2.Experiments ―実験―
2.Experiments ―実験―
「いやあ、それにしても丸沼さん、無事で帰って来られてよかったですよ」
佳代は大泉に計測課の仕事について、引継ぎを行っていた。マイクロスコープの使い方を教えていて、一段落したところだった。このマイクロスコープは、エポキシコラのせいで故障していたが、プリント基板を差し替えて復活していたものだ。
「丸沼さんがアメリカにいるけど大丈夫か。アメリカから日本まで、飛行機が飛ばないんじゃないかって、結構話題になっていたんですよ。この会社で」
佳代がピッツバーグから帰国する日、テキサス州のダラス国際空港で管制塔のコンピュータがダウンし、全く飛行機が飛ばなくなるという事件があった。佳代はちょうどその時飛行機に乗っていたので、日本に着くまでそのニュースは知らなかった。
「あの、ピッツバーグとダラスってどれだけ離れているか知っているの?」
ちなみに直線距離で千七百キロメートルくらいある。日本なら旭川市と鹿児島市の間に近い。
「知りませんよ。でも同じアメリカだから」
旭川も鹿児島も同じ日本なら大差ない。大泉はそういう感覚なのだろうかと佳代は思った。
「でもあれから、アメリカで例の細菌の話題、多いみたいですよ」
そうなのだ。アメリカではマクラウドの言った通り、エポキシコラの影響はそれまで電子産業にほぼ限定されていて、一般の人々に直接関係するものとは思われていなかった。ところが航空網が細菌に侵害されたとなると、アメリカ国内の移動もままならなくなってしまう。そこでアメリカ市民の注目を瞬時に浴びることになった。その結果、アメリカ政府の対策や民間企業の反応、市民の対策などのニュースが、海を越えた日本にも盛んにもたらせるようになった。
「アメリカが本気になってきたってことか。そうなると日本の態度も変わるかな」
アメリカが何かを始めると日本も追随する、というのはよくある話だ。
「油売りはそれぐらいにして」
佳代は引継ぎに話を戻した。
「ひと通りマイクロスコープの使い方は教えたけど、他に何か聞きたいことがある?」
「とりあえずはないです。計測課は頼まれ仕事が主体ですから、頼まれた時にその都度対応しますよ。それで丸沼さん」
「なに?」
「いつ鹿上精工に帰ってくるんですか? そもそも電細研から帰ってくるんですか?」
電細研とは電子機器細菌対策研究所(BCLEI)の略語である。日本人にはビーシーレイなどと呼ぶよりも電細研のほうが馴染みやすいようだ。
「出向だし、給料は鹿上精工から出ているし、帰ってくるつもりでいるけど。BCLEIは時限的な組織で、まず三年間、それで成果が出たら次の三年間、って話だから。つまりBCLEIはいつか無くなるの。そうしたら鹿上精工に帰るつもりでいる。その時に計測課に帰るかどうかは人事次第だからわからないけど」
「そうですか。丸沼さんはガラエポに取りついた細菌の発見者だから、どっかの生物学科准教授とか、どっかの化学科教授とかになるんじゃないかと噂している人もいますよ」
博士号を取った後にそうした未来が有り得るかもしれない、と中山先生なら言いそうな話である。しかし、
「未来はわからないね。私としては、アマチュアの天文ファンが地球に衝突しそうなすい星を見つけてしまった、みたいな気分でいるんだけど。すい星を見つけたからって天文ファンが天文学教授になるわけじゃないでしょ」
「そんなもんですか」
「また油売りに入っちゃった。次に行きましょう。鍍金の膜厚の測り方なんだけど……」
引継ぎはお互いの仕事の合間を縫って断続的に二週間かけ、どうにか終わらせることができた。
この頃、日本の国会で、ある与党議員が、
「アメリカでは大変話題になっているようだが、日本ではこの電子機器の細菌対策はどのようになっているのか」
と質問した。
それに対して経済産業大臣はこう回答した。
「現在、産官学の研究所を立ち上げ中であり、そこで細菌の研究と対策を講じる。それだけではなく、広く大学と一般企業に働きかけて、この電子機器に対する未曽有の危機に対処する予定である」
このやり取りはテレビニュースにはならず、経済紙の短い記事にしかならなかった。しかし、一部の大学と企業は反応し、積極的に取り組もうという動きを示し始めた。
日本政府は、エポキシコラ対策に金を出す、と言い始めたからだ。
四月になると、佳代はBCLEIに正式に出向した。と言っても、設備は整っていない。建物は机に座れる程度は出来たが、実験室はまだ工事中だった。その中で、中山先生と佳代を含む室長四人は何度もミーティングを行った。時にはそこに琵琶が加わった。
佳代は細菌研究が専門ではなかったので、どんな設備、装置が必要か今一つわからないことが多かった。その代り、何をしたいというアイデアを何度か出した。
温度湿度を変えた時の増殖具合を見たい。ガラエポの種類ごとの違いを見たい。ガラスの無いエポキシ樹脂のみならどうなるか知りたい。もちろんゲノム解析は必要。細菌の遺伝子のどこがどのようにして酸やアルカリを作っているのか。そもそもエポキシ樹脂分解の化学反応はどうなっているのか。
基本的なところから複雑な反応まで佳代は疑問点を出した。それに対して、中山先生や里川がそれを実現するためにはどんな設備が必要かと案を出していった。
