3.Results ―結果―
3.Results ―結果―
エポキシコラによる被害が拡大するにつれて、エポキシコラ対策も拡がってきた。パソコンの店や家電量販店の入り口で、手を消毒し手袋をして店内に入るのは当たり前になった。
第一研究室のミーティングが終わってなんとなく雑談が始まった頃、岩木が秋葉原に友達と行った話を始めた。
「その友達が、実家が九州で農家やってる、って奴なんですよ。牛だの鶏だの飼っているらしくて、そうしたらパソコンの店の入り口で……」
靴を消毒マットに押し付けながら、その友人が呟いたという。
「牛の伝染病が流行った時に似たようなことをした」
岩木は笑いながら答えた。
「牛の伝染病って、それは田舎すぎる話だな」
しかしパソコンショップの店員は笑わなかったという。
「実は店長が、農家では家畜の伝染病対策でこんなことをしている、と聞きつけてまいりまして、ここで靴の消毒を行っております」
岩木は思わず愚痴ったという。
「俺らは牛を見に来たのか」
ところが農家出身の友人は真面目な顔でこう答えたという。
「パソコンは、牛と同じくらい、大切な商品ということだ」
秀郎は本当に東京理工大の准教授になり、佳代や奈菜と東京で暮らすようになった。
「お父さんが毎日家にいるのって、なんか変」
奈菜は違和感を口にして、父親を悲しませた。
「俺がいたら駄目なのか」
「お父さんは遠くにいる時は偉くて優しい人だと思ったけど、家にいたら下着で歩き回ってだらしないし、優しくなくて部屋をかたづけろとか時々怒るし」
「ああ、うん、奈菜の言う通りだ」
「奈菜が小さくて、お父さんが家にいた時と実はそんなに変わらないんだけどね。暑い時は下着でうろうろしていたし、奈菜が散らかしたおもちゃやお人形に怒るのはお父さんのほうが先だったし」
「へえー。でもなんだか、家にお父さんがいて、いろんなことがやりづらくなった気がする」
「やっぱり俺がいたら駄目なのか」
秀郎はやはり悲しんでいた。
「大学は忙しいの?」
佳代が話を変えた。
「今はそうでもないが、後期からもう講義が入る。準備はしているが学生に話すというのがどんなものなのか。単位を与えるために試験があるわけだが、何をしたら試験になるのか。どうもわからないことが多い。泉先生にいろいろ聞いてみたりしている」
秀郎は研究の時には一人で突っ走ることが多いのだが、大学の中では勝手が違うようだった。
エポキシコラのために、世の中は次第に不便になっていった。
「ぼくの家で、テレビのリモコンが使えなくなった」
そういった会話が、学校などで頻発するようになった。
「こっち来るな。リモコンについていた細菌がうつるだろ」
などと、エポキシコラがいじめの原因になることもあった。
子供たちが、友達同士で集まってゲームをする、という光景も見られなくなった。電子機器を複数人で扱うと、それだけゲーム機が細菌に侵される機会が増えるからだ。子供たちは虎の子のゲーム機を一人きりで扱うようになった。
だが、一人でネットゲームをしていても安心はできなかった。ゲーム機もディスプレイに使われるテレビもいつ動かなくなるかわからないからだ。大手プロバイダーのサーバがダウンして、ユーザーのインターネットが使えなくなる事件も起きた。
目の前にある、ガラエポを使用している電子機器がいつ止まるか、誰にも予想がつかなかった。
一方、自家用車では比較的トラブルが少なかった。車載LSIは一般の人が直接触ることが少ないからだった。むしろ点検を熱心に行う業務用の車の不具合が目立っていた。人の手が入る回数が多いほど、エポキシコラに感染する機会は多くなるのだ。
自動車では、LSIで制御しているエアコンが動かなくなる事例もあった。そうした時には、
「エンジンでなくて良かったですよ」
などとユーザーはサービス員に慰められることになった。このころの車関係の店、あるいはディーラーでは、車を一台整備したらその時に使った手袋は焼却する、ということが常識になっていた。
エポキシコラ感染が重大な影響をもたらす領域がもうひとつあった。医療である。
ある日、妊婦の佳代は病院へ健診に行った。順調ですよ、と言われた。それは良かったのだが、医師の次の言葉に驚いた。
「最近、動かないパソコンがいくつかあってね。これも調子が悪いな。電子カルテが読めない。あ、電源が落ちた」
「先生、お願いですから、素手でパソコンを触るのだけは、やめてください」
佳代は叫んだ。普段は大人しい患者が、突然大きな声を出したので、医師は驚いた。
「この病院には、パソコンを動かなくさせる細菌が蔓延しているんですよ。テレビも新聞も見ていないんですか」
「なんだね、それ」
