4.Discussion ―議論―
4.Discussion ―議論―
「お父さんはお母さんのどこが良くて結婚したの?」
佳代が出かけていて秀郎と奈菜が二人でいる時、奈菜が秀郎にそんな質問をした。
「どうして? 奈菜も男の子が女の子のどこを好きになるか、知りたくなるようなお年頃か?」
「まあ、そんなところ」
秀郎にとって、一人娘が性的に成長することは、嬉しくもあり、悲しくもあり、複雑な心境であった。
「佳代のどこがいいのかを語り始めたら年単位で時間がかかるんだが……」
ふと、大事件ではなく、些細なエピソードを話してみよう、という気になった。
「俺さ、右手だけをズボンに突っ込んで歩く、ってことはない。左手だけを突っ込んで歩くことはあるけど、ってことに気が付いて、それを佳代に話したことがあるんだよ」
「へえ、それって腰痛の原因になるかも」
奈菜の返答を聞いて、秀郎は目を丸くして驚いた。
「凄いな。さすが母娘だ。佳代と似たようなことを言ってる」
「んーっと、お母さんがね、歯の噛み合わせが悪くて食べ物を片方の歯だけで噛んでいると、腰痛の原因になるって言っていたから、そんな話かなと思って」
「へえー」
奈菜は類推というものが出来るんだな、と秀郎は感心した。この子は自分が思っていた以上に優秀なのかもしれない。
例えば炎色反応について学校で教わった時、ナトリウムが黄色、カリウムが紫などと勉強して覚えていれば、試験で答えることが出来る。しかし、炎色反応の知識を得ただけで、誰に教わったわけでもないのに、花火の色も炎色反応によるものだと気づけるだろうか。そうした類推が出来るかどうかは、研究者として死命を制する。
「大抵の人は、そんな話をしても、ふーん、で終わるんだよ。つまんねえ話だな、って。でも佳代は、それって体のバランスが崩れる原因になるかもしれないから気をつけて、って言ったんだ。たまには右手をポケットに突っ込んだほうがいいかも、とも言っていた」
「へえ。それでお母さんを、鋭いな、って思ったの?」
「それもある。優秀な人だなって。でも、それだけじゃない。女の人に、意外なところから自分の体のことを心配されたりすると、男としては嬉しいよね」
「なるほど」
「好きな男の子がいたら、その子を心配してあげなさい」
「考えとく」
産前休暇の前日に、佳代は中山先生の部屋へ挨拶に行った。
「いよいよか。丈夫な子供が産まれるといいね」
「すみません。こんな肝心な時期に長く休んで」
「仕事のことは気にしないで。ともかく、自分と赤ん坊のことだけを考えなさい」
と言いながらも、仕事の情報交換用にノートパソコンを支給するというのだから、中山先生も少々矛盾している。
「出産と育児のことを第一にと思ってはいますが、重要な情報があったらメールで教えて下さい」
「そう言えば里川君のところでゲノム解析に取り組んでいるのだが、彼はエポキシコラが発生の過程でマクロファージと共生でもしていたのかな、と言っていたよ」
マクロファージは白血球の一種だ。体内に侵入した細菌を捕食する。
「え? どういうことですか」
「多種の違う細菌のゲノムをあちこちで取り込んでいると言うんだ。マクロファージみたいなものが無差別に捕食した細菌のゲノムを、さらにエポキシコラが無差別に受け取った。そうとでも考えないと、この多様な働きをする細菌の説明がつかないと言う」
「マクロファージですか。白血球と共生というのも現実的にはないだろうから、貪食なアメーバみたいなのを想像すればいいんですか。しかし、どうやって共生するんでしょうね。細菌なんだからマクロファージに食われて終わりみたいな気もするし」
「共生、というのも物の例えだよ。細菌だけでなんとかしたわけではないだろう、ということだ」
「なるほど」
「だがそういうことではなくて、私はエポキシコラが人為的に作られたんじゃないかという気がする」
「作られた細菌というと、遺伝子改変の結果ということですか」
「あれだけ多種の能力、窒素を固定したりアンモニアを作ったり、そうしたことを細菌一種のみで賄ってしまうというのはいかにも不自然だ」
「エポキシコラを人間が作ったとしたなら、目的は何でしょう」
「それはわからんよ。軍事的なものかもしれない。電子機器を無効にできる細菌だからね」
中山先生の意見に佳代は首を捻った。それを見て中山先生が質問した。
「丸沼さんは違うことを考えているのかな」
「ええ。私は細菌学が専門ではないからこう思うのかもしれませんが、細菌ってそもそもそういうものなのかな、って」
