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ガラエポ  作者: 水谷秋夫
第一章、鹿上精工
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2.Experiments ―実験―


     2.Experiments ―実験―


 次の日、佳代は件のガラスエポキシ製プリント基板に取り組んだ。まず光学顕微鏡で観察してみた。

 表面のところどころにひびが入っていた。曲げたせいで半田の剥がれがあり、素子の端子も一部歪んでいた。だがそれ以外に、表面上で特におかしな所は見つからなかった。

「ガラエポの中の問題か」

 やはり断面を見なければならない。ガラエポの一部を切り出して樹脂の中に埋め込みその日の作業を終えた。

 翌朝、予定通り樹脂が固まっていた。研磨機を使って断面を出した。まず光学顕微鏡で観察した。

「エポキシ樹脂が……、減っている」

 プリント基板の材料であるガラスエポキシは、ガラス繊維にエポキシ樹脂を合成成型して作られる。鉄筋コンクリートに例えれば、鉄筋がガラス繊維、コンクリートがエポキシ樹脂に当たる。このプリント基板は積層基板でもあるから、断面ならガラス繊維とエポキシ樹脂と銅配線が見えている筈である。ところがガラスらしきものと銅配線がすかすかに重なっていてエポキシ樹脂が少なくなっていた。

「あれ?」

 なにかゴミのようなものが見える。光学顕微鏡の倍率を最大の五百倍にしてみた。

「まさか」

 見覚えのある形だ。カプセルに毛がついたような。佳代はとりあえずデジタルカメラを取り付けて写真に収めた。それからSEM(走査電子顕微鏡)で見ることにした。

 三十分後、SEMのスクリーンを見ながら彼女は呟いた。

「見えない。真空で飛んだ、かな」

 電子顕微鏡を見るためには、真空に引かなければならない。見ようとしたものが、真空に引いたことで無くなってしまった可能性がある。

 それなら、と先ほど光学顕微鏡で撮影したデジカメのデータをコンピュータに移して拡大してみた。ぼやけた画像を見ながら、佳代は呟いた。

「これは、たぶん、生き物」

 真空に引いた時、生体は固定しないと物質表面から飛んでしまうことがある。そんな知識を佳代は思い出していた。

「つまり、このゴミのようなものは、細菌」

 細菌、そしてエポキシ樹脂の抜けたガラエポ。それの示す意味はなにか。

(まさか)

 佳代は大泉主任に電話をかけた。

「大泉さん? 丸沼です。いま、志賀君が持ってきたガラエポを見ているんだけど」

「ああ、ありがとうございます」

「いろいろ聞きたいんだけど、まずこれ、TCBCでいつごろ作られたもの?」

「すみません。二、三週間前だとは思うんですが」

「聞いてみてくれる?」

「それが出来ないんですよ」

「出来ないって、どうして」

「電話が通じないんです。個人の携帯にかけても駄目です。TCBCっていう会社全体がそうみたいです。会社ごと夜逃げでもしたんですかね」

「大泉さん」

 暗い声で佳代は呟いた。

「これ、ひょっとすると、大変なことが起きているのかもしれない」


 ガラスエポキシ樹脂。細菌。エポキシ樹脂の分解。プリント基板の湾曲。電子機器の動作停止。感染拡大。蔓延。TCBC社の機能停止。

 それらの単語が頭の中をぐるぐる巡って佳代は上の空だった。TCBCで起きたことがこの鹿上精工でも起きる可能性がある。大泉も志賀もそして自分もあのガラエポを素手で触っていた。

 消毒をしなければならない。昨日の夕方から今日の昼までに触ったところを全部。佳代は自分の手を見つめた。


 まず佳代は、手を普段以上に入念に石鹸で洗ったあと、ゴム手袋をはめた。

 そして自分の職場領域に黄色と黒の縞模様の注意喚起用のテープ、通称トラテープを貼って立ち入り禁止と表示した。それからエタノールを手にして、一昨日から自分が手を触れたところを端から端までアルコールで拭いた。細菌はアルコールに弱いからだ。

 途中で志賀から電話が来た。

「丸沼さん、大変ですよ。本当に全部やらないといけないんですか」

「全部やっても足りないかもしれないし、間に合わないかもしれない」

 佳代は大泉に、問題のガラエポを開封してから、大泉と志賀がその日に触ったところを全てアルコールで拭け、と言ったのだ。大泉はどうしても手が離せない仕事があるからと、志賀が一人で拭き仕事をしていた。

