甘いけど甘いのは好き
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ーー師匠は研究室にもグラモラを招き入れ、オルフィックとの作業を隅で見学させた。数日は黙って大人しくしていた。部屋を出ても、手洗いにでも行ったのだと気にしていなかった。ほどなくグラモラが戻ってきたかと思えば、トレイにマグカップをふたつ乗せて差し出している。オルフィックはこの家にトレイなんてものがあったことをこのとき知った。
「どうぞ、ご休憩を」
「わぁ、ありがとうグラモラちゃん! お茶を淹れてくれたんだね。じゃあ一息つこうか」
「……お前のぶんは?」
少女は首を傾げる。
オルフィックは台所に行き、沸騰してふきこぼし、膜の張ったミルクティーを作ってやった。砂糖は入れてもスパイスは加えなかったからチャイのできそこないになったそれを、グラモラは口の中を火傷しながら飲んだ。
「ありがとうございます。おいしいです」
青年と少女のやりとりを、イハリスがにやにやしながら眺めていた。
「敬語は居心地が悪いからやめろ」
オルフィックが苦々しく告げる。グラモラは更に笑顔になった。優しくされたうえに、もっと近くにいくことを許されたことが嬉しかった。
自分がなにをしてもしなくても怒られないと学んだグラモラは、率先して少しずつ家事を始めた。
「すごいよ! グラモラちゃんってじゃがいもからポタージュが作れるんだ! 焼いた魚が! こんなにふわふわだなんて!」
オルフィックが遅れて食卓につくと、師匠はほとんど初めて自宅で食べるまともな献立にいたく感激していた。
「ありがとう。我が家の窮地は救われた。きみは、こんな料理を作れるきみの手は、素晴らしい」
イハリスが愛らしい両手に頬ずりとキスを繰り返し、グラモラは真っ赤になっていた。
「こういうもので良ければ、毎日でも」
「グラモラちゃんの気が向いたときでいいんだよ」
その夜にやっと、グラモラは前にいたという家の話を打ち明けた。捨てられるに至った経緯はおおむね想像していた通りで、イハリスとオルフィックは今後彼女を決して都には近づけさせないと結託した。
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「じゃがいものポタージュと魚焼いたやつが食いたい」
呪いをほどくのを中断して第一声がそれだった。
「……じゃがいもはあるけど、ムニエル作るにはお魚を買わないと、家にはないよ」
時計を見れば、まだ夕方にも早い時間。
「じゃあ買い物行くぞ。……行けるか?」
時間の有無ではなく、グラモラの精神状態を考えて聞いたことだった。まだ完全に呪いはほどけておらず、肌の色は目立つ。
「うん、ローブ着るから」
「俺だと、どの魚選べばいいかわからないから」
「だろうね」
二人で食材を買いに街に出た。
出された皿にオルフィックは目を落とす。
「ありがとう。グラモラは、素晴らしい」
座ったまま、彼は功労者の手を取り掌に唇を押し付け、自らの頬に寄せた。
引きつった指の感触に楽しそうにしながら、下から見上げてくる。
ほとほと困った。オルフィックは親ではないし、立派な成人男性で、師匠とは印象が全然違う。イハリスのほうが感謝の表現は熱烈だったはずのに、あの時だってグラモラは照れていたのに、いまこの時のほうが鼓動が早くなるだけで済まないのはなぜだ。
だからこちらもわがままを言おう。それで相殺されるのではないか。グラモラにとって献立のリクエストくらいわがままでもなんでもなかったが、オルフィックが台所に立つのはおそらく、苦痛に近いだろう。
「オルフィック、ミルクティー作って。ご飯の後で」
「……覚えてたのか。あんな昔のこと」
「あんまり熱くしないでね」
グラモラは味覚があれから数日戻らなかった。
「飲む前に冷ませばいいだけだろ」
「作りたてが美味しいんだよ。お鍋、洗うの大変だから焦がさないでね」
「焦げなんて魔法で剥がせる」
汚れを浮かせて成分を分解して、なんて洗剤の売り文句のようなことを洗剤よりも綺麗にできるのだから便利だ。
