4.Discussion ―議論―
4.Discussion ―議論―
ガラスエポキシには母材となるエポキシ樹脂が何種類かある。それぞれ酸に強かったりアルカリに強かったりと個性があり使用用途が変わってくる。だが佳代の実験では、試したどのガラエポも分解されていた。一方でガラスなどの無いエポキシ樹脂単体となると、分解はされるのだが分解速度が遅かった。なぜだろう。わからないことが多い細菌だと思った。
もう冬かな、という頃に分析会社から細菌が生成した化学物質についての回答がきた。
「フェノールなどなど、か。あれ、でも窒化物がある。アミン?」
アミンはアンモニアのひとつもしくは複数の水素がアルキル基で置換された化合物の1群を指す。つまり、窒素と水素からなるNH、もしくはNH2が繋がっている化合物だ。
「窒素はどこからきたんだろう」
エポキシ樹脂に窒素はない。それならその窒素は細菌由来だろうか。あるいは空中の窒素を固定したのか?
「豆じゃあるまいし」
マメ科の根につく根粒菌は空中の窒素を固定する。しかしエポキシ樹脂はもちろんマメ科の植物ではない。佳代は豆を頭から追い払った。
その後、数日してセル・コミュニケーションズに佳代の論文が掲載された。やれやれと思ったが、今度は細菌が分解したものを加えて改めて論文を書かなければならない。黙々と論文を書いていた頃に本社の広報から電話が来た。
鹿上精工の本社は東京都中央区にあって、そこは営業等のスタッフ機能が中心となっている。製品を造っているのは佳代らがいる江東区の事業所。他に工場が国内に二か所ある。
江東区の事業所に本社から佳代に電話が来ることは滅多にない。何事かと思った。
「海外のかたが取材をしたいと言っているのですが」
「は?」
言っている意味がよくわからなかった。
「海外のジャーナリストのかたが、丸沼さんが論文に書かれた細菌のことについて、丸沼さんにインタビューをしたいということです」
頭の中で、電話で言われた言葉を二回ほど繰り返してみてようやく理解した。
「どちらのジャーナリストさん?」
「パトリシア・マクラウドさん。取材後、バイオセンターに寄稿するとか」
バイオセンターは欧州の細菌関連の記事を掲載する一般雑誌である。生物学に門外漢の佳代も名前を聞いたことがある。専門家から細菌に興味を持つ一般人まで、読者の範囲は広い。
パトリシア、ということは女性か。その人がわざわざ一人で日本に来る、と。ひょっとすると自分が書いた論文はかなり重大なものだったのかもしれない、と佳代は思い始めた。
ただその前に確認することがある、とサラリーウーマンである佳代は考えた。上司の許可が無ければ、こうした外部発表は出来ない。
「八幡部長とはお話しされましたか」
「ええ、話しました。丸沼さんが取材を受けると言うならそれでいいのではないのか、そこは本人にまかせる、ということです」
脱力した。相変わらず、よきにはからえ、か。
「わかりました。取材を受けます」
「あ、丸沼さん。外部発表申請書を出しておいてください。新聞発表等、ということでお願いします」
了解した。会社はそうした書類で回っているものだ。
翌週、本社の来客室でパトリシア・マクラウドのインタビューを受けた。旭広報課長と旭の部下である甲田が同席した。旭はお目付け役。甲田は女性で鹿上精工側の書記担当となる。二人とも英語には堪能だ。
マクラウドは冒頭三人に向かって、「ハジメマシテ」と言った。佳代がミズ・マクラウドと呼んだのに対してマルヌマサンと返した。日本に来たのが初めてではない、と感じた。もっとも、その後は英語で会話がなされた。
「今日はマルヌマサンがイデオネラ・エポキシコラを発見した経緯を知りたくて来ました」
イデオネラ・エポキシコラ。この単語がすらすらと出てきたところから、この記者は自分の書いた論文をしっかり読み込んで理解していると知った。それならばそれに応じた回答をしなければなるまい。
「わかりました。TCBC、タイワン コントロール ボード コーポレーション社はご存知ですか」
「はい。台湾のプリント基板メーカですね」
やはり、前もってしっかり調べていた。
