3.Results ―結果―
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鹿上精工における佳代のいる部署は技術部計測課である。技術部は三十人ほどの大きな部署でその中に佳代のいる計測課がある。計測課の人員は佳代一人だ。新人の時に前任者から仕事を引き継ぎ、それからずっと一課一名で、昨年課長になったばかりだ。かつて計測課は名前の通りノギスやマイクロメータで製品を計測するのが主な仕事だった。だがここ数年は電子顕微鏡や電子機器を用いて故障部位の解析をすることが主体となっている。
前任者は課長止まりで定年を向かえた。彼はそこに若干の不満があったらしい。だが佳代は出世についてはなにも気にしていなかった。正社員でいられるだけありがたい。出産休暇も育児休暇も取れて首にもならない。不況期にやっと就職できたからそう考えていた。課長になった時は、出なければならない会議が増えて面倒くさい、くらいに思っていた。
ちなみに出産や育児で佳代が長期休暇を取っていた時期、計測課の機器は機器を扱える人が勝手に使っていた。だが結果を分析する能力には限りがあったらしい。結局、わからないことは外に頼もうという人が多く、佳代がいない時期は故障等の分析に関する外注費が増えていた。佳代がいたほうがありがたいという評価はあったらしい。
「細菌が見つかりました。これからとんでもないことになります」
翌日の朝、佳代は技術部の八幡部長にそう告げた。八幡は佳代の上司にあたる。三十人を束ねていて、佳代の計測課は独立国扱いというか、普段あまり関心を持っているように思えなかった。
「とんでもないことって、どんな」
「TCBC社は現在でも連絡がつきません。電話も電子メールも通じません。インターネットで調べると、台湾のニュースサイトで、TCBC社のあらゆる機器が機能不全に陥っているという記事がみつかりました。ほうっておけば、この鹿上精工もそうなります」
「細菌のためにか」
「そうです」
「わかった」
八幡はパソコンの中のスケジュール帳に目を落とした。
「明後日、管理職会議がある」
管理職会議は、鹿上精工事業所の管理職以上全員が出席する会議だ。情報共有のための会議であると同時に、最高意思決定機関でもある。
「会議の議題として上げるよう申し入れておくから、プレゼン資料を作って発表してくれ。時間は十五分くらいで」
その後、休憩時間に会社の社員食堂で昼食を取った。佳代はお馴染みの仲良しメンバー四人で卓を囲んでいた。佳代以外のうち二人は総務部員で人事課と健康管理課。あと一人は経理部経理課。四人とも年齢が近く、それぞれ夫と子供がいて境遇も似通っていた。昼食時は四人でおしゃべりに講じるのが常だった。
夫も子供もいる幸せな女性たち、ということで彼女らのテーブルは、かつての流行語から勝ち組席とかリア充席などと言われていた。しかし実際にはこの四人の会話は夫や子供に対する愚痴が主体で、苦労を分け合っている面があった。勝ち組の人もリア充の人も、案外自分が勝っているとも、リアルが充実しているとも思っていないものである。
「うー」
悩み事がある、という様子で佳代が唸った。昨日の佳代の話は、娘がわがままを言ったせいで自分が怒ったことについてだった。そうした時には父親にもガツンと言ってもらいたいものだ。しかし夫は単身赴任だし、帰ってきても娘には甘いし、といった愚痴だった。
「どうしたの。また娘さんの話?」
「いや、仕事」
「なんか嫌なことでもあったの」
「というわけでもないのだけれど」
佳代はかいつまんで状況を話した。
「八幡さんが自分で決めたくなくて、佳代さんに下駄を預けたわけね」
経理の高原菜緒が言った。八幡部長は事業所の要の人物だから、別な部署の彼女たちも彼の性格をよく知っていた。
