけていて、手には金槌が握られている。
撥水が良いのか、男が歩くたびにロングコートに付着した水滴が床に落ちた。
男は慎重な足取りでこちらへやってくると、カウンターに隠れていた私の姿を見つけて足を止める。
こちらを見下ろす形になるので、鏡越しにフードの隙間から男の目が見えた。
驚愕で目が見開かれている。
ここでようやく私は気が付いた。
この男は生きた人間であると。
「あ」
間抜けにも声を出してしまった私は咄嗟に立ち上がり、振り向きざまに手鏡で男を殴りつけた。
男が左腕を上げて防御姿勢を取ると、手鏡は肘あたりにぶつかり割れて粉々になる。
その隙に逃げようとした私だったが、頭に強い衝撃を受けて作業台の横に倒れ込む。
金槌で殴られたのだ。
強烈な眩暈を覚え、立ち上がれないでいるところに男がのしかかってきた。
「いや……離し、て……」
必死に抵抗しようとしたが、殴られた衝撃で次第に意識が遠のき始める。
胸元がはだけたあたりで、私の視界は暗転した。
私が最後に見たのは、男の血走った目と、男の背後に立つ黄色いレインコートの女だった。
「悠里、もう店番はしなくていいんだぞ。あんなに怖い思いをしたんだから」
「大丈夫だよお爺ちゃん。今後はちゃんと鍵をかけるから」
強盗に襲われてから一か月後。
私は退院して骨董店の店番に戻っている。
幸いにも私は金槌で殴られた以外に外傷はなく、検査の結果脳に異常も見られなかった。
強盗に入られたのは、私が戸締りをせずにうたた寝してしまったからだ。
病気がちな祖父に余計な心労をかけてしまい、私の方こそ申し訳なかった。
私と強盗は二人して床に倒れているところを、警備会社の警備員に発見された。
骨董店は木造の古い平屋だが祖父がしっかり警備会社と契約していて、防犯カメラの他に施錠に異常があれば警備員が駆け付けてくれる。
あの日も夜中になっても施錠されないため、強盗に襲われた十分後には警備員が到着していた。
発見が早かったおかげで、私に後遺症が残らなかったのだと医者は言う。
確かに指先が痺れるとか、物忘れが酷くなったとか、そういった後遺症はないのだけれど……。
強盗の男は何故か私の横で気絶していた。
逮捕後に目を覚ましても、気が狂ったように暴れて事情聴取もままならなかったらしい。
ただひたすらに自分の喉を押さえて「許してくれ」と連呼するのだとか。
状況から察するに〈レインさん〉が助けてくれたようだ。
怖くて手鏡越しにしか見れなかったが、今となっては申し訳ないと思う。
私は〈レインさん〉にお礼を言うために、心配する祖父を説得して骨董店に戻ってきた。
既に雨の日は何度か訪れたが、まだ〈レインさん〉は現れない。
いきなり面と向かうのは〈レインさん〉も驚くかもしれないので、新しい手鏡を用意してある。
医者には後遺症はないと診断された。
しかし私はあの日に頭を金槌で殴られてから、幽霊の声が聞こえるようになっていた。
それまでは声らしい声は聞こえなかったので、殴られた影響で間違いないだろう。
既に来店している〈軍曹さん〉と〈お婆さん〉で確認済みで、ぼそぼそと呟くのが聞こえた。
〈学生さん〉は頭がないので聞こえなかった。
早く〈レインさん〉の声が聞きたい。
可能なら会話してみたい。
そしてついにその日がやってきた。
雨が降りしきる夕暮れ時、作業台で壺を磨いていると。
……べちゃ。
………べちゃ。
水に浸けて絞っていない雑巾を床に叩きつけたような、聞き覚えのある音がした。
私ははやる気持ちを抑えて手鏡を使って背後を観察する。
いつもの黄色いレインコートに、海草のように照かった長い髪。
真っ白な手に握られた包丁。
〈レインさん〉はいつも通り体を左右に揺らしながら、ゆっくり私に近づいてくる。
どこで振り返ろうか。
タイミングを見計らっていると、〈レインさん〉が近づくにつれて小さな呟きが聞こえてきた。
話しかけるきっかけになるかもしれない。
私は〈レインさん〉の声に耳を傾けた。
「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い私を捨てた男も奪った女も絶対に許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い私を捨てた男も奪った女も絶対に許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い私を捨てた男も奪った女も絶対に許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い私を捨てた男も奪った女も絶対に許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い私を捨てた男も奪った女も絶対に許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない」
どうやら私が助かったのは偶然だったようだ。