第七話 救出活動
深夜である。
雲の切れ間に半月が覗いていた。
明かりはそれだけだ。
にもかかわらず中西の足取りはしっかりしていた。
彼の周囲には樹木が並ぶ。
姿を隠す点では好都合だが、どうしても移動は遅くなる。
時折夜風が足元の草を揺らす。
"少なくとも屋敷までは見つかりたくはない"
姿勢を低くして前を見る。
この場所はキャロルから聞いた場所、即ちロンドン西部のベクスリー地区の一角だ。
広々とした私有地らしく、草原と森の奥に屋敷が立てられていた。
夜陰に乗じて侵入してみたが、ここまでは見張り一人すらいない。
たまたま出くわしていないだけか?
狐やアナグマ、リスなどの野生動物をたまに見かけた程度だ。
"単独侵入からの救出行か。我ながら無茶だな"
びびっているわけではない。
だが楽観的にもなれない。
キャロルの協力を得て屋敷の見取り図は手に入れた。
地上3階、地下1階の構造の大きな屋敷だ。
サラにあてがわれた部屋も分かっている。
3階の南東の角。
バルコニーがあると分かった時点で中西は侵入経路を決めた。
建物の中へ押し入るより、外側からが無難だろう。
"ただし首尾よくサラを見つけたとしても問題は"
帰路だ。
自分一人ならともかく、サラを連れてである。
誰にも気づかれないという幸運には頼れない。
恐らく追手がかかる。
果たして逃げ切れるか。
逃げ切れないならば退けるしかない。
戦うしかない。
静かに闘志を滾らせた。
前進する中西の前に屋敷が姿を現した。
木立の向こうにヴィクトリアン・ゴシック様式の洋館がぬっとそびえ立っている。
明かりはついていない。
皆寝静まっているようだ。
キャロルの言葉を思い出した。
『会合が行われない時はあまり人はいないみたい。女の子達を除けば見張り役とその手下が数人。戦力としては大したことはないよ』
中西としてはその言葉を信じるしかない。
ただし彼女はこうも言っていた。
『一人、腕利きの用心棒がいるらしいけどね。そいつの名は――』
名前と特徴は頭に刻み込んでいる。
出来れば遭遇したくはないが。
こっそりと慎重に。
中西は屋敷の南東に回り込んだ。
庭園を突っ切って接近。
石と漆喰を組み合わせた壁を見上げた。
取っ掛かりはある。
3階までのルートを頭の中で組み立てた。
これならどうにか登れるだろう。
"やるか"
サラを助け出してみせる。
† † †
サラ・フォーデンは眠れなかった。
ベッドに潜り込んでかなり時間が経過している。
けれども眠る気になれない。
たまらず寝返りをうつ。
まだ幼さが残る顔は憂いを帯びていた。
"自分はどうなっちゃうんだろう"
ローモント救貧院からこの屋敷にいきなり連れてこられたのが三週間近く前か。
事前に何の説明も無かった。
屋敷に到着後、綺麗な服に着替えさせられた。
そこでようやく自分の立場を思い知らされた。
自分は商品なのだということを。
衝撃で失神寸前になった。
"悪い夢であってほしいなぁ"
ため息をつきながら枕に顔を埋める。
確かに自分は孤児で、何の力もない。
手っ取り早く価値を見出すなら、性の慰み物としてだろう。
けれどもそこには自分の意志は存在しない。
本人の意志を無視した性交は神様は禁止しているはずである。
なのに、こんなことをする人達がいるのだと知った。
悔しさで涙が浮かび、ぐいと手の甲で拭く。
"泣いている場合じゃないのに"
逃げ出したかった。
幸いまだ自分は手をつけられていない。
傷物になる前にこの屋敷から脱出したかった。
だが手段が見つからない。
自分と同じような少女達もここにはいるにはいる。
しかし親密な会話は禁止されている。
食事の際にも監視の目が離れないのだ。
恐らく脱走防止のためだろう。
"路上で歌うことさえ取り上げられちゃった"
寝るのを諦め、ベッドに腰掛けた。
差し込む月の光が裸足の足を浮かび上がらせた。
この屋敷に来る前はこの足で街角に立っていたのだ。
身なりはお世辞にも大したことなかった。
粗末な靴と質素な服。
けれども充実していた時間だった。
多くはなかったけれども聞いてくれる人もいた。
特によく話したのはあの日本人の青年だ。
黒髪黒目の小柄な彼は時折サラを励ましてくれた。
饒舌ではなくむしろ寡黙だが、その言葉には暖かさがあった。
どこか捨て鉢な目が野良猫を思わせた。
"ニックは元気なのかな"
ナカニシという本名の発音は難しく、ニックとしか呼べなかった。
彼の励ましが無ければ自分は歌手の夢も諦めていたかもしれない。
だからこそ、一言も言えなかったことがサラの心に刺さっている。
さよならすら言えず、こんな屋敷に囚われている。
「ニックさん」
ぽつりと呟いたのは寂しさからで。
「よお、久しぶり」
まさか返事があるなど期待しているはずもなかった。
「!?」
サラは窓の方へと振り向いた。
大きな薄いガラス窓越しに黒々とした人影。
チェスターコートに身を包み、バルコニーに立っている。
間違いなくニックこと中西廉の姿だった。
サラは急いで窓を開けた。
ひゅう、と冷たい夜風が吹き込む。
「な、なななな何やってるんですかこんなところでっ」
「何って君を助けにきたんだけどさ」
驚愕するサラに中西は素っ気なく答えた。
部屋に踏み込み一瞥する。
「ふーん、いい部屋だね」と言ってからサラの方を向いた。
「事情は理解している。ここにいたいなら話は別だ。だがもし逃げ出したいなら――」
「逃げ出したいに決まってるじゃないですかっ」
食い気味にサラは答えた。
その勢いに押されたように中西が手を上げる。
「了解。そうこなくちゃな。外套だけ着ろ。外は寒い。バルコニーにロープを繋いだからそれを伝うぞ」
中西のテキパキとした指示が今は心地よい。
サラは「はいっ」と頷いた。
クローゼットから外套を取り出し、バルコニーに出る。
中西と目が合ってお礼を言い忘れていたことを思い出した。
「あの、わざわざこんなとこまで来てもらってすいません。ありがとうございます」
「まだ早い。無事に逃げ出してからにしろ」
「そっ、そうですねっ」
今はまだ逃げるチャンスを掴んだだけだ。