「そう。肝心な時になると、よきにはからえ、で逃げるの」
「でもぴんとこないな。例えば細菌でコンピュータが壊れるって言ってもまだ一台もおかしくなっていないわけでしょ」
人事課の平久美はそう言いながら首をひねっていた。
「十台ぐらい動かなくなったら真面目に取り合ってくれると思うんだけどね。でもたぶんその頃には百台に感染しているから」
「それが本当だったら恐いな」
久美は佳代の話に現実感が無いようだった。
「コンピュータが病気になる細菌とでも考えればいいの?」
健康管理課の菅紀子が尋ねた。
「そうだね。人間は病気にならないけど、機械が病気になる。人間が間に入って機械から機械に感染する」
「人間がインフルエンザウィルスを防ごうって言うんなら、うがい、手洗い、マスク、予防接種、人込みを避ける、十分な休養、とお馴染みの対策があるんだけど」
「細菌がとりつくプリント基板は機械の部品だし、機械がうがいやマスクをするわけにもいかないし」
「なるほど。それなら罹ってしまったら治るまで学校や会社に来るな、っていうのがある。インフルエンザにかかったら発症後五日、解熱後二日は学校に来るな、っていう。あれは一種の隔離かな」
「隔離か。ありがとう、ヒントになった」
管理職会議では、予算達成具合、新規の受注、生産状況や品質管理といった日常的な話題が続いた。佳代の出番は会議の最後だった。
「それでは臨時の議題です。プリント基板のガラスエポキシ樹脂を分解する細菌の話ということです。計測課の丸沼さん、お願いします」
総務部の課長さんの紹介が気に入らなかった。その細菌の危険性について彼は何も話していない。まるで喜ばれるべき画期的な発見を佳代がしたかのようだ。
会議室のコンピュータから、サーバに入れてあった自分のプレゼンテーション用のファイルを呼び出した。まず危険性を強調するところから話を始めた。
「今こう言っても誰も信じないかもしれませんが、鹿上精工は存亡の危機にあります」
幸いにして、笑いだす人はいなかった。何を言ってるんだ、という顔の人はいた。会議の最後なので眠そうな人もいた。それはそれで仕方がない。
「TCBC社から、このようなプリント基板が送られてきました。ガラエポが曲がるんです」
佳代は曲がったガラエポの写真を見せた。ほう、と一部から声が漏れた。ガラエポの性質を多少なりとも知っていれば、これが非常識な写真であることはひと目でわかる。
「そのTCBC社とは現在も連絡が取れません。電話も電子メールも通じません。TCBCは委託されたプリント基板を作る会社としては中堅企業なのですが、世界中の企業と取引をしています。ネット上で英語・中国語双方で調べてみたのですが、どうしたんだ、TCBCに何が起きたんだという反応がかなり出ています。倒産したとかいうニュースはありません。ただ、どうも、本当に会社自体が動かせない状態らしいです」
「動かせない、とは」
「恐らく、パソコンというパソコン、ネットというネット、電話という電話、あらゆる通信手段が壊れてしまっているのです」
会議室の中がざわついてきた。
「この曲がったプリント基板から発見された細菌がこれです」
佳代は電子顕微鏡写真を写した。
「もちろん、細菌というものはそこら中にあるものですから、細菌があったからといってこれがプリント基板の異常の原因と特定できるわけではありません。そこで調べました」
佳代は次のページを映した。
「こちらは簡易的に作った培地です。四つあります。それぞれ該当のプリント基板から削り取った細菌入りガラスエポキシを入れました。一番は細菌なしのエポキシ樹脂をそのそばに置きました。二番はベークライト。三番はポリエチレン、四番は何もなしです。これが実験前で、こちらの画像が三日後です。一番のみが細菌のコロニーがはっきりと見られています。二から四番は細菌があるのだか無いのだかという状況です。また、一番だけ、一緒に置いたエポキシ樹脂が減っています。しかし二番も三番も置いた時と同じ形状です。つまり、この細菌はエポキシ樹脂を分解しそれを栄養源として増殖しているわけです」