「予算が二億円ほど増えました」
そんな折に琵琶が笑みを浮かべながら報告してきた。国会での答弁の影響だという。ああ、こんな所に政治が関わってくるのね、と佳代は奇妙な思いをした。
「というわけでまた何か買いましょう。注文は一か月以内、納期は上期末まででよろしく」
鹿上精工で二十万円以上の支出がある時、上司の承認を得るのに四苦八苦していた佳代は、琵琶の気軽な物言いに驚いていた。
「それって、国民の血税なわけですよね」
「もちろんです。血税ですから、それだけの成果を上げて下さい」
琵琶はあっさりとした語り口ながら佳代らにプレッシャーをかけた。
「研究者に二億は大金ですが、新幹線を通すのに比べたらはした金ですね」
脇から口を挟んだのは荒井である。
「エポキシコラが蔓延したら二億どころじゃない被害が出ますから、正当な投資だと思うことにしましょう」
「荒井さんは、エポキシコラによる被害がどれくらいになりうると見積もっていますか」
「二百億円でも二千億円でも二兆円でも作文は出来ますよ。あれって要はどこまで波及範囲を見込むかって話だから」
「予算確保のために計算をお願いしたいところですが」
「いいですよ。やりましょう。でもそれより、エポキシコラの影響がどう拡がっていくか予測するほうが重要でしょう。恐怖感を煽るわけじゃないけど、どれだけ危険なことが起きているのか知ってもらう方が先です」
「それもそうですね。何しろ、今は研究所自体が立ち上げの段階で、実物の細菌研究はまだ時間がかかります。荒井さんが何か成果を出していただけると助かります。新聞発表はいつでも用意できますんで」
「BCLEI一番乗りですか。頑張りましょう」
「ところで東山さんは何かありますか」
「欲しい設備はすでに注文していますんで、その二億円は丸沼さんか里川さんのところでどうぞ。それにしても」
「どうしました」
「難しい話ですね。エポキシ樹脂には各種あるのですが、どれも使えないとなると。アクリルでは柔らかくて代替にならないし、ベークライトで積層基板は難しい。大昔のブラウン管テレビにはベークライトに真空管が乗っていたものですが、ガラエポが使えないとなるとあの時代に戻ってしまう」
「新たに何かガラエポ以上のものを作る、というのはどうです」
「考えてはいます。ただ、うまくいったとしても製法が複雑になり、単価が極端に上がれば、使えないのと同じことです」
「いやいや、まずは研究開発だ。一枚作るところから考えよう。生産技術はそれからでいいのではないか」
「そうでしょうか」
中山先生の言葉に一旦は頷いたものの、東山は納得していないようだった。
「すみませんが、大学と違って私は売れるものを作る仕事を続けてきたものですから」
「ふむ。それもそうだな。価値観の違う人間を集めているのだから、様々な考えがあっていい。東山さんには、どう実用化するかという観点で見てもらおうか」
「そのほうが有難いです」
佳代も会社員なのだが、エポキシコラに関しては研究寄りで、実用という視点はあまり持っていなかった。東山の視点はこの研究所で重要になるかもしれないと思った。
研究所の人員も各所から候補者が集まってきた。
「丸沼さんも年上と仕事をするのは大変だろうから、年長者は里川君に振り分けようか」
中山先生は変なところで気を使おうとする。里川はそれでもかまわないような口ぶりだったが、佳代は気にしないでくださいと答えた。
「ベテランと若者が混じっていたほうが組織としても強いと思います。年上だとやりにくいというのは感情の問題なので、私がやりやすいと思えばいいだけのことです」
それは佳代が会社員生活をしてきた中での実感だった。それを聞いた中山先生は、強いて反対をしなかった。
そこで細菌研究では、理学・工学的な分野の人材は佳代、医学・生理学的な分野の人は里川に振り分けると決まった。理論研究者あるいは実験研究者の中で、実用に重きを置かない人は荒井、逆に実用的な手段を探るのが得意そうな人は東山に振り分けられた。
候補者の出自は様々だった。最も多いのは佳代と同様に会社からの出向者だった。まず経産省からエポキシコラと関連のありそうな各企業に賛助会員の募集がかけられた。国の肝いりであるから、かけられた各社は自社の規模とこの細菌が蔓延した時の会社の深刻度を勘案して、賛助金を出して会員になった。その各企業からそれぞれ出向者が来ることになった。
次にポスドクの若手研究者がいた。博士号を取ったものの就職先のない研究者に、一時的な準公務員として給与を与えつつ働いてもらうのだ。いくつかの大学に案内を送り、大学経由で適任の研究者を募ってもらった。
そして大学生も何人か来た。学生の卒業研究のためにと派遣された。私立大の中には学生への研究テーマやそのための設備費に苦労するところもあり、経産省側から声をかければ渡りに船と応じる場合があった。
佳代の率いる第一研究室には六名の研究者が集まった。岩木充、田沢光洋、松山信、米沢聡美、高畑壮太、塩沢幸喜。
米沢は二十代後半の独身女性で他の五人は男性。
塩沢幸喜が大学四年生で他の五人は会社からの出向者だった。
男性出向者のうち三人、岩木・松山は二十代後半、高畑は三十代前半だった。