「コンピュータとかスマホとかはもう駄目かもしれない」

「脅かさないでくださいよ」

「駄目かどうかは、二・三週間しないとわからない。とにかくやってくれる?」

「はあ、まあ、いいですけど」

 大泉に話をする前に佳代は、上司の技術部長に相談していた。

「事業所中全部で細菌対策をするにしては論拠が弱い」

と言われた。それはそうだろう、と思った。細菌かもしれないものを光学顕微鏡で見ただけで、それがエポキシ樹脂を「食べて」いるなどというのは推論というか、その前の勘に過ぎない。

 だが、もしその細菌が蔓延したために、TCBC社が機能不全に陥っているとしたら、この鹿上精工もそうなる可能性がある。

「でもそれを触った人が触ったものを除菌のためにアルコールで拭くというのは止めない。万が一ということもある。今日と明日は他の仕事を止めても結構」

 玉虫色の指示であった。仕方がない。

 佳代はそれから情報部主任の野沢に電話した。

「ああ、野沢さん。丸沼です」

 コンピュータがハングアップして動かない、などという時、佳代は野沢にお世話になっていた。

「なんです? またなんかコンピュータの不具合ですか」

 佳代は上司に話したのと同様にかいつまんで状況を話した。

「うーん。それでそのまだ見てもいない細菌対策を情報部でしましょうという話ですか」

「そうじゃなくて、情報部にひとつ頼みたいことがあるんだけど」

「なんです?」

「二ヶ月くらい前にOSのアップデートでコンピュータを取り替えたよね。取り替える前のコンピュータ、まだある?」

「倉庫にあります。そろそろ捨てますけど。数が多いと捨てるのも大変なので」

「一か月くらい捨てるのを待ってくれる? それで、その一ヶ月間は誰も触らないようにして欲しい」

「いいですよ。引き取り業者に少々延長かけて物置に鍵かけて立ち入り禁止にすればいいだけの話ですから」

「じゃあ、お願いします。万一の時に再利用できるように」

「それだとセキュリティの問題が出ますよ。なにしろOSのサービス期限がもうすぐ切れるんですから」

「スタンドアローンでもいいから少しでも使えるものがあったほうがいいと思うの。よろしく」

「ところで、何か、あったんですか」

「一番あやしいのは私と大泉さんと志賀君なんだけど、この会社のコンピュータ全部に時限爆弾がかかって次々に壊れるかもしれないの」


 会社でのアルコールによる除菌対策をひと通り終えて、ようやく佳代は家路についた。帰ったら同じことを家で行うつもりだった。昨日、素手で問題のガラエポを触り、そのまま家に帰ってスマホやテレビを操作していた。あれから一日経ってしまったが、出来るだけの対策はしなければと思った。

 最寄駅から佳代の住んでいる賃貸マンションに帰る途中に薬局がある。そこで消毒用アルコールを購入しようと思っていたのだが、すでに閉まっていた。残業時間が長かったためだ。

「しまった。どうしよう」

 家に着いてしまった。仕方がない。代用品を使おう。佳代はまず丁寧に手を洗うと、奈菜に

「夕飯はちょっと待ってて。テレビでも見ていて。いや、リモコンは触らないで。まだコンピュータもスマホも駄目」

「何も出来ないじゃない」

奈菜が文句を言うのを背中で聞きながら、佳代は棚から秀郎のウイスキーを取り出した。アルコール度数四十パーセント。消毒用アルコールに比べて効き目は低い。だが、何もしないよりはましかもしれない。

佳代はウイスキーを布巾に含ませてそこら中を拭き始めた。昨日、家に帰って来てから出ていくまで触ったものを思い出しながら。ドアノブ、テーブル、冷蔵庫。中でも液晶テレビと録画機のリモコンやスマートフォンは念入りに拭いた。

「お酒臭い。どうしたの、いったい」

「消毒。細菌を殺すにはまずアルコールだから」

 さらに詳しく質問されたらどう説明しようかと思ったが、奈菜はさっさと自室に逃げていった。

 これ以上やってもキリがない、と思ったところで作業をやめて夕飯の支度を始めた。換気扇を回しっぱなしにしていたが、それでもウイスキーの匂いで酔っ払いそうになった。

 この日の夕食は焼き鮭。酒臭いリビングで食べたので、奈菜が不満そうだった。

「粕漬の鮭だと思いなさい」

思えるわけもなく、食後すぐに奈菜はまた自室に退散した。こんな時は手伝いもしないでと思ったが、理学部化学科出身の佳代は、

(鼻が利くのはわるいことではないかな)