「ちょっと質問いいかな」
大山開発部長が手を上げた。
「それで、エポキシ樹脂は何と何に分解されるのか」
「それを知りたいのはやまやまなんですが、ここには設備がありません。予算がつけば外注して調べてもらおうと思います」
「少しでも化学をかじった者だったら、エポキシみたいな硬化性樹脂を分解するのが大変難しいことは知っている。それを細菌がやったっていうのはなおさら信じがたい」
佳代には予期していた質問だった。
「わたくしも学生の時の専攻は有機合成化学でした。信じがたい気持ちは同じです。しかし、これは実験事実です」
大山部長はううむ、とうなりながら言った。
「それでガラエポをこの細菌が食い荒らすとどうなるんだね」
「恐らくは、電源が入らなくなります。ガラエポがプリント基板に使われているのは絶縁性の高さからですが、ガラエポが無くなればリーク電流が増大して、かかるべき電圧がかからなくなります」
大山部長は、矛先を変えた。
「八幡さんはどう思われますか」
佳代の上司に話が振られた。
「信じがたい話だし、信じたくない話でもあるが、信じる所から始めてみませんか」
これで流れが佳代の側に来た。
「それでは、話を続けてもらおうか」
高井事業部長が口を開いた。現場では最も役職が上の人だ。彼に発言を促された、という意味は大きかった。
「はい。それでは、対策の話に移ります」
翌日から早速対策が実行された。
まず会社に着いたら手のアルコール消毒を行う。居室、実験室、製造所など、部屋を移るごとに手のアルコール消毒を行う。パソコン、スマホ、マイコン内蔵の製造機器その他、電子部品を用いた機械を使う場合は必ずプラスチックないしゴム手袋を用いる。この手袋は他人と共有しないのはもちろん、それぞれの機器専用で、隣席のコンピュータを使う場合にも兼用してはならない。
細菌が自分で勝手に隣の機器に移動することはない。細菌の移動距離を考えれば遠すぎる。必ず人の手を介して移動する。だから、人の手を介した細菌の移動ルートを絶たなければならない。
「後で手袋をするなら手を洗わなくてもいいんじゃないですか」
という質問に対しては、
「手に細菌がついていた場合、手袋を持った時に手袋表面に細菌が付着する可能性がある」
と佳代は説明した。それで納得してもらった。
「マスクはいらないんですか」
「飛沫感染はしないから、マスクは不要」
他に手袋をしながらではコンピュータのキーボードが打ちにくいという苦情があった。それに対しては手袋の上から指サックをして対処してほしいと頼んだ。コンピュータが壊れるよりはましだろうと言って理解してもらった。
同様の措置は工作機械等、LSIを用いた装置には全て適用された。製作現場では事務仕事以上に、手袋と装置の一対一対応に抵抗があった。そこは製造部長に強く対応して実施してもらった。
それから情報部の野沢主任に依頼して、OSのバージョンの古いコンピュータで、外部にアクセスしないイントラネットを構築してもらった。机上のパソコンのデータはいつ無くなるかわからない、と言って旧バージョンコンピュータにデータを移した。このイントラネットコンピュータに直接触れるのは情報部員だけということにした。コンピュータが次々に動かなくなった時、これが最後の砦になるかもしれない、と佳代は野沢に話した。
「これで何も起きないようになるのかな」
と昼休み、平久美に聞かれた。むしろ本当に何も起きなかったら自分は非難されるだろう、と佳代は思っていた。無駄に仕事に面倒を持ち込んだと言われるにちがいない。
「私的には、なにかひとつぐらい壊れたほうがありがたいかもしれない」