六人の中では田沢がもっとも年長者で四十二歳の厄年。彼だけは佳代よりも年上だった。
「テレビでも紹介された、エポキシコラの発見者と一緒に仕事が出来る、っていうのは嬉しいですね」
そう田沢は言った。冗談でも皮肉でもなく本音の口調だった。年上の男性が部下になるのは、中山先生に言われなくても多少の緊張があった。しかし、田沢の柔和な顔を見ているとうまくやって行けそうな気がした。
妻帯者はその田沢と松山の二人だった。田沢には子供が二人いた。しかし、松山は新婚で子供はいなかった。
「名古屋で働いていて事務職の妻と職場結婚でした。妻も私の出向と同時に東京の本社に転勤しました。会社で配慮してくれました」
そう松山は語った。新婚夫婦に引っ越しを強要したようであり、出向元の会社にも迷惑をかけたようでもあり、佳代はすまない気持ちになった。
「ああ、妻は東京が大好きで楽しんでいますよ。先週は引っ越し荷物をほっぽって二人でディズニーランドに行ったし」
新婚さんにすみませんね、と言うと松山は笑っていた。BCLEIへの出向者には一般に二年、ないし三年の出向期限がある。松山夫妻は短い東京暮らしを楽しもうとしているようだった。
妻帯者の田沢と松山は黙っていても自分のプライベートについて話してくれたが、独身の四人は特に自分語りはしなかった。仕事上の関係だし、特に根掘り葉掘り聞かなくても良いかな、と思った。ともあれ佳代を含めたこの七人で第一研究室は船出することになった。
バイオセーフティ―レベル3で作業をしたことのある研究員は、第一研究室に一人もいなかった。当初はレベル3における作業のやり方を教わりに他の研究所を訪問するなど、情報収集に忙しかった。
だが研究室で用いる機械装置が揃うに従って、その装置の使用方法を習い覚えるなどして少しずつだが研究態勢も整ってきた。佳代はまず、ガラエポを使用していそうな機器は素手で触らないように、と教えた。職場においてばかりではなく、私生活においてもだ。電車内でスマホを触るのも家庭で炊飯器を使うのも手袋を使用しろと。その手袋も複数用意して、手袋を介して細菌を移動させないように、これは何用、これは何用と分けろと。その頃には佳代は多数の手袋を試していて、スマホ用はこれ、炊事用はこれ、と細かいアドバイスをしていた。
そうした時期に、親睦会をしましょう、と岩木が言い出した。この頃の若い人はコスト意識が強く、飲み会などになかなか行かない、という話を聞いていた。それだけに意外だった。岩木によると、この第一研究室には、いわゆる飲みニケーションを嫌わない人が集まっているらしい。そこで岩木を幹事に居酒屋で第一研究室親睦会を開くことになった。場所はそれほど高級な所ではなかったが、小綺麗で静かな居酒屋だった。
「いろいろ調べたんですが、女性も参加するので、少しおしゃれな所にしました」
岩木は陽気で気が利く人であるらしかった。
佳代はその日、胃腸の具合が今一つの気がした。それで親睦会ではウーロン茶を飲んでもっぱら話す側に回った。田沢が少しのビールで真っ赤になること、無口な高畑が黙々と飲む酒豪であることなどを知った。一方で米沢とは女同士でありながら、会話があまり弾まなかった。BCLEIに来たのは米沢にとって気に染まぬ出向だったのか、などと気になった。
その後、佳代、田沢と米沢は一次会で帰ったのだが、岩木・松山・高畑・塩沢の男四人は二次会でカラオケに行ったらしい。
「高畑さんのブルースが、渋くてうまいんですよ」
と、これもまた意外な情報だった。
「実はアカペラだったんですけどね。高音部は塩沢君がハモって。高校生の頃、塩沢君は合唱部だったという話で」
「え? カラオケでアカペラ?」
「ああ、肝心なことを言い忘れていました。そこのカラオケ、入力する機械、リモコンじゃないな、デンモクとか言うのでしたっけ。それが全く動かなかったんですよ。ああ、もちろん丸沼さんに言われているので、皆持参の手袋で触りました。そのデンモクがどうにも動かなくて、これエポキシコラにやられているんじゃないか? って話になって。マイクにだけは電源が入ったので、店員に文句言うのも面倒くさいから、アカペラで歌おうと松山さんが言い出したんです」
「カラオケにエポキシコラか。不特定多数の人が来るところだし、不特定多数の人が菌を持って出ていくんだろうし、有り得る話だね。でもそのへんにある普通のカラオケボックスで発生したとなると、蔓延するのが目に見えてる」
「ええ。デンモクが動かないって、カラオケ屋の受付のお兄さんに言いましたけど、ただの故障の苦情だと思ったみたいで。エポキシコラの話をしましたけど、話がわからないようでした。手袋をしよう、と言いましたが、聞いてくれたかどうか。ああ、もちろん、僕たちが使った手袋は二重のビニール袋に入れて縛って、焼却処分用のゴミ箱に入れました」
二週間後、岩木が件のカラオケ店の前を再び通った。カラオケ機器の故障により休みます、と張り紙があったと伝えてくれた。恐らくは、エポキシコラが店中の機器に広まっていたのだ。
さて、親睦会の翌日、飲み会で酒を避けた佳代の胃はまだむかついていた。単なる一時的な胃腸の異常ではなさそうだった。
(あれ?)
