×師匠の呪い ○師匠の日記
体が動かない。圧迫感がある。
金縛りにあったのかと思ったら、オルフィックが上に乗っかっているだけだった。
ふたりして寝落ちしてしまった。床の上で。
額に置いた手をかざすと、左腕の肘まで元の肌を取り戻していた。
オルフィックは真性の天才だ。初めて見るであろう魔法をあんなに手早くその場で解読してしまった。それとも師匠を長年間近で見て癖や指向性を理解していた彼だからこその速さなのだろうか。
「オルフィック、起きてー。おはようの時間だよー」
むくりと半身を起こして目を開く。さらさらの黒髪は寝癖すらつかないとは羨ましい。おはようと返し、立ち上がって背伸びをしている横で、グラモラは座り込む。背中と腰とお尻が痛い。
「仮眠取ってくる。後からまたやるぞ」
グラモラはお風呂に長く浸かって体の痛みをとってから、朝食兼昼食を作った。オルフィックがダイニングチェアに座る。
「ラテ?」
「ん」
コーヒーにミルクはほんの少し落として、ココナッツ・シュガーをひと匙。彼の好みに仕上げる。
オルフィックもシャワーの後で、まだ髪は濡れてぺったりとしていた。
「ありがとう」
満足そうにひと口飲んだ。彼のためにご飯は用意しても、あたたかいコーヒーを淹れたのはいつぶりだったか、すぐに思い出せないくらいには久しぶりだった。
昼食を終えて、ふたりは向かい合ってグラモラの部屋で呪いを解いていた。
「発動したのはお前が師匠の本を声に出して読み上げたからだろう。こんな限定的な魔法、師匠しかやらないだろうな」
というのが、オルフィックの見解だった。グラモラが本を読むときに声を出すのは当然知っている。
「呪いをかけたのは師匠ってことで間違いないんだね?」
「魔法は師匠の仕掛けだ。やたら解くのに時間かかる超大作。ただ前提として、これを呪いと分類していいものか……」
現状は痛くもかゆくも苦しくもない。一般的に特定の対象に不利益を与える魔法を呪いと称する。ところがグラモラにかけられた魔法には解呪法も組み込まれていた。この魔法の目的はオルフィックの頭脳を以てしても不可解としか言えなかった。肌は変わってしまったが、当のグラモラがさして気にしていない。街に出て周囲に見咎められるのは面倒だが、家の中にいる限りは不自由もないし。
「もしかして、普通に目で読むだけだったら、呪いは発動しなかった?」
「ああ。黙読するだけでも、他の人間が音読するのでも足りない。グラモラの声と本が揃うことで呪いは発動する。解くには俺を指定して」
昨夜と同じように、手のひらを眺めている。
「こうしていると、ほぐれた文字が整然と頭の中に流れてくる。内容は昔俺たちに起こったことばかりだな」
オルフィックの頬の上で緑と青の流れ星が交差して散った。
「師匠の日記を延々読まされてる気分だ」
その機密性のせいか、呪いはオルフィックにしか解けないようになっていた。グラモラの体に書かれた文をひたすら読んでいく。
「……思い出してほしかった、とか」
まるで居なくなることを自分でわかって、グラモラが師匠の本を音読することも、魔法が発動することも、オルフィックがそれによってとる行動も完璧に予期していたようだ。
師匠の遺した魔法は苦痛を伴わないうえ本気でグラモラを困らせたいようには見えなかったし、目的が読めない。
「急にパッタリだったからな。気持ちの整理しろってことなのか?」
「できないよ……」
「ああ。できないよな」
こつん、と額を合わせた。熱を出したときのように心細くなったとでも思われたのだろうか。
オルフィックは葬儀でも泣かなかった。為すべき責務をわきまえていた。茫然自失のグラモラを支えるために全ての手続きを済ませ、溜まっていた仕事を捌いて。
敬愛する親代わりがいなくなって辛くないはずもないのに。師匠と一緒にいた時間はオルフィックのほうがはるかに長かった。
交友関係もなく、グラモラはほとんどこの家だけで生活が完結してる。反してオルフィックは街に行くとよく店でも声をかけられたり女の子に遊びに誘われていた。人形のような顔で毎度すげなく断るものだから酷いと泣かれるのだけれど、彼が気にかけたことはなかった。そのぶん師匠とグラモラには人間らしく接するし思いやりを感じるので、単に懐が狭いなどとは違うようだ。家族とその他で区別している、ということか。
「俺もお前も師匠に拾われたけど」
「うん」
「俺は名前も師匠からつけてもらった。でも意味が『手に負えない』『変な』『理解できない』だとか、わざとだろ……」
師匠の手元にきたのがイヤイヤ期真っ只中の子どもだったとはいえ。軒先で転がっていた彼の出自に関する手がかりは一切残されていなかったという。
「そんな意味だったの……」
オルフィックがくすりと笑った。
「お前は最初から名前持ってたから助かったな」
「いや、うん、えー……オルフィックって、いいと思うよ。かっこいいよ」
「それはどうも」
「ほんとに。嘘じゃなくて。私は好きだよ」
ぱちりと開いた目は細められていて、薄い唇がわかってる、と囁いた。
まともに彼の名前を呼ぶのは師匠とグラモラだけだ。呼ばれるときはお弟子さん、とか黒髪の魔法使い、とか。他に懇意にしている人間なんてごくわずかだけれど。