久美には、佳代の言っている意味が測りかねた。だが佳代は理解していた。何も起きなければ、自分の主張していたことはイソップ物語のオオカミ少年と何も違いが無いと。
対策が一通り実行された翌日、佳代は上司の八幡に書類を見せた。
「なんだ、この英文は」
「例の細菌に関する英論文です。それからこれが、社外発表願いです。承認をお願いします」
「ええっとだな」
八幡は言葉を濁した。
「この会社の内規で、社外発表の前には社内発表をしなければならないんだ」
「社内発表用の書類もあります。こちらも承認を下さい」
「だが社内で発表するだけでは駄目だ。内規では、さらに特許も出さなければならないということになっている」
「特許の譲渡書もあります。これです」
「え?」
八幡は驚きながら書類を見つめた。
「細菌を利用したエコ・システム?」
「ええ。実際にはエコどころではありませんけど」
「なるほど。エポキシ樹脂の分解はやりようによってはエコになるか。ガラエポなんか、捨てる時には埋め立てるしかないわけだし。わかった。今日中に確認する」
論文をセル・コミュニケーションズに送ったと秀郎に電話した。
「三週間か。ずいぶん早くできたな」
「丸沼先輩が二週間って言うから必死だったけどそれは無理だった」
「まあ、初めての論文は二・三か月かかるもんだしな」
「それならそう言ってくれればいいのに」
「二・三か月、って言ったら佳代は五か月くらいかけるだろ」
否定できなかった。
「ぎりぎりかなあ」
「何が」
「佳代が一番かどうか。ニュースを聞いているとちらほら出てきたんだよね。ナイジェリアとかイタリアとかインドとか。コンピュータやスマホや電子機器が動かなくなる謎の現象があるって」
「え、そうなの」
「ネットでいろんな言語使って検索かけると引っかかるレベルだから、まだテレビのニュースにはなっていないけど。でもあれだな」
「なに?」
「今言った場所、台湾もだけど暖かいところばかりだから、寒いのは苦手かもしれない。その細菌、冬にはおさまるといいけど」
翌日は土曜日で休日だった。
「お母さん、ご飯出来てないみたいだけど。炊飯器のスイッチが入ってないんじゃない?」
いやな予感がした。炊飯器のスイッチを入れた記憶はあった。スイッチが入っていたのに電源が入っていなかった。
「トースターで食パン焼いて」
「はーい」
水で浸した釜を抜いて、佳代は炊飯器をベランダに出した。まず買い置きしておいた消毒用アルコールで炊飯器があったところを拭いた。その後、トースターで焼きあがったパンで朝食にした。
「お母さん、お部屋がアルコール臭い」
「我慢して」
朝食が終わると、佳代はベランダに向かった。使い捨て手袋その他で肌が露出しないよう注意しながら炊飯器を分解した。
プリント基板を取り出した。外すと、その基板は容易に曲がった。やはりガラスエポキシ樹脂が細菌に侵されていたのだ。
「やっぱり」
この炊飯器は秀郎と買いに行ったものだ。奈菜が大きくなり、これまでより大きめの炊飯器が欲しいねと、秀郎と家電量販店に買いに行った。そこでマイコン制御の炊飯器がいくつか並ぶ中、秀郎が目をつけたものだった。
「赤飯も炊けるんだって」
メーカーおすすめの文面を見て秀郎が言った。
「奈菜もそろそろお赤飯じゃないか」
普段は家族をほっぽらかしているくせに、どうしてそういうところに頭が行くのだろう。と、思いつつ佳代はこの炊飯器を買うのに同意した。あれから一年ぐらいしか経っていないというのにもう壊れた。なお、購入当時十歳だった奈菜は現在十一歳。まだ、お赤飯にはなっていない。
炊飯器は頑丈なビニール袋で二重に包んでベランダの隅に置いた。取り出したガラエポはアルコール液に浸した。これで細菌は死ぬはずだ。いずれゴミとして捨てることになる。と、思っていたらお茶の間から奈菜の声がした。