「鹿上精工は精密機械を扱っています。その機械を制御するプリント基板は、設計は弊社で行いTCBCに生産を委託しています。そのTCBC社から送られてきたプリント基板が、このエポキシコラに侵されていました」
「なぜ異常に気が付いたのですか」
「持つとガラスエポキシ基板が曲がるんです。最初は信じられませんでした」
「なるほど」
マクラウドはすこし考えこんだ。
「それはいつ頃の話ですか」
「十月の中頃ですね」
「十月の中頃、というと、イタリアの件があってから一週間か十日後くらいです」
イタリアの件とは、ある高級ホテルの監視室のカメラが一斉に映らなくなったという事件だ。西欧では、エポキシコラによって最も早く発生した事件とされている。
「TCBCはさまざまな国の企業と取引がありましたね。日本の他に欧州、アメリカ」
恐らくは欧州のどこかからTCBCは細菌入りのプリント基板を受け取った。気づかぬうちに会社中にその細菌が広まった。そして日本に送るプリント基板のサンプルにもその細菌が入り込んだ。つまりこの細菌は台湾発祥ではない、とマクラウドは推測していた。
「そこでマルヌマサンは、なぜこれが細菌のせいだと気づいたのですか」
佳代は細菌発見の過程を詳しく話した。マクラウドはそれに驚いていた。
「鹿上精工では細菌を扱うことは全くないし、有機化学とも直接関係のない企業なんですね。そんなところでマルヌマサンはエポキシコラの第一発見者になったのですか」
佳代が逆に尋ねた。
「本当に私が第一発見者なのですか」
「ご存じなかったのですか。そうでなければこのインタビューには来ていませんが」
それはそうだ。
「欧米での研究状況はどうですか」
「インタビュアーが逆になったようですね」
マクラウドは初めて笑った。そばかすの多い顔が可愛らしくなった。
「フランスのアントワーヌ研究所はご存知ですか」
「専門外ですが、名前は知っています。細菌とウィルスの研究で有名な所ですね」
「ええ。そこで先週論文が出ました。エポキシ樹脂を急速に分解する細菌があること、その細菌はエポキシ樹脂をアミンなどに分解していること。その結果から空中の窒素を固定してアンモニアを生成していると考えられること」
先週か。となれば佳代は分解生成物については先を越されたわけだ。がっかりした。やはり細菌を濾して外部機関に送るなどしている間に時間が過ぎてしまったのだ。アントワーヌ研では細菌の濾し方などについてもエキスパートがいるだろうし、調べるのは自前で出来て外部機関に送ることはないだろう。
「アントワーヌ研究所では大変がっかりしていました」
「は?」
「細菌発見の第一人者になれなかったからです。イタリアの事件があった後も、当初はガラスエポキシ樹脂生成過程に欠陥があったのではないか、と違う予想を立てていたのです。アントワーヌ研究所は気づくのが遅かった。細菌の命名が自分たちで出来ないと知った時の彼らの嘆きようは、私が取材をした頃でも大きなものでした。それも全然聞いたことのない相手に抜かれたと。失礼ですが、医学系の専門家は精密機械メーカそれも鹿上精工のようなビートゥービー、企業を顧客にしているメーカは知らないのです。もちろんマルヌマサンの名前は、誰も知りませんでした」
「それでこちらに来たと」
「スパイではありませんよ。私自身、発見者がどんな人か興味があったのです。お会いできてうれしいです」
「それはどうも」
佳代は褒められるのがあまり好きではない。身の置き所がないような気分になるのだ。マクラウドは続けて尋ねた。
「それから、この会社で細菌を広めずにすんだ方法を教えて下さい。鹿上精工がなぜTCBC社のように操業停止にまで追い込まれずに済んだのか」
佳代はまず、鹿上精工にも被害があったこと、個人としてもスマホやテレビのリモコンに被害があったことを話した。
それから自分と会社の対策について話した。この細菌は人が運んでいる。だからアルコール消毒、常時手袋使用、細菌に侵された機械は隔離。こうした基本を守ることで感染は防げる、と語った。
「特別なことをしているわけではないんですね。希望が持ててきました」
「希望、と言いますと」