佳代は呆れてものが言えなかった。いや、言えないままではまずいと思って、佳代はエポキシコラのこと、その細菌がどれだけ蔓延しているか、この細菌が病院ではびこることがどれだけ恐ろしいかを力説した。
「ああ、そう言えば、スマホやパソコンが動かなくなるような細菌がある、とテレビで聞いたことがあるな」
「それです」
「他人事だと思っていた。ううむ。丸沼さん、これは私一人が聞いていてよい話ではない。病院のスタッフ全員が知らなければならない重大事だ」
結局、一ヵ月後、佳代はこの病院で医師とスタッフを集めて、一時間程度の簡単な講演をすることになった。評判は良く、もっと大きな会場で大々的に医療関係者を集めて行ったらどうか、と院長先生に言われた。自分は妊婦だからと丁重に断った。大きな会場で大々的に、となればそれなりに準備期間も必要だし、その頃には自分が臨月を迎えそうだったからだ。
「いや、そうした話をしてくれ、と言ってくる人は多いよ。わたしもずいぶん付き合いのあるところで講演を頼まれるんだが、仕事にならないから出来るだけ断っている」
とは、佳代から話を聞いた中山先生の弁であった。
琵琶にそうした話をすると、
「学会ばかりではなく、講演みたいな、そうした形での周知も必要ですね」
と逆に乗り気だった。やがて経産省肝いりの講演会が各地で行われた。中山先生も、結局それに駆り出されることになった。
エポキシコラによる被害は新興宗教にも影響を与えていた。エポキシコラにより電子機器がことごとく動かなくなったことに対して、これは機械の無い、原初の世界に戻れ、という神の意思だ、と主張する宗教が現れた。
その中の過激な信者たちは、その細菌と戦っている人々、例えばBCLEIを敵視した。彼らは十人ほどでBCLEIをアポイントメントなしで訪れ、その正門前でデモ行為を行った。
暴力的なことは何もせず、
「人間は自然に帰れ」
「エポキシコラは神の意思だ」
などとその十人ほどが叫んでから、代表者がパンフレットを渡したいと言ってきた。琵琶が対応してパンフレットを受け取った。琵琶が受け取ったことを確認したら、彼らは去っていった。
佳代もそのパンフレットを見たが、A4の広告紙の表裏に黄色地に黒字で彼らが叫んでいた文言が書かれていた。人間は自然に帰れ、などと。
BCLEIで働く人々は、なんなんだあの人たちは、と口々に文句を言い合った。
「ああいう連中はいつの時代にもいる。文明に反発して、時を戻して安心したいんだ。何らかの新しい技術を失ったからといって、昔に戻れるわけではないのに」
中山先生が、何かを懐かしむかのような口調で話した。昔、似たような体験をしたらしい。
「でも宗教と結びつくとそんな理屈も通じなくなる。だが人は何かを信じたい。科学のような根拠のあるものを信じたいのではない。根拠のないものをこそ信じたい。縁なき衆生は度し難し、だな」
中山先生は、今度は首を振って悩まし気に自分の頭を抑えた。
「電子機器が再び当たり前に使えるようになったら、ああいう連中はここには来なくなるんだろうか。でもまた違うところに向かうんだろうな」
「細菌が強アルカリを作ってるわけじゃないですよね」
佳代が第一研究室の個別面談で研究計画の話をしている時に、岩木が唐突にそう切り出した。
「エポキシコラが強アルカリを作っている、っていう証拠はどこにもないけど」
「いや、化学に詳しい友達に聞いたんですよ。エポキシ樹脂を分解したかったらどうする、って。そうしたら強アルカリ溶液に入れて千℃に熱する、って簡単に言われたんです。でも工夫すれば千℃もいらないっていう論文がありますよね。だから、エポキシコラが強アルカリを作って局所的にでも高温にしたらエポキシ樹脂を分解できるのかなって。すみません、研究計画と関係ありませんね。エポキシコラは強アルカリを作っていないし。そもそもそんなに高温にしたら細菌が死滅するし」
「ううん、研究計画と関係あるかもしれない」
佳代は首を捻ったあとで頷いた。
「エポキシコラはアンモニアを作れる。それは弱アルカリ。それで強アルカリで高温にするのと同じ効果が出せる。となると触媒、たぶん酵素。恐らくは微量物質。どうやって調べようか」
「ガスクロマトグラフィーで引っかかりますかね。といってここまでその手のものは何も引っかかってないですよね」
「まだ引っかからないが存在する何か、があるのかもしれない」
「考えてみましょうか」
その日はそれで終わった。
「熱に対して不安定なものだとガスクロでは引っかかりにくいですよ」
別な日に第一研究室のミーティングで田沢が発言した。
「そもそもガスクロは最初に熱分解から始まるんですから、分解されたものから原型を探らないといけない」