思い当たることが、無くは無かった。
(そう言えば、アレが来ていない)
仕事が忙しいと生理が遅れるのはしばしばあって、今回もそうしたものと思っていた。しかし、考えてみるとその期間が長い気がしてきた。
(あー、これは出来たかも)
もともと秀郎とは、子供は二人ぐらい欲しいねと言って、奈菜が生まれた後も避妊をしていなかった。もっとも秀郎の単身赴任のおかげで年に数回しか性行為を行うことは無かったから、避妊などしなくても身籠ることはなく何年も過ぎていた。
思い当たるのはアメリカから帰ってきた日だ。あれが「当たり」だったのだろうか。
BCLEIからの帰り、近所の薬局で妊娠検査薬を買った。使ってみたら陽性だった。
(あちゃー。出来てしまいましたよ、おい)
まずは自分の家庭のことを考えた。
奈菜が生まれた頃はまだ秀郎とともに暮らしていた。実家の母も、秀郎の母も元気だったから、なにかと助けに来てくれた。しかし現在、実家の母は膝が悪く、実家とこの賃貸マンションを往復するのは難しい。一方、秀郎の母は数年前に一度、肺炎を患ってから弱気になった。最近は秀郎の実家からほとんど外に出てこなくなっている。つまり、奈菜が生まれた頃とは状況が変わってしまった。
次に仕事のことを考えた。
出産前後二ヶ月ずつぐらいは産前産後休暇で休むことになる。いや、秀郎が単身赴任でいないのだから育児休暇も必要になるだろう。
(BCLEIの皆様に申し訳ない)
対内的なことではあれ、第一研究室長という現在の地位は博士号すら持たない佳代にとっては大抜擢だ。そもそも産官学の組織において、佳代や東山といった企業の出向者が研究リーダーとされること自体が特例で、簡単なことではない。そこは世界的な危機ということで無理を通した、と琵琶が語っていた。ただ、東山は知る人ぞ知る、その世界では有名なベテラン企業研究者だ。一方、佳代はついこの間まで、知る人などいなかったし、ベテランでも研究者でもなかった。
「それだけ、エポキシコラの発見者、ということにインパクトがあったんですよ」
と琵琶が語っていた。それならば、佳代はその期待に応えるだけの成果を残さなければならない。ところがここで妊娠したとなれば、成果を出すこともなく休んでしまうことになる。
佳代はそうしたことを考えたが、堕ろす、という選択肢は全く考えに浮かばなかった。佳代は子供を育てるのがどれだけ大変でも、結局その大変さは自分が当然引き受けるべき当たり前のことと思っていた。佳代にとって妊娠したら産むのは決定事項で、あとはどうやってこの大変さと申し訳なさを乗り切るかしかなかった。
さらに言うなら、仕事をやめるという選択肢も佳代には思い浮かばなかった。問題はどれだけの期間、休まなければならないかだった。
「お母さん、なに難しい顔をしているの?」
唐突に奈菜が声をかけてきた。言われてみると、眉間と唇の先端に知らぬ間に強い力を加えていたことが自分でもわかった。奈菜から見れば、普段と全然違う顔をしていたらしい。
「奈菜に、弟か、妹が出来るの」
「へえーっ」
驚いていた。
「って、ことは、お父さんとお母さんって、そういうこと、していたんだ」
驚いたのはそっちか。この子にはそれなりの性知識があるらしい。
「あなたもそのうち、結婚して、そういうことをして子供を産むの」
「どうかな。先のことはわからないし」
「母は、そう希望します」
奈菜は、はいはい、と言いながら、自分の勉強部屋に入っていった。
奈菜が自分の部屋に入っていったところで、佳代は秀郎に電話した。
「妊娠した」
「おおーっ」
簡潔な連絡には、簡潔な感嘆が返ってきた。
「医者には行った?」
「ううん。妊娠検査薬を見ただけ」
「明日にでも行ってきたら?」
「そうする」
上司への報告もあるし、と佳代は心の中で思った。第一研究室長がいつどれだけ産休を取るかは早めに知らせたほうが良いだろう。その前には、今が妊娠第何週かという正確な情報が必要だ。
「それでどうしようかと思って」
夫と話さなければならないのは、仕事のことではなく家庭のことだ。
「母は膝が悪くて奈菜の面倒をずっと見るのは無理だし、お義母さんも似たようなものでしょう」
「いや、産まれるのはもっと後で、えっと、あれが三月だから、十二月くらいか。その頃なら、俺もそっちにいるから何とかなるんじゃないかな。奈菜もある程度の家事は出来るだろうし」
「え? そっちにいるから? どういうこと?」
「あ!」
その、あ!、は秀郎がお気に入りのウイスキーグラスをうっかり落として割ってしまった時と同じ、あ!、だった。
「しまった。言い忘れた」
秀郎が焦った話し方をするのは珍しかった。それこそグラスを落とした時以来だ。
「ああ、すまん。奈菜に話したから、佳代にも話した気になっていた。最近、奈菜は声も顔も佳代に似てきたし。それに佳代が帰ってきた日は、アメリカの話を佳代から聞くのが面白くて自分の話をするのをすっかり忘れていた」
「何を言いたいの」
