第四話 情報屋
「こちらからは以上。急ぎの案件は無し」
カウンターの隣に座る女が話し終えた。
中西は頷く。
「了解」
サラと出会ってから3日後の夜。
中西は一軒のパブにいた。
ウェストエンドの一角にあるパブだけあって綺麗な店である。
隣の女とはもう一つの仕事絡みの関係だ。
時々このパブを情報交換の場にしている。
「しかし何だね。君と出会ってからそこそこ経つけど、君は本当に愛想が無いね」
女が言った。
活動的な服装をしている。
男物のカッターシャツに革のコルセットを締めている。
下に視線をやれば黒いショートパンツからすらりと伸びた脚が眩しい。
その脚を網タイツで覆ってガーターベルトで吊っているのはあざと過ぎる気もする。
だが中西は目もくれない。
黙ってジョッキの黒ビールをすすった。
女も付き合うようにグラスを傾ける。
「別に腕さえ良ければ構わないけれども。人間の付き合いは笑顔一つで変わるよ、うん」
「知っているよ」
「なんだ、知っているのかい」
女は微かに笑った。
頭に被ったハンチングから艶のあるブラウンの髪が覗く。
同色の目がきろりと中西の方を向いた。
「なら何でそうしないのかな?」
「簡単な話さ。する必要を感じない、あるいはくれてやる笑顔の持ち合わせが無い。それだけのことだよ」
「暗いねえ」
「自覚はしている」
昔からこうだっただろうか。
これほどではなかった気もする。
普通に友人と呼べる存在もいた。
友人とまでは呼べなくても顔見知り程度なら結構いた。
けれど今は特にはいないと思う。
「普段話すのが職場の同僚と工房長、下宿のおかみさん、それと君――キャロルさんくらいかな」
「ふぅん。ま、他人のプライベートには口出ししない主義だけどね」
女――キャロル・ウォーカーはそう言ってフォークを手にした。
つまみの茹でたじゃがいもを二つに割る。
キャロルは情報屋である。
ロンドンの複雑怪奇な人間関係に詳しく、あちこちにつてがある。
彼女は仕入れた情報をどこかに売り、その反応から更に仕事を作り出す。
「もしこの件でこうなさりたいなら適切な人物を知っていますよ」と。
こうして自分が提供した情報を基に、仕事の仲介手数料までいただくわけだ。
ロンドンのような大都市には彼女のような情報屋が多数存在していた。
"人の集まるところビジネスありって言うよな"
この基本は19世紀ロンドンでも21世紀の日本でも変わらない。
そのため中西は信頼できる情報屋との縁は大切にしていた。
キャロルもその一人である。
定期的に会うのはそのためであった。
キャロルは個人事務所も構えてはいるが、そちらには滅多に行かない。
「ああ、そう言えば最近面白いことを聞いたよ。ニックの仕事に関係あるかは分からないがね」
じゃがいもにバターを塗りつつ、キャロルが言った。
中西もつられてじゃがいもを手にする。
まだホクホクと熱い。
「何だ、面白いことって」
「いやね、あんまり大きな声で言うことじゃないんだけど。最近お偉方の間で怪しげな会合が開催されてるって小耳に挟んだんだよ」
「怪しげな会合なんて昔からあったろう」
むしろ怪しくない会合があるのだろうか。
中西はじゃがいもを黒ビールで流し込んだ。
素朴な旨味が黒ビールの苦みと溶け合う。
「そうなんだけどね……複数の政府の役人と貴族層が組織的に売春宿を経営してるって聞いたらどう思う?」
「組織的にってどういうことだ。売春宿があるにしても下層階級の人間の縄張りだろうに」
「売春宿というか政府管轄の娼館が近いかな。奥方には秘密の花園。ごく限られたメンバーしか入館出来ない小規模の私的娼館があるらしいよ」
「愛妾を囲うというのとはまた違うっぽいな」
「その日の気分によって相手を変えるんじゃない?」
「権力者が金と暇を持つとろくなことが無い」
「それは同感だね。ニックもたまにはいいことを言う」
「たまにはな」
相槌を打ちながら、中西はもう一口黒ビールを喉に流し込んだ。
上流階級の人間も色々だ。
まともなやつが多数だとは思うが、そうじゃない少数派がえてして目立つ。
「白地のキャンパスに黒い絵の具が一筋垂れれば、黒い線しか目立たないよな」とぽそりと言った。
キャロルが「何の話?」と反応した。
「大多数の善人と少数の悪人が混じるこの社会の印象の話」
「ああ、なるほど。ニックってさ、頭いいよね。君との会話は刺激になるよ」
「さあ、自分では分からないな」
適当にあしらった。
ふとサラのことを思い出した。
あの子は今日も歌っているのだろうか。
† † †
雑踏に自分の毎日が紛れていく。
中西はロンドンの人混みに己を溶け込ませていった。
毎日の銃職人として工房に通い、終われば帰宅する。
たまに副業が入ればつつがなくこなす。
単調である意味安定しており、変化の無い日々だった。
だがささやかな彩りと言えるものが無いわけでも無かった。
"ああ、今日はここで歌っているのか"
工房からの帰り道、イーストエンドの街角で中西が足を止める時がある。
綺麗な、だけど力強い歌声が彼の足を止めさせる。
声の主はサラ・フォーデン。
元気で物怖じしないオペラ歌手志望の少女。
中西の姿を認めるとサラは表情を緩める。
「ニックさん、こんにちはっ! また来てくれたんですねっ!」
「偶然だ」
「だって帰り道なんでしょ?」
「いつもこの時間というわけじゃない」
彼女が歌い終わった後、噛み合うようで噛み合わない会話を交わす。
初めて会った時のように中西が何か奢ってあげることもある。
「ウェストエンドにたくさんシアターあるじゃないですか。いつかあの中のどれかに出演してみたいんですよぅ」
少女は夢に目を輝かせる。
「そうだな。いつか実現するといいな」
中西は相槌を打った。
サラの声を聞くと気分が前向きになる気がした。
自分の美的感覚には自信が無いが、歌唱力があるのは間違いない。
次第に応援してやろうかという気になっていた。
何度か会ううちに会話も重ねた。
サラの両親は数年前、貧困の末に餓死で亡くなったこと。
生前一度だけ小さな劇団の歌劇に連れていってくれたこと。
「その劇の主演女優さんの歌がすっごく素敵で」と話した時、サラは両の拳を振り回していた。
まさに熱弁であった。
一方で救貧院のことはあまり話したくないらしかった。
中西が聞いたのはその救貧院がローモント救貧院ということだけだ。
閉鎖的な救貧院の中では夢を話す相手もいないのだろうとは、容易に想像もついた。
だから中西は聞き手に回った。
サラの歌を聞けることへのせめてもの礼として。
日常がカレンダーをめくり、秋が深まっていく。
9月が終わり10月も過ぎていった。
11月半ば、そろそろ冬の気配が朝夕の冷え込みに感じられる頃。
サラ・フォーデンの姿が消えた。