「そういうもの、とは」
「フレキシブルというか自由度が高いというか。どこにでもいるし、どこでも生きられるし。空中の窒素を固定するなんて他の生き物には出来ないし、抗生物質で抑えられると耐性菌が出てくるし、ペットボトルが作られたら分解する細菌が現れるし。だから、エポキシ樹脂を分解する細菌が誕生しても、これだけエポキシ樹脂が世の中にあったら不思議はないのかな、って」
「なるほど」
中山先生は感心していた。細菌の専門家であるだけに、どうしてエポキシ樹脂の分解などという困難なことが出来るのか。そこになにか人為的なものでも想像しないと無理だと思い込んでいたのだ。案外、そこにガラエポがあるからどうにかした、という単純な話なのかもしれない。
「細菌、って、分裂するときにどんな気持ちになるんでしょうね」
「細菌の、気持ち?」
「わたしが上の子を産んだ時、陣痛が長い間続いて凄く痛くて、やっと出てきた赤ん坊を見てほっとしたり嬉しかったりしたんです。また一人産みますけど、細菌が分裂する時も、細菌は痛かったり嬉しかったりするんでしょうか」
産前休暇は出産準備のために瞬く間に過ぎた。仕事上のメールは支給されたノートパソコンで受け取っていた。しかし、見るのがせいぜいで佳代がそれに返信することもなく、日々は過ぎていった。次第に分娩予定日が近づいてきた。
その間も世界は引き続き細菌に侵され続けていた。もはや電子機器という電子機器は、いずれ動かなくなるもの、という共通認識が生まれつつあった。世界は混乱するばかりでなく、後退し続けていた。携帯できない電話、自動停止装置のない鉄道、無線を頼りに離着陸する飛行機、レコードとテープレコーダで楽しむ音楽。ブラウン管のテレビ。未来はそうしたものにならざるを得ないと語られ、諦められつつあった。
ただ単に緑色の板、ガラエポが使えなくなるだけであるというのに。佳代がかつてパトリシアと話したように、世界は一九七十年代まで逆戻りしようとしていた。
季節は冬になっていた。
佳代が病院に検診に行くと、担当の産科の先生が紙のカルテを取り出して来た。以前に来た時、コンピュータが落ちて電子カルテが使えない、という話をしていたのを思い出した。
「紙のカルテには慣れましたか」
「昔は紙でやるしかなかったからね。いろいろと若い時を思い出しながらやっているよ」
佳代の担当医は、見た目が五十代ぐらいの男性だった。
「最近は、コンピュータにデータを並べて、患者に聞いた話も復唱して音声認識でカルテに入れる、それが当たり前になっていたんだ。でもコンピュータばかり見て、患者さんのほうを向いていないんじゃないかな、って気がすることもあってね。患者さんは人であってデータではない。そんなことを思い出させてもらった。このなんとかいう細菌には」
「エポキシコラです」
「丸沼さんが発見者だったっけね、先生」
病院で講義をしたのは覚えていたらしい。だが、医師に先生と呼ばれるのには違和感があった。
「赤ん坊は順調に育っていますよ。もういつ陣痛が来てもおかしくないから、明日でも明後日でもいいから入院してください。ベッドは空けてあるから」
「わかりました。今日と明日で入院の準備をします。では明後日に」
産科は二階だった。一階に降りようとしたらエレベータが止まっていた。一瞬、エレベータを制御するコンピュータに不具合があったのか、と思った。しかし看護師に聞いてみたらただの定期点検だという。予定では点検にあと二十分ぐらいはかかりそうだ。建物の端のほうにある、もう一台のエレベータを使えばいい、と言われた。
目の前に階段があった。建物の端まで行くのは面倒だ。一階分くらいなら歩いて降りようか、と思った。だが、階段を二段ほど降りて足を止めた。危ない。自分が妊婦なのを忘れていた。腹が邪魔して自分の足下が見づらい。思わず手すりを掴んだ。二階に戻ろうとした。
「手すり」
佳代は呟いた。その瞬間、様々なことが繋がった気がした。
(手すりを伝って、歩く)
佳代の手に、手すりは冷たく感じられた。金属製の手すりだ。ステンレス製だろうか。
「冷たい」
金属は触ると冷たい。熱伝導率が高い、つまり熱をよく伝えるために、体温を奪うから冷たいのだ。
佳代は、しばらくその冷たさを感じながら、手すりを握り続けていた。それから、
「そうだったのか」
と、呟きながら息を吐いた。
(どうしてこんな簡単なことに気づかなかったんだろう)
佳代は心の中で呟いた。
(わたしって、馬鹿じゃない?)
