第八話 追跡者
ロープ1本を頼りに3階分の高度を下りる。
このタスクをサラは無事にやり遂げた。
高さからくる恐怖より、ここに一生囚われる恐怖の方が大きかった。
まさに必死である。
何とか芝生に着地する。
「はぁ、はぁ、はぁ」
「よくやった」
中西が肩をぽんと叩く。
彼の方はいつも通りだ。
息一つ乱れていない。
「もたもたしている暇はない。急ぐぞ」
「はいっ」
サラは中西の後を追う。
靴が夜露に濡れた芝生を踏む。
足取りは確かだった。
しかし心のどこかに焦りがあったのだろう。
夜着の裾が庭の灌木の枝に引っかかり破けたが、それに気づかなかった。
サラが立ち去った後、薄青い布の一部はひらひらと枝の先で揺れていた。
中西は知る由もなかったが、この屋敷がまるで侵入者を警戒していなかったわけではない。
見張り一人と番犬一匹をセットにし、それが屋敷の周囲に2セット配置されていた。
警戒対象の面積が広く、この2セットでは見張りの目が行き届いていなかったのだ。
そのため中西も容易に侵入し、サラを救出できた。
幸運も手伝いほぼ理想的な展開と言えただろう。
ここまでは。
二人が屋敷から立ち去ってからしばらく後。
見張りが庭園へ入ってきた。
一匹の番犬を連れている。
気まぐれに屋敷周辺の森を見張るコースを変えてみたのだ。
この気まぐれが見張りにとっては幸運に、中西達にとっては不運に作用する。
「ん、何だ、これ」
見張りはしゃがみこんだ。
ランタンの明かりに不意に浮かんだものがあったのだ。
すぐに正体は分かった。
淡い青色の布が灌木に引っかかっていた。
最初は何か分からなかった。
だがこんな薄手の布がこんな場所にあるのは不自然だ。
女物の服の一部とまですぐに考えた訳ではない。
ただ嫌な予感と共に、見張りはその布を回収した。
リーダーに報告するためである。
見張りのリーダーの対応は素早かった。
最悪の場合を考え、全部屋を即時点検。
その結果、サラ・フォーデンが不在と判明した。
ベッドはもぬけの殻、バルコニーへの窓は開いていた。
逃走経路は明らかだ。
「面倒なことになった」
リーダーは顔をしかめた。
彫りが深くいかつい顔立ちである。
枯れ草色をした短髪をガシガシと右手で掻いた。
「どうしやすか」と見張りの一人に聞かれ、リーダーは笑みを見せた。
恐い笑みであった。
サラのベッドに掌を置く。
「どうするだと? 決まっている。追跡、捜索、そして捕縛だ。ベッドにまだ温もりが残っている。時間が経過していない証拠だ。即ちまだ遠くまでは至っていない」
「了解っす!」
「だが油断するなよ。一人で逃げ出せたはずはない。協力者がいるに違いない。そいつは出来れば生け捕りに。抵抗するようなら命を奪え」
指示に従い、見張り達は屋敷を飛び出した。
その場に残り、リーダーはぐるりと両肩を回した。
その動きに合わせ、背中から突き出た二本の蒸気管が白い蒸気を吐き出す。
感情が昂ぶった時のリーダーの癖であった。
その眼が無機質な光を帯びた。
「奴等で捕まえられれば良し。無理なケースを想定。その場合に備え」
左の拳を握る。
キシュ、と不気味な金属音が上がった。
「俺も出なくてはな」
リーダーは低く唸った。
彼の名はライアン・フラナガンという。
情報屋キャロル・ウォーカーが中西に「要注意人物」として警告した相手だ。
見張りのリーダーであり、また実質的な用心棒としてこの屋敷に滞在していた。
中西とサラが屋敷を立ち去ってから17分35秒後。
サラへの追手が放たれた。
舞台は晩秋のロンドン西部郊外の森。
逃亡者と追跡者の戦いの幕が上がる。
† † †
ひたすらに逃げる。
「はっ、はっ、はあっ」
サラも必死でついてくる。
息が荒い。
「頑張れ、ただし急ぎすぎるな」
中西は声をかけた。
サラは頷くだけで返答しない。
その余裕が無いのだ。
逃亡のプレッシャーが彼女のスタミナを更に削っている。
中西としても励ますしかない。
"ロンドン市街の端にでも辿りつければ"
まさか乱暴な真似はされないだろう。
スコットランドヤードが縄張りとしている市街地では戦闘はご法度だ。
どうにかそこまでサラを逃がす。
足を速める。
顔にかぶさってくる邪魔な枝を片手で払った。
月明かりだけを頼りの逃避行だ。
振り返りサラを確認する。
"体力がもつか?"