「欧米では大変なことになりそうなんです。コンピュータのペスト、と呼ぶ人がいるくらいです。ともかく、ここで聞いた話を広めて少しでも被害を食い止めようと思います」
それほどの問題になっているのか、と発見者の佳代の方が驚いた。
取材に応じていただいて感謝します、とマクラウドが礼を言って話は終わった。帰り際に佳代が声を掛けた。
「ミズ・マクラウドが日本に来たのは何度目ですか」
マクラウドは笑いながら答えた。
「二度目です。私の家にホームステイに来た日本の女の子がいたんです。仲良くなって、一度、彼女が住んでいるアパートを訪ねて一週間ほど日本に滞在しました。彼女に習って簡単な日本語ならわかるようになりました。今日もこれから渋谷のハチ公前で彼女と会う約束をしているんです」
「そうでしたか」
最初に、この人は日本に来たことがある、と思ったのは間違いではなかった。
「マルヌマサンとも親しくなれそうな気がします。マタオアイマショウ。」
マクラウドのお別れの言葉は日本語だった。
その夜、秀郎と電話で話した。
「へえ、パトリシア・マクラウドって、バイオセンターに寄稿しているライターなのか」
「そうらしいね」
「あそこは論文の投稿ばかりではなく、ジャーナリストの記事も受け付けているんだ。そこに掲載されるとなると、佳代が有名人になってしまうな」
「有名人になるかどうかはともかくとして、このガラエポの話って、ジャーナリストが関心を持つくらい問題になっているんだね」
「そうだよ。発見者が知らないの?」
「私は目の前の問題をどうしようかと考えていただけだから、そこまで頭が回らなかった」
「それで、佳代はその大問題の第一人者になったわけだ。おめでとう」
佳代はあまり、嬉しくはなかった。もちろん実感もなかった。しかし、やがて嫌でも実感することになった。
佳代がマクラウドのインタビューを受けてから一ヵ月ほど経った。季節はもう冬になっていた。
九州にアイランドテクノという電子部品メーカがあり、九州の工場四か所で操業をしていた。その中で車載部品を主に製作している宮崎工場が操業不能状態に陥った。佳代の発見した細菌、エポキシコラに侵されたのだ。その冬、この一件が全国ニュースになった。
ニュースでは、欧米で恐れられていた細菌が日本に上陸した、という論調だった。さらに、この細菌が広まったらどうなるのか、悲観的な予想を語る人がぽつぽつ出てきた。ちょうどその頃に、マクラウドの記事が『バイオセンター』に掲載された。三ページにわたる記事で、小さくだが佳代の写真も載っていた。
この記事はバイオセンターと提携している日本のインターネット技術系サイトに掲載された。日本のマスコミはこの記事に食いついた。
「日本でも猛威を奮い始めた、電子機器を故障させる恐ろしい細菌がある。実は、その発見者は日本人だ」
鹿上精工にも佳代本人にも取材を望む問い合わせが来た。佳代は自分に来た問い合わせには、会社の広報を通して下さい、と丁重に伝えた。間もなく本社から連絡が来た。
「複数の新聞・雑誌社から取材の申し込みが来ています。面倒なので、一度に記者会見します。よろしいでしょうか」
否と言える雰囲気ではなかった。
(学会発表を横で見ていた時みたいだな)
大学三年生の時、佳代の通っていた大学で東京化学学会が開かれた。好奇心から佳代は友人の同級生らとその学会を覗きに行った。その時、発表者が話していることはほとんど理解できなかった。理解できないまま、次の登壇者が現れてまた理解できないことを話していた。
「大学院生になるとああいう発表をするのか」
佳代は四年で卒業し、大学院には進まなかった。学会発表は一度横から見ていただけで終わった。
新聞発表の日、目の前には六人の記者がいた。その時の雰囲気が、人数こそ違え学会発表に似ていると思った。六人の内訳は、業界紙、一般紙、週刊誌で、三、二、一人の構成だった。広報の旭課長は当初、テレビカメラが入るかも、と言っていたがそれは無かった。そこは緊張しやすい佳代には有難かった。
基本的には、パトリシア・マクラウドに聞かれたことと似たことを質問され、同じように話した。細菌発見の経緯、細菌の名前の説明、その後に鹿上精工で行われた対策だ。