「お母さーん。テレビがつかなーい」
一瞬、ぞっとした。テレビは念入りにウイスキー、その後にアルコールで拭いた。それでは防げなかったのか。
「リモコンに触らないで。急いで石鹸で手を洗いなさい」
そうか、リモコンだ。これは素手で何度も触っていた。その後、ビニール袋の中に入れていたが、その前の時点で細菌に侵されていたのだ。
手袋をして、ベランダで慎重にリモコンを分解した。リモコンのガラエポは薄かった。外すとぐにゃぐにゃになった。
「ああ、駄目だこれは」
このリモコンは捨てるとして、リモコンが細菌だらけだと、あの日にリモコンに触った後あっちこっちまた触っていたわけだからどうなるか。そこまで考えたら、さらにぞっとした。リモコンをビニール袋に入れていたことで、どの程度防げただろうか。ともかく家中をまたアルコール消毒することにした。夕刻になってそれが終わってから電気店に行ってテレビのリモコンを買った。買ったテレビのリモコンはビニールの袋に入れて、決してこの中から出さないようにして使いなさい、と奈菜に説明した。家の中ではともかく、電子機器を直接手で触らないルールにしよう。
翌日曜日には佳代のスマートフォンが動かなくなった。うんざりした。この戦いは終わらないのかもしれない、と思った。とりあえずこのスマホはただちに二重ビニール袋に入れて触らないことにした。スマホを入れたハンドバッグから必要なものを出し、手帳その他の表面をアルコールで拭いた。愛着のあったハンドバックも高価なものではなかったが捨てることにした。ポケットが何重にもあって消毒が難しいと思ったからだ。携帯ショップに行ってスマホを紛失したと言い、安めの端末を買った。どうせまた壊れるかもしれない。そんなことばかりでばたばたしながら休日は過ぎていった。
幸か不幸か会社でも、佳代は狼少年にはならなかった。
月曜日。佳代は当たり前のように会社に出かけたが、会社は当たり前ではなくなっていた。
まず電子メールを見ようと自分のパソコンを立ち上げたら動かなかった。
するとその直後、動かない機械がある、という一報が入ってきた。動かそうとしたら電源が入らないという。それは熟練工の技術を記憶して再現するという自動旋盤装置だった。技術課の大泉主任に聞くと、三週間くらい前にこの装置の工程レシピを更新した記憶があるという。調べてみればそれは例の曲がるガラエポを調べた直後だった。
自分のパソコン周りには立ち入り禁止の掲示をして、まず旋盤装置から対応することにした。
こうした時にどうするかは、環境管理部と合同でマニュアルを作っておいた。まず周囲五メートルの床にトラテープを貼って人の出入りを禁じた。それから環境管理部の担当三名と佳代とでこの旋盤装置の内部を見てメイン基板を慎重に取り外した。
「ああ、駄目ですね。曲がりますね」
佳代は簡潔に結論付けた。
メイン基板以外でもガラスエポキシ樹脂を用いたプリント基板は全て外した。そのほとんどが細菌に侵されており、持つと情けなく曲がった。これらの基板は全て密封容器に入れた。アルコール消毒の後、廃棄することになる。該当装置はプラスチックのカバーをかけて誰の手も触れないようにした。
問題の装置の隣の機械は丹念にアルコール消毒した上で一週間使用禁止にした。一週間後に動けば使用してよろしいと伝えた。
「この旋盤はどうします?」
「ここから移動させて倉庫とかで隔離したい気もするけど、いま中身は細菌だらけだから、移動させることで逆に細菌をまき散らす恐れがある。ガラエポが無ければ生育環境がないから、何週間かすれば細菌は勝手に死んでいなくなると思う」
あえて移動する必要はない、とした。
「新しいプリント基板を購入して再度動かす、というわけにはいきませんか」
「でもこの自動旋盤って、独自開発したものだよね」
鹿上精工自慢の装置だった。