それから一時間半後、病院から自宅に戻った佳代は、手袋をして自室のノートパソコンに向かっていた。BCLEIから支給されたノートパソコンだ。
パソコンを立ち上げる時は緊張する。エポキシコラに侵されていれば、パソコンがそもそも立ち上がらないからだ。
無事に立ち上がった。これで電子メールが打てる。とにかく、佳代は一刻でも早く自分の考えを伝えたかった。
To:東山様
CC:中山様、荒井様、里川様、岩木様、田沢様、松山様、米沢様、高畑様、塩沢様
丸沼佳代です。
お世話になっております。
東山様は、ガラスと同程度の強度があり、それでいて熱伝導率の高い絶縁体を何かご存知でしょうか。もしあれば、ガラスの代わりにその物質を使って、エポキシコラの繁殖性に変化があるか、調べてみたいのです。
送信した。
送れたことにほっとして脱力した。腹が重く動きたくなくてぼんやりしていたら、東山からすぐに返事が来た。
丸沼様
東山です。
ご指摘の絶縁体はあります。TCI、Thermo-Conductive Insulatorと言います。価格はガラスよりも高額ですが、強度もありますし加工もできるでしょう。
ところで、なぜそのような絶縁体をご所望なのか、教えていただけないでしょうか。
ああ、そうか、と佳代は呟いた。説明を忘れていた。興奮しているとこういうことがある。夢中になって要点だけ話して前後の経緯について話すことを忘れてしまうのだ。
落ち着いて、なるべく丁寧に、と思いながら佳代は返事を書いた。
To:東山様、中山様、荒井様、里川様
CC:岩木様、田沢様、松山様、米沢様、高畑様、塩沢様
丸沼佳代です。
お世話になっております。
エポキシコラはガラスに偏在している時に、細菌同士で何かしらの情報伝達あるいは情報収集を行っていると思われます。その結果、その時に窒素を同定するかアルカリ溶液を生成するか酸溶液を生成するか酵素でエポキシの自由エネルギーを下げるか、種類の多いエポキシコラの中から、どのエポキシコラが分裂し繁殖すべきか選んでいるのです。その情報収集、伝達、分裂繁殖は、一般の細菌におけるようなコロニーでは効率が悪いのです。
餌を見つけたアリが、行進しているアリにその情報を伝えている様子が連想されます。エポキシコラはガラスに集まり、ガラスの周囲で情報を交換し、どの遺伝子を増やすべきかを決定し、分裂し繁殖して、ガラスからエポキシ樹脂を分解しつつ周囲に拡がっていくのです。手すりを伝って進んで行くようなものです。その手すりがガラスです。
一方、エポキシコラは熱を奪われることを嫌います。エポキシ樹脂を分解するのも、分解して得られる熱エネルギーを得て繁殖するためです。元々エポキシコラは熱帯産のようで、熱を奪われまいとします。そこで熱伝導率の高い金属を嫌うのです。ガラスは熱伝導率が低く、熱を奪われにくいのです。それでエポキシコラはガラスを好んでいます。
そこでガラエポのガラスを熱伝導度の高い絶縁体に変えれば、エポキシコラの繁殖を防げると思うのです。
中山先生にお願いがあります。東山殿にTCIを用いたプリント基板を作製して頂いたら、第一研究室でエポキシコラの繁殖性について調べてください。
四十分後、東山から「やってみます」という返事がきた。
「中山先生も第一研究室、第四研究室の研究員も、みなさん大いに乗り気です」
とも記されていた。
その二日後、佳代は入院した。入院した翌日に陣痛が始まった。
「奈菜の時よりも安産で良かった。でも、男の子が産まれるとは思っていなかった」
自然にまかせよう、ということで、佳代も秀郎も産まれるまで赤ん坊の性別を知ろうとしてはいなかった。ただ、キュリー夫人には娘が二人いた、というそれだけを根拠に、秀郎は娘が産まれるものと確信していた。
