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ガラエポ  作者: 水谷秋夫
第二章、電子機器細菌対策研究所(BCLEI)
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1.Introduction ―導入―

    第二章、電子機器細菌対策研究所(BCLEI)


     1.Introduction ―導入―


 正月三が日が終わって佳代は鹿上精工に出社した。その間、秀郎は奈菜と映画を見に行った。女の子たちの集団戦闘アニメを見に行くらしい。娘とデート、と秀郎は嬉しそうだった。

 年末年始休暇前に明るいニュースがひとつあった。鹿上精工の自動旋盤装置が修理されたのだ。新しいプリント基板を差し入れてそれは無事に動いた。それが休暇に入る二週間前だった。だがもし旋盤装置に細菌が潜んでいたら、休暇後にまたガラエポに細菌が繁殖する筈である。

さんざん消毒したのだから大丈夫と自分に言い聞かせながらも佳代は不安だった。だが出社すると、大泉主任から年が明けても無事に動いていますよ、と連絡が入った。ほっとした。

明日には、佳代の使用している電子顕微鏡にも修理が入る予定だった。順調に物事が進んでいる、と思っていた。

賃貸マンションに帰ると、秀郎が沈んだ顔をしていた。訳を聞くと秀郎はぼそっと、

「奈菜に卒業されてしまった」

と呟いた。映画がつまらなかったのか、と奈菜に聞くと、

「そこそこ面白かったんだけど、女の子たちの戦闘アニメはもういいかな、って言ったの。そうしたらお父さんが呆然としちゃって、ずっとあんな感じ」

 なるほど、父親と娘の共通の趣味が無くなってしまって落ち込んだのか。わかりやすい夫だ。共通だった趣味から締め出された秀郎にしてみれば、娘が父親から卒業された気分になったのかもしれない。


 翌日、電子顕微鏡メーカのサービス員が鹿上精工にやってきた。何か違和感があった。手のアルコール消毒、手袋の装着について、いちいち言わなければ彼らは対応しなかった。それはエポキシコラ発見以前には、鹿上精工で普通の行為だった。それだけに、「普通」を現在も続けている彼らが気になった。

「すみません。これから交換するプリント基板を見せてください」

 怪訝な顔をしてサービス員はビニールに入ったままのプリント基板を佳代に渡した。佳代がその基板の両側を持って反らせると、基板はぐにゃりと曲がった。

「修理はできませんね。お手数ですが、これを持ってそのままお帰りください」


「信じられる? 外注したプリント基板をそのまま確認もしないで持って来たんだって」

 昼食時に佳代は、例によって高原、平、菅に愚痴を述べながら食事をした。

「正月番組でも取り上げているっていうのに、聞いたら何の対策も取っていないの。対岸の火事というか、自分たちとは関係の無い話だとずっと思っていたみたい」

「実際にまだ被害に遭っていないところだとそんなものかもよ」

「でも、行政指導だってあるのに」

「それも正月からでしょ。始まったばかりで」

「うーん」

 佳代は納得がいかなかったが、世間的にはそんなものかもしれないと思い直しもした。

「でもそれだと、まだまだこの細菌が拡がることになるね」

 健康管理課の菅は佳代以上に心配していた。

「家庭に拡がるほうを想像していたのだけれど、まだまだ企業のほうでも対策が出来ていないってことだし」

 菅の言葉に佳代もうなずいた。

「自分が被害にあってみないと、わからないんじゃない? インフルエンザだって、熱を出したことが無い人が予防接種を受けようと思うかな」

 人事課の平もそう言って、経理課の高原も、そうね、と相槌を打った。


 一月十一日が来て、秀郎は予定通り北海道に帰っていった。寂しくはなったが、同時にほっとした部分もあった。秀郎は奈菜が四歳の時から単身赴任をしているからいないのが当たり前で、彼がいると少し違う精神状態になって疲れるのだ。例えば夕飯の支度でも酒を飲む秀郎がいると、何かつまみでも作るかとつい「張り切って」しまう。いなければ寂しいだけで疲れることはない。

「お父さんがいないと、静かだよね」

 奈菜は台所を見回しながら言った。それは日常的な、二人きりの食卓だった。


 翌日、会社に行ってパソコンを開くと、英文の電子メールが来ていた。

「Dear Dr. Marunuma. We will invite you for…(親愛なる丸沼博士殿、我々はあなたを招待します)」

 なんだろう、と思ったら国際学術会議への招待状だった。場所はアメリカ、ピッツバーグ。そこで発表してくれという。

(国内の学会発表すらしたことないのに、いきなり海外発表って。それにわたし、ドクターじゃないってば)

 博士号取得者かどうかわからない時はドクターと書いておくのが西洋の学会側の習慣である。佳代はそれを知らなかった。

 とりあえず一読してから、上司の八幡部長に相談しに行った。

「あの、海外の学会に招待されたんですけど」

「へえー。例の細菌について?」

「そうです」

「何ていう学会?」

 佳代は電子メールを印刷した紙を渡した。

「インターナショナルカンファレンスオブエレクトロ―ニックバクテリアルインフェクション。長いな。日本語だと、電子細菌感染国際会議、とでも言うのか。聞いたことがない会議だが、有名なのか」

「第一回らしいです」

「へえ。細菌による被害に反応したんだろう。さすがアメリカは動きが早いね。これ、いつやるの?」

「三月です。二か月後」

「それは近い。慌てて開くことにしたのか。ずいぶん、バタバタしてるね」

「緊急に開催する、とメールにありました。私の発表は初日の最初の講演です」

「基調講演ってこと?」

 基調講演とは、その国際会議で基本的な方向性を示す講演である。学会であれば、その道の権威が行うことが多い。

「キーノートスピーチとは書いていませんから、違うでしょう」

「招待っていうと、タダなの?」

「参加費と宿泊費はタダですが、交通費はこちら持ちです」

「今年度、丸沼さんの海外出張費は、申請していない」

 この会話は形式的には、佳代が学会発表をするために上司と交渉している図だった。しかし、この上司が駄目だって言ってくれないかな、と佳代は期待した。こんなプレッシャーのかかる発表はしたくなかった。

「でも招待されて学会発表、というのは会社の名誉でもあるな。行けるように極力働きかけてみよう」

 期待したのが間違いだった。

「ところで話は違うんだが」

「なんでしょう」

「丸沼さんに出向の話が来ている」

「は?」

「経産省が産官学の細菌対策研究所を立ち上げる。その研究所にぜひ来てほしいという話だ」

「はあ」

「気のない返事だな。キーマンとしてご指名だ」

「本当の話ですか。だったら私は、買い被られているんじゃないかと思います」

「うーん、うちとしても丸沼さんが抜けるのは痛いのだが、経産省との関係というのもあるし、それに丸沼さんのキャリアアップになるかもしれないし」

 それはどんなキャリアアップなんだろう、と佳代は首を捻った。

「出向だから給料はうちから出る。期限は一応三年間だ。開設は四月からだが、来週には第一回の会合がある。それに出てくれと言ってきている」

「はあ、わかりました」

 何か変な流れが自分のところに来ていると思った。ただその流れに抗うのもどうかという気がした。佳代は周囲の動きには受け身になることが多く、流れに逆らった経験がほとんどなかった。