そんなことも娘に対して感じたのだった。


 食後の後片付けをしていると、秀郎から電話が来た。

「昨日話していたガラエポ、どうだった」

 秀郎は開口一番、家庭の話ではなく、曲がるガラエポについて聞いてきた。思えば秀郎は、学生の頃のデートでも生物や化学の話を延々とし続けることがあった。

「虫が食ったみたい」

「六本足の虫?」

「違う。細菌」

「本当か」

 秀郎は絶句した。

「ペットボトルを分解する細菌がいるのは知っていたけどな。サカイエンシスと言うんだが。それにしても、まさか硬化性樹脂を分解するのか」

 驚くのは当然だ。エポキシ樹脂は熱を加えると硬化する。強力接着剤にも使われるほど強固で複雑な構造を持っている。ペットボトルの原料である、柔らかいポリエチレンテレフタラートとは構造が違う。

「信じ難い、が、信じることから始めてみようか。そのガラエポっていうか、プリント基板だよね。上に石とかいろいろ乗っているんだよね」

 ここでいう石、とはLSIのことである。集積回路はシリコンが主成分であることから、俗語としてそう呼ばれることがある。

「そう。石とか、抵抗とか、コンデンサとか」

「作ったのはいつ頃?」

「二、三週間くらい前じゃないか、っていう話だけど、わからない」

「わからない、って聞いてないの」

「聞けない。作った所と連絡がつかない」

「連絡がつかない、か。その会社では、プリント基板を使用している機械が全滅しているかもしれない、って言っているんだな」

「そう」

「それは、大変だ。本当ならこれから世界的なパニックが起こる。ペットボトルを分解するサカイエンシスとは違う。分解速度が速すぎる」

 佳代の危惧と同じことを秀郎は考えたらしい。

「集積回路が全く使えなくなるわけだから、世の中は一九七十年代に逆戻りだ」

「それ、わたしも考えて、とりあえず会社と家と、触ったところはアルコール消毒したけど」

「そうか。気休めかもしれないけど、やらないよりはましか」

 そう言って秀郎は言葉を切った。佳代は緊張した。長年の付き合いから秀郎が頭を高速に回転させているのがわかった。

「それはそれとして、だ。二・三週間ってことだから、二週間で書かないといけないな。二週間後に手持ちのパソコンが壊れる可能性だってあるし」

「書かないと、って、なにを?」

「論文」

 全く予想外の言葉だった。佳代は斜め後ろから首筋を、指先でつつかれたような気分になった。

「細菌を固定して電子顕微鏡で写真を撮って、あとグラム陽性か陰性かぐらいは調べないといけないかな。論文誌はセル・コミュニケーションズがいいだろう。この際、権威よりも早く載せてくれるほうがいいし、査読者も厳しいことはそんなに言ってこないし。ああ、細菌の名前、何にしようか。マルヌマとどこかに入れようか。ウエノでもいいけど」

「あのね」

 佳代は眉間に指を立てながら言った。頭痛がしたときと同じ仕草だ。

「わたしは博士の旦那様と違って、一度も英語の論文なんて書いたことはないのね。それにわたしの専門は化学で生物じゃないの」

「初めての論文が新しい細菌発見なんて、インパクトがあるじゃないか」

 秀郎は意に介さない。

「だいたい初めての論文を二週間で書けっていうのが」

「ああ、ちょうどいいひな形があるから送るよ。山の中で新しい細菌を発見したんだけどその細菌が木に悪さをしていました、ってやつ。それと似た構成にして自分の結果を入れていけばいい。データが無くても書けるところを埋めていって、写真が出来たらそれを加えていく」

「写真なんて。だいたい固定用の薬品もグラム陽性か陰性か調べる薬品もないし」

「こっちにはあるから、送ろうか」

「それをやったら官民癒着だって」

「そうか。薬品名を言うからメモして。急げば一週間で持ってきてくれるだろ」

 こうした時の秀郎は強引で、佳代は押し切られる形になってしまった。家の中のことだったらそうでもないが、学生の頃から学問に関することだと佳代は秀郎に気圧されてしまうのだ。


