プロローグ
大学の研究棟の廊下は狭い。それが文学部、哲学科前の廊下なら尚更だ。通路の左右には、背の高いスチール製のキャビネットが立ち並び、中には分厚いファイルや古びた文献がギュウギュウに詰め込まれている。それでも入りきらなかったものは大きな段ボール箱に放り込まれ、天井ギリギリの高さまで積み上がっている。古い建物だから、耐震補強用の鉄骨で窓がほとんど塞がれて、そのせいで通路は薄暗く、余計に閉塞感がある。
目的の研究室は、哲学科の廊下の一番奥にあった。物置を片付けただけのような小さな部屋、それが仏教学研究室だ。
扉をノックをする。中でごそごそと動く音がして、扉が開く。顔を出したのが若い女性だったので、少し驚いてしまう。大学の研究者というものの多くがそうであるように(……――特に哲学科の教授などはより強烈にそうであるように)仏教学の教授もまた偏屈で、変わり者で、仙人のような長い白髭をたくわえた不気味な老人であることは有名であったから、自分と歳の変わらない女生徒が出迎えてくれるとは思わなかった。
「えっと……すみません、部屋を間違えたのかも」
上体を反らして、扉の上の表札を確認する。そこには間違いなく「仏教学研究室」と書かれている。
「玉置圭太くんね」女生徒は言う。「間違えてないわ。仏教学研究室へようこそ」
彼女は扉を大きく開き、圭太の手を掴む。室内に引きずり込まれ、そのまま革張りのソファに座らされる。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「えっと………じゃあ、コーヒーを」
圭太が驚いたのは、相手が女性であったから、というだけではない。圭太は彼女のことを知っている。いや、圭太だけではない。この大学に通う殆んどの男子は彼女のことを知っている。なぜなら彼女が美人で、背が高くて脚が長いからだ。圭太と同じ三年生で、入学当初から噂になっていた。名前は確か、大沢奈緒……それも皆が知っている。でも哲学科の、それも仏教学研究室なんかに配属されていることは知らなかった。奈緒はこちらに背を向け、鼻唄を唄いながらコーヒーを淹れている。歌のリズムに合わせて短いスカートの裾が左右に揺れる。先ほど奈緒に掴まれた手に、まだほんの少し温もりが残っている。咄嗟のことで意識していなかったが、圭太は今さらになって、自分の頬が熱を帯びるのを感じる。彼女がマグカップを手に振り向いたので慌てて視線を逸らし、軽く呼吸をして雑念を振り払ってから、本来の要件を話しだす。
「えっと、教授とこの時間に会う約束をしていたんですけど」
「そのことなんだけど……」
奈緒は圭太の手にコーヒーの注がれたマグカップを握らせる。
「教授はいないわ。急な用事ができちゃったの。というわけで私が相談相手になってあげます。仏教学研究室所属の大沢奈緒よ」
「大沢さん……」
「奈緒でいい。呼び捨ては気が引けるっていうんなら、奈緒ちゃんって呼んで」
圭太は声に出して「奈緒ちゃん」と呼んでみようとするが、急に喉がカラカラに乾いてきて上手く発音できない。仕方がないので頭の中で音をイメージする。奈緒ちゃん―――………とても素敵な響きだ。
奈緒は自分の分のコーヒーを持って、圭太の正面に座る。圭太は「よろしくお願いします」と言って会釈をする。緊張で声が上ずってしまう。
おいおい、しっかりしろよ。校内イチの美人とお喋りできるチャンスなんだぜ?ごまかすように咳払いをして、奈緒の顔を真っすぐに見るように、そして彼女のとても短いスカートの裾の辺りをできるだけ見ないように、目の周りの筋肉に神経を集中させる。
「えっと………どこから話せばいいんだろう?」
「どこでも、好きなところからどうぞ。オススメは時系列だけど」
大沢奈緒はニッコリと笑う。黒い髪が揺れて、いい匂いがする。相手をリラックスさせるための笑顔だったのかもしれないが、実際には圭太の心臓を10センチくらい跳ね上がらせる結果になる。
「じ……じゃあ、時系列で。一ヶ月前に、福島県に住んでいる俺のお祖父さんが亡くなったんだ。父方のお祖父さんで、名前は玉置太郎。それで、お婆さんの玉置勝子は、それまで二人で住んでいた家を売って、一人で暮らすことにしたんだ。もともと農家で、二人で住むのにも、ちょっと広すぎる家だったから。掃除も大変だからね。それでそのために、いわゆる断捨離って言うのかな?今の家にある物を捨てたりして、整理していたんだけど、どうやって捨てたらいいのか分からないものがあって………」
圭太は自分の携帯端末の画面を奈緒に見せる。そこには木彫りの像が映っている。
「お祖父さんの家の仏壇に、お鈴や香炉なんかと一緒に飾ってあった像なんだ。でも新しい家には大きな仏壇を置くようなスペースがないから、新たに小さな仏壇を買って、古い方は仏具店で買い取ってもらったんだ。でもそうすると、この仏像を置いておくスペースがどうしてもなくてさ。本当は古い仏壇と一緒に買い取ってもらうのがいいんだろうけど、この仏像はなんていうか………そんなに、出来の良いものじゃないみたいで。仏具店も買い取ってはくれなかったんだ」
奈緒は画像を覗き込む。像は人型で、一般的な仏像と比べると頭が大きい。画面に写り込んだ背景と比較すると、高さ20センチといったところか。顔立ちは仏よりも、薄ら笑いを浮かべた猿に似ている。体つきも全体的にふくよかで、仏像というよりは蕎麦屋の玄関に置いてある狸の置物のようだ。それにどういうわけか、頭がツルツルに禿げあがっている。掘り方は全体に荒っぽく、凹凸が目立つ。手先などは五指がくっついて団子のようだ。どう見ても精巧な作りとは言えない。仏像の知識のない圭太が見ても明白だ。これを作ったのは素人に違いない。圭太は説明を続ける。
「引っ越し先に置き場所がない、仏具店も買い取ってくれない。となるともう、自分達で処分するしかない。でもいくら出来が悪いといっても仏像は仏像だから、そのまま燃えるゴミに捨てるわけにはいかないだろ?仏教学の教授なら、この仏像の正しい処分の仕方を知っていると思って」
それで、仏教学研究室の教授の知識に預かろうとして、わざわざ面談を申し込んだのだ。
「なるほどね」奈緒は肯く。
「それなら簡単よ。仏像はね、一般的には、魂を入れることによって、単なる物質から信仰の対象になると考えられているの。開眼供養とか、魂入れなんて言い方をするの。だから捨てる時にはその逆をすればいいのよ」
「逆を?」
「そう。閉眼供養とか魂抜きといって、お坊さんに頼んでお経を読んでもらうのよ。そうすれば仏像からは神様が抜けて、単なる物質に戻るから、粗大ごみとして捨てることもできる。あとはあなたの気持ち次第ね。仏壇に置いてあったなら、檀家さんに相談してみるのがいいと思う。お祖父さんの家は福島県って言ってたよね?近いうちに行く予定はある?」
「もうすぐ、お祖父さんの四十九日がある」
「じゃあそのついでに、檀家さんに頼んでみることね」
「うん。そうしてみる。相談に乗ってもらって、どうもありがとう」
ずいぶんアッサリと解決したもんだ。せっかく男子生徒の憧れの的である大沢奈緒と、文字通り膝を突き合せて話しているというのに、これでもうこの研究室に用はない。せいぜい手渡されたコーヒーを飲み切ることくらいだ。(他に何か話題はないか?)圭太は頭を巡らせる。でもこういう時に限って、彼女の笑顔にのぼせた頭脳には、楽しい会話どころか、ほんの少しの気の利いた言葉も思い浮かばない。
「ねえ、圭太君?」
話題を振ったのは奈緒の方だった。
「圭太君、体格いいよね?もしかしてなにかスポーツをやってる?」
急に自分のことを質問されたので、圭太はどぎまぎする。
「えっと………野球をやってるんだ。俺はスポーツ学科の所属で、野球を専攻してるんだ。だから野球部に所属してる」
「そうなんだ。あっ……じゃあ、いつもグラウンドで練習してるよね?」
奈緒は研究室の窓を指さす。窓は耐震補強用の鉄骨で半分ほど塞がれているが、その向こうにグラウンドが見える。
「ここから見えるの。ねえもしかして、圭太くんって一軍のピッチャー?」
圭太は躊躇いながら、ゆっくりと肯く。一軍のピッチャー。嘘はついていない。
「すごい!じゃあ野球がとっても上手いんだ」
謙遜のつもりで「いや、それほどでも」と言いかけ、それから考え直して、今度は正直に白状する。「全然、それほどでもないんだ……」
「どうしてそれほどでもないの?」
「今ちょっと、肘を怪我しててさ、しばらく休部してるんだ。それに復帰したら、きっともう、俺は一軍じゃない」
圭太はうつむく。顔を上げて奈緒の顔を見るのが怖い。憐れな奴だと思っただろうか?せっかく話題を振ってくれたのに、ちっともいい結果にはならなかった。コーヒーカップを覗き込む。コーヒーはまだたっぷり残っているのに、残念だが、どうやらもう潮時のようだ。コーヒーを一息に飲み干し、火傷した舌の痛みを誤魔化しながら、圭太は立ち上がる。
「それじゃあ、これで。相談に乗ってくれてありがとう、奈緒ちゃん」振り向き、部屋を出ようとする。
「ねえ、圭太君」奈緒が呼び止める。
「その仏像に実際に会えないのがとても残念。その後どうなったか、私にも教えてね」
圭太は肯く。
「写真を沢山撮って来るよ」