「それで計測課はどうするんですか」

「春から大泉君にやってもらう。引継ぎもよろしく」

「大泉さんですか。本人は納得しているんでしょうか」

「特に嫌がってはいなかった」

「わかりました。やってみます」


「ふたつ話があるの」

 佳代は電話で秀郎に、その日にあったことを話した。

「両方とも良い話なんじゃないの」

 秀郎は屈託もなく答えた。

「どちらも面倒くさい」

「研究が成果になるまでは面倒くさいもんだよ」

「旦那さんは前に、論文を出す瞬間が一番わくわくするとか言っていなかったっけ」

「瞬間はね。でもそこに至るまでは面倒くさい。英語も佳代ほど得意じゃないし」

 秀郎はたまに、これこれを英語で何て言うんだっけ、という質問を佳代にすることがあった。

「ふうん」

とは言っても、秀郎は学術上の専門用語であれば英語を間違えることはない。外国の人とも英語で臆することなく話しているのを佳代は知っている。ただ、秀郎の英語は佳代よりも少々ブロークンで日本訛りがあった。

「ところで旦那さん、琵琶さんに私のこと、何か言った?」

「ああ、聞かれたよ。細菌の発見者である君の奥さん、ってどういう人、って」

「何て答えたの」

「美しい妻で素敵な母親でもある」

「お世辞はいいから」

「今の仕事は研究じゃないけど、優れた研究者に成り得る人だ、って言っておいた。今回の発見もただの偶然じゃないと」

「うー」

 秀郎が一番、佳代を買い被っているのではないかという気がしてきた。


 佳代が呼ばれたのは電子機器細菌対策研究所の立ち上げ実行会議であった。初回と銘打たれていた。その後、実行会議は週に一度、行われることになっていた。

 場所は新橋で、佳代は初めて行くところだから余裕を持って出かけた。すると、指定された時間よりも三十分ほど早く着いてしまった。貸しビルの中に設けられた会議室に入ると、既に正面に中山教授が座っていた。いや、日本理工大学は退職されたはずだから、中山名誉教授だ。シャツにジャケット、ノーネクタイというラフな姿だった。

「ああ、丸沼さんだね。初めまして、でいいのかな」

「中山先生は私が学生の頃、キャンパスで何度もお見掛けしていました。ですが、お話しするのは初めてだと思います」

「そうだったか」

 中山先生は笑った。歯を見せた豪放な笑い方だった。白髪が四方八方に伸びていて、学者というよりも書家か陶芸家という趣の人だ。皺は増えたが、その豪放さは佳代が学生の頃に受けたイメージと全く変わりがなかった。

「ところで旦那さんはお元気かな」

 どこで秀郎と自分が夫婦なのを知っていたのかと思ったが、それは質問せずに話を合わせた。

「ええ。相変わらず北海道で、オコジョかキタキツネか知りませんけど、野生動物を追いかけています」

「丸沼君は頭の回転が良いばかりでなく生物学全般に博識でね、私の受け持った講義の成績も良かった。院試の後に……」

 院試とは、大学院入院試験のことだ。

「どうしてうちの研究室を志望しなかったんだと言ったんだが、細菌よりもでかくて、動くのが顕微鏡抜きで見えるものほうが良いです、と言っていたな。ははは」

 それは初耳だった。もっとも秀郎について、君の旦那さんは優秀で、といった話はよく聞かされていて珍しいものではなかった。

「丸沼君は研究室の違う私にも毎年年賀状を送ってきていてね」

 そうだったのか。年賀状は夫婦連名で出していたし、それなら自分と秀郎が夫婦なのを知っているのも当然だ。

「あの……、」

 佳代にはどうしても言っておきたいことがあった。

「私はそもそも細菌学が専門でもなんでもないのですが、電子機器細菌対策研究所の一員になってもよろしいのですか」

 中山先生はいたずら小僧のように、にやりと笑った。

「専門家の目では私が見るから、丸沼さんは専門外の目で見てもらえばいい。研究者にとって最も重要なことは、どう研究するかではない。何を研究するか決めることだ。あなたはそれを的確に実行したのだから、自信を持って良い。それに欧米だと、専門外のことに首を突っ込んで成果を上げた人が普通に沢山いる」

 佳代がそうした質問をするのを予期していたかのような答え方だった。

そんな会話をしていた頃、スーツにネクタイ姿の男性が現れた。正月のテレビで見た顔だ。重そうな資料を持っていて、それをどさっと机の上に置いた。

「丸沼さん、お久しぶりです。琵琶です」

「お久し、ぶり?」

「丸沼君の結婚式以来ですね。もっとも全部で百人ぐらいいたから、私のことはわからなくて当然です。スピーチをしたわけでもないし」

「いえ、その節は来ていただいてありがとうございました」

 佳代はなにやら間抜けな挨拶をしてしまった。

「丸沼君の結婚式に出たの?」

 中山先生が興味深そうに尋ねた。

「ええ。丸沼さんがとてもお美しくて、当時の私は独身でしたから、丸沼君が羨ましかったです」

「ほう、そうかね」

 君の奥さんってどういう人だ、と琵琶は秀郎に聞いたという。つまり結婚式の佳代の姿にはっきりした記憶はないのだ。それでいてこういう世辞を言うのだから琵琶は口がうまい。

「それはそうと、本題に入ろうか」

「ええ。これが図面です」

 電子機器細菌対策研究所。英語で、Bacteria Control Laboratory for Electronic Institute。 略称BCLEIの建物の図面が目の前に拡げられた。

略して話す時はビーシーレイ、と言うことにした、と琵琶は説明した。

「外装はほとんどいじらなくて良いようです。あとは中身ですね」

 そんな話をしていたところに、男の人たちが三人ほど入ってきた。

「おお、来た来た。待っていたよ」

 時計を見たら午後二時ちょうどだった。指定の時刻である。

「全員そろったから、改めて挨拶をしようか」

 中山先生が立ち上がった。

「まず私から。中山信太郎です。東京理工大学で細菌学の教授をしていたんですが、年末に定年で退官しました。週に一回ぐらい非常勤の講義の依頼はあったんですけど、その程度なら時間に余裕がある。そこで趣味の野菜作りでも始めようかと思っていたら思いがけずこの話が来ましてね。春から電子機器細菌対策研究所の所長ということになります」

 穏やかだが、しっかりとした話しぶりだった。

「みなさん、座ってください。それじゃあ、丸沼さん」

「あ、はい」

 自己紹介の準備はしていなかったので、慌てた。

「鹿上精工の丸沼です。ひょんなことからエポキシコラを発見しました」

「丸沼さんには、この細菌についてさらに詳細に研究してもらおうと思っている」

 自分の声に被せるように中山先生に言われてしまった。そのままにしておくと自分の意見を何も話していないような気がしたので付け加えた。

「鹿上精工は細菌については限定的な試験しか出来ませんでしたので、ここでそれが出来ればと考えています」

「それについては、自己紹介の後にお話ししましょう」

 琵琶から返答があった。

「それでは次に、荒井さん」

「荒井良樹です。昨年秋までNITにいたのですが……」

 NITは北アメリカ工科大学のことで、理工系では有名な大学だ。

「日本に戻って北東大で講師をしていました。帰ったばかりで大した仕事もないところにこの話がありまして、是非と思って来ました。籍は大学に置いて、週に一回講義をしに戻りますが、主にこちらで仕事をすることになります」

「荒井君には、理論的な側面を見てもらう。細菌増殖の数値モデルなどが専門だからね」

「増殖もさることながら、この細菌による影響が日本の物流ネットワークなどにどれだけ関与するか、ということにも興味を持っておりました」

 へえー、と感心しながら佳代は色白メガネの荒井を見つめた。佳代もこの細菌の感染を放っておけば、世界的なパニックになる、くらいの想像はしていた。ただその影響を産業規模で予測するというところまでは考えていなかった。