不安であった。
中西の早足についてきているのは立派だ。
だが少女の体にきつくないわけがない。
今はまだ足が動いている。
だが緊張の糸が切れれば、一歩も動けなくなるのではないか。
"ちっ、心配しても仕方ないか"
最初から危険な賭けだと分かっていたことである。
サラを信じるしかないのだ。
追いつくのを待つ。
よろけた彼女の腕を取り、強引に立ち直らせた。
「あ、ありがとうございますぅ」とサラが顔を上げる。
白い顔に汗が滴り落ちていた。
中西は無言でハンカチを差し出す。
「すいません。洗ってお返ししますから」
「そんなことはどうでもいい。急ぐぞ」
「はい」
サラを促す。
少しでも距離を稼いでおきたかった。
再び歩き始めた。
紅葉した木々の合間を縫って進む。
ぽつりとサラが口を開いた。
「結構遠いですよね、市街地まで」
「ああ。10マイル以上はある」
「うぐぅ。って、ニックさん、そんな距離を歩いてきたんですか」
「仕方ない。蒸気自動車は持っていないし」
「そうじゃなくてぇ。わざわざこんな遠いところまで歩いて助けにきてくれたのかって」
「……言われてみればそうだな」
サラがある意味感激しているのだが、中西はまるで気づいていなかった。
夜目が効くし更に体力にも自信がある。
故に乗り物が無くてもどうにかなった。
「多少面倒ではあった」
そこで足を速めた。
会話は終わりという合図である。
察してサラもついてくる。
その時であった。
中西の耳が異音を捉えた。
振り返り、サラを背後に庇う。
「静かにしていろ」と注意し、耳を澄ませた。
まだ距離はある。
だが高速で近づいてくる。
人ではない。
足音と呼吸音から察するに小型〜中型の動物。
おそらくは犬、それも数匹。
"まずは足の速い番犬でこちらを捕捉か"
敵の意図を察した。
速さは向こうが断然勝る。
匂いを嗅がれているとすれば逃げ切れない。
決断。
ここで迎撃。
「見つかった。出てくるなよ」
振り向かずサラに注意した。
サラは目を見開いたが声は立てなかった。
手近な木に身を隠す。
この時、中西はすでに武器を手にしていた。
右手に握られているのは大型の回転式拳銃だ。
シリンダーに六発まで弾丸を装填できる。
まだ持ち上げずだらりと垂らす。
目と耳に神経を集中。
闇の中の敵の動きを可能な限り捕捉する。
"五匹か"
全て仕留めきれるかと思った時。
獰猛な唸り声が中西の鼓膜に届いた。
左右に分かれ、犬が迫ってくるのが分かる。
右から三匹、左から二匹。
足音が大きくなり、木々の葉っぱが散る音が聞こえた。
相対距離が縮まる。
25メートル、20メートル、15、10、5――
「そこだ!」
中西の右手が神速の動きを見せた。
腰の高さから跳ね上がり、自分の右側に三連射。
そこから間髪入れずに左側にスライド、再び三連射。
まさに瞬きの間の速射であった。
ギャオン、と複数の叫び声が上がり重なる。
木々の合間から飛び出した番犬達が射抜かれたのである。
硝煙が夜風に流れた。
だが全ての犬が倒れたわけではなかった。
左側から迫った二匹の内、一匹は無事だった。
身を捻り着地する。
「外したか!」
犬が即座に攻撃に移る。
訓練された番犬ならではの動きである。
ドーベルマンかと気づいた時には、こちらも次の攻撃に移っていた。
犬が跳躍し牙を突き立てようとする。
だが中西の反応が上回った。
左手で握ったナイフを下から上へと繰り出していた。
ずぶり、と鈍い手応えがあった。
犬の喉笛をナイフの刃が突き破っている。
ごぼ、と黒っぽい血が吹き上がった。
"銃だけでは仕留めきれなかった"
いまいちだったと自嘲しつつ、ナイフを犬の死体から抜いた。
死体が一度だけ痙攣した。
血が流れ落ち地面を濡らす。
交戦時間わずか10秒。
無傷で済ませたのはいいが、こちらの居場所も知られてしまった。
銃を使用した代償だ。
ナイフに付いた血を拭う。
中西はサラの様子を伺った。
こちらを見て、目をぱちぱちとしばたいている。
驚きすぎて声も出ないのだろうか。
"そうだろうな。俺のことはただの銃職人と思っているんだから"
胸の中に苦いものが広がった。
そのほろ苦さに押されるように言った。
「行け、サラ。ここでお別れだ」