「佳代がアメリカの学会発表に行っていた時、俺、東京理工大で面接を受けていたんだよ」
「面接? 何の」
「東京理工大で准教授になる」
「へえー」
「中山先生が退官して、准教授だった泉さんが教授になって、理工大では准教授の募集をしていたんだ。それで中山先生も泉さんも細菌学者だから細菌学限定かと思ったら、細菌学に限らず生物学全体で優秀な人材を募集する、って募集要項に書いてあった。だから応募した。俺に決まったのはつい最近」
秀郎はもう、野生動物を追いかけるをやめたのだろうか。
「やめたわけではないけど若い時に調べたかったことは調べたし、論文を書いてジャーナルに送ったし、そろそろ人を相手の仕事もしてみたかったし、学生に教えるのも悪くないかなと」
安定した収入とか、都会で暮らしたいとかの動機はなかった。その辺りは秀郎らしい。
「細菌学専門でもないのに、よく採用されたね」
「生物学全体で見たらとても優秀な人材なんだよ、俺は」
はいはいわかりました。とっくに知っていますよと佳代は答えた。
「生まれるのはたぶん、女の子だな。キュリー夫人には娘が二人いたんだ」
それはわからないけど、と答えて佳代は電話を切った。
後で奈菜に聞いたら、お父さんから話を聞いた時はまだ面接をしただけで結果はわからなかったし、お父さんがお母さんにも話しているんだと思ってお母さんには言わなかった。ああ、そう言えば結果を聞いていなかった。へー、お父さん、単身赴任やめて帰ってくるんだ、と言った。
ちなみに奈菜の「お赤飯」は、その数日後だった。自分の妊娠発覚を伝えたことが奈菜になにかしらの心理的な影響を、ひいては肉体的な影響を与えた、と佳代は信じている。
翌日、午前休暇を取って奈菜を産んだ病院に行った。妊娠六週と言われた。予定日は十二月初旬。
おめでたです、と祝福され、思わず微笑んでしまった。やはり佳代には、子供が出来たことが嬉しかったのだ。出産時の産科入院予約をしてからBCLEIに向かった。
所長室の扉をノックした時には少々緊張した。手袋をした中山先生がパソコンで電子メールを送ろうとしているところだった。
「何かな?」
「子供が出来てしまいました。ご迷惑をおかけします」
中山先生は笑顔を見せた。
「おお、それはおめでとう」
「それで出産休暇を取りたいのですが、よろしいでしょうか」
「それは出向元の規定に従ってください。鹿上精工ではどうなっていますか?」
「出産休暇は、出産予定日前の八週間と出産後の八週間です」
「予定日はいつかな?」
「十二月八日です」
「メモを取らせてもらおう」
カチャカチャとキーボードを叩く音がした。
「育児休暇はどうするかな」
「取らずにどうにか出来ればと思っていますが」
「赤ん坊が保育園に入るまでは休んだほうが良いのではないかな。それに保育園も簡単に入れるとは限らない。育児休暇は取得した方がいいだろう」
「そうしたいのは山々ですが」
「仕事のことはとりあえず置いておきなさい。自分と子供のことが最優先だ。丸沼さんがいない間は私が第一研究室長を兼任しよう。形式的には最初から兼任だが」
「はあ」
佳代は、まさか育児休暇を勧められるとは思っていなかった。
「あの、中山先生には怒られたり、嘆かれたりすると思っていたのですが」
「それは、うちのエースの研究室長が長期休暇を取ったら痛いに決まっている」
しかし、と中山先生は言葉を繋いだ。
「今の日本で、子供を産んで育ててくれる、ということがどれだけ有難いか。子供がいる、若者がいる、ということがどれだけ素晴らしいか。特に私みたいにもうすぐ年金生活、などという人間にしてみれば、もう伏してお願いします、ぜひ産んでください、という気分だ。まったく、マタハラなどをするような奴の気が知れんよ」
やはり中山先生は珍しい感覚の持ち主という気がした。ただ、出産を心理的に後押ししてくれるのは有難かった。
「ああそうだ。丸沼君が」
中山先生が丸沼さんと言えば佳代だが、丸沼君と言えば秀郎だ。
「東京理工大の准教授になるそうだね」
「ご存知でしたか」
「最近、泉君と研究会で会ってね。そこで聞いた。最近の大学の方針で、専門は細胞学に限らず広く人材を求める、としたら、たいした数の応募者が来たというんだ。その中で、それまでに出して来た論文の内容と影響度を考えたら、丸沼君は他の応募者とは比較にならないほど優れていると言っていた。丸沼君は雪山に住む動物の行動学に関してはすでに世界的権威だと」
「そうですか」
雪山に籠りながらガンガン論文を書いている、と秀郎が言っていたことがある。あれは本当だったらしい。
「それが東京に戻ってきたら、イクメンになるのかな」
「どうでしょうか。たまに帰ると娘にデレデレでしたが、ずっといたらどうなることやら」
「はっはっは。ところでまだ先の話だが、出産・育児休暇中に電子メールくらいは出来るようにしておこうか。もし希望するなら、仕事用のノートパソコンを支給しよう。セキュリティ上、私用とは分けないといけないし。いや、もちろん休暇中は仕事から一切離れるほうが当たり前だし、いらないなら良いんだが」
