1.Introduction ―導入―
第一章、鹿上精工
1.Introduction ―導入―
鹿上精工計測課の課長である丸沼佳代のもとにその緑色の板が持ち込まれたのは、秋の午後のことだった。当日の天気や外の気温は佳代の記憶にない。彼女はその日一日中室内で製造部に頼まれた不良品の解析データと格闘していたから、外がどうなっているのか知らなかった。
「丸沼さん、すみません、ちょっといいでしょうか」
若い男が、計測課の部屋に突然やってきた。
「え、なに?」
佳代が不愛想に答えたので、声をかけた若い男は少しおののいたようなのけぞり方をした。
「あの、これを調べていただきたいんですけど」
「ああ、どちらさま?」
「技術課の志賀です」
佳代は技術課ならたいていの人はよく知っていた。しかし、この若者は顔を見たことがある、という程度だった。この若者には、まだ仕事を頼まれたことがなかった。
「技術課か。大泉さんの所に来た新人君かな?」
「はい。大泉主任に、これも勉強だから行ってこい、と言われまして」
「アポなしで?」
「あ、はい。行けばわかるからって」
「度胸試しってわけね。計測課はお化け屋敷か」
「大泉さんは、お化けがいるとは言っていませんでした」
「あはは」
つられて新人も笑った。
「で、なんなの?」
「この実装基板なんですけど」
見ると緑色のガラスエポキシ基板だった。LSI(大規模集積回路)や抵抗、コンデンサなどが乗っている。なにかの機械の制御基板だろう。
「明らかに不良品なんですよ」
見ただけでは何が明らかなのかわからなかった。
「ああ、最初から順序だてて話してくれる? まず、いつの話?」
「昨日、TCBC社の」
「TCBC、タイワン コントロール ボード コーポレーションか。つまり台湾製?」
「ええ。そこから送られてきたロボットアームの制御基板なんですけど」
鹿上精工では産業用ロボットアームの製作をしている。その制御基板は、仕様は鹿上精工で定めるけれども、製作は台湾の企業に外注していた。
「この基板、もう売っているやつ? それともサンプル?」
「うちの新製品用のサンプルだそうです」
「それで、明らかな不良、ってどういうこと?」
「持っただけで、なんかおかしいんですよ」
そう言われて、佳代はLSI等が実装されたガラスエポキシ基板を受け取り、自分の手に取った。
「あれ?」
感触がおかしい。よく見ると、基板が微妙に曲がっている。
「なにこれ。ほんとにガラエポ?」
ガラエポとはガラスエポキシを省略した言葉である。ガラスエポキシ基板はガラス繊維とエポキシ樹脂から成る。硬い板で、本来簡単に曲がるべきものではない。しかし、佳代が両端を持って力を加えると、その板はあっさりアーチ状になった。
「変ですよね」
その通り、と佳代はうなずいた。
「大泉さん、曲がっている写真を撮ってTCBCに送ったんですよ。そうしたら向こうがそんな変なものは送っていないと言って揉めているんです。それで、ともかくこの曲がるやつは調べないといけないと。TCBCで変なものを送った記憶がないというのなら、なおさらこれまで来たやつとかこれから来るやつとか危ないじゃないか、って」
「それもそうね」
「もっとも大泉さん、なんでガラエポが曲がるんだ、って面白がってるんですけど」
なるほど、そう言われてみれば、佳代も原因を探りたい気になってきた。
「わかった。それじゃあ、今の仕事が終わったら調べてみる。ああ、これ、切った張ったしてもいいの?」
切った張った、とは、このガラエポを破壊しても良いか、切断しても研磨してもかまわないか、という意味である。
「かまわないそうです」
「電気的特性とかはもう見たの」
「曲がるからそもそもテスタの台座に乗るかどうかも怪しいんです。だからそれは見なくてもいいって話で。曲がるとなるとたぶん絶縁とかが悪そうな気がするんですけど」
「じゃあ調べてみる。始めるのは明日ね」
その日の会話はそれで終わった。もちろん佳代はその時、調べた後に起こることなど全く予想していなかった。
仕事を終え、その日の買い物をして家に帰ると、佳代はまず念入りに石鹸で手を洗った。仕事でどんな有害な、例えば薬品が手についていたかわからない。これは佳代が大学で化学を専攻していた頃からの習慣だ。
お茶の間に奈菜がいた。佳代の一人娘だ。十一歳。
「宿題はすんだの?」
「うん、終わった」
奈菜は小学校五年生だ。うつぶせになって顔を上げ、テレビを見ていた。自分が同じ姿勢を取ったら腰を痛めるかも、と思った。
「お父さんから電話あった?」
「なかった」
「まだ支所にいるのかな」
佳代の夫、丸沼秀郎は国立動植物研究所北海道支所に勤めている。佳代は略して支所とだけ呼んでいる。
「おなかすいた」
「だったら手伝って」
食材を炒めて煮てその間にサラダを作った。この日はカレーライス。忙しくてもレトルトにしないところは佳代のこだわりである。
奈菜は皿を取り出しサラダを盛り付けた。娘は当たり前のように手伝ってくれる。ほとんどシングルマザーのような生活であったが、良い子に育ったな、と佳代は思う。父が(通常は)いなくても子は育つ。
それから普段の食卓が始まった。
「学校でなにかなかった?」
「なにも」
「連絡とか」
「ない。あ、カレーの味、変えた?」
「わかった?」
「辛くなった」
「中辛にした。奈菜も大きくなってきたし。食べられるでしょ」
「うん。おいしい」
「お父さんは辛口でないと駄目って言うのね。だからカレーの時は奈菜のだけ別に作ってたの。知ってた?」
「へえ。知らなかった。でも三人でカレーって滅多にないし」
「一年に一回あるかないか、かな」
夫は単身赴任が長い。年に数度しか帰ってこない。
「お母さんって、なんでお父さんと結婚したの?」
いきなりの質問だったので、面食らった。
「なんでいきなりそんなこと聞くの」
「今日、学校の作文で、家族のことを書きなさい、って言われた。それでお母さんのことは書けたんだけど、お父さんはたまに帰ってきて、おみやげにぬいぐるみを買ってきてくれます、ってことしか書けなかった。それで、もうちょっと何か書きたかったなと思って」
「お父さんと結婚したのは、お父さんが素敵な人だったから」
奈菜は笑い出した。
「ええー? 髪は薄くなってきているし少し太めだし」
「奈菜はなにもわかっていないね。男の魅力はそんな見た目じゃないの」
佳代はそう言って微笑んだ。奈菜は変な顔をしている。
「もっとも、初めて会った頃は髪もあったし痩せていたけど」
「ああ、そうか。でも痩せているお父さんなんて想像できない」
「最初から話すと、大学のサークルが同じだったのね」
「天文同好会だっけ」
「そう。私が理学部の一年生、お父さんは四年で、その頃、ああ、こんな優秀な人が世の中にはいるんだ、って思ったのね」
「尊敬の念ね」
「そう。でも頭がいいのはいいけど、良すぎるのはちょっとね。これをやりたい、って思うと実現しちゃうