第三話 街角の会話
イーストエンドは下層階級の活動地域だ。
必然、飲食店もそうした客層に合わせることになる。
きちんとしたレストランより屋台の方が多いのはそういった理由からだ。
うっすらと煙が漂い、食べ物と油の匂いが混じり合っている。
雑多な活気がこの場を支配していた。
最初は面食らったが、今は中西もこの場に溶け込んでいる。
ただし今日は珍しい連れと一緒であった。
サラと名乗る少女はとことことついてくる。
「苦手なものあるか?」
振り返り尋ねるとサラは「無いです!」と大声で答えた。
間髪入れない返事だった。
「あ、そう」
奢る立場で何故気を使うのだろうか。
我ながらおかしいと思いつつ、一軒の屋台を選ぶ。
店主に「ダックサンド2つ」と告げた。
「ほい、まいど」という元気のいい返事、程なく頼んだ品が提供される。
ナンに似たパン生地に炒めた鴨肉を挟んだ料理である。
それを受け取り、1つをサラに渡した。
「ありがとうございますっ。わー、外でご飯食べるの久しぶりですぅ」
「それはよかったな」
ぼそりと答え、傍らのベンチに座った。
一人分の間合いを開けてサラも座る。
「いっただきまーす」という彼女の声とかぶりつくのはどちらが早かっただろうか。
思わず中西は苦笑した。
「若いってのはいいな」
「? ニックさんもお若いじゃないですか」
「何歳に見えるんだ」
「20歳くらい、ですか?」
「……29」
「ふぇ!?」
「だから今年で29歳だ。来年には30の大台に届く」
ヨーロッパの人々にとって東洋人が若く見えるのは知っている。
もう慣れた。
ちらりとサラの方を見て中西もダックサンドにかぶりついた。
温かい鴨肉の脂がパン生地に染み込み美味い。
「多分君の倍くらいといったところかな」
「身長ですか? えっと、私より頭一つ高いくらいですよね、ニックさん」
「年齢のことだが」
「女性の年齢を尋ねるんですか!? マナー違反ですぅ!」
「会話の流れ的にそれしかないだろう」
「分かっています。ちょっとふざけただけです」
「ちょっと」
大いにの間違いではと思った。
口には出さないが。
中西の内心などサラは知る由もない。
「私は13歳です」と教えてくれた。
「なるほど。どおりでよく食べるわけだ」
「育ち盛りですからね」
遠慮のかけらもない。
会話の合間にサラはダックサンドにかぶりついている。
半分ほど食べたところで中西の方を向いた。
「ニックさんは何をされている人なんですか?」
「銃職人」
「へー、いいですね、手に職があるって。ちゃんとしたお仕事があるの羨ましいです〜」
「君はこれからだろ?」
「いや、そうですけどぉ。なりたい職業もあるんですけどぉ」
はぁ、とサラはため息をついた。
「なればいいじゃないか」
「目指します、目指しますけど。私が歌手になりたいって言っても笑わないでくれます?」
「歌手っていっても色々あるがな。酒場で歌うやつからオペラ歌手までピンキリだ」
「後者の方!」
「それはまた」
「中々にハードルが高いと思いましたね?」
「いや、まあ。簡単ではないとは思うね」
オペラ歌手は芸能のエリートだ。
演劇学校で学んだ上でプロを目指すのが王道である。
その演劇学校もコネが無いと入学は難しい。
学費も半端ないときている。
中西は芸能方面には疎いが、それくらいは知っている。
何と答えていいか迷い、結局沈黙した。
サラはがぶりとダックサンドにかぶりつく。
「分かっています。孤児の私なんかが目指せることじゃないって。親もいなくて救貧院住まいの身には身分不相応な夢なんだってことも。だけど」
「諦められない、か」
「はい。だから街角でああやって歌っているんです。もしかしたら私の歌声が誰かに届くかもしれないって。その先に夢を叶える道があるかもと思って」
「そういうことか」
小銭目当ての路上歌手ではなかったらしい。
考えを改めた。
かける言葉を探しながら、中西もダックサンドを咀嚼した。
その間にも二人の目の前にはロンドンの人々が行き来する。
中には背中から蒸気管が突き出している者もいた。
ぶおぅ、という重い音と共に白い蒸気が吐き出される。
きりきりと歯車が巻かれるような金属音が体内から響く者もいた。
そうした風景を見るたびに、中西は痛感するのだ。
タイムスリップ先のこの世界は単なる過去ではない。
歴史的な事実や人物はほぼほぼ彼が知る通りではある。
けれども一部の技術や技能が歪に進化していた。
蒸気機関技術の特異な発達。
魔術、呪術といった超常現象をもたらす存在。
そうした特殊要素がアレンジされたいわば並行世界に自分がいるということを。
中西は右前方を見た。
男が一人立っていた。
路上の巨大なボイラーから突き出したパイプを腰の辺りに接続している。
ボイラーがぶしゅうう、と大きな音を立てた。
白煙が立ち上り、同時にパイプに圧がかかる。
男の体にもパイプを通じて圧がかかった。
ぶわりと膨れ上がった、と思った瞬間、彼の口から大量の蒸気が吐き出された。
体のサイズは変わらない。
蒸気機関化した自分の体を使った一種の見世物であった。
"俺の知っている歴史じゃないんだよな"
隣の少女は。
このもう一つの時代にどんな人生を歩むのだろうか。
だがどんな時代であったとしても、子供が夢見ることは自由のはずだ。
「初対面の相手に言うことではないかもしれないが」
中西はぽつりと呟いた。
サラは黙って聞いている。
「将来の夢を見る権利は万人にある。ぶつかってみてダメならダメでその時だ。俺はそう思うけどね」
「ありがとうございますっ。ニックさんは神様ですねぇ」
「大げさな」
「いえいえ。自分でも無茶だなあと思っている夢を笑わずにいてくれるんですから」
「君の声にはそれだけの力があるってことだよ」
この数年、歌声に足を止めたことなど無かった。
多分、今の自分には必要なのだろう。
こうした心の寄り道が。
いつしか二人ともダックサンドを食べ終えていた。
話のネタも無くなり手持ち無沙汰になった。
ベンチから立ち上がる。
中西はサラと目を合わせた。
「さっき聞いたことと重複するが、この場所にはよく来るのかい」
「他にも行くところがあるので、だいたい5日に1回くらいです」
「また会ったら聞かせてもらうよ」
「はい! お待ちしています!」
サラの嬉しそうな笑顔が妙に眩しかった。
中西は「じゃあな。気をつけて帰れよ」と背を向けた。