「だから、わたしはキュリー夫人じゃないって。旦那さんもピエール・キュリーじゃないし」
「俺にもピエール・キュリー並の才能はあると思うんだが」
「そうかもしれないけど、そもそも旦那さんは物理学者じゃないし」
「それもそうだな」
「この子の顔、父親に似てるよ」
「俺は君のお父さんに似ていると思う」
「男の子、欲しかったんじゃないの。キャンプに連れ出したいとか。キャッチボールしたいとか」
「いや、それはどちらでも良かった。奈菜だってキャンプに行きたいとか山登りしたいとか星を見に行きたいとか言えばついてくるだろうし。キャッチボールはわからないけど」
「連れていっていいよ。娘が父親についていくのなんて今のうちだよ」
単身赴任生活が長かったので、奈菜は秀郎とたまに映画に行くくらいで、一緒に出かけるということ自体が少なかった。
「それはそうかもしれないが、まあ、当面は赤ん坊に集中しよう。奈菜にも赤ん坊を育てるのは大変で煩くて可愛くて面白いと知ってもらおう。最高の教育だ、それは」
「名前、どうしよう」
「女の子が産まれるものだと思っていたから、男の名前は考えていなかったな。奈菜の弟だから、ハチ、はどうだ」
もともと、奈菜という名前も七月生まれというところから来ている。秀郎の発想は簡単明瞭だった。
「ハチか。いいけど。でもちょっと犬っぽいかも」
「犬ね。犬を飼いたかったのは山々なんだが、賃貸マンションだとね」
秀郎が単身赴任中、丸沼家に生き物はいなかった。だが、秀郎が単身赴任を終えて常時住むようになってからはハムスターと熱帯魚が飼われている。動物行動学者である秀郎は、そもそも生き物を見ているのが好きなのだ。
「新築マンションに移ったら飼ってもいいよね。犬猫は飼ってもかまわないっていうマンションだし」
「後は奈菜がどう思うかだな。犬猫の類いは誰か家にずっといる人が面倒を見ないといけないから」
赤ん坊の話がいつの間にか犬の話になっていた。佳代が話しを戻した。
「犬の話は置いといて、ハチって、漢字はどうするの」
「葉っぱの葉に、知るに日の智」
「なんでその漢字?」
「俺は動物行動学をやっているけど、植物も大事だよと。それに葉って、あれで呼吸して光合成までしているんだから、たいしたものなんだよ。その上で、人格を高めてほしいから仏教用語の方の智慧の智」
「葉智か。いいんじゃない? おーい、ハチだってさ、君の名前」
佳代は、しわしわの赤ん坊に声をかけた。
「ああ、そうだ。子供が産まれたって、中山先生に電話で話をしたよ」
秀郎は子供が産まれるとあちこちに電話を掛けまくったらしい。
「先生、何て言ってた?」
「おめでとうって。君たちの子供なら優秀な人間になるだろうとも言われた」
「そう? 私、自分が優秀だとか思わないけど」
「ああ、丸沼君はクリエイティブだが、丸沼さんはリーズナブルだなと言われた」
「それ、ほめてるの? ほめてるとして、どちらをほめてるの?」
「両方ほめているつもりらしい。俺は発想に飛躍があると。それでその飛躍を埋めるために現実の動物を観察しているんだろうって。でも佳代は一歩一歩積み上げるような考え方をするって。時間はかかるけど積み方で間違えることがないと」
「ふうん」
鋭い発想とか洞察力とか、そんなものは自分にないと佳代は思っていた。それでもそれならそれで良い所もある、と言ってくれたのだろうか。
「ウサギとカメみたいな話でさ、ウサギにはウサギの長所があるしカメにはカメの長所があるんだよ。それに」
「なに?」
