家族になろうよ(前)
「ねぇ、呪いをほどくってどんな風に見えてるの?」
「ちょっと待て。いまから ”Optic chasm” をつなぐ」
片手でグラモラの後頭部を支え、目と目を合わせる。オルフィックの紫の虹彩の中心に真っ黒な瞳孔が開いた。細かく眼球が動くのでなければ、真顔でいると本当に作り物のようだ。
もぞり、と頭蓋骨の中で何かが起きている。
「……なに? しこうさ?」
「解剖学はどこまでやった? 視交叉は脳皮質のすぐ下にある、両眼から入る視覚情報を逆にしてーー」
「あぅ……」
困窮したグラモラに気づき、噛み砕いて伝えてやる。
「……俺の視覚がお前にも理解できるように魔法で感覚をつなげた」
「あ、あぁー……この、文字、が、入ってくる?」
人体に関与する魔法は複雑で、緻密な構造を正しく理解していないと命に関わる危険なものだ。特に脳は難関を極め、一歩間違えば、記憶や人格を失ったり一生精神に異常をきたす症例も残っている。
その脳への干渉を汗もかかず無造作にやってのけるオルフィックが、それを教えた師匠ともども他の魔法使いから恐れられるのは頷ける。ただ奇才の師匠の弟子だからという理由に留まらない。
「そうだ。お前が視覚を使って読み上げないように、眼球部分を飛ばして脳みそに情報を伝えてる」
「わぁ……」
文字を読むのではなく、体の中で理解していた。これを説明するのはまた難しい。考えごとをしているときのような感覚に似ている。
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ーー夏の日に玄関先でおしめ一枚でハイハイしている赤子。変な鳴き声の発生元を確認しようと外に出たら予想外の動物がいた。イハリスは二日酔いの幻覚だと思いたかったが赤子はいつまでも消えないまま。
「なんだいきみは?」
しゃがんで膝に顎を置く。高い声は頭痛に響く。
そろそろ二語以上を覚えようかという齢に、ひたすらひとつの喃語を繰り返していた。手を振りかぶって、下ろして。
「ごっ、あえ、ごっごっごっごっ、あえー」
「ふむ、なに言ってるかわからんよ」
手をブンブンしている。
「ちょっときみの記憶を見るよ」
暗がりで振り上げられた手と衝撃、下ろされる大人の足と衝撃、揺れる視界に転がる景色。
もうそれだけで赤ん坊の記憶を読むのを中断した。
「……ごーあえぃ?」
それが “Go away.” だと気づいたイハリスは思考を止めた。赤子が最初に覚える単語なんぞせいぜいパパママではないのか。この子はひたすら「あっちいけ」を聴いて覚えてしまったのだ。明確な間違えようのないジェスチャー付きで。コミュニケーションもとれない幼児に言葉を介して人としての感情を揺さぶられるとは。
イハリスは青い空を仰ぎ見た。
「いぅぅぅぅ」
“Eww.” かなぁ。
「うぁっ、あっ」
“Ugh.” だったりして、と悪い方向に解釈をして言葉当て遊びをしてしまう。さすがにこれは考えすぎだが。
「きみはこれから何が必要かな?」
「るぁー、あぁーう。あーいー、あいーいぃぃ。」
もはや強制的に “Love.” としか聞こえなかった。
「ああ、うん。愛かぁ。それは確かに、私もきみくらいの歳には必要だったよ」
そしてその後を決意した。
「きみ、私と家族になろうか」
周囲に人の気配はなし。きっと保護者は戻ってこない。あんな言葉を覚えさせる養育者の元にもどったとて幸せにはならないだろう。
「” ‘Kay. ” 」
わかった、との発音が完璧だった。
「え、ほんとは私の言うことわかってる?」
「ごっ? ごっご、あぇー」
「だよね」
後にオルフィックと名付けられる子どもを抱えて、街を取りまとめている議長を突撃した。役所にいた議長は椅子から転げ落ち、「まさかお前に体を許す人間がいたとは」と邪推をして勝手に蒼白になっている。
「私の子じゃないよ」
「よかった」
全くよくはない、この魔法狂いの生活破綻者に子ができても不幸になる結末しかないのだから。飲む打つ吸うの三大悪行はオールビンゴだ。ただし買うには売り手がいない。
「子どもってどう育てればいい? 今この子にはなにを用意すべきだろうか?」
孤児院への紹介に必要な書類を出すために引き出しを探る。ペンとともに突きつけた。
「身寄りを見つけるまで孤児院に預けなさい」
「私が引き取るから孤児院には連れて行かない」
「ならぬ」
「どうして? 住む家もお金もある」
「なにが足りないじゃない、お前はやりすぎなんだ。酒もタバコも賭け事も仕事もゴミを溜め込むのも」
「そうか。全部止めればいい?」
「イハリス、今回はお前だけの問題じゃない、人ひとりの命と将来がかかっているんだ」
「なら私もこの子に命をかけよう」
空気がしんと静まった。
「……なぜそこまで意固地になる。子を育てるのは大変だぞ」
「だって、私はもうこの子と家族になる約束をしてしまったんだ。この子が、愛が欲しいと言うから」
ねぇ、とイハリスが見下ろすと、偶然にも子どもが頭を上下に振った。
議長は目に哀れみをたたえた。誰からも愛されなかったイハリスが自ら誰かを愛そうとしている。それを素直に喜んでやれないことが悲しかった。
「……一週間、いや一ヶ月監視をつけるぞ」
「構わないよ」
孤児院に連絡を取って、人員を確保して呼び寄せる。待っている間に水を飲ませ果物を与え、としていたら子は寝てしまった。
「わからないことは聞いてもいいが、彼女は決して手は貸さないからな」
「うん、わかったよ」
孤児院から派遣された中年の女性に向き合う。
「これからいろいろ教えてください。ご迷惑をかけますが、よろしくお願いします。この子のためになることをしたいのです」
破天荒で不遜な人柄だと聞いていたし、議長には気安く話していたイハリスが唐突に敬語を使いだして仰天した。加えて頭を下げると議長は再び椅子から転げ落ちた。
「見守らせていただきます」
彼女もまた、頭を下げた。
予定の期間より倍になって長引いたものの、無事に養子縁組の権利をもぎ取ったイハリスは、その場で書類の空欄を埋めて直接議長に提出した。
「”Orphic.” ……この名前でいいのか」
検分しながらの最終確認。名前の欄を指で叩いた。
「うん。私への戒めにもなる。『手に負えない』『変な』大人に育って、皮肉と嫌味を込めて『理解を超える』と言われ続けてきた、そんな私を変えてくれたのがこの子。名前を呼ぶたび愛を込めるよ」
議長が認可のサインを済ませた。
「私のかわいいオルフィックくん。形にとらわれず、幸せになろうね」
宣言通り、型やぶりに育てられたオルフィックは常識からズレつつも非行にも走らず真面目に育った。そもそも社会規範から飛び出た行いをさんざん親がやっていたのを、少年になった頃きいた息子はこうはなるまいと心に刻んだ。
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