「それもそうね」
微量な酵素があるとして、何か生化学的な方法を試さなければならないだろうか、と佳代が思ったところで、高畑がボソッと呟いた。
「これ、ちょっと、自分にやらせてもらえませんか」
普段、あまり話さない高畑の積極的な発言には驚かされた。しかし佳代は、部下から前向きな提案があったら妨げないことにしていた。
「ええ、やってみてください」
つわりが薄れてきたところで、佳代のお腹は膨らみが目立ってきた。朝の家事は秀郎が参加してくれて、佳代は早めに家を出て通勤ラッシュを避けようとしていた。それでも電車の席は空いていないのだが、妊婦だと時には席を譲ってもらえることもあった。
そんな頃、秀郎が、マンションを買おう、と言い出した。子供が二人いたら現在の賃貸マンションでは手狭だし、自分も安定した職業についたのだから二人分の給与があれば、返済も問題ないだろう、と言う。それもそうかと思った。最寄り駅近くの奈菜の学校が変わらないところで、ちょうど新築のマンションの説明会があったから行ってみた。モデルルームが気に入ったので抽選に申し込んだ。
秀郎が加わり、次の出産に向けて丸沼家は順調に回り出していた。しかし世の中は逆に、エポキシコラのおかげで次第に圧迫感を強いられる状況になっていた。それまで当たり前に使っていた機械がいつ動かなくなるのか、誰にも予測がつかなかったからだ。
その日、佳代は米沢聡美と五・六人程度が入れる小さめのミーティングルームで、研究内容について個別面談をしていた。部屋の中で二人きりだった。
「エポキシコラはマイナス五℃からプラス四十℃まで増殖するのか。範囲が広いね。冬の北海道なら増殖しないんだろうけど」
「でも温度がそのままでも、途中で増殖が止まるんですよ。エポキシ樹脂だけだと。なんでなんでしょうね」
「私が調べた時もそういう傾向があったから、ここで米沢さんのような専門家がちゃんと調べても同じってことか。たぶん、エポキシコラの本質に関わるのかな」
話が一段落した。話の最中も米沢の視線が泳いでいたことに佳代は気づいていた。視線の先が止まる片方の場所は膨らんできた佳代のお腹だった。それは目立つものだからまだわかる。しかし視線の先のもう一方は佳代の左手に注がれていた。
何を見ているのだろうと佳代が思った時に、米沢がぽつりと呟いた。
「丸沼さんって、女の幸せ満喫、って感じですよね」
「は?」
唐突に言われたので、間抜けな聞き返し方をしてしまった。
「結婚していて、子供もいて、旦那さんも優秀な研究者だというし、また子供が産まれるし、マンションを買うとかいう噂も聞いたし、それでいてエポキシコラの発見者で世界的に有名だし。ちょっと羨ましいな、って思って」
視線のもう一方の先は、佳代の結婚指輪だったのか。
「はあ、傍からはそう見えるのね」
思わず佳代はため息をついてしまった。
「違うんですか」
「ついこの間まで、旦那が単身赴任でほとんどシングルマザーだったんだけど」
「でも今は一緒にいるんですよね」
「そもそもうちの旦那さんは生き物マニアで、生き物を追いかけていると自分が住んでいる家を忘れる人なの。今は生き物と同じくらい面白そうなものが家の近くにあるから家にいるだけ。マンションを買おうって話を二人でしているけど、そこに落ち着こうっていうよりは、旦那さんはマンション購入プロジェクトが面白いからやっているみたい。それにわたしがエポキシコラを見つけたのは、たまたまでしかないの。そうしたら周りに持ち上げられて、それに流されていたら研究室長なんてものになってしまった。シンデレラみたいに幸運に巻き込まれたように見えるけど、このシンデレラは別に舞踏会に行きたかったわけじゃない」
「はあ」
今度は米沢がため息をつく番だった。この丸沼さんという人は、家族に恵まれていて幸せで才能があって仕事上の幸運も掴んでいる。それが自分でわからないのだろうか。そういうため息だった。
「聡美さんはどうなの」
米沢さん、ではなく、佳代は初めて名前で呼んだ。
「若くて綺麗なのに、女の幸せには縁が無いの?」
「別に綺麗じゃないです」
米沢は笑いもせずに横を向いた。
「あたし、会社で付き合っていた男の人がいたんですけど」
横を向いたまま、米沢は佳代相手に語り始めた。
「半年くらい前に喧嘩して、大した喧嘩じゃなかったから、それに向こうが悪いって思っていたし、そのうち謝りに来ると思っていたら、何も言ってこなくなって、そうしたら会社の中で彼が別の彼女を作って、もうすぐ結婚するって話を聞いたんです。そうしたら仲の良かった会社の友達が私に対して腫物に触るような扱い方をするようになって。だから相談相手もいなくて、もう頭の中がぐちゃぐちゃになって、そうしたらここに異動する話があったから、もう逃げるようにしてやって来たっていうか」