「いえ、復帰した時に話が通じるようにしていたほうがいいです。休暇中にしゃしゃり出ないほうがいい気もしますが、電子メールぐらいならできるようにしておきたいです」
「それならノートパソコンを支給するよう、その時には手配しよう」
この最後に行われた会話が、後に意味を持つことになる。
アメリカ出張時に、中山先生は佳代と連絡をあえて取ろうとしなかったり、昼食時も第三者を同席されたりと気を使っていた。もし、そうした配慮が全く無く、中山先生と同じ飛行機に隣り合わせて乗り、同じホテルに泊まっていたら、佳代が産む赤ん坊は中山先生が父親だったのではないかと疑われかねなかった。
などということに佳代が思い至ったのは、何ヵ月か経ってからのことである。
その後、本格的な悪阻が始まった。
「お母さん、最近、朝にパンばかりじゃない? また炊飯器が壊れたの?」
壊れてはいない。現在使っている炊飯器は、エポキシコラのせいで壊れた炊飯器を買う前に使っていたものだ。捨てずに押し入れに入れていた旧式を引っ張り出したのだ。
「炊飯器じゃないの。つわりでご飯のホカホカが駄目なの。夜はまだいいんだけど、朝は特に駄目」
「ふーん」
「それじゃ、お母さんはもう行くからね」
「最近、家を出るの、早くない?」
「満員電車を避けているの。妊婦だと押しくらまんじゅうが恐いから。それじゃ後片付けはよろしく」
「ふうん」
「学校に行く時は、ちゃんと鍵をかけてね」
その頃、アメリカのダラス国際空港で管制塔がダウンした件について、調査報告書が公開された。やはりエポキシコラによるものだった。まず、管制塔に出入りしている職員の、職務用のコンピュータが壊れた。それはエポキシコラとは関係なかったが、修理のためにマザーボードを交換した時、その新しいマザーボードがエポキシコラに侵されていた。その後、その職員の手を介して管制塔のコンピュータがエポキシコラに侵され、一斉に動かなくなった。
その後ダラス空港では復帰に向けて空港フロア全体を消毒し、それと同時に管制塔コンピュータのプリント基板を全て交換した。それ以降は管制塔で隔離病棟レベルの警戒をし、人も物も消毒せずには管理フロアに入れないようにし、プリント基板を使用するあらゆる電子機器もチェックしてから使用することとした。それから二ヶ月後にダラス空港が再開された。
その頃には空港に限らずアメリカ国内では細菌感染によるデジタル機器の故障の報告が相次いでいた。企業や一般家庭で通信機器や電化製品が動かなくなることが頻発しニュースになっていた。
そしてアメリカで起きたことは必ず日本でも起こるのだった。
BCLEIで最初に研究成果を発表したのは第二研究室長の荒井だった。内容は以前に会議で話していた、エポキシコラの影響予測だ。日本においては、今後半年間の間に製造業の二割、IT産業の三割が影響を受け、一般家庭でも一割が何らかの電子機器に異常が生じると予測された。さらに交通・行政サービスへの影響も無視できない、と報告されていた。つまり日本国内のあらゆる活動が麻痺するという内容だった。
新聞の一般紙での取り扱いは小さかったが、テレビやインターネットのニュースサイトではセンセーショナルに取り上げられた。BCLEIにインタビューをしに来る記者もいた。
「盛ってませんよ」
取材に対して、荒井はまずそう答えるのが常だった。敢えて衝撃的な内容で発表したわけではない、と言う。
「BCLEIの第一研究室の飲み会があり、たまたま行ったカラオケボックスでカラオケが出来なくなっていたんです。エポキシコラによるものです。つまり、この細菌はもう一般に拡がっているんですよ。それぞれの家庭で、企業で、対策を取らなければならない段階に入っています」
第一研究室におけるカラオケの一件は、荒井に言わせればシミュレーションする上で、貴重な初期条件のひとつだったと言う。
「アメリカが今、大変な事になっています。予測して対策を取らないと、近い将来、日本も当然大変なことになります」
その頃、日本の電気メーカーから、新製品として「マイコン制御を一切行わない炊飯器」が発売された。「細菌に負けません」というのが宣伝文句だった。
「そのうち、真空管を使ったブラウン管テレビが売り出されるんじゃないか。スマホはやめて黒電話だな」
荒井が会議で発言した。その頃にはもう、誰も冗談に思わなくなっていた。
第一研究室も次第に設備が揃ってきて、実験が出来るようになってきた。誰に何をやってもらうか、で佳代は頭を悩ませるようになった。
「鹿上精工では何でも自分一人だけでやらなければならなかったのに」
調子が狂う、と思った。といって、何もかも自分でやろうというのも、つわりに悩まされる身では制限がある。例えばレベル3の実験室でマスクをしたまま吐きたくなったら? 実験室を出るために服を脱ぐだけでも面倒なのに?