 自己紹介は四人目に移った。

「里川幸輔です。黒南医科大学で講師をしております」

 黒南医科大学は有名な私立医科大である。

「里川君には医学的な側面からこの細菌を見てもらう。電子機器を人間に置き換えて考えてもらいたい」

 医者がどうこの細菌を考えるか、という視点もあったのか。佳代にはまた、へえー、であった。

 次は五人目である。

「日本ヒマラヤ工業の東山典久です」

 日本ヒラヤマ工業は日本のプリント基板製造では有名な会社である。ただ、質が高い代わりに値段も高いので、佳代のいる鹿上精工とは取り引きが無かった。

「東山さんには、ガラエポ側のほうからアプローチをしてもらうつもりだ」

「それでは最後ですね。経産省の琵琶幸弘です。エポキシコラは日本の電子産業を壊滅しかねない。なにか対策を考えろと言われて、産官学の研究所を作りましょうと提案したら、出向して事務方をやれと命じられました。皆さんの仕事が少しでもやりやすくなるように尽力したいと思います」

「琵琶さんはBCLEIに来るんだよね」

「ええ。日本開発機構のほうに行ったらという話もあったんですが、現場に近いほうがいいと言い張ってBCLEIのほうに来ることになりました」

 BCLEIに国の予算が直接降りるわけではなく、間にひとつ日本開発機構という独立行政法人が噛むことになるらしい。なお、BCLEIは財団法人となる。佳代にはその辺りの話が今一つ理解できなかった。

 自己紹介が終わった。男性五人に女性一人。ふと佳代は、自分が紅一点だな、と思った。珍しいことではなかった。東京理工大学の理学部化学科に入学してから鹿上精工社員である現在に至るまで、女性の少ない環境で過ごしてきたのだ。こうした状況には慣れている。

「では、自己紹介が終わったところで、研究所の説明に入りたいと思います」

 琵琶が図面を広げた。

「ここはもともと東京光栄大学の研修施設だったところです。稼働率が低いということで安く借り受けました。建物はほとんど使っていないのでどう改造してもかまわないということです」

 東京光栄大学は都内の中堅私立大学である。

「光栄大のキャンパスは三鷹だろう。なんで江東区に研修施設を作ったんだろう。キャンパスから遠い所なら使っていないのも当たり前だが」

「出来たのは一九九二年ですね」

「計画を立てたのはバブルの頃か」

「それならウォーターフロントに見栄えの良い建物が欲しいとか言い出す輩がいてもおかしくないな」

「使わないものを建てたって意味がないのに」

 男たちは一斉に非難していた。これからそこを使おうとしているのに、そこまで言わなくてもと思って佳代は発言した。

「まあ、安く借りられたのなら、そんなに貶さなくても」

「丸沼さんはやさしいな」

 中山先生はにこやかな顔になった。

「それで改装計画ですが」

 琵琶が改めて図面を広げた。

「研修棟と小さな宿泊棟があるのですが現在ある薄い壁は全部取っ払って寝具の類いも全て取り除きます。研修棟と宿泊棟は渡り廊下で繋ぎます。それで研修棟は主として講義・会議室と事務、居室。宿泊棟は当面の間は実験棟とします。面積の半分はクリーンルーム。それから、ここにテニスコートがありますね」

「遊興施設だな」

「ええ。このコートは潰して、そこに新たに研究棟を建てます。宿泊棟のみでは狭いですから。こちらの新たな研究棟が将来的には研究の中心施設になります」

「クリーンルームという話が出たが、バイオセーフティーレベルはどうするかな」

 中山先生が尋ねた。荒井と東山はきょとんとした顔だった。

「BSLの説明からしたほうがいいんじゃないでしょうか」

 里川が言った

「ふむ、そうか。医学は私の専門外だから里川さん、頼む」

 里川が説明した。バイオセーフティ―レベル(BSL)は細菌やウィルスの危険性をレベルで表したもので、レベル1(BSL―1)からレベル4(BSL―4)まで分けられる。それぞれの危険度に応じた実験室の設備のレベルが定められている。エポキシコラは人間にとって危険な細菌ではないが、どの程度の警戒度をもってこの細菌を研究所で扱うか、という話である。


レベル1、低リスクのもの。飲食不可。

レベル2、インフルエンザなど有効な治療法があるもの。警告表示・施錠・作業着もしくは白衣着用。

レベル3、狂犬病ウィルス・結核菌など重篤な病気を起こすが治療法があるもの。エアシャワー設置・実験室排気のフィルターが必要。

レベル4、エボラウィルス・天然痘ウィルスなど有効な治療法が確立されていないもの。完全隔離施設が必要。


 佳代はバイオセーフティ―レベルというものを聞きかじったことはある。しかし専門家から話を聞くのは初めてだった。

「丸沼さん。鹿上精工はどのレベルでやっていますか?」

 中山教授に聞かれた。

「レベル2が一番近いですね」

「でもこのBSLって、実験をしている人間を守るためにあるんでしょう。実験室から細菌やウィルスを外に出して人が死ぬような細菌を広めないために」

 琵琶が尋ねたので、中山先生が補足した。

「人間に害が及ぶわけじゃないから、どのレベルにしなければならないという義務があるわけではない。ただ、試験に使っている電子機器がやられたら、研究も対策も出来ない。機器が感染しないようにどのレベルでやらなければならないかという話だ」

「人間ではなく、機械を守るための基準ですか。なるほど」

 琵琶が納得した所で、里川が話を続けた。

「前もって調べてみたんですがレベル4はそもそも無理です。国家的な医学プロジェクトでないと予算がつきません。現在、日本でレベル4の施設は三か所しかありません」

「コンピュータなどの電子機器に重篤な病気を引き起こし、現在治療法は無い。といっても空気感染するわけではない。実験室ではレベル3でいいかな」

「実験室はそれでいいのではないですか」

「ただ、居室でもレベル2が必要と思いますが」

 琵琶、中山、里山が意見を出し合っているところに佳代が割り込んだ。

「居室で、ですか」

「パーソナルコンピュータもスマートフォンも電子機器です。これらが動かなくなったら研究どころではなくなります」

「それもそうか」

 中山先生は納得したものの不満顔だった。

「所長室もレベル2か。トイレに行くだけでも面倒だな。いちいち着替えて手袋を外して移動しなければならん」

「所長室のパソコンが使えなくなったらもっと面倒ですよ」

「パソコンのキーボードにだけ覆いをかけて、パソコンに触るときだけ着替えて手袋、いや、それは却って守れないルールになる。面倒だから素手で触ってしまうに決まっている。それを避けるには常に手袋、か。仕方がないか」

 しぶしぶ中山先生は納得した。他の男たちもうなずいた。中山先生が納得すれば他の人間も納得せざるを得ないのだ。

「あ、ところで」

 レベル3なら、そこには専用靴が必要になる。

「わたしの靴のサイズ、二十四センチなんですけど、用意できますよね」

 佳代は切実な声で訴えた。

「鹿上精工のクリーンルームに初めて入ろうとした時、二十六センチ以上の無塵靴しか置いていなかったんですよ。用意してもらえますか」

「ああ、はい、もちろん、大丈夫ですよ。」

 琵琶は笑いながら請け負った。

「第一研究室長の靴を買い忘れるなんて有り得ませんから」


「研究室長か、うちの奥さんも偉くなったもんだねえ」

 秀郎が間延びした笑いかたをしたので、佳代はますますいらついてきた。

「偉くなんかなりたくないってば。ひ・で・ろう・さん」

 佳代が旦那さんではなく秀郎さんと呼ぶ時は、秀郎の実家にいる時と佳代が怒っている時だけである。

「あなた、本当は琵琶さんに何て言ったの」

 そして、あなた、は佳代が怒っているふりではなく、本気で怒っている時しか言わない。

「ありもしないことを言ってわたしを褒めまくったんじゃないの」

「ああ、うん」

 佳代が本気で怒っているのがわかったので秀郎は少々たじろぎながら説明した。

「優秀だしキーマンになると言ったよ。キーウーマンのほうが良かったかな」

「うー」

「ほら、東京理工大の森吉教授」

 森吉教授は佳代が四年生の時にいた研究室の教授である。

「俺たちの結婚式、挨拶でほめていただろ。上野君は成績もほとんど優で、有機合成化学は根気のいる学問ですが真面目で熱心で、どうして大学院に進んでくれなかったんだと嘆きました。この丸沼君と早く結婚したかったんでしょうかね、って」