BCLEIに来た頃から塞いだ顔をしていたのはそんな理由があったのか、と佳代はようやく合点がいった。
「すみません。いきなりこんなプライベートなことを言って。ずっと誰かに話したかったんです」
「話せた、ってことは、頭の中で整理がついた、ってことじゃないの」
米沢は少し目を見開いた。驚いていたのだ。
「整理がついたんなら、以前の相手をくよくよ考えるより、次の相手を探したほうが生産的なんじゃないのかな」
「生産的、って?」
「私の出向元の会社は半分工場みたいな事業所だったから、ついそういう言葉が出てしまうの」
「はあ」
深刻な顔をしていた米沢の顔が、呆れたのか脱力したものになった。
「どうなの。次の相手。岩木君なんかさわやかでよさそうじゃない」
若い男性は女性を好奇の眼で見るものだが、佳代には、岩木が米沢を見る目に、好奇心以上の感情が混じっている気がしていた。
「あー、駄目です。さわやかで人当たりのいいところが元カレに似てるんで。ちょっとトラウマっていうか」
なかなかうまくいかないものである。
「幸せになりたい、か。幸せ、って漢字の成り立ち、知ってる?」
「いいえ」
「手に枷をした人の姿だって」
「え? それが何で幸せなんですか」
「罪人の中でも、車裂きにされたり、首を括られたり、足を斬られたりするよりましだからだって。昔の中国って残酷な刑罰が多かったらしい。だから手に枷で済むんだったら幸せだと」
「へえ。よくご存じですね」
「私の旦那さんが言っていたの。博識だから、うちの人は」
そして秀郎は、成り立ちを知ると幸せという漢字が好きになれない、とも言っていた。
「幸せ、って枷なの。自分を縛るもの。仕事は枷だし偉くなるほど縛りがきつくなる。家庭も枷。結婚したらどうしたって旦那さんに左右される。子供はなおさら。お腹の中に赤ん坊がいたら動きが取れなくなるし、産まれたらもっと動きが取れなくなる」
佳代は米沢に左手の薬指を見せた。
「さっきからこれを見ていたんでしょう? これは枷の代わりに巻いているもの。幸せになりたいの? 聡美さんも枷が欲しいの?」
週に一度の室長会議で、第四研究室長の東山がボソリと発言した。
「ガラスのまわりから食われていくんですよね」
東山によれば、エポキシコラはガラスの周囲からエポキシ樹脂を分解していくという。
「ガラスを手すりがわりにお年寄りが歩いていくみたいな印象があります。そしてガラスの周りの食べ物を取っていくと」
「確かにエポキシ樹脂だけだとエポキシコラがあまり増殖しないですね」
佳代が自分や米沢の研究結果を話した。
「ガラスが何をするっていうんですかね」
ガラスは液体の構造のまま固化した酸化シリコンである。安定な物質なので化学反応に関わるとはとても思えなかった。
「なんででしょう」
誰も何も思いつかないので、会議は別の話題に移っていった。
「抗菌グッズについて調べて欲しいという要請が経産省から来ているんですよ」
その会議で琵琶が発言した。経産省からとなれば簡単に断ることは出来ない。
「抗菌を謳い文句にした電化製品が巷に沢山出てきたけれども、実際に効果があるのかという話です」
エポキシコラによる被害が起きにくい家電であると宣伝された製品が出ているが、それでも被害は出る。実際のところ効果があるのか問われているという。
「検証というわけか。ここの研究や対策とは少し外れた話のように思うが」
中山先生は気乗りのしない様子だった。
「しかし、エポキシコラを直接扱える研究所が他にありませんから」
「なるほど。とはいっても、手を挙げる人がいるかな」
「誰もやりたがらないんですね。私がやりましょうか」
佳代が発言すると、その場にいた人たちが驚いて目を見開いた。私のところで、ではなく、私が、と言ったからだ。
「いや、第一研究室の誰かに」
「うちの人たちはみなさん、それぞれにテーマがありますし。それに私は鹿上精工では分析の便利屋でしたから、この類いの仕事なら慣れた業務ですけど」
「いや、あの、妊婦の室長にそんな」
「手が空いている人がやるべきですし、妊婦だからと仕事を制限されるのは不本意です」
室長の手が空いているわけがないだろうと中山先生が主張し、第三研究室長の里川も自分のところで半分やりますから、と声を上げた。佳代は仕方なく残り半分を第一研究室の田沢さんと協力してやりますと答えた。
秀郎が申し込んでいた新築マンションの部屋の抽選が当たった。
「いやあ、本当は一軒家がいいかなと思っていたんだけどね」