「日々新聞の川場です。二点質問があります」
髪を後ろで束ね薄化粧をした、三十台後半くらいの女性に質問された。
「丸沼さんが論文を書かれた後に、何か新しい知見が得られていましたら教えて下さい。それから、自宅でも細菌による被害があったというお話ですが、鹿上精工で行っているような対策を各家庭で行うのは難しいと思います。それに対するお考えもお願いいたします」
良い質問だ。答えにくい質問でもある。
「エポキシコラがエポキシ樹脂を分解した生成物については調べています。ガラスエポキシにはいくつか種類がありまして、酸に弱いもの、アルカリに弱いものがあります。それぞれエポキシコラによって分解されますが、それらの分解生成物が異なります。細かい内容はお配りした資料を見て下さい。もっともこれらの知見はすでにフランスのアントワーヌ研究所で報告が出ています。こちらで得られた知見も同じです。アミン類などが生成されています。
鹿上精工は細菌を専門にしているわけでも、硬化性樹脂を専門にしているわけでもありません。エポキシコラの発見者はたまたま私でしたが、研究状況ではすでに海外にある専門の研究所に追い抜かれています。これは認めなければなりません。日本でもこの細菌に対する対策を急がなければならないとは感じておりますが、私のような門外漢ではなく、それぞれの専門家が力を尽くさなければならない段階に来ていると考えます。
次に対策の話ですが、この細菌を蔓延させないようにしようと考えた時に、いずれ家庭でも鹿上精工で行っているような対策を取らなければならないと想像しています。例えばの話ですが、かつておにぎりは素手で握るのが当たり前でした。しかし現在、素手で握ったおにぎりを売っているコンビニエンスストアはないでしょう。ご家庭でも、ラップなどを使って握る家が多いと思います。もうこの細菌、エポキシコラは日本に入り込んでいるのですから、各家庭でも対策を講じなければテレビが見られなくなる、スマホが使えなくなるといった事態がいつ生じても不思議はありません。家庭でも手袋をする、リモコンをビニール袋に入れるなどして、電子機器に直接触らないようにしなければならないと思います」
「日々新聞の川場って人、日々新聞の科学面のエースだよ。何冊か本も出してる。『生命科学は人を何処へ連れていくのか』って本、知らない?」
「題名は聞いたことがある」
「面白かった。日本の、二十人ぐらいの科学者にインタビューしているんだ。俺の知り合いも二人出ていた」
「へえー。旦那さんは出ていないの?」
「俺がやっている動物行動学は興味ないみたいだな。ゲノムとかウィルスとか、あるいは再生医療とか、そういうのが好きな人らしい。それから新聞じゃなくて、週刊誌に出た記事も読んだよ。夕日ウィークリー。清楚な美人人妻研究者、って書かれていたやつ」
「やめてよー。全然美人じゃないし。それに私は研究者じゃない、って言ったのに」
「でも、美人なのは間違っていないと思うぞ」
佳代の容姿を褒めた男性は、これまで秀郎だけだった、と佳代は思っている。そこにその週刊誌が加わったことになる。
「最近ね、電車に乗っていると、たまにじろじろとわたしの顔を見る人がいるの。週刊誌が写真を出したからだと思う」
「有名人になった気分はどう?」
「だからそんな話はやめて」
「あ、そうだ」
秀郎の声のトーンが変わった。
「琵琶って覚えてる? 結婚式に来た俺の高校の時の友達」
「名前は珍しいから覚えているけど、顔は覚えていない」
「いま、経済産業省にいるんだよ」
「キャリア?」
「そう」
「へえー」
秀郎は都内の名門高校出身だから、中にはそんな友人もいた。
「この間、職場に電話かけて来てさ。しばらく会っていなかったのにわざわざ俺の職場の番号を調べて電話って、よっぽどの用かと思ったら例の細菌の話。週刊誌を見て、これ丸沼の奥さんだろって」
「はあ、変なところにまで私のことが広まっているのね」
「それでさ、経産省としてもどうにかしたいって。エポキシコラに対して、研究体制がさ、発見国日本が遅れたままでいいのかという意見があるらしい」