「出産直前の佳代のアイデアは地球を救うかもしれない、って言ってた」
科学関係の仕事は、一般に淡々と行われる。大発見に興奮して、ヘウレーカと叫びながら裸で道を走る、という劇的なことはなかなか起きない。なかなか起きないからアルキメデスの一件は伝説になっている。
東山の第四研究室では、TCIを用いたプリント基板を設計し、製作を東山の出向元である日本ヒマラヤ工業に注文した。それが出来上がると第一研究室で一般的なガラエポとの比較実験が行われた。実験には、田沢、岩木、米沢が担当した。
結果は明らかだった。ガラエポではこれまで通りエポキシコラが繁殖し、エポキシ樹脂がガラス周辺から分解されていった。しかしTCIを用いたプリント基板は、エポキシ樹脂表面がわずかに分解された程度で、エポキシコラが増殖することがほどんどなかった。
「このTCIを使えば、問題なく使用できる」
「こんなに劇的に変わるとは」
「これ、丸沼さんのアイデアなんでしょう。さすがですね」
田沢、岩木、米沢はそれぞれに感心した。
「それじゃ、大成功した記念に、三人で飲みに行きませんか」
岩木が提案したが、二人はのってこなかった。
「いや、今日は家で女房と話をしないと。子供の教育の件で今朝どうしても早く帰ってきてと言われてきたんだ。もう帰らないといけない」
と田沢が言えば、
「すみません、今日は友達と先約があるんです」
米沢は微笑みながら断った。
「うーん、田沢さんは妻子持ちだから仕方ないにしても」
一人残された岩木は無念そうだった。
「米沢さんは最近よく笑うようになった。しかしそれは俺がアプローチをしたからではない、と。今日の用事だって本当に友達との先約なのか。これはもう俺は、米沢さんを諦めた方がいいんだろうか」
レベル3の実験室から最後に出た岩木が居室に戻ってみると、田沢と米沢はもう帰っていた。
「おや?」
名札を見ると高畑がすでに帰宅していた。
「珍しいな」
仕事熱心な高畑は働き方改革など意に介さず、遅くまで仕事をしていることが多かった。それがさっさと帰るということは、何かプライベートな用事があったに違いない。
「あれ、米沢さんの先約っていうのは、ひょっとして」
ここ数か月の米沢の様子を岩木は思い出していた。彼女は最近よく笑うようになった。それなら、誰と一緒にいた時に一番よく笑っていたか。
「高畑だ」
そんなバカな、と思った。いや、だが、無口だった高畑は、以前よりもよく話すようになった。誰と一緒にいた時に一番多く話していたか。
「米沢さんだ」
(そういうことだったのか。いつの間に)
ふと振り返ると、そこに学生の塩沢がいた。
「塩沢くーん。もし今夜、暇だったら飲みに行かないかい? おごるよ」
「祝い酒ですか? さっき田沢さんと米沢さんが、大発見だ、と言いながら帰っていきましたが」
「祝い酒か。いや、やけ酒かな」
「どちらにしても申し訳ないです。今日は祖母の誕生日なんで、塩沢家はどうしても全員で集まらないといけないんです」
他に誰も付き合ってくれる人はいなかった。しかたなくその日、岩木は独りアパートで祝い酒兼やけ酒を飲んだ。
BCLEIと日本ヒマラヤ工業の共同で特許が書かれ、学術論文が執筆された。
それに目途がつくと、新聞発表が行われた。経済紙、業界紙ばかりでなく一般紙の記者も含め八社がBCLEIにやってきた。
新聞業界もエポキシコラのせいで大変なことになっていた。電子機器が使えなければまず記事が会社に送れない。電子機器が無ければ記事を組んで紙に印刷することも出来ない。鉛の板を印刷に使っていた時代に戻すことが出来ないか、と真面目に議論されていた。しかしもう鉛版を扱える職人がいないし、鉛自体が環境汚染への影響があるからと現代では使用が制限されていた。
