第九話 お別れと戦いの開始
自分は何を言われたのだろうか。
サラ・フォーデンは固まった。
中西の言葉が理解できなかった。
いや、理解したくないというのが真実により近い。
震えながら無理やり口を開いた。
「あの、お別れってどういうことですか? ニックさんはどうされるんですか?」
「俺はここに一人で残る。奴らは俺達の居場所を突き止めたと考えるべきだ。これ以上は逃げ切れない」
中西とサラの視線がぶつかった。
彼が言わんとすることが伝わってくる。
つまり。
「……私が足手まといになるから、一人で逃げろと」
「ああ」
「ニックさんは私が逃げるための時間を稼ぐために、ここに残ると。そう言っているんですか」
「そういうことだな。負ける気は無いが」
「っ、で、でもっ!」
「もう一度だけ言うぞ。早く逃げろ。市街地まで着いたらここへ行け」
有無を言わさない口調で中西は命じた。
ポケットから一枚の名刺を取り出し、サラに押し付ける。
早口で説明した。
「俺とコネのある情報屋の事務所だ。君の事情も把握している。最低限の手助けはしてくれるだろう」
「で、でも、もし私が逃げたとしても、ニックさん一人であんな人達と戦うなんて」
サラの声が震えた。
屋敷の中で何度か見張りの男達を見たことがある。
暴力に慣れた危険な匂いがした。
その気になれば人を殺すことも躊躇わないだろう。
自分のせいで目の前の青年が死んでしまう。
恐怖と申し訳無さで胸が塞がりそうだった。
けれど中西の態度は変わらなかった。
右手の回転式拳銃に弾を装填しながら、静かに言った。
「さっきも言ったが負ける気はない。俺にはこれがある」
ジャ、と重い鉛の弾丸がシリンダーに込められる。
中西の眼光が鋭くなった。
「君が横にいると戦えない。君を一人で逃がすことが最良の結果を導き出すための選択というだけだ。気にするな」
「気にしますよぉ! そもそもなんで、私を助けになんかっ、私なんか、親もいなくて、後ろだてもなくて、なのに歌手になりたいとか夢ばっかり大きなこと言ってっ」
サラの感情が爆発した。
頭では中西が言っていることは分かる。
自分が早く逃げ出すべきだとは分かる。
けれどもさっさと割り切れるほど大人ではない。
街角で出会った時の記憶が涙と共に溢れ出す。
「何にも出来ないのに、こんな風に助けられてばかりでっ、貴方を危険にさらしてッ! 私なんか、いなければ……いないほうがッ!」
「そんな風に考えるな。君が自分をどう思おうと……俺は君の歌に救われた」
中西は傍らの木に身をもたせかけた。
座り込むサラの隣である。
彼女を守るようにも、いたわるようにも見えた。
敵を警戒して視線は周囲に巡らせている。
早く逃さないと危ない。
けれどもこれだけは言わなくてはと思った。
「夢も将来の展望も無い。大都会ロンドンで単調な日々を過ごすだけ。おまけに薄汚い仕事にも手を染めている。もう分かっているとは思うけどね」
掃除屋。
金で殺しを請け負う暗殺稼業だ。
恐らくサラの追手より自分の方が遥かに罪深いだろう。
両手を血に染めている自覚はある。
「だからだろうな。真っ直ぐに自分の夢を追っている君が眩しかった。偶然聞いた君の歌の響きに、少し救われた気がしたんだ」
サラと話す時だけだった。
自分がまともな人間になれた気がするのは。
彼女の歌声を守ってやりたいと。
いつしかそう考える自分がいた。
感傷を振り払う。
そろそろ時間が無い。
追手の気配はまだ感じられないが、余裕があるとも思えない。
サラを急かす。
ぽんと肩を叩いて元気づけた。
「俺がここにいるのは俺の意志だ。君は君の夢を追え」
「……はい」
「ここは任せろ」
短く言い切った。
中西は背を向けた。
サラが一、二歩進んで止まった。
きゅっと握った手の中には中西のハンカチがある。
「ナカニシさん、いつかこのハンカチお返ししますから」
中西は無言だった。
ただ黙って左手を上げた。
「だから死なないでください。約束です」
別れは終わった。
サラが駆け出す。
ここから市街地までの10マイル超をたった一人で走り切るために。
足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
サラも中西も振り返らなかった。
夜風がゆるりと吹き抜けた。
中西は森の中、佇んでいた。
敵の人数を探るべく、全ての注意力を目と耳に注ぎ込む。
自分がサラの為に出来ることは戦うことだけである。
"頼むぜ、相棒"
回転式拳銃のグリップを握り締めた。
幾多の戦闘を切り抜けてきた愛用の武器だ。
馴染んだ感触が中西に安心感を与えてくれた。
この回転式拳銃をもう一丁装備している。
やろうと思えば両手同時に構えることも可能だ。
集中。
人の気配が僅かに届いた気がした。
遠い、まだ距離はある。
じわじわと近づいてきているが慎重だ。
ここで戦うか。
いや、犬の死体が転がっている。
場所を変えよう。
中西は思考をフル回転させている。
周囲の状況把握と大まかな戦術を同時並行で組み立てていく。
数十メートル移動した。
木々の間隔が広くなった。
多少見晴らしがましになった。
闇の中に身を潜める。
暗緑色のチェスターコートを羽織り、下は黒いウールのパンツだ。
暗い森の中では保護色として機能する。
"こちらの武器は他には"
ナイフが一本。
回転式拳銃の弾は何発あったか。
ああ、そうだ。
銃二丁にそれぞれ六発ずつ装填済。
腰のケースの中に十八発だ。
これで足りるだろうか。
敵の数次第と割り切った。
それに奥の手もある。
本当に窮地に追い込まれたなら躊躇なく使う。
呼吸。
深く静かに。
気配察知。
人数把握……五人。
先程の犬を思い出した。
そうか、一人につき一匹か。
だがキャロルが教えてくれたリーダーは?
この中にいるのか、それともいないのか。
"分かるはずもないか"
考えても仕方のないことだ。
いないなら後で出くわすだろう。
まずは全力でこの五人を潰す。
こちらが銃を持っていることは向こうも知っているはず。
警戒して無理には詰めてこないだろう。
が、サラを追うためには急ぐ必要がある。
だから追手は持久戦は臨んでいない。
ある程度犠牲は覚悟で進んでくる。
それだけ危険な相手と言っていい。
中西は気配を遮断した。
留まって隠れている分、こちらが有利ではある。
ただし最初の一手だけだ。
人数差を活かされれば袋叩きにされて終わり。