「それで、何て言ったの?」
秀郎のことだから、何かアイデアを出したに違いないのだ。
「産官学で研究所を作ったらどうか、って話した。東京理工大の……」
東京理工大は秀郎と佳代の母校である国立大学だ。
「中山教授が確か定年退官する頃だから……」
中山教授は細菌学の権威で、佳代も名前と顔だけは知っていた。
「顔も広いし性格も外向きだし神輿に担ぐにはちょうどいいんじゃないかなと言っておいた」
「ふうん」
佳代は興味なさげに呟いた。実は秀郎は琵琶にキーマンとして佳代を薦めていたのだが、この時は黙っていた。佳代は目立つことが好きではないから怒らせたくなかったのだ。
正月になってから秀郎が東京に戻ってきた。
「なんで年末に来ないの?」
「奈菜ちゃん、早く来てほしかったかな」
「うーん」
「そこは、もちろん来てほしかった、と言ってくれるとお父さんは嬉しいぞ」
「あー、はい、もちろん」
「もう反抗期か。奈菜は素直じゃなくなってきたな。年末は飛行機がなかなか取れなくてね」
「それでいつまでいるの?」
「十一日まで」
「結構いるんだね」
「研究が一段落してきたから。これ、奈菜におみやげ」
「え、なにこれ」
「いつまでもお人形じゃないだろうと思って」
「フレグランスセット?」
フレグランスセットとは、子供向けの香水調合セットである。
「そう。最近、こういうのが子供の間で流行っているらしいって聞いたから」
「うちの学校じゃ流行っていないよ。でもありがとう」
奈菜は嬉しそうに土産を自分の部屋に持って行った。
「案外、ああいうのが科学に目覚めるきっかけになったりしてな」
「どうでしょう?」
「キュリー夫人の長女も科学者になったんだろ?」
「ふふ」
秀郎の言葉に、まだキュリー夫人の事を言っている、と思った。しかしながら佳代は少し楽しい気分になった。
「ところで、そこにある手袋、何? 今まであんなのあったっけ」
「通勤用。密な網目になっていて、肌は直接つり革とかには触らないんだけど、通気性はいいの」
「へえ、それを使って会社に行ってるのか」
「ほら、私、週刊誌とかに出ちゃったじゃない。だから素手でうろうろ出来なくなった」
「ところで俺のフォアローゼスは?」
「フォア、何?」
「ここのガラス棚にあったバーボンウイスキー」
「ウイスキー? あ、ごめん。消毒に使った。もうない」
さっきまで上機嫌だった秀郎の顔がみるみる曇ってきた。これだから酒に興味のない人は、と秀郎はぶつぶつ言いながら食卓についた。
正月番組で、「現代科学のホットニュース」という科学解説番組が放映された。一月三日の昼間の民放で、それほど視聴率を気にしたものではなさそうだった。お笑い界の重鎮が司会で、ひな壇に並ぶ各分野の専門家に話を伺い、司会者が当意即妙な合いの手を入れるという内容だった。
秀郎が、見よう、と言うので家族三人で見た。最初は医学の話だった。再生医療がどこまで進んできて近未来にどこまで行くのかという話だった。この世界も進んでいるのだなと思った。その次は宇宙開発の現在、次は温暖化による異常気象の話題だった。佳代はお茶などを入れながら気楽に見ていた。
「さて皆さん。我々のこの電子社会がある細菌によって脅かされているのをご存知でしょうか」
佳代はお茶を吹き出しそうになった。新聞のテレビ欄を見ると、あったのは三話目の話題までで、エポキシコラのことなど書かれていなかった。
「旦那さん、この話が出るって、知ってた?」
「うん。まあ、一緒に観ようよ」
最初の映像はフランスのアントワーヌ研究所だった。
「この細菌がどこで最初に発生したかは明らかではありません。インドとも南ヨーロッパともアフリカ中央部とも言われています」
この細菌、と研究所の主任研究員は語った。最後までエポキシコラとは言わなかった。主任研究員は細菌の特徴を通り一遍に話した。電子部品のプリント基板がガラスエポキシで出来ていること、細菌がエポキシ樹脂を分解すること、エポキシ樹脂は何種類もあるがいずれもこの細菌に分解されること。
「まだ論文に書いていない話はしないようだな。アントワーヌ研なら、遺伝子解析も始めていると思うんだが」
秀郎が呟いていた。