結果、オルフィックはミルクパンを焦がした。
茶葉の香りも苦味もしっかり出た、砂糖たっぷりのミルクティー。兄弟子がこびりついた小鍋を洗う後ろ姿を眺めつつ、グラモラはマグカップを冷ましてからゆっくり飲む。
オルフィックは後片付け含めまったく嫌そうじゃなかった。
もっと面倒くさがったりするとの目論みが外れた。
嬉々として、それこそがオルフィックがやりたかったことのように要望を叶えられたのでは、もやもやするばかりだった。本気で嫌がらせをしたり困らせたりしたかったわけでは決してないが、すっきりしない。
「どうした。砂糖入れすぎたか?」
ぴかぴかのミルクパンを持ち上げて、汚れの残りがないか確かめているオルフィックは、グラモラのぼんやりに見当違いの答えを出す。
「……甘いけど、甘いのは好きだし」
もやもやの原因は感情とはまた別にあった。すぐにでも向き合わなければならない問題を、グラモラは抱えている。
「ねぇオルフィック、来年には街に出て働いてみてもいい?」
未成年でも十代後半ともなれば働くことは自然な世の中で、家に引きこもってばかりいるのはいけないことだと薄々わかってはいた。
グラモラは今年で二十歳になる。よい機会だ。だが、オルフィックは怪訝そうにした。
「この家に居たくないのか?」
「家には居たいよ。でも世間を知ったほうがいいのかも、って思って。私は学校にも行ってないでしょ」
オルフィックは大学まで卒業したが、グラモラは外に出ず師匠に勉強を教えてもらった。師匠は大学院まで修めたらしいからきちんとしていたはずだが。
「世間なんて大したもんじゃない。新聞でも得られる知識だ。学校なんて行かなくても師匠が教えてただろ」
「私、師匠とオルフィック以外の人知らないし……」
「俺も師匠とグラモラくらいしか知らない。なにが問題だ?」
生き字引きがここにいる。オルフィックは基本、家族以外の人間を信用せず、敵認定が早い。家族に不用意に近寄る人間も警戒しがちだ。それでも仕事となれば会話はできるし、依頼は舞い込んでくるから毎日をつつがなく暮らしている。
「別に家事なんてしなくたって家に居ていい。俺が稼いだ金はグラモラが稼いだ金だと思え」
オルフィックは不愉快そうでいて、でもどこか力無く寂しそうだった。
イハリスと同じだ。グラモラに、いつも家事能力のないふたりの生活を支えてくれるのはグラモラだから、稼げる人間が稼げばいいだけだとしょっちゅう言ってくれた。それは家族全員で働いて得たお金だ、と。
「手持ち無沙汰だというのなら、俺の仕事を手伝ってくれればいい」
「私にできることある?」
「魔力を使う実務には関われなくても実験結果の記録つけたり簡単な計算はできるだろ」
「うーん」
「ただ隣にいてくれればいい」
なんだかそれは、仕事として頼むにしてはちょっと変な感じがした。魔法を使うために誰かの監督の必要があるわけでなし。
「私、甘えすぎだと思うんだけど……」
「家族に甘えてなにが悪い。俺だって家事はグラモラに頼りっきりだ。あと、金の問題なら心配するだけ無駄だぞ」
オルフィックによると師匠は著書の印税や独力で取得した特許などで巨額の貯蓄があり、相続の税金で半分消えてもずっとふたりで生きていける、とのことだった。
ずっと、がどのくらいの期間を指すのか、は聞かないでおいた。たぶんほんとにずっと、なのだ。
それがなくとも現状稼いでるのはオルフィックひとりだけれども、グラモラひとり養うのは余裕だと。
「家を出て特別やりたいことがあるのか?」
グラモラは成人後の身の振り方を考えるのは、呪いが酷かったころなど、とてつもなく息をするよりも億劫だったので未成年という立場もあって甘えていた。
けれどいまは、まともに考えることができる。
とりあえず外に出てみよう。
とりあえず働いてみよう。
なにがしたいというわけではないけれど。
「……ううん、なんとなく」
「じゃあ、やりたいことが決まるまで好きなだけのんびりしてろ」
「いいのかな。……ありがとう?」
その答えにオルフィックは安堵していた。