 翌日、佳代は上司の八幡部長に薬品の注文依頼書を提出した。

「ほう、知らない薬品だね。安全性のデータベースはあたった?」

「これです。SDS(化学物質を扱うメーカーの資料)もあります」

「例の細菌かも、という奴を調べるのか」

「はい」

「急いだほうがいいな。明後日金曜日に安全衛生会議があるからそこに入れよう」

 鹿上精工では、新たな薬品を購入する時には安全衛生会議に申請して審査を受けなければならないことになっていた。その一ヵ月に一度の安全衛生会議がたまたま二日後にあった。日が近いのはありがたいが、薬品が来る日が近くなるのは佳代にはあまり嬉しく思えなかった。来れば論文執筆に取り組まなければならない。

薬品購入の許可は二日後にあっさりと下りた。


 なお、アルコール度数四十パーセントのウイスキーでは消毒効果が薄いので、佳代は消毒用アルコールをその日に薬局で買った。そして賃貸マンションの部屋の消毒をやり直した。今度は奈菜が、病院の匂いがすると言って逃げた。


 土曜日。なにか、ずいぶん久しぶりの休日のような気がした。掃除や洗濯などの家事に追われながらも、佳代はなにか心に引っかかるものを感じながら時を過ごしていた。

「おかあさーん」

 リビングから奈菜の声がした。

「なんでテレビのリモコンがビニール袋の中なの?」

「あー、それ外しちゃ駄目」

 せめてもの細菌除けである。佳代のスマートフォンも今はビニール袋の中に入っている。

「うまく動かせばちゃんとテレビつくから」

「なんで袋の中なの」

「変な細菌を会社から連れてきちゃったかもしれないから」

「ふうん」

 テレビの音がした。この説明で納得したのか、それともテレビさえ映ればどうでもいいのか。恐らく後者だろう。

 家事が一段落したところで、秀郎が送ってきた英論文を読んでみた。佳代は高校生の頃は理科が得意だったが、それ以上に英語が得意だった。それに文学少女でもあって、学生の頃に人気があったアメリカのファンタジー小説を原語で読んだこともある。だから英語の文章を読むこと自体にそれほど苦労はなかった。

 高校生の頃、理学系志望だと言ったら当時の友達に、

「佳代ちゃんって、文学部に行って英文学とか、そうした方面に進むんだと思っていた」

と驚かれたくらいである。

 なぜ理学系なのと聞かれて、子供の頃読んだキュリー夫人の伝記に感動したからと答えた。今時、そんな人がいるの、と友人にシーラカンスを見るような目つきをされたので少々傷ついた。

 もっとも佳代にしても、子供時代に読んだキュリー夫人の伝記ばかりを理由に理学系を志望したわけではない。文系か理系かと考えた時にどちらが得意ということもなかったので、理系のほうが就職に有利かな、と考えた結果だ。

 そんな話を大学生の頃、秀郎にした。秀郎は佳代をシーラカンスとは言わなかった。

「キュリー夫人になるつもりなら、夫もピエール・キュリーみたいにノーベル賞を取れるほど優秀じゃないといけないな。やっぱり相手は俺しかいないんじゃないか」

 ああ、私、この人と結婚して、この人の子供を産むんだ、とその時に思った。


 気が付いたら論文を読んでいるうちに二時間ほど経っていた。

 ブナ系の木の表面から侵入する細菌が、通常は木と共存しているが気候などの条件がそろうと木を枯死させる、とあった。森林荒廃の原因のひとつになっている可能性がある、という話だ。

なるほど、佳代が書こうとしている論文と、ストーリーの流れとしては似たようなところがある。

 曲がるガラエポが発見された。エポキシ樹脂から細菌を発見した。これこれこうした細菌だ。培地にエポキシ樹脂と一緒に置いていたら確かに樹脂が減っていた。書くのはここまで。実験をそれに沿って行えばいい。

 ただ、大急ぎで書かないと、自分が使っているコンピュータその他もこの細菌にやられてしまう恐れがある。どこから来た細菌か知らないが、論文投稿速度の競争よりもそちらのほうが怖い。

 だが佳代の頭の中には矛盾した思いがあった。あの細菌らしきものがただの見間違いでありますように。曲がったガラエポが、ただの作り間違いでありますように。TCBC社と連絡が取れなくなったことが、ただの電話回線の不調でありますように。身の回りをアルコールで拭いたこともこの論文を読んだ時間も無駄になりますように。