「成績を優にするなんて、真面目に講義の予習復習をしていたらできるでしょう。大抵の学生はそれをしないだけで」

 大学の講義の予習復習をしようとして真面目にそれを実行してしまい、さらにその効果もあるところが佳代の才能なのだと秀郎は思うのだが、怒っている佳代にそう話しても通じない。

 佳代は佳代で、秀郎のように普段は真面目に勉強などしている風でもないのだが、生物の話になると何でも興味津々になって本を読みまくり人に尋ねまくり次々にアイデアを出して時を忘れて実験観察に打ち込む、そんな天才型の人間こそ大学院に行くべきだと考えていた。努力が成績という成果になるのは当たり前で、それを越えたところに才能があるのだと佳代は信じていた。

 なお、佳代が大学院進学など考えずに就職活動をしたのは、森吉教授が言う通り秀郎との結婚と関係があった。当時から秀郎は極寒の雪国で野生動物の観察をしたいと夢のようなことを言っていた。そんな男と結婚して男の夢が実現してしまったら、夫はある日突然雪国で動物を追いかけて事故死するかもしれない。秀郎と結婚し自分が職に就いていなければ、いつ生活に困ることになるかわからないと思っていたのだ。

 そんな佳代の心持ちを知ってか知らずか、秀郎は能天気に言葉を継いだ。

「ああ、そうだ。佳代は放っておくと人の陰に隠れようとするから前に出してやって、と琵琶に言っておいた。でも研究室長にしろとは言ってないよ」

「うー、前に出してやってと言われて、嫌でも前に出ざるを得ない役職にしたってこと?」

「それは琵琶に聞いてくれよ。でも、あれだな。形式的には違うんだろ」

「うん、それは聞いた。対外的には、研究室長じゃなくて、研究リーダーなんだって、私と東山さんは。私企業からの出向者が公式に研究室長になることは出来ないらしくて」

「でも対内的には室長なんだね」

「そう。外に出す書類以外では、私は第一研究室長だと」

「国の組織らしい玉虫色のやりかただな。その対内的に研究室長というのも中山先生がうんと言わなかったら決まらなかった話だろうし、それは先生の判断でもある。それにさ」

「なに?」

「世間では、出世すれば喜ぶものだよ。佳代も室長になった、偉くなったと言って喜んだら?」

「うー」


 たいていの場合、佳代は秀郎と口論すると誤魔化されてしまうのだった。

 電話の後に奈菜が言った。

「お母さんとお父さんって、仲いいよね」

「なんで」

 頭の中に秀郎への不満が渦巻いていたので、思わず佳代は反駁した。

「だって、ラインで済むようなことでも電話で話してるし。お互い、声を聞きたいからでしょ」


 秀郎とつき合い始めた頃、夕食を二人で食べた後、レストランの外に出たら空に満月が浮かんでいたことがある。

「ああ、満月か」

 天文ファンにとって、満月は星の観察をするのに邪魔になることがある。佳代は感心する風でもなく呟いた。

 ふと秀郎を見ると、彼は満月に向かって右腕を伸ばし、人差し指一本だけ立てて片目をつぶっていた。

「今夜も月は0.5度」

 秀郎が何を言っているのか、佳代にはわからなかった。

「何の話?」

「視角って、知ってるよね」

「四角? 資格?」

「見るほうの、ものの大きさでつく角度」

「視野角じゃなくて?」

「それはディスプレイが正常に見える角度とかで使う」

「あ、そうなんだ。視角ね」

「満月の視角は0.5度。腕を伸ばした時の指一本は2度。だから指一本の間に満月は四つ入る」

「へえー」

「今夜は月が綺麗ですね、って夏目漱石の話、知ってる?」

「え、知らない」

「そうか」

 漱石の話を佳代が知ったのは、結婚してからだった。秀郎のいない所で、たまたま何かでその話について書いているものを読んだのだ。その時、佳代は一人で赤面した。

 秀郎はあの時、アイラブユー、と言いたかったらしい。


 佳代は翌日、鹿上精工にいた。四月からはここを離れなければならない。そこで佳代はエポキシコラの実験室と化していた計測課試験室の掃除を始めた。BCLEIに持っていくエポキシコラの細菌以外は全て殺菌しておく予定だった。自分がいなくなってから、うっかりこの部屋のエポキシコラが流出することだけは避けなければならない。

「あれ?」

 奇妙なことに気づいたのは、エポキシコラの培養皿を見た時だった。エポキシ樹脂のみが量を減らしていたので、細菌がエポキシ樹脂を分解していると断定した皿だ。

 その後、エポキシ樹脂があまり減っていなかった。

「どういうことだろう。温度設定が合っていなかったのかな」

 発見時には電子顕微鏡で見なければ細菌かどうかも判別できなかった。しかし佳代はもうこの時期には光学顕微鏡でエポキシコラの繁殖具合を判断できるくらいに上達していた。

 光学顕微鏡で見てみた。細菌はいた。しかし、増えてはいなかった。初期に増殖した後、倍々で増えると思っていたのだが数があまり変わっていない。

「?」

 なぜ途中で増殖が止まったのだろう。ふと、これがBCLEIでの研究テーマになるかもしれない、と思った。


 休日、佳代は家で英論文を読んでいた。

 目の前には洗濯機があった。あと数分で終わる。

「お母さん、何してるの」

「これ読んでる」

「英語の小説か何か?」

「ううん。仕事関連の論文」

「前にもそういうのを読んでたよね」

 佳代は仕事を家に持ち込まない主義だった。しかし、そうも言っていられない。

 現状の論文ベースで、エポキシコラに関する研究がどこまで進んでいるのか、知っておきたかった。何しろ佳代の発表は冒頭の招待講演なので、既発表の情報は掴んでおかなければならない。

「ゲノムの細かい話はどれも出ていない。それこそ今度の学会で発表があるのかもしれない」

 いくつかの論文に目を通し、佳代はそんな独り言を言った。

 洗濯機が終了した音を立てた。ふと、この洗濯機もガラエポを使っているのかなと思った。買った時にAIなんとかという触れ込みの高額な洗濯機があったような気もする。だが丸沼家の洗濯機はそんな高級なものではない。仮にガラエポを使用したプリント基板を使っていても、洗濯機を使う前後は手を洗っていることが多いから、スマホほど危険ではないかもしれない。