「プリント基板はどこに外注したの?」
「確か、TCBCですよ」
「駄目だ。それじゃ、二度と買えない。新しく作ってくれる所を探さないと」
「となると捨てないでいた古い旋盤を使って匠の技でなんとかするしかないですね。何十年か前の技術に戻らないと」
何十年か前の技術。ガラエポが無かった時代とはいつのことだったろう。佳代は秀郎の言葉を思い出した。
「一九七十年代まで逆戻りか」
「丸沼さーん」
十メートルほど先から声がした。嫌な予感がした。大泉と志賀には、例のガラエポが来た直後に触った機械がどれか聞いていた。そのうちのひとつがこの自動旋盤だが、声のしたあたりにも志賀が触ったという機械があった筈だ。
「これも動かないんですけど」
案の定、志賀が触ったという自動ドリル研削盤だった。
「プリント基板を差し替えることよりも、プリント基板がなくてもこのままアナログで使えないか、検討した方がいいかもしれないね」
疲れたような声で佳代は呟いた。
昼食時、午前中の出来事をかいつまんで話すと平久美が言った。
「機械が動かなくなったのは災難だけど、佳代さんの予言が当たったことは良かったんじゃない? 信用されるし」
「そうかな。ほら言霊ってあるじゃない。お前が変なことを言うから悪いことが実現したんだ、みたいな」
「でも佳代さんが何も言わなかったら、TCBC社みたいにこの会社が全部動かなくなっていたわけでしょ。これから、感謝するようになると思うな」
「だったらいいけど」
午後になってようやく再び自分のパソコンと対峙した。やはり電源が入らず何も出来なかった。
「これもやられた」
また人を呼んでパソコンの中を開けた。緑色のプリント基板をドライバーで押すと容易に曲がった。これも使用禁止だ。
こんなこともあろうかと、情報部の野沢主任らが構築したイントラネットサーバに、すでにデータを移しておいた。ダメージは前もって最小限に留めることが出来た、と思いつつも佳代は悄然とした。
「仕事にならないじゃない」
そう言えば、と大泉と志賀にも聞いてみた。二人とも自分のパソコンが動かない、と訴えた。そのパソコンはエポキシコラに侵されて使用禁止だと伝えた。前もって大泉と志賀にもデータを移すように伝えておいたが、それはやっていた、と話していた。パソコンの中身が消えてなくなる事態は二人とも避けられた。新しいパソコンを買って、そこに前のパソコンのデータを移せば、リカバリーが出来そうだった。
家に帰ったら秀郎から電話が来た。昨日は一日中ばたばたして炊飯器とスマホとテレビのリモコンが壊れたことを話し忘れていた。それをまず伝えた。
「そうか。赤飯を炊くこともなく使えなくなってしまったのか」
買った時の会話はまだ覚えていたらしい。
「でもこうしてみるとあれだな。その細菌っていうのは本当にあるんだ、悪さをするんだ、って実感するな。でも佳代があちこちアルコールで拭いたり対策をしたからその程度ですんだんだろう」
論文を書けのなんのと言っておきながら、秀郎は細菌の存在を初めて実感したかのようなことを言っていた。
「会社はどうだった?」
「加工用の機械や私の使っていたパソコンが動かなくなった」
「どんな機械?」
「ごめん。それ、社外秘」
「ああ、じゃあ、いいや」
秀郎はあっさりと引き下がった。代わりに、別の質問をした。
「細菌が生成したもの、って調べられそう? ガラエポを分解して何が残るんだろう」
「難しい。分析会社にただ送るんなら簡単だけど、それだと細菌混じりだから送った先の分析会社のパソコンが動かなくなるし」
「うまいこと細菌ろ過器をかませれば良いかな」
「うん。それもいま注文中。そろそろ来るはず」
「言ってくれれば、ここにあるから送ったのに」
「だからそれは官民癒着の利益供与。私と旦那さんの手が後ろに回るよ」
「ははは。それにしても楽しみだね」