その代り、第一研究室の研究員が出して来るデータを見るのは楽しかった。
「室温以上でないと、なかなか増えませんね」
培地上の細菌増殖について、温度変化のデータを出してきたのは岩木だった。すでにアントワーヌ研で論文が出ていたが、基本的なところはこちらでも調べましょうと彼が自ら言ってきたのだ。細菌を増やすの、大好きなんです、と言っていた。冷えたシチューを見ても培地に見えるというから半端ではない。
岩木はさらに感想を述べた。
「熱帯由来の細菌じゃないのかな。最初に被害が出たところも暖かいところだし。その熱帯で、腐った木のセルロースか何かを分解していた細菌のところに、どさっとガラエポを捨てた人がいて、おやこれは新しい食い物か、とか思ってガラエポを分解するようになったとか」
「最初の熱帯由来の所までは検討してもいいけど、そこから先は童話の世界みたいね」
佳代がそう言うと、岩木は笑った。
「研究には童話作家のような想像力も必要でしょう。それじゃ、また実験室に行ってきます」
「ああ、その辺りはゲノム解析である程度わかるかもしれませんね」
立ち話の時に、第三研究室長の里川が言った。エポキシコラの先祖は腐った木のセルロースか何かを分解していたのではないか、という話についてである。
「エポキシコラがどの系統から来ているのか、遺伝的に近い細菌との比較からある程度は絞れるでしょう」
「そうですか」
「ただ、イデオネラ属はヴァリエーションがありますから、ある程度は、と思いますね。アフリカのセルロースを分解する細菌があって、そのゲノム解析がすでに終わっていて、それがエポキシコラとそっくりだ、みたいな偶然でもないとなかなか特定は難しいんじゃないかと」
そう簡単な話ではないのだな、と佳代は感じた。
「この細菌はガラスエポキシ内で偏在する傾向があるようですね」
室長ミーティングの時に第四研究室長の東山が話した。
「確かにそうした傾向はありましたね」
佳代は電子顕微鏡での観察結果を思い出した。エポキシコラはある程度、固まって存在する傾向があった。
「そうです。エポキシコラに侵されたガラエポの中を見ると、一様に分布してはいない。あるところにはごそっとあって、無い所には無い」
「細菌は分裂するものだから、偏在するのはそれほど不思議ではないよ」
中山先生が一般論で諭した。
「しかし少々極端かなと。何か目的を持って集まっているように思える」
そのまま話が発展するわけではなかったが、佳代はそれを頭に入れておいた。
「アンモニアや亜硝酸、硝酸が作られているのは間違いないですね。丸沼さんの仰っていた通り窒化物があります」
第一研究室の田沢は化学的な解析を受け持っている。佳代が鹿上精工で調べた通り、アルカリや酸が作られてエポキシ樹脂が分解されているのだという。
「ひとつの問題はどうやって作られているかですが」
それは佳代も疑問に思っていた点だった。
「窒化物ですね、窒化物」
「その窒素はどこから来るんでしょう」
「恐らくは空気から。豆みたいに」
佳代が推測を話した。マメ科の植物の根に根粒をつくる根粒菌は、空気中の窒素を固定する。
「でもガラエポは豆じゃないですよ」
「その根粒菌ではないエポキシコラが、豆じゃないガラエポの中でアンモニアを作って、さらに亜硝酸、硝酸が作られているのではないかと推定しているの」
「丸沼さん、本気で言ってるんですか」
「東山さんが、エポキシコラは偏在すると言っている。あるところにごそっとあるって。それは根粒みたいじゃない?」
「信じがたい」
「エポキシ樹脂を分解する細菌があること自体が信じがたいんだから、調べてみましょう」
第三研究室長の里川は、ゲノム解析の途中結果が妙だ、と言った。
「あいつらは」
あいつら、と里川に擬人化されたのはエポキシコラである。彼にはこの細菌が仲間でもあり敵でもある擬人的な存在であるらしい。
「あいつらは、見た目はどれも同じなんですけど、役割の分担があるみたいで、どの酵素を作るのかどう代謝するのか全然違う連中が寄り集まっているようです」
「ゲノムでわかるんですか」
「片っ端からあいつらのゲノムを見て、ひとりひとりどこが違うのか調べてるんですよ。すると、酵素を作るあたりが違うように見える。亜型が多いとでも言いますか。違う細菌ならそこが違うのは当たり前ですけど、同じ細菌でそこが違うってどういうことなのか」
これには中山先生も首を捻っていた。