 洗濯物を籠に入れた所で電話のベルが鳴った。秀郎だった。

「来週、アメリカに行くんだったよね」

「うん。七日後」

「奈菜一人だけど、どうする?」

「うちのお母さんに頼むつもりでいたけど。先週話したら、なんとか行けるんじゃないかなって言っていたし」

「いや、お義母さん、膝、悪いんだろ。俺、その時期にそっちに行くことになった。だから無理にお義母さんを呼ばなくてもいい」

「え? それは助かるけど、なんでこっちに来るの?」

「東京に出張。ついでに何日か休みも取った」

 珍しいことだ。特に冬場の秀郎は動物観察に入れ込んでいて、正月を無視して五月連休まで戻って来ないこともあったくらいだ。

「ほら、こっちは一段落ついたって、言っただろ。だいたいの観察は終わって、あとは論文を書くぐらいだから」

 秀郎がそう言っているのなら、そういうことなのだろう。奈菜の世話を断る理由は何もなかった。

「わかった。奈菜とうちのお母さんに言っておく」


 日本は冬だったが、ピッツバーグも冬だった。アメリカ内陸の乾いた風が頬を刺した。

 佳代がアメリカに来たのはこれで二度目だった。一度目はマイアミ。秀郎との新婚旅行で、

「英語が通じる所に行きたい」

と佳代が言ったら、秀郎が、

「ハワイじゃありきたりだな。アメリカのリゾート地というと」

と考えてマイアミにしたのだ。その頃はまだ九月に入ったばかりで、浜辺で泳ぐことができた。レンタカーを借りて海にかかった橋をドライブしたりして楽しんだ。

 あの時は秀郎と二人だった。今回は独りだ。心細いことは否めない。

ピッツバーグに着いたのは昼だった。時差ボケで眠かったが荷物をホテルに置くと、無理矢理外に出た。少しでも時差ボケを解消するには明るいうちに歩き回ったほうがいい。

 ピッツバーグは鉄鋼業で栄えた、と授業で習ったことがある。その後アメリカで鉄鋼業は斜陽産業になり、今は軽工業その他のほうが盛んだという話だ。

それに、ピッツバーグにはカーネギーメロン大学やピッツバーグ大学がある。学際都市だから国際会議の場所に選ばれたのだろう。

 佳代は特に目的もなく、そのピッツバーグの表通りを歩き回った。酒の好きな秀郎は旅行に行くとよく酒屋を探したものだ。しかしピッツバーグでは酒屋自体が少ない。そう言えばペンシルバニア州は酒類の販売に厳しい、と情報収集の際にネットで見た覚えがある。酒類の免許を取るのが難しいらしい。歩いてもスピリッツ系の店を一軒見たきりだった。

 その酒屋ではなく、本屋に入った。秀郎は海外での学会発表の後、奈菜に英語の絵本を土産に買って帰ってきたことがある。しかし、奈菜はもう絵本という年齢ではない。考えたが、日本でも有名なファンタジー小説の原語版を買うことにした。仮にもし奈菜が読まなくても自分で読みたいと思ったのだ。

金を払うと「サンキュー」と言われたので、「ウェルカム」と言って返した。本は結構重い。帰り際に買うのだったか、とも考えたが、子供の物は思いついた時に買っておかないと、とも思う。仕事モードに入ると、つい家族のことを忘れてしまうことがあるからだ。

「何かお腹に入れておくかな」

 それほど腹は減っていなかったが、こちらの時間に早く慣れておきたかった。中華料理屋があった。中華は世界中にあるのだ。庶民風の店だが、悪い感じは無かった。

 メニューは英語だった。鶏肉と野菜の炒め物を頼んだ。見たら脂ぎっていた。油の中に野菜と鶏肉が浮いているようだった。

(え? これを食べるの?)

 皿の端で油を落としながら食べた。それでも全部は食べられなくて三分の一は残した。もう満腹だった。

 佳代はそれ以降はホテルに戻り、どう発表するか、内容チェックで時間を過ごした。


 翌発表日当日。佳代に与えられた時間は三十分。

 司会者が自分を紹介してくれた。その後、マイクの前に立って、サンキューチェアマン、と言った。

「国際学術会議では、登壇したら、サンキューチェアマン、と言うんだ」

何度も国際会議に出ている秀郎のアドバイスだ。

「後は好きに話せばいいよ」

他にアドバイスは無かった。

「いや、英語が苦手な奴なら、慌てないでゆっくり話せよ、とか、他にアドバイスがあるんだけど、佳代のほうが俺よりも英語が得意だし」

こちらは初めてだというのに。いろいろと聞こうとしたのに教えてくれなかった。

鹿上精工では、海外で交渉をしたり工場見学をした人はいても、学会で発表をした人は身近にいなかった。経験者の体験をほとんど聞くこともないままに佳代は本番を迎えていた。

(ともかく、慌てないでゆっくり)

 時間は三十分。発表が二十五分、質問が五分。使用言語は英語。

 まず簡単な経緯から始めた。インド、イタリア等でまずこの細菌が発生していた話から。

「実は我々はこの情報を知りませんでした」

 我々、というよりも私は、が現実なのだが、学会では一人で考えたことでも我々と言うものであるらしい。

「知ったのは、鹿上精工にこれが送られてきてからです」

 曲がったガラスエポキシ樹脂がスクリーンに映し出された。

「この状態になったガラスエポキシ樹脂は絶縁耐性がなくなります。症状としては、電源が入らなくなります。原因はこれです」

 エポキシコラの電子顕微鏡写真が映し出された。何度私はこの細菌の説明をしてきただろう、と佳代は思った。海外の学会と言っても話す内容にそう変わりはない。ただ相手が大勢で、ほとんどが日本人ではなく言語が英語、というところが違う。

 席にいる人々をざっと眺めた。白髪の日本人がいた。中山先生だ。目が合うと、彼は頷いた。知っている人を見つけたので、少々心強く思えた。

「このエポキシコラの特徴について、おおまかに述べていきます」

 温度変化が増殖に与える影響、アルコールへの耐性、エポキシ樹脂の分解生成物等々。

「鹿上精工は化学、生物を専門にする会社ではなく、設備が整っておりません。私の後の発表者がもっと詳しいことを明らかにしてくれるでしょう」

 若干の笑い声が漏れた。ジョークだと思ってくれたのだろうか。

 それから、この細菌により、自分の家でも会社でもハイテク機器に細菌が入り込み被害を受けたと話した。それから、鹿上精工におけるエポキシコラ対策の話をした。部屋に入っていく社員たちがアルコールで手を拭き、誰も彼もが手袋をして仕事をしている姿が映し出された。

「これでようやく細菌の伝搬を防ぐことができました。ではまとめです」

 サマリーとしてここまで話したことの概略を示して終わった。ちらっと腕時計を見た。二十秒程度のオーバーで済んだらしい。

「サンキュウ フォー ユア プレゼンテイション。アー ゼア エニイ クエスチョンズ?」

 チェアマンの声がした。終わってほっとしたと思ったら、また緊張してきた。これから質問時間が五分ある。

「この細菌を根絶するための方法を何か考えているか? 例えばガラスエポキシ樹脂に何か抗菌性の塗料を塗るとか」

 英語の意味は聞き取れた。落ち着いて答えればいい。わからないことはわからないと言ってよいのだ。

「現状、我々はそこまで研究を進めておりません。もちろんあなたの仰ったアイデアは有望かもしれません」

「エポキシ樹脂にはいくつか種類があるが、どのエポキシでもこの細菌は分解してしまうのか。また、エポキシ以外ではどうか」

「四種類のエポキシ樹脂全てが分解されました。他の樹脂、例えばベークライトやアクリル樹脂は全く分解されませんでした」

 他にもいくつか技術的な手法に関する質問を受けた。それは問題なく答えられた。

「対策の話を見ましたが、社員全員に消毒と手袋をさせるのに困難はなかったか。それともジャパニーズコーポレーションならそれは簡単に出来ることなのか」

 ジャパニーズコーポレーション、のところで少々笑ってしまった。

「日本の企業であるかどうかは問題ではありません。これをやらなければ会社も仕事も無くなる、と思えば出来ることでしょう」

 そう答えた所で質問時間が終わった。佳代は、ほうっ、と息を吐いた。終わったのだ。壇を下りて席についた。もう、とっとと日本に帰ろうか。そんな気になった。


 壇上には長身で太めの男性が立っていた。二人目の発表者だ。アントワーヌ研究所の主任研究員、ドナティ氏、とチェアマンが紹介していた。

 ああ、聞かなければ、と思った。マクラウドも話していた。アントワーヌ研は佳代に先を越されて地団太を踏んでいたと。となれば、その後にどんな研究が行われていたのだろうか。