「え? 何が」
「いや、知らないことがわかっていくのって、楽しくない?」
秀郎はよくこんなことを言う。羨ましい性格だ。佳代は知るためにしなければならないことの面倒くささを先に考えてしまうから、秀郎のような感覚にはなれない。
「まあねえ、秀郎さんは楽しめていいよねえ」
感嘆とも皮肉ともつかない声で、佳代は夫の言葉を評したのだった。
その後、家では奈菜のスマホも動かなくなった。これもテレビのリモコンと同じく、ビニール袋の中に入れていたのだが、袋を介して外から指で動かそうとした時に、全く反応しなくなっていた。仕方なく、これも新品を購入した。
そのうち、新品を購入することが出来なくなるかもしれない、と思った。この細菌が蔓延すれば、新品は作れなくなるからだ。
翌日、会社で佳代が使用していた電子顕微鏡とマイクロスコープ(光学顕微鏡画像を大きな画面で見られるようにしたもの)が動かなくなった。前日は精密加工装置や自分のパソコンの故障に追われていて、ようやく自分本来の仕事にとりかかろうとしたところだった。
「あっちが壊れて対策すればこっちが壊れる。これじゃもう、モグラ叩きでしょ」
嘆こうが怒ろうが、目の前の機械はどのスイッチを叩いても沈黙したままだった。前日と同様に、プリント基板を外してアルコールで消毒したのちに使用禁止とした。
「仕事にならないな、まったく」
一方で細菌ろ過器が届いていた。細菌に侵されたガラエポから抽出した液体をろ過器に通し、細菌の無い状態にしてから分析会社に送った。
その間も動かなくなった機械に関して相談が続いていた。計測課はそれまで、鹿上精工でなにか技術的な問題が生じた時のよろず相談所、といった趣があった。しかし現在、佳代は細菌対策専任課長になってしまっていた。
その後、鹿上精工ではパソコンが三台、加工機械が一台、動かなくなった。だがそれで被害は止まった。どうやら佳代の対策が功を奏したらしい。それで当初はいちいち手袋をしなければならないことに文句を言っていた社員も、何も言わなくなった。
佳代が論文を送った論文誌、セル・コミュニケーションズから論文を受け取ったという連絡が来た。いくつか質問事項があった。そのうちのほとんどは実験手段の細かい手順を聞いてきたもので、問題なく答えることが出来た。ただひとつ、細菌による生成物は何か、という質問には答えられなかった。それについては現在調査中で、それがわかれば今回のような速報ではなく、改めてまとまった論文を書く予定である、と書き記して送り返した。
大泉と志賀の持っていたスマートフォンも動かなくなった。二人の家で、家電もいくつか壊れた、と聞いた。どうなることかと思ったが、そこで止まったと聞いた。
「家でも、丸沼さんに言われた通りに対策をしましたからね」
それでもその程度で済んだのは、幸いというべきだろう。
佳代は次の管理職会議で、油断なく対策を続けていきましょう、と言った。皆、真面目に聞いてくれた。
そうこうしている間に、この細菌が起こしたと思われる事件が、ぽつぽつとネット上の日本語に翻訳されたニュースサイトにも出てきた。一週間ほど前、秀郎がいろんな言語を使って検索をかけたら引っかかった、と言っていた。それが海外のニュースとして日本に伝わってきたということだ。
その中には壊滅状態に陥ったアメリカIT企業の名前もあった。
「ああ、これは」
佳代はため息をついた。間違いない。この細菌はこれからさらに世界中に広がるだろう。
当初はアメリカのニュースが多かった。それだけアメリカでマスコミが発達しているし日本の関心も高いということだろう。その後、ヨーロッパのニュースが入ってきた。秀郎が言っていたイタリアのニュースなどだ。しかし、それは海の外の出来事だった。まだ日本のマスコミは、それが日本ですでに起こっていることに気が付いていなかった。