「どこかの細菌を襲ってそこを取り込んだとか」
「雑菌をうっかり混ぜてしまったシャーレもあるんですが、特に雑菌を取り込むということはなかったですね。でもこの細菌の発生過程でそうしたことがあったのかもしれません」
「あるいは人為的に? 付け加えられたと?」
「それも信じがたいですが、可能性として残しておくべきでしょうか」
「まさかとは思うんですが」
佳代がわだかまっていることを吐き出すような、自信なげな口調で話し出した。
「エポキシコラだけで、窒素サイクルを形成しているんじゃないですかね」
「え?」
「根粒菌がやっていることを、そこに豆の根があるわけでもないのに、エポキシコラだけで、空中の窒素を固定して、アンモニアを作って、窒素酸化物を作って、亜硝酸塩を作って、硝酸塩を作って、さらに硝酸まで作って、ガラエポを分解して」
空中の窒素を固定して豆の肥料を作り豆と共生する細菌が根粒菌だ。だが根粒菌と言っても、それぞれの反応を担う窒素固定菌、亜硝酸菌、硝酸菌は異なる細菌である。
「そんなバカな」
里川は唸った。まだ膨らみが目立たない腹の上で腕を組みながら、佳代は答えた。
「エポキシコラには、そんなバカな、が多すぎるんですよ」
その頃、鉄道会社の役員が技術者を何人か連れてBCLEIを訪れた。
「高速輸送総合システムや輸送管理システムが突然動かなくなったら困る。それでいろいろと教わりに来ました」
役員の眼鏡越しに見える目は優しそうだったが、これまでの経験と強い意志を示しているかのように光っていた。
実験室に入れるわけにはいかないので、白衣と手袋を身につけて外から見学してもらった。レベル3の実験室にはカメラが入っていて、中の様子を監視室から見ることが出来るようになっていた。監視室のコンピュータなどがエポキシコラに侵されては大変なので、見物可能エリアでも手袋は外せず、靴底は消毒マットを踏まなければならないなど、決まりごとが数多くあった。
「こうした消毒をうちでもやらないといけない、ということだな。そうでなければ列車の運行が止まる」
役員が言うと、技術者たちは緊張した顔で頷いていた。
その後、同じ趣旨で見学に来る団体が何組もいた。均すと週に二度くらいになった。その度に佳代たちは駆り出された。
仕事に差し障りが、と訴えると、
「日本の機能が止まってしまうよりはマシです。丁寧に応対しましょう」
中山先生がそう答えたので、佳代たちも説明に手を抜けなかった。
そんな日々が続いていたある日、中山先生が会議の冒頭で発言した。珍しく嘆き声だった。
「この間の、窒素サイクルの話だが、アントワーヌ研とストーンズフォローから同時に論文が出ている」
「共同研究ですか」
「全くの非協力。独立な研究だな。アントワーヌ研はドナティ、ストーンズフォローは岩見君がリーダーだ」
「アントワーヌ研はともかく、ストーンズフォローが出してくるとは、早いですね」
第二研究室長の荒井が感心していた。
「ストーンズフォローはうちのような急造研究所と違って設備がもともと揃っている。アメリカ政府もダラスの一件があって、本気になって研究に金を出すようになってきた。それに岩見君は優秀だし、真剣にやりだしたらアントワーヌ研より早いかもしれない」
「よく読んでみましょう。BCLEIで調べてわかったことで、彼らが書いていないことがあったら、レターにします」
佳代が提案した。レターとは、短い論文のことである。
「丸沼さんはポジティブだな」
荒井がまた感心していた。
「レターを出す前に特許だ。それがこの研究所のルールだからな」
中山先生がそう声をかけると、佳代が答えた。
「特許ならもう書いて利根さんに渡しましたけど」
利根は、BCLEIのスタッフの一人で、弁理士の資格を持つ特許担当者である。
「細菌を利用した肥料など化学物質の作製、という題です。アンモニアが作られるのだから、肥料になりますよね」
「何ページぐらいの特許?」
「三十ページぐらい書いたような」
「ずいぶん早いね」
「初めて会社で特許を書いた時は苦労しましたけど、これは二度目ですし」
今度は中山先生が感心した。
「難しいことも簡単そうに話す。丸沼さんはさすが、BCLEIのエースだな。それとも文章を書くこと全般が得意なのか」
「本当に感謝している人に感謝状を書くのは難しいんですが、心のこもっていない文章を書くのなら得意です」
自慢する風でもなく、佳代は淡々と答えた。