 ドナティ氏の顔はどこかで見たような気がした。記憶を辿ってみたら、正月番組「現代科学のホットニュース」に出ていた人だった。

 アントワーヌ研でやっていることは、佳代のやっていたことよりもレベルが高かった。温度測定の細かさから違う。ガラスエポキシ樹脂にはいくつか種類があるのだが、その種類それぞれについて、エポキシコラの生成物をそれぞれに同定していた。

「例えばエポキシ樹脂には酸に強いものとアルカリに強いものがありますが、この細菌はどちらも分解します」

 ドナティ氏はエポキシコラという名前を言おうとしなかった。ふと、言いたくないのかもしれないと思った。

「つまり、この細菌は複数の作用を行うことができます。状況に応じて遺伝子を微妙に変異させることが出来ると考えられます。カメレオン的な細菌、スパクロラムバクテリア、とでも言いましょうか」

 ラテン語が飛び出した。自分が発見者だとでも主張したいのか。

 それは置いておくとして、と佳代は考えた。例えば胃潰瘍の原因となるピロリ菌は、強酸である胃酸の中でも、胃の中の尿酸からアルカリ性であるアンモニアを作って中和し胃の中で生息している。それと似たところがあるのかもしれない。エポキシコラは近傍にあるものから、酸やアルカリを作る。近傍にあるものとは、空気と水分と、エポキシ樹脂だ。あるいは配線もそれに加えてよいかもしれない。そして繊維状のガラス。

 ガラス? 普通に考えたら、ガラスは何もしない。安定な物質だからだ。

 発想がそこまで飛んだところでドナティ氏の発表が終わった。ゲノムは調べたが、解析はこれからだという。

 三人目はカリフォルニア州の大学教授で、シリコンバレー内にエポキシコラの影響がどのように伝わったか、という話をしていた。およそ半分の企業が影響を受け、さらにその半分が深刻な被害を受けたという。また、その拡大傾向についても言及し、全米に広がるのも時間の問題だと結論付けていた。

 そこで午前の発表は終わった。

 佳代は中山先生の姿を探した。髪が四方に拡がった日本人の老研究者を探すのは容易だった。先生を見つけて佳代が手を上げると、中山先生も手を上げ返してこちらにと手招きしていた。

「中山先生、来ていらしたんですね」

「BCLEIの初会合で言わなかったかな。ほら、レベル2か3かとかいう話をした後に」

 散会する直前に、情報収集も大事ですね、と琵琶が言ったので、海外で学会発表をします、と佳代が答えた気がする。その後に中山先生が、自分も聞きに行くつもりだ、BCLEIから予算が出るのかな、などと話していた。

「そう言われればそんな話を聞いたような気もしましたが」

 その時は予算がつくかどうかわからないと琵琶が答えていた。その後電子メールで、中山先生と何度も研究所立ち上げの件で連絡を取ったが、この学会についての話は無かった。中山先生は来ないということになったのだろう、と勝手に思っていた。

「琵琶君が動いてくれて、予算も出た。だがこの頃は女性と二人で一緒に移動したり、同じホテルに泊まっただけで、もううるさくてね。同じ学会に行くことを確認したら、その後はどの飛行機に乗るとかどこに泊まるとか、そんな話は女性の仕事仲間とは一切しないようにしている」

 はあ、と佳代は嘆息交じりの返事をした。考え過ぎのような気がする。

 そこに牛でも現れたのかというほどの、高さも幅も大きな男がやってきた。

「プロフェッサー、ナカヤマ。グッドタイムトゥシーユーアゲン」

 アントワーヌ研のドナティ氏だった。中山先生と知り合いらしい。そこから三人の会話は英語になった。

「おお、ドクター・ドナティ。アントワーヌ研をお尋ねしたのは五年前かな。相変わらず元気そうで何よりだ。あの時は世話になった」

 中山先生の英語は日本語訛りの強い、いわゆるジャパングリッシュだった。だが、ゆっくり堂々と話していて、外国の人が聞いてもわかりやすいだろうと思われた。

「五年前に、アントワーヌ研を案内していただいたのだよ。ドクター・ドナティ、さっきの発表を聞いていただろうが、こちらがカヨ・マルヌマだ」

「オー、ミズ・マルヌマ」

 ドナティ氏はドクター・マルヌマとは言わなかった。

「私の発表を聞いて下さったでしょうが、スパクロラムバクテリアの研究では我々が世界で最も進んでいるでしょう。ミズ・マルヌマは細菌の専門家ではないと聞いた。今後は我々にお任せください」

 腹を突き出した尊大な態度だった。なんだか腹が立ってきた。佳代は昔から、威張る人間が嫌いなのだ。

「この次からは、エポキシコラ、と呼んでください。あなたにあの細菌の命名権はありません。あなたがスパクロラムバクテリアと繰り返すことは、水泳競技で、手の平が先に着いたのは自分だ、と主張しているようなものです。だが、この世界では指先が先に着いた者のほうが評価されます。指先が先に着いたのは私です」

 佳代はドナティの眼を真っ直ぐに見つめた。

「指先の次の、手の平はあなたが先でした。しかし、プールからは私が先に上がるつもりです」

 ドナティ氏は、最初は驚き、珍獣を見るような目で佳代を見ていた。だがそれから顔を真っ赤にした。怒っているのだ。

 だが、ドナティ氏よりも中山先生の声のほうが早かった。

「ドクター・ドナティ。セッサタクマという日本語をご存知かな」

 それがのんびりした声だったもので、ドナティ氏の顔色はたちまち元に戻った。

「ホワッツ?」

「カットアンドポリッシュ、ゼン エンカレッジイーチアザー。カットアンドポリッシュは宝石を作るために行う行為だ。お互い競い合って高め合おうということだ。私と丸沼さんはこれから新しい研究所を立ち上げる。切磋琢磨して、共にこの人類の危機と戦っていこう」

「オールライト」

 中山先生とドナティ氏は握手した。

「君たちも握手したらどうかね」

 促されて佳代はとドナティ氏も握手をした。ドナティ氏の手は大きくて柔らかかった。もう怒ってはいないようだった。

 ドナティ氏が去ってから、中山先生が佳代に小さな声で話した。

「ドナティは昔から、威張りたがる男でな。優秀だが、性格は単純だ。そう思って奴と付き合っている分には腹が立たない」

 それは諭すようでもあった。

「それにしても丸沼さんには驚いたな。大人しい人だと思っていたが、あんな激しい物言いをするとは」

「ああ、わたし、英語だと性格が変わるんです」

 英語を話している時は、自分が外国人になったような、ちょっとした仮面を被っているような気がする。英語だと好きなことを好きなように言える。佳代にはそう思えて、英語を熱心に勉強していたような気がする。

「なるほど。その辺も含めて、昼食の時に話そうか。ここに入る時、昔の弟子でいまストーンズフォローにいる岩見君に会った。昼飯を一緒に食おうと約束した。丸沼さんもどうかな」

 ストーンズフォローはニューヨークにある、生物学では有名な研究所である。

「あ、はい」

 断る理由はなかった。

「女性と二人きりで食事をするとなにかと勘繰られるが、三人なら問題あるまい」

「はあ」

 それはやはり中山先生の考え過ぎのような気がして、腑に落ちないのだった。


 中山先生と岩見氏と三人で佳代は会場のセルフ式レストランで昼食を取った。その時、佳代が手に入れたサンドイッチのパンがパサパサしていた。

「うわ、このパン、ひどい。乾いてる」

「ああ、日本だとしっとりしたパンしか出てきませんけど、アメリカだとそういうこともありますね。そんな乾いたパンが好きなアメリカ人も多いです」

 岩見が答えた。その口調から、アメリカ暮らしが長いと感じられた。

「アメリカでは馴染みのチェーン店でなければ油断しない方がいいです。コーヒーを頼んで黒っぽいお湯のような味のものが出て来たことがあります。これが本場のアメリカンか、って思いました」