平凡な日々が続くことを願って何が悪いというのだろう。

 もう洗濯物を取り込んで夕飯の支度を考えなければならない時間になっていた。佳代は平凡な休日の日常に戻っていった。


 それから一週間は比較的静かに過ぎた。佳代は秀郎のアドバイスに従って、家のパソコンで空いた時間に論文を書き始めた。といっても結果はまだ何もないので「目的」の部分を書いただけだ。曲がるガラエポが見つかった。絶縁性と耐久性が落ちて、これでは使い物にならない、などという文章を英語で書いていった。

 その一週間、佳代は職場で昼食時以外は常時プラスチック製手袋をして過ごした。手に細菌が触れるかもしれない、と思うとどうしても素手で仕事をする気になれなかった。クリーンルームでもないのに、と思うし最初は鬱陶しかった。だが、そのうちに慣れた。細かい作業をするときは手袋の上に指サックをつけた。慣れればそれほど作業に問題はなかった。

翌週、購入手続きをした薬品類が届いた。会社の事務方には急いで書類を回してと言い、業者にも注文書が届いたら早く送ってくださいと頼んでいた。事務方も業者も急いでくれた。

そこで志賀から受け取っていた例のガラエポから新たに試料を切り出して、その切り出し面を光学顕微鏡で確認した後に薬品で固定し、電子顕微鏡で観察した。

やはり細菌だった。

カプセルを伸ばしたような本体。その前後に鞭毛がついていた。活発そうに見えた。細菌の形状は、ペットボトルを分解するイデオネラ・サカイエンシスに似ていた。これもイデオネラ属と推定された。

次はグラム染色だ。グラム陽性菌と陰性菌では細胞壁の構造が違う。どんな細菌かを語るのに最も代表的な指標となる。佳代は細菌をスライドガラスに定着させ、クリスタル紫とヨウ素液を作用させ、さらにその後アルコールを作用させた。高倍の顕微鏡で見るとクリスタル紫で染色された細菌が無色に変わった。その後サフラニンで染色させると赤くなった。

「グラム陰性菌か」

 グラム陰性菌は細胞膜と外膜のふたつの脂質膜に包まれていて、グラム陽性菌とは異なりペプチドグリカン層が薄い。大腸菌やサルモネラ菌が同じグラム陰性菌だ。そこまでは大学の生化学の授業で習っていたから覚えている。生化学を専攻したわけではないからその先はよく知らない。佳代の専攻は有機合成化学だった。

「そうさ100%有機」

 有機化学が話題になると秀郎はよく「忍たま乱太郎」の主題歌を歌った。ただの駄洒落だ。なお、佳代は鹿上精工に就職してからは有機合成化学とは全く関係のない仕事をしてきた。鹿上精工は生物とも化学とも縁が無い精密機械のメーカーだ。そんな会社でこうした作業をするとは思っても見なかった。

 佳代はグラム陰性菌の証拠となる、細菌の光学顕微鏡写真を撮った。

「次は培養か」

 寒天培地を四つ用意した。それぞれに細菌入りのエポキシ樹脂を置いた。一番は細菌なしのエポキシ樹脂をそのそばに置いた。二番はベークライト。三番はポリエチレン、四番は何もなし。二から四は参照用だ。

秀郎に言われていたことがもうひとつある。細菌の名前だ。細菌に限らず生物は発見者が命名権を持つ。いま書いている論文が採用されて、もし佳代が発見者だったら細菌の名前をつけることができる。

「マルヌマとどこかに入れようか。ウエノでもいいけど」

 秀郎はそう言ったが、自分の名前を細菌につける気にはならなかった。正直、こんな得体のしれないものを自分の名前で呼ぶ気にはなれなかった。

 生物の名前は属名・種名と名付けられる。前半の属の名前はイデオネラとなる。後半部分を考えなければならない。

 ペットボトルを分解するイデオネラ・サカイエンシスのエンシスは何々産の、という意味だ。堺産のイデオネラ属細菌、という意味になる。

「トウキョウを使うのは広すぎるし。ここは江東区だからコウトウはどうだろう。コウトウエンシス」

 いや、そもそも台湾から来たプリント基板なのだから鹿上精工が建っている地名をつけるのはおかしい、と思った。

 インターネットでラテン語を調べてみた。どこそこの住人という意味でコラ(-cora)という形容詞があった。

「イデオネラ・エポキシコラ」

 エポキシ樹脂の住人。これに決めた。


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