「一軒家は高いよ。それにそう都合よくここの近所に空いている土地もないでしょ」
「そうだね。ちょうどいい場所に新築マンションが建って都合がいいというか運がいいというか。奈菜も学校が変わらなくていいし。買えてよかった。このマンションは一時期流行したオール電化ではないところがいいね。セントラルでコンピュータ管理とかをされると、そこがエポキシコラで止まったらどうなるんだってことになるし。アナログの部分は残してもらわないと」
「そういう話をすると、時代に合っているんだか、進んでいるんだか、退行しているんだか、わからないね」
「最近は、アナログですとか、マイクロコンピュータが入っていませんとか言って電化製品を売るのが流行りになってきたから、わけがわからない」
「自分が発見したもののせいでそうなったと思うと複雑な気分」
丸沼家の部屋は新築マンションの三階だった。
「いざという時に歩いて地面に降りられるほうがいいね」
これは秀郎の意見だった。
ともあれ、第二子出産を控えた丸沼家一同は、佳代の出産後に、新築マンションに引っ越すことになった。
ミーティングで高畑がガスクロマトグラフィーの結果を話した。「自分がやりたい」と彼が言ってから一ヵ月経っていた。
「エポキシ樹脂が分解されているんですが、酵素が化学エネルギーを下げていますね。それでアンモニアでも分解できるというストーリーです」
高畑はストーリーという言葉を使った。科学者はあまり使わない言葉だ。
「問題はその酵素が何かなんですが、エポキシ樹脂がどう分解されたかはガスクロでわかっても、そっちまではわかりません。これはまず業者さんに送ります。東都分析さんなら技術は信用できます」
酵素を同定する装置はBCLEIにはなかった。何もかも自前で用意することは出来ない。そこは外注するということだ。
「ですが、東都分析でもわからないような気がします」
「え? さっき、技術は信用できるって言ったんじゃないの」
「ええ。でも安定な酵素ではないかもしれません。東都分析さんに送る前に壊れているかも」
「どういうこと?」
「不安定な、例えば数分間だけ存在しうる酵素が働いている、ということがあるかもしれません。というのは、分解して何が出来たというところまではBCLEIが世界で最初に明らかにした、というわけじゃないんです。エポキシ樹脂がどう分解されたかは他所でもデータが出ています。ダイマー、モノマー、アミン類、ピクリン酸とか。それならそこに酵素が働いたとか、似たようなことは他でも考える。アントワーヌ研とかでも。しかしその酵素は見つかっていない。ということは見つからない理由があるのかもしれない。出来てすぐ分解するものなら容易には見つからない」
「なるほど」
「エポキシ樹脂はエポキシの種類にもよりますが、強酸で熱をかけて分解できるものもあるし、強アルカリで熱をかけて分解できるものもあります。一方、エポキシコラは弱酸強酸も作るし弱アルカリも作れる。でも室温です。室温でどうにかするということは、どちらも酵素でハードルを下げている、その酵素が尋常な方法では見つからないとしたら」
「酵素ね。それも不安定な酵素。それが何かを見つけないといけない、と」
「酵素を同定する機械、買えませんかね。時間勝負になる気がします。エポキシ樹脂をエポキシコラが食っているまさにその時に、酵素の構造を調べる。それが出来ないとわからないんじゃないですか」
ふだんは大人しい高畑が、興奮気味に発言をするのは意外だった。
「結局、予算か。琵琶さんに相談してみるね」
第三研究室長の里川に相談したら賛成してくれて、琵琶を交えて交渉した。酵素構造解析の装置購入はすぐには出来ないが、レンタルなら使えることになった。
「大学だと科研費にエントリーするために書類を書いて審査されるところから始まるんですが、経産省肝いりだと話が早いですね」
里川は感慨深げだった。
「でもこれを買うお金も、国民の血税ですよね」
「国民の血税なんだから、やはり国民に返せるような結果を出さないといけませんね」
里川は自分に言い聞かせるように呟いた。
抗菌グッズの効果を調査するため、佳代がレベル3の実験室に入ることが多くなった。彼女の腹が膨らんでいるのは誰の目にも明らかで心配されたのだが、佳代は意に介さなかった。
「妊婦なのにX線回析だけはやめてくださいよ」
田沢はそう言ったのだが、
「なんで? これを買って入れた時に、ガイガーカウンターで安全なのは調べたでしょ。だから大丈夫」
まるで気にしない。実際、机にじっと座っているよりも何か体を動かしているほうが、佳代には気分が楽なのだった。
「お医者様も動きなさいと言っていたしね。妊婦は運動した方がいいって」