「他民族の国なんだから、いろんなサンドウィッチや様々なコーヒーがある、くらいに思った方が良いよ」

 中山先生はここでも泰然としている。

「丸沼さん、発表してみていかがでしたか」

 岩見が佳代に尋ねた。

「海外どころか日本の学会でも発表したことがなかったので、あれで良かったのかどうかさっぱりわかりませんでした」

「良かったと思いますよ。最初の講演として、十分なイントロダクションだったと思います」

「学会自体が慣れないというか。ドクターと呼ばれて、違うのにと戸惑ったり」

「ああ、その解決方法は簡単だ。丸沼さんが本物のドクターになってしまえばいい」

 中山先生は事もなげに言った。

「は?」

「あと三・四本、論文を出して、博士号を取ればいい。泉君を知っているかな。東京理工大で私が定年退職をした後に教授になった。その泉君に話しておくよ。エポキシコラの発見者がドクターを取りたいと言ったら、泉君も断れないだろう」

 あと論文を三・四本とは、気軽に言ってくれるものだ。いや、大学教授になるような人にとっては、気軽に書けるものなのだろうか。

「ところでストーンズフォローはどうかね。例のエポキシコラは追っかけているのか」

 中山先生が話題を変えた。

「出遅れたんですけどね。ここから巻き返すぞってところです。それで私が学会を見に来ました」

 岩見氏はストーンズフォローでそれなりの地位にいるらしい。

「岩見君、そろそろ日本に帰ってくる気はないのか」

「うーん。ニューヨーク好きだし、子供たちもこっちに馴染んでいるし」

「岩見君がニューヨーカーになるとは思わなかったな。学生の時は英語もそんなに得意じゃなかったし」

「四年になったばかりの頃は英語の論文に慣れていませんでした。でも山ほど読んでいれば慣れるものだし、話すほうも住んでいれば慣れます」

「異国暮らしで逞しくなったようだな。岩見君はね、いまストーンズフォローの重鎮なんだよ」

「ふふっ。重鎮は大袈裟ですが、あそこでパーマネントな職に就いているというのは、日本に帰ると結構通りがいいですね」

「通りが良い、ってどういうことでしょうか」

 佳代が質問した。

「話を聞いてくれる、ってことです」

 岩見の言葉に中山先生が付け加えた。

「多少は威張れる、ってことかな。権威のある研究所だからね。もっとも丸沼さんは威張る人は嫌いでしょう」

「はあ。確かに威張られるのは嫌ですが、でも、話を聞いてくれるに越したことはないですね。人が大声で話し合っているところに割って入るのは簡単じゃない時がありますから」

「なるほど。しかし、少なくともこの分野では丸沼さんは割って入るべきだろうな」

「そうですか」

「第一研究室長だからね。多少は自己主張してもらわないと。さて、岩見君がニューヨークで頑張るとなると、丸沼さんと岩見君も切磋琢磨かな」

「また切磋琢磨ですか」

「この分野で研究を続けていれば、またこんな形で会うこともあるだろう、ってことです。丸沼さん、またどこかの学会で会いましょう。先生もお元気で」

「私は元気だよ」

「そうですね。中山先生に楽隠居は似合いませんよ」

「全くだ。畑と庭いじりが趣味なんだが、なかなかそんな暇がない。はっはっは」

(中山先生って、ひょっとして、私じゃなくて、この岩見さんをBCLEIに呼びたかったのかな)

 中山先生の豪放な笑い声を聞きながら、佳代はなんとなくそんなことを考えたのだった。


 学会は四日間で、その三日目の昼にパトリシア・マクラウドを見かけた。

「ナイストゥーシーユー」

 声をかけると、マクラウドは笑みを浮かべながら佳代に手を振った。取材に来ていたらしい。

「ごめんなさい。初日のマルヌマさんの発表は聞くことができませんでした」

 聞くと、ピッツバーグに向かう予定の飛行機が飛ばず、一日遅れてしまったという。

「この頃のアメリカでは、そうした話が多いんです。ひょっとするとこれもエポキシコラのせいかもしれません」

 近年の飛行機はコンピュータが飛ばせているようなものだ。当然、コンピュータの基板にはガラスエポキシ樹脂も使われている。

「自動車、電車、飛行機。感染が交通機関に拡がると、どれだけのパニックになるかわからないですね。調べられてはいるんですか、そうした交通機関のトラブルに対しては」

「エポキシコラによるもの、と特定された車が何台か出てきた、というところです。新車納入時に動かなくなったのです。そんな話もしたいのですが、夕食をご一緒できませんか」

「プライベートに?」

「プライベートに」

 佳代には特に断る理由もなかった。

「行きましょう」

 ピッツバーグに流れる川の向こう側に寿司レストランがあった。そこに二人で行った。

「とりあえず」

「オー、ジャパニーズ・ドリンキング・ファースト・ワーズ、トリアエズ、ビア」

「ビールで乾杯」

「カンパイ」

「アメリカの寿司屋って、サラダがあるんだ」

「そこはアメリカ風ですね。カヨサンはアメリカに来て日本料理を食べたくなりましたか」

 スマホで調べて寿司屋にしようと言ったのは佳代だった。

「アメリカに来たんだからアメリカの食事をしよう、と来る前は思っていたんですけど、ピッツバーグはホテルも中華料理屋も油っこくって」

「わかります」

 マクラウドが頷きながら同調した。

「アメリカでも海に近い所は塩味が基本なんです。東海岸でも西海岸でも。でも内陸に入ると油が基本になるんです。ピッツバーグは内陸なので油っこい。日本はどこに行っても塩味が基本ですね」

「マクラウドさん、アメリカの味に詳しいんですね。ヨーロッパの生まれでしょう。どちらでしたか」

「生まれはイギリスです」

「イギリスのどちらですか」

「ウェストモーランドです」

「湖水地方! 美しいところですね」

「外から来た人には美しいところです」

 マクラウドはここで浅いため息をついた。

「美しい所は不便な場所でもあります。私は若い頃、その美しい土地から外に出たかった。でもその願っていた外の世界にいると、あの不便な美しい土地が懐かしく思えてくる。人とは勝手なものです」

「そうなんですか」

 マクラウドが少し辛そうな顔をしていたので、佳代は話題を変えた。

「ここ、アメリカには何度も来ているのですか」

「科学ジャーナリストとして本当にあちこち飛び回っていて、アメリカにも年に何度かは来ていますね」

「アメリカではエポキシコラはどのような話題になっているのですか」

「アメリカでこの細菌は真っ先にシリコンバレーに広まりました。だからこそ、半導体関連の専門家は大変な事態だと思ったのです。この国際会議が開かれたのもその危機意識のためです。ただし、それが良かったのかどうか」

「というと?」

「シリコンバレーで問題が起きたということが、却って一般市民の関心を遠ざけることになったかもしれません。半導体産業と関係を持たない人にとっては、自分とは関係の無い話だと思われている可能性があります」

「私の家では炊飯器とスマホとテレビのリモコンがエポキシコラのせいで駄目になったのに」

「スイハンキ? ホワッツ?」

 佳代は炊飯器が米を炊く電気器具であることを説明した。

「ワオ。それは日本の家庭に普通にあるものですか」

「米を食べる日本の家なら普通にあります」

「私の友達の日本人のアパートにはありませんでした。そう言えば、お米を炊くのは面倒でトースターでパンばかり食べていると言っていました」

「一人暮らしならそうした日本人もいます。でも家庭でお米を食べるなら一般的に炊飯器を買っています。その炊飯器も現在はAIが組み込まれていることが多いのです。それで熱量や圧力などの調整をするのです」