どこの新聞社も蜘蛛の糸を登るような、危うさの中で紙面を作っていた。新聞社の関心の高さは、新聞社自身の危機感を反映していた。
中山先生と東山が発表した、TCIを使用したプリント基板の実験結果は記者たちの関心を呼んだ。
「TCIは窒化金属系で、ベースは窒化アルミニウムです。ガラスとの違いは電気伝導度が高いことで、それが細菌の繁殖を抑えました」
そうした発表内容に記者から質問が飛んだ。
「TCIを実際に使用する上で問題点がありましたらお願いします」
その記者は慎重に問いかけた。科学者が何か画期的なものを発見しても、それを実用に使うまでに困難があるのでは価値が減じてしまうからだ。
「多層基板にするのでなければすぐに使えます」
東山の口調は明快だった。
「多層にする場合には、加工精度とか耐久性とか、まだ調べなければならないところがあります」
単純な構成ならこのままでも問題ないが、複雑なプリント基板を作る場合はまだ自信が持てないということだ。
「でもそれは研究が進めばクリアすることが可能だと思います。問題点はもう一つ。価格が上がります。プリント基板としては何倍か高額になるでしょう。しかしそれも数が出るようになれば抑えられるし、そもそもプリント基板自体の価格は上に乗せているLSIに比べたら大したものではありません」
東山の発言は、正直だがポジティブな回答だと、記者らには好意的に受け止められた。
「東山さんにTCIを用いるというアイデアが浮かんだ詳しい経緯についてお伺いしたいのですが」
東山は質問を遮った。
「最初にアイデアを出したのは私ではありません」
「それでは第四研究室のどなたか別の人がアイデアを出した、ということですか」
「いいえ。第一研究室の丸沼さんによるものです」
「その丸沼さんは?」
質問した記者は発明に関わる人物がここにいないことを訝った。
「現在、育児休暇中です。この案を出してくれた時は出産休暇中でした」
中山先生が言葉を繋いだ。
「この発明がエポキシコラを抑えることができる、と我々は確信しております。もしそうなったとしたら、世界を救ったのはひとりの妊婦だった、ということになります」
後退しつつあった文明は、すぐに前進に転じたわけではなかった。研究と開発、開発と製造の間には暗くて深い川があり、一般には何年、時には何十年という時間がかかるものだ。
だがTCIを用いたプリント基板は時間がかからない方に属した。日本ヒマラヤ工業は四か月間でサンプル出荷に漕ぎつけることができた。技術的な問題ばかりでなく、権利関係の整備も必要だったが、それもBCLEIと日本ヒマヤラ工業が全面的に協力してクリアした。
TCIを用いたプリント基板は、多層積層基板ではないため大きな面積を要し、価格も高かった。そこでまず中規模のスーパーコンピュータのうち、床面積と予算をあまり気にしないですむ用途のものから普及していった。問題なく動作可能であることがわかると、小規模、大規模のスーパーコンピュータ、サーバ、デスクトップコンピュータへと普及範囲が広まっていった。その間、BCLEIと日本ヒマラヤ工業は多層積層基板の技術を着々と高めていった。
その頃、TCIとは微妙に材料成分が違うプリント基板を、アントワーヌ研究所とストーンズフォロー研究所がそれぞれ独自に開発した。この二つの研究所とBCLEIは長い時間をかけて特許権を争うことになった。ただ、欧米でも開発が進んだことで、エポキシコラに侵されないプリント基板は世界的にますます普及することとなった。
世界は次第に、元の姿に、電子情報通信時代へと回帰していった。