田沢は止めるのを諦めた。
「抗菌グッズは効くと言えば効くんですけど」
「どういう意味ですか」
室長ミーティングで、佳代の言葉は歯切れが悪かった。
「抗菌グッズとして銅線入りの靴下とか売っていたりしますよね」
「そうですね」
「調べてみたら、銅線があると、エポキシコラは避けるわけです」
「確かに、ガラエポでも、銅線のパターンがある所には、エポキシコラがいませんね」
東山が同意した。
「銀線でも金線でもエポキシコラは避けます」
「高価だから使われませんが、銀も金も抗菌効果があると言われていますね」
「ええ。そこでアルミならどうなのかと試してみました。対照実験です。すると、アルミ線も避けます」
「え? 銅の抗菌効果は銅イオンが効くからじゃないんですか。アルミのイオンが効くなんて聞いた記憶が無い」
「そもそもアルミは酸化しやすいから、そう簡単にアルミイオンの影響は出ないでしょうね」
「いや、それは決めつけでしょう」
「ともかく」
佳代は結論付けた。
「金属なら、なんでも良いみたいです」
その後、何種類か金属の細線を購入して実験したが、どの金属線、例えば針金でも有効で、金属線の周囲をエポキシコラは避けていた。
「針金よりは銅線のほうが多少は効き目が大きいみたいです。でも、針金でも効果があるなんて、金属の何が嫌なんでしょうね」
エポキシコラは、特定の金属イオンを嫌うわけではないらしい、ということしかその時はわからなかった。
ある日、佳代が家に帰ると先に帰っていた秀郎がテレビを見ていた。
「佳代のところにいる人がテレビに出てるよ」
「荒井さんかな」
テレビに出ていたのは、第二研究室長の荒井だった。
「そう。この人、先週もどこかのテレビ番組で見たよね」
荒井はエポキシコラが広まっていくと何が起こるかという予測をBCLEI発足直後に発表した。その後、エポキシコラの被害は彼の予測と似た形で拡大していった。それで彼は、マスコミに予言者扱いされていた。
「当たるも八卦だって本人は言っていたんだけれどね。それにテレビに出るのはそんなに好きじゃないらしいんだけど」
中山先生が、マスコミに呼ばれたら積極的に出なさいと言っている。正確な情報を流すことがエポキシコラの蔓延を防ぐ抑制策になるのだと。それでなかなか断れないそうだ。
その荒井がテレビで語っていた。
「例えば、タワーマンションのエレベータが、マンション管理室のコンピュータがエポキシコラに侵されたためにストップした、という事例などが出ています。タワーマンションで複数のエレベータを効率的に動かすのはなかなか難しい問題で、この頃はAIを使うことも多くなってきました。そこをやられたわけです」
「旦那さんがマンションを見に行った時と同じ話をしている」
「俺が話したのは一例だけど、荒井さんはマスコミに出ているから俺以上にいろんな情報が入ってくるだろうね」
秀郎と佳代が話している間も、テレビでは荒井が話し続けていた。
「この細菌は勝手に動くということはありません。必ず人間が運びます。ですから、手ですね。これが一番危ないです。こうしたプリント基板が入っている機器を素手で触ることで媒介されます。例えば、指紋認証というものがありますね。親指を押し付ける。その時にその親指を介して細菌が機械の隙間から入り込む、ということが起きています」
「認証のためにコンピュータが壊れてはいけませんね」
「全くです。現代はさまざまなところにコンピュータ、というか、このプリント基板が使われています。例えば、シンセサイザー。キーボードを叩くと様々な音色を出し、その音色を記憶することもできます。これが」
「鍵盤を素手で叩くわけですね」
「そうです。音楽をやっている人は手袋をして鍵盤を叩こうなどとは思いません。繊細な音が出せなくなります。しかし、この手から細菌が侵入して、コンサートでシンセサイザーが使い物にならなくなったという事例があります」
秀郎は感心していた。
「本当にいろんな情報が入っている。荒井さんって、プロの音楽家に知り合いがいるの?」
「いるみたい。あっちこっちに顔が広い人だから」
テレビでは荒井へのインタビューがまだ続いていた。
「もし電子機器、スマホでもテレビでもいいですが、このエポキシコラに侵されてしまったらどうなりますか。そして、どうしたらいいですか」
「基本的には、電源が入らない、という症状が一番多いです。他には何となくパワーが出なくなってフェードアウトしていくというか、弱弱しくなって動かなくなる。まず、そうした症状が出たら、その機械に触らないようにしてまず手を洗ってください。二次被害を防ぐためです」
「触らない、手を洗う、と。病原菌まみれのネズミの死体をどう扱うか、という例えでもよろしいでしょうか」
「良くない」
インタビュアーの声に反応したのは、テレビを見ていた佳代だった。
「ネズミの死体だと思ったら、実験室で触る時にやり方が変わるし」
「ものの例えだろう」
「ものの例えでもね」
佳代はそう言いながら自分の手を見つめた。
「手を洗ってばかりいると、手が荒れるのね」
「ああ、今日の夕飯は俺が作るよ。妊婦さんは同僚が出ているテレビでも見てくれ」
「ありがとう」
「共稼ぎで家事の分担は当たり前だから、礼はいらない」
秀郎は台所に行った。テレビでは荒井が話し続けている。秀郎にも聞こえるように、少し音量を高くした。
「それでは、手を洗った後はどうしたらよいのでしょう」
「手袋をして、その家電をビニール袋などで覆ってください。直接触らないように。そしてその手袋で他のものを触らないように、その手袋もビニール袋などに入れてください」
「もう、直すことは出来ないんですか」
「難しいです。最近は、自治体で専用の場所を設けて集めてくれる所も多いです。そこに廃棄してください」
国が廃棄方法のガイドラインを定めて、自治体に働き掛けていた。
「最初、うちでは普通に捨てちゃったね。もちろんビニール袋の中に密閉はしていたけど」
「当時は仕方なかっただろう」
丸沼夫妻の会話の間に、インタビュアーは違う男性に話しかけた。
「例えば、貴重なデータがあるといったことでどうしてもこの機器を救いたい、という時にはどのような方法があるでしょうか。また、根本的な解決方法は」
「エポキシコラは細菌ですので、活動できる温度が決まっています」
回答者の声が変わったのに、秀郎が気がついた。
「荒井さんじゃなくなったね。誰?」
「第三研究室長の里川さん」
「へえ。二人も出ていたんだ。佳代は出ろって言われなかったの」
「妊婦だから免除してもらった」
「電車の座席じゃあるまいし」
テレビの声が続いた。
「細菌が死滅するのはマイナス三十℃以下ですね。マイナス十℃以下ですと、死滅はしませんが活動しなくなります。例えば冬の北海道の外気なら影響は起きないかもしれません」
北海道と聞いて秀郎が呟いた。
「俺、北海道にいつづけていたら寒い中でパソコンを叩けって言われたかもしれないな。そこなら安全だからって」
「そうね。国の重要な機関を北海道に移設する、なんて話があってもおかしくないね」
「高温だと百十℃、三分くらいで死滅します」
里川はまだ話し続けていた。
「エポキシコラに侵された機器からエポキシコラを除く方法としては、これがもっとも簡便です。予防にもこの条件が使えるかもしれません。しかし、大抵の電子機器は室温以上で使うことを想定していません。高温にして壊れたら元も子もないわけで、兼ね合いが難しいですね。それから考えられるのは消毒ですが、どの消毒薬が効くのかはまだ明らかではありません。まさにいま調査中といったところです」
「里川先生、ありがとうございました」
番組が終わった。佳代はそれを機に秀郎に話しかけた。
「大学ではどう?」
「あっちやられた、こっちやられた、って大変だよ。俺のいるセミナーでは、実験とかを手袋必須でやっているからまだ被害は少ないけど、スマホがやられた大学院生が一人いた」
「それくらいが普通というか、平均的なのかな」
「そうなんじゃないの。ああ、飯が出来たよ。奈菜を呼んできて」
出来合いのスープとパン、焼いた肉と付け合わせの野菜の夕食だった。
「お父さんの料理って、悪くないんだけど今一つだね」
奈菜の評は手厳しい。
「食えないものを食えるようにする。生きていくにはそれで十分だ。旨いものを食おうというのは文化だ。文化はお母さんにおまかせする」
「あれよ、お父さんの料理は、山登りして山で食べたらおいしいってやつなの」
「何それ」
「山で飲むコーヒーはおいしいの。山で食べるカップ麺もおいしい。でも家で同じものを飲み食いしたら普通のコーヒーでただのカップ麺なのね」
「ふうん」
「文句があるなら奈菜が作るか」
「文句じゃない。感想」
「だったら食べなさい」
「ありがたくいただきます」
文句のある奴は自分で作れ。それが丸沼家のルールだった。
世界は少しずつ後退していった。
集積回路を搭載した電子機器を守る戦いは、世界のそこかしこで行われていた。戦い方は次第に周知されてきた。
時に敗れることはあった。ある国では気象予測用のスーパーコンピュータが動かなくなった。会計監査が出来ず株主総会を開けない大企業もあった。病人の監視システムが止まって亡くなる人もいた。
戦いで敗れない人々もいた。中央監視システムに出入りする者を限定し、厳重な警戒をする企業もあった。逆に中央のシステムを廃して分散化し、どこかが止まっても他でカバーするシステムに変えた所もあった。