「なるほど。日本独自のAI機器ですか」

「そこにガラエポがあるなら、どんな電子機器であれ、エポキシコラが繁殖する可能性があるということです」

「全くその通りですね」

 サラダを食べ終わった頃、握りずしが運ばれてきた。

「おいしいです。丸沼さん、日本の寿司と比べてどうですか」

「握りが微妙に違う気がしますが、おいしいです。ここが海のそばでないことを考えれば、むしろ質が高いと言えます。ところでマクラウドさんは、日本で寿司を食べたことはありますか」

「あります」

「回転寿司は?」

「ベルトスシのことですか? それはまだです」

「回転寿司はもともと、ベルトで流れてくる寿司を取って食べるものでした。ところが最近は席にアイパッドのようなものがあって、それで注文し、そこで注文した寿司が目の前にやってくるという形式が出てきました」

「アイパッドで注文ですか」

「そうした店がエポキシコラに侵されたら、商売が成り立たなくなるでしょうね」

「そう言えば、以前自分の家にホームステイに来た女の子と、日本のカラオケに行きました。そこでも歌う曲を指定するのにアイパッドのようなものを使っていました。あれがエポキシコラに侵されたら、カラオケが出来なくなりますね」

「コンピュータ制御はあらゆる場所で行われています。それが全てこの細菌のために止まったらどうなるのか。私の夫は、世界が一九七十年代に逆戻りするのではないか、と言っていました」

「一九七十年代ですか。ラジオはトランジスタ。テレビはブラウン管。車には気化器。音楽はレコードで聞いて、ダイヤル式の置き電話」

「ベークライトにコードで配線していた時代です。パソコンもスマホも無かった。と言っても私が生まれる前なので実感が湧きませんが」

「その時代の製品というと、どれもアンティークですね。ところで丸沼さんの御主人って、何をされているかたですか」

「生物学者です。北海道はご存知ですか」

「はい。日本の北の島ですね」

「そこで野生動物を追いかけています」

「ワオ。ワイルドな人なんですか」

「やっていることはワイルドかもしれませんが、見た目はそこら辺にいるおじさんです」

「へえ。夫婦で学者さんなんですね」

「あの……、夫は学者ですけど……、私は……全然そうじゃないです。ただの……技術者っていうか」

 会話は英語だ。佳代は英語に堪能なのだが、このあたりはつっかえつっかえだった。学者などと言われると気恥ずかしいというか、そこまで買い被ってくれるなと思う所があったからだ。

「もともと私は大学が化学科で卒業研究は有機合成、強化ポリマーがテーマでした」

「鹿上精工は主製品がロボットアームですね。全然違う分野に飛び込んだんですね」

「あの当時の日本は不況で全然就職先が無くて、特に女子は厳しくて、ようやく鹿上精工に拾ってもらったというか。東京理工大学は日本ではそれなりに有名な大学なんですけれども、鹿上精工はそれほど有名な会社ではなくて、珍しく有名な大学から志望者が来たから採用してみようと人事課が思ったらしくて」

 このあたりは昼休みのお喋りの中で、人事課の平久美から得た情報だ。平の話はその後、佳代は大学での学業成績も大変良かったらしい、と話し続けたのだが、そこは割愛した。

「でも私を採用しても、鹿上精工は有機合成の経験が生かせる職場ではないです。そこでどこか人の足りない部署に入れようとしたら、ちょうど計測課は、担当者が定年間近で後釜が欲しいというところだったので、そこに配属されました」

 これも人事課の平に入社後に聞かされた情報だ。

「計測課はどんなことを行う部署なのですか」

「もともとは本当に精密機械の計測をしていたらしいです。ノギスとかマイクロメータとかゲージとかで。現在もそうした仕事が多少はあります。ただ、私が入社する数年前くらいから故障解析の仕事がメインになりだして、私が入社した後は故障への対応ばかりになりました。でもいまだに計測課という名前のままです。変えるのが面倒くさいんですかね」

「楽しい仕事ですか」

「楽しい、というのは違いますね。ただ、自分が解析した結果で故障の原因がわかって、依頼した人に感謝されると嬉しい部分はあります。やりがいになるというか。でもしばらく出向することになります。BCLEIに」

「日本が産官学の電子機器細菌対策研究所を立ち上げるという話は聞いています。佳代さんがそこに加わるということも調べました」

「ご存知でしたか」

「かつての取材相手がいま何をしているのかを調べるのは、この仕事をしているなら当然のことです。佳代さんはBCLEIに呼ばれたんですよね」

「そうです。知らないうちに細菌研究の中心人物にされてしまったみたいで」

「むしろ佳代さんにとっては、十分な研究環境になって良いことではないんですか」

「うーん、それは」

 なにか良い例えは無いかな、と考えた。

「巻き込まれ型のスパイ映画、ってありますよね。平凡な人間がいつの間にか何かの事件に巻き込まれて重要人物になってしまったっていう。あんな感じの気分でいます」

「なるほど」

 そうこうしているうちに寿司を食べ終わってコーヒーが運ばれてきた。

「ところで、こんな話で良かったんですか? 多少は取材になりました?」

「いえ、今日は取材よりもむしろ、佳代さんとお友達になりたかったんです。私の家にホームステイに来た子はちょっと軽い感じの物怖じしない女の子なんです。日本の女性は黒髪だと思っていたのに髪を茶色に染めていたし。でも佳代さんは本物の大和撫子です」

「はあ?」

 お友達になりたいはともかく、大和撫子と言われて佳代は変な声を出してしまった。

「私は大和撫子なんかじゃありませんよ、まったく」

「いえいえ、そんな風に謙遜から話を始めるところなど、大和撫子のイメージぴったりです」

「はあ」

 大いなる誤解だと佳代は思うのだが、マクラウドは確信をもって話しているようで誤解を解くのも骨が折れそうだった。

「BCLEIが立ち上がって成果が出てくればその時にまた日本へ取材に行きます。それはそんなに遠い未来ではないと思います。今日の食事は取材ではありませんが、いま聞いた話をもとに、近い将来、私は佳代さんの伝記を書くことになるかもしれません。その時はまたよろしくお願いします」


 学会が終わり、佳代は日本に帰った。

「佳代の伝記ねえ。なるほど、エポキシコラは歴史に残る発見かもしれないしね。ジャーナリストなら伝記を書きたくなるようなことになるかもね」

佳代が奈菜と暮らす賃貸マンションには、まだ北海道に戻っていなかった秀郎がいた。佳代がピッツバーグで起きたことを秀郎にあれこれ話していたら、彼が一番食いついてきたのがマクラウドとの話だった。

「それよりも、私のことを大和撫子って」

「ああ、西洋の人から見たら、そう思うかもよ。向こうの研究者連中は、男も女も人を押しのけて前に出ようとする奴ばかりだから。それこそ、佳代の言うドナティさんみたいに。だから佳代みたいな柱の陰に隠れているような人は、マクラウドさんには珍しくて新鮮なんじゃないかな」

 平凡な性格の女、自分のことを佳代はそう思っていた。だから珍しくて新鮮、という秀郎の言葉に違和感が拭えなかった。しかし、秀郎は言う。

「いや、日本人なら佳代は平凡かもしれないけれどもさ。向こうは自己主張しないと切り捨てられる競争社会だから」

 競争社会に飛び込んだつもりはないのだけれども、と佳代はまた違和感を覚えるのだった。


 それから、秀郎は岩見氏の名前を知っていた。

「直接会って話したことはないけど、細菌学の世界ではゲノム解析でわりと有名な人」

だそうだ。

「ストーンズフォローでパーマネントな職に就いているのだったら、BCLEIに誘ってもパートタイムだし来るわけはないな」

ということだった。


 夜、話がひと段落すると、秀郎が言った。

「今晩、どうだい? 疲れてる?」

「ん? いいよ」

 数か月ぶりの、織姫と彦星の時間だった。


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