第一話 ロンドン
銃の工房は独特の匂いがする。
鉄と火薬とオイルの匂いだ。
何とも表現し難いとしか言えない。
敢えて言うなら暴力のアートの匂いだろうか。
中西廉はそんなことを頭の片隅で考えていた。
思考の間にも手は動いている。
グリップを握る。
握った時に違和感があれば少し削る必要がある。
嵌め込み、また握る。
重心確認、良し。
撃鉄、良し。
トリガー、良し。
各種の要素の点検をパスすればこの銃は合格品だ。
この工房の売り物として出荷出来る。
「終わり」
短く呟き、ぐるりと左肩を回した。
気がつけば夕方になっている。
工房の窓から夕陽が差し込みつつあった。
そろそろ終業時刻である。
「ぼちぼちあがりかい、ナカニシ」
「ああ。ちょうどきりもいいしね」
声をかけてきた同僚に返答した。
同僚は「お疲れ」と笑い、傍らの新聞を手に取った。
防水性能の高い分厚いエプロンをしている。
銃職人の制服のようなものだ。
「いつも時間きっちりだな。いいことだ」
「時間にいい加減なやつはいい死に方をしないと思っている」
「違いねえ。いい仕事も出来ねえだろうよ」
そう言って同僚は新聞をめくった。
パラパラと記事に目を通していく。
「こうした新聞が読めるのも新聞社が時間守って新聞を発行するからだよな」
「まあそうだろうな」
「しかし最近はさ」
同僚が言葉を切った。
ある記事に目を落とす。
「嫌な事件が多いもんだね。役人の不審死だってよ。また掃除屋の仕業かね?」
「……さあな。かもしれないし、そうじゃないかもしれない。俺には分からないよ」
中西は肩をすくめた。
掃除屋というのは殺し屋のことである。
依頼者から頼まれ特定の人間の命を奪う。
その代わりに報酬を貰うのだ。
ここ、19世紀のロンドンにはそうした裏稼業に身をやつす人間が巣食っていた。
政府は公には認めていないが周知の事実である。
「お偉い方々も一歩間違えれば命を落とす。世知辛いもんだね」
「そうだな。俺としては自分が巻き込まれないように祈るばかりだ」
答えながら中西は仕事道具を片付け始めた。
これで会話は終わりという合図である。
同僚も分かっているため、これ以上は話しかけなかった。
「じゃあ明日」
短く言って中西は席を立った。
その背中を「おう。気をつけてな」と同僚の声が叩いた。
振り返らないまま、右手を軽く上げた。
そのまま工房を出る。
薄暗い路地を少し歩けば大通りに出た。
途端に人混みの中に突っ込むことになった。
多種多様な人々が思い思いに歩いている。
ある紳士はツイードのジャケットを着込み、ハットを被っている。
その横の女性はコルセットで腰を絞り、ふわりと広がったスカートは道すれすれまでの長さだ。
昔見た無声映画の登場人物がこんな感じの服を着ていた。
今は慣れたが最初は奇妙に思ったものだ。
物売りの声が響き、歩行者の足音と重なった。
中西は横の方をちらりと見た。
店舗の陰にみすぼらしい身なりの少年がうずくまっている。
膝の出たズボンから痩せた膝が覗いていた。
薄汚れた顔が下を向いていた。
丈の合わないダボダボのシャツは元の色が何色なのかも分からない。
同情はしなかった。
きりがないからだ。
溢れんばかりのストリートキッズはスリと同意義である。
"やれやれ、忙しない街だ"
心の中でため息を一つ。
手をポケットに入れて中西は歩みを進めた。
ここはイギリスの首都、ロンドン。
時は西暦1895年。
ただし中西は21世紀の日本からやってきた。
つまりはタイムスリップの経験者ということである。
現代日本と19世紀末のロンドンを比較してしまうのはやむを得ないことである。
"世界史で習った程度のことしか覚えていないが"
いつもの道を歩いていく。
ここはロンドン東側のイーストエンドだ。
有名なテムズ川はここから南側である。
立ち並ぶ建物に遮られて今は見えない。
どの建物も漆喰造りのせいか重々しく見える。
"ここまでひどい街だったとはな"
なるべく埃を吸わないように気をつける。
この頃のロンドンの人口は500万人以上と言われている。
環境保護や衛生管理が未発達の時代である。
その状況で500万もの人間が一つの都市に集まっていたのだ。
空気も澱むというものである。
"日本にとどまるべきだったか?"
自問。
偶発的なタイムスリップに巻き込まれ、飛ばされた先は幸い日本であった。
そこで面倒なことになり、外国へ飛び出したわけである。
日本を飛び出してすでに8年。
日本にいたらいたで別の問題はあったろうが。
少なくともここより空気は綺麗であろう。
"考えても仕方ないけれどな"
今の自分はロンドン在住のしがない銃職人―副業ありの―でここで生きていくと決めている。
ペチコートレーンを左手に、リバプール・ストリート駅を右手に街を行く。
いつもの街角へ差し掛かった時だった。
不意に中西は足を止めた。
視線を左へ走らせる。
警戒ではなく好奇心から。
彼の足を止めたのは、不意に聞こえてきた歌声だった。
高く、けれども芯の強さを感じさせる声であった。
「子供?」
歌声の主を見つけ、中西は呟いた。
女の子である。
薄茶に染めた地味なキャリコの服をまとっている。
粗末な木箱の上に立ち、声を張り上げていた。
知らず知らずの内にそちらに足を向けていた。
蜂蜜色の長い髪が目に入った。
歳の頃、12か13といったところか。
よくいるストリートシンガーだろうと思った。
けれどそれなら何故自分は足を止めたのか。
単にもっと近くで聞いてみたくなった。
そういうことだろうと結論付けた。
一心不乱に女の子は歌っている。
粗末な木箱一つをステージにして。
足止めぬ大都市の群衆を観客にして。
心折れそうな状況にもかかわらず、それでも彼女は歌うことを止めていない。
中西は何故かその姿から目を離せなかった。
"ふぅん、割と上手いな"
ガス燈に身をもたせかけ、歌に耳を傾けた。
お世辞ではない。
基本的な発声方法はマスターしているのだろう。
声に力がある。
そこに適度な華やかさがあり、印象を柔らかくしている。
歌詞には聞き覚えが無い。
というか、19世紀ロンドンの流行歌など知らない。
だが茜差す都市の空へと響くその歌声だけでも十分聞く価値があった。
「大したものだ」と中西が微笑む程度には。
その瞬間、歌声が止んだ。
女の子が中西の方へと首を巡らせた。
「もしかして聞いてくれていたの?」
目が合った。
澄んだ海を思わせる青が瞳に宿っていた。