戦わない選択をする者もいた。電子機器を使おうとしない人々が増えてきたのだ。それは、科学技術の進歩を拒否する方向に働いた。
アンティークの黒電話を喜んで使う者がいた。フィルムカメラを中古販売店で探す者がいた。アナログの中古アンプと中古レコードプレーヤーで誇らしげに音楽を楽しむ者もいた。
その頃の家電量販店は病院の集中治療室並みの厳重さで人の出入りを監視していた。買う側もそうした店でなければ信用していなかった。対応できない店は撤退するしかなかった。
電子機器は一部の慎重に扱う者が扱う高級品になりつつあり、それ以外の製品はアナログ化しつつあるという、二極化現象が起きていた。電子機器に関わる企業はその二極化のなかで、売上高全体が小さくなると予想されていた。そのため、電子機器関連企業の株価は下落していった。
妊婦の佳代には暑い夏もただ暑いだけで、楽しむことなく過ぎていった。九月になるとお腹もかなり目立ってきて、歩くだけで難儀になってきた。あと一ヵ月ほどで産休に入る予定だった。
その夏に高畑が酵素の同定に成功した、と報告があった。BCLEIでレンタルした機械で測定したものだ。
その構造はとても複雑で、酵素が専門ではない佳代には理解し難かった。
「この酵素があれば自由エネルギーが下がり、なければ反応が進まないのは確認しました。事前に考えていたストーリーの通りです。四六時中監視していないと捕まらないですね。時間が経つと見えなくなる。勝手に分解してしまうという事前の予想が当たっている可能性があります。いや、ひょっとしたらエポキシコラが自分で作って自分で解体しているのかもしれません。想像ですけど」
高畑は特に誇らしく語るでもなく、通常通り事務的にぼそぼそと話した。アルカリに弱いガラエポならアンモニアで、酸に弱いガラエポなら硝酸で、窒素サイクル内で生じる物質でガラエポを分解できる、というのだ。それぞれに対応する酵素があり、含まれる金属元素が異なるという。
「EPOXY RESIN DECOMPOSING ENZYME、エポキシ樹脂分解酵素、ERDEと名付けました。ERDE―1とERDE―2と二種類あります。ただ、この酵素のどの部分がどのように働くかはまだわかりません。これからの課題です」
高畑もそこまでは掴めていなかった。酵素の構造は複雑で、金属原子が触媒の働きをしているのだろう、ということくらいしかわからなかった。
ともあれ佳代は早速、高畑に特許と論文の執筆を指示した。
「よそでも似たことをやっているに違いないから、どこがどう働くかわからなくてもここまでやりましたと早く公表したほうがいい。それに、BCLEIの使命はエポキシコラの被害を食い止めることなんだから、公表したことでよそに追い抜かれることを心配するより、対策を早く立てることを考えないといけないから」
だがエポキシ樹脂が分解される過程がある程度わかったからといって、対策が立つかといえばそう簡単ではなかった。
「なんでガラスなんですかねえ」
第四研究室長の東山は、また同じことを呟いていた。
「エポキシコラは明らかにガラスを伝って、ガラスの周囲からエポキシを分解してるんですよ。ガラスの何が良いんですかね」
ガラスは前述したとおり安定な物質だから、触媒などにはなりようもない。
「まさかガラスであること?」
「まさかと思いましたが、試してみました。石英のファイバーを作っているところがあったので比較にガラスじゃない結晶の石英ファイバーでガラエポみたいなものを試作したんです。それからガラスは不純物が多いので、純度の高い石英ガラスも同様に試してみました。会社ではできない趣味みたいな実験ですね。BCLEIは金があるので作れました」
「どうでした」
「同じです。ガラスと。エポキシコラはエポキシ樹脂を石英の周りから分解していくし、石英ガラスの周りから分解していくし。ただのガラスの時と何も変わりません」
「なるほど。エポキシコラがガラスを好むのはガラスであるからではないと。変な事言っていますかね、私」
「いや、その通りです。ガラスも結晶も同じ。不純物の多寡も関係ない」
「そう言えば、エポキシ樹脂って、単体では接着剤によく使われますけど、エポキシコラのせいで接着剤が役に立たなくなって事故が起きた、っていう話は聞きませんね。ガラエポのエポキシ樹脂が侵される話ばかりで。培地の上でもエポキシ樹脂だけだと、エポキシコラはあまり増えないんです。岩木君がずいぶん工夫してみたんですけど駄目で」
「そうですね。ガラスがないといけないんです」
「結局、ガラスの何が良いんですかね」