第二話 青年と少女
「聞いてくれてありがとう!」
中西の返事より先に少女は動いた。
木箱から飛び降り、こちらに駆け寄ってくる。
予想外の反応に中西は戸惑った。
けれど向こうはお構いなしだ。
「どこから聞いてくれてたんです? どうだった、凄い? 上手い? 素敵?」
目をキラキラさせて詰め寄ってくる。
どこの誰とも知らない初対面の相手によくこれだけ聞けるものだ。
多少辟易しつつ、中西は答える。
「5分ほど前から。歩いていて妙に上手い歌声がするなと思って。そこのガス燈にもたれて聞いていた」
正直に答えると少女は顔をほころばせた。
青い目が一段と澄んだように見えた。
「ありがとう〜、好きで歌っているんだけど誰からも反応が無いと寂しいんですよね。お兄さんいい人だよ〜」
「そうか」
「よーし、気分が良いからアンコールに応えちゃいますよ。何でも好きな歌言ってみて! 頑張って歌うから!」
「いや、いい。もう帰るところだし」
「何でそんな寂しいこと言うんですか!? つれな過ぎますよ!」
「たまたま寄っただけだ」
そもそも会話する気も無かった、とまでは流石に言えない。
ふと気になり、少女に問うてみる。
「いつもここで歌っているのか?」
「いいえ、時々です。普段は、その」
「言いたくなければ言わなくていい」
少女が口ごもったのを見てたしなめる。
無理に話させるつもりは無い。
けれど少女は表情を緩めた。
「優しいですね、お兄さん。ううん、大したことないの。救貧院にいるからそこのお手伝いがあるってだけ」
「ああ、なるほどな」
合点が言った。
救貧院――つまりは孤児院である。
身寄りの無い子供が身を寄せ合う組織だ。
この都市の掃き溜めの中の最下層に位置すると言ってもいい。
その割にはと言っては失礼だが、少女はこざっぱりした服装に見えた。
少々不思議だったが指摘するほどのことでもない。
代わりにゴソゴソとポケットから小銭を取り出す。
5ペンス銅貨である。
少女の手に押し付けた。
「思いもよらない良い歌声を聞かせてくれた礼だ。じゃあな」
そろそろ潮時である。
帰ろうときびすを返した時だった。
チェスターコートの裾をぐい、と引っ張られた。
思わずつんのめりそうになる。
「まだ何か用かい?」
声が尖ったのは仕方あるまい。
けれど少女の顔を見て責める気が失せた。
「あの、もしよかったらもう少しお話できないですか? 私、よその方と話すこと少なくって。会話に飢えてるというか」
「え……」
「せっかくなので是非! ほら、袖触れ合うも他生の縁、人生は一期一会の積み重ねって言うじゃないですか! 大丈夫です、変な物売りつけたりしません!」
必死に訴える相手に中西は覚悟を決めた。
どうせ帰っても待つ人もいない身だ。
少しくらい寄り道してもいいだろう。
「分かったよ」と短く応じる。
「ほんとですか、良かったー。私、サラっていいます。サラ・フォーデン。あなたは?」
「発音しづらいと思うが、レン・ナカニシと言う」
「ナ、ナケネス?」
「難しいよな。ニックでいいよ。日本人だ」
「わお、ジャパニーズ! 中国人かと思っていました! 初めてです!」
「だろうね」
この反応にも慣れっこである。
香港がイギリスの統治下にあることもあり、香港生まれの中国人はそこそこ見かける。
だが日本人はごくまれだ。
この19世紀、極東の島国から渡英するのは想像以上にタフである。
けれど初めての日本人を前にして、サラと名乗る少女はまったく物怖じしなかった。
「はぁぁ、今日はいい日ですぅ。私の歌を認めてくれる日本人に出会えて。幸運そのものですっ」
「で、話すといってもどこで」
「あっ、道端だと煩いですよねっ。そうだなあー、あちらの公園でいかがでしょう?」
「いいけど、あそこ屋台がたくさん並んでいるね。そして今は夕飯時で」
「えぇとお、そのぉ、やっぱり人ってどんな素晴らしい方でもお腹が空いては生きていけないっていうかぁ」
サラはまったく悪びれていない。
ちらちらと中西の方を伺ってくる。
期待100%の視線に根負けした。
「若いっていいよな。怖いもの知らずで」
「え、何か言いましたか」
「いや。分かった、奢ってやる。ただしチョイスは俺次第だ」
自分でも甘いと思う。
だが何故か今日は断れなかった。
「やったあ、神様、ありがとう!」とサラが小さく叫んだ。
「ありがとうというなら俺にだと思うが」
「それは言うまでもなくですっ」
こうして一人の日本人と一人の英国少女は出会った。