「遺伝子解析ってどのくらい時間がかかるものなの?」
「最近はもう、仕掛けたらすぐ、って感じらしい。問題はむしろその後で、遺伝子が何を意味しているか解き明かすところらしい」
遺伝子解析まで進んでその意味が何かを解き明かしている最中だというなら、自分の出る幕はもうないんだろう、と佳代は感じた。
テレビの場面は変わって、佳代の知っている顔が映されていた。
「あれ、マクラウドさんだ」
インタビューに答える女性は、佳代を取材しに来たパトリシア・マクラウドだった。
「この細菌を最初に見つけたのは、日本の精密機械メーカの女性研究者です。細菌の名前、エポキシコラは彼女が名付けました」
マクラウドが話すと、画面の下に日本語のテロップが流れた。
「わたし、研究者じゃないのに」
「まあ、いいじゃないか。論文を書いたのは確かなんだし」
マクラウドは続けて、エポキシコラの影響を伝えた。
「現在、この細菌は猛威を奮っています。影響はヨーロッパ、北米、アジア、私の知る限りで十八か国に及んでいます。私が立っているのはシリコンバレーですが、五社で感染が確認されています。そのうちコロラドインスツルメンツの研究所は閉鎖に追い込まれました」
「へえー、TCBCみたい」
佳代の感想の後もマクラウドは話し続けた。
「ここで流行しているのがペスト菌やコレラ菌だったら人間の生死に関わりますから人間も真剣に対策をするのです。しかし、この細菌で影響を受けるのは電子機器だけです。相手は同じ細菌ですから、本来、取るべき対策も、人間に病気を引き起こす細菌対策に似通っています。先ほどお話しした日本の精密機械メーカでは、直接手で電子機器を触らないようにルールを設けて、二次感染を防ぎました」
「おー、ちゃんと佳代から聞いた話をレポートしているじゃないか」
「ああ、うん、そうだね」
自分が話したことがテレビで流れること自体が佳代には面映ゆかった。
ここまでが海外でのテレビ番組映像を借りたものであったらしい。場面が切り替わり、日本語が流れた。
「さて、ここで日本での対策についてご紹介します」
カメラは背広姿の男性を映した。
「おっ、やっと琵琶が出てきた」
やっと、ということは、
「琵琶さんが出てくるのを、知っていた?」
「電話で聞いた。テレビに出るから見てくれって」
「なるほど」
それでこの番組を見ようということになったわけか。
「つまり、この何の変哲もない緑色のガラスエポキシ基板が使えないとなると、LSIも宝の持ち腐れだと。ベークライトに穴を開けて線を繋いでいた一九七十年代に逆戻りするというわけですね」
「そうです。昭和の技術しか使えなくなります」
アナウンサーと琵琶の会話はなかなか軽妙だった。琵琶がお役人という気がしなかった。
「それで、経済産業省としてはどのような対策を?」
「まず啓蒙ですね。外に出る時は手袋、帰ったら石鹸で手を洗う、さらにアルコールで消毒する。そうしたことを当たり前にしていく」
「必ず手袋、というのも面倒でしょうが」
「インフルエンザや花粉症対策でマスクをする人が増えました。それと似た感覚で手袋もはめていただければ」
「なるほど。他にも考えていることがあるそうですが」
「この細菌は日本で発見されました。しかし、それ以降の研究も対策も、日本で進んでいるとは言えません。細菌はすでに日本に入ってきていて、対策は急務です。産官学の研究所を緊急に立ち上げる予定です」
「いつ頃からですか」
「一刻の猶予もない、ということで来春にはと考えています。日本の細菌学の権威、中山先生を所長に迎える予定です」
そこで番組はスタジオに戻り、アナウンサーがまとめを言ってテレビ番組は終わった。
「琵琶さんって、官僚なんだろうけど、広報みたいな仕事をしているんだね」
「この件に関しては、実行部隊隊長みたいな立場にいるらしい」
「それで、黒幕の秀郎さんはどこまで噛んでいるの」
「俺は最初に相談に乗っただけだよ。そこから先の実務は琵琶の才覚さ。お役所の中で、これだけの速さで事を動かすのは、そう簡単な事じゃないよ。大したものだ」
「ふうん」
もちろん、佳代はまだ自分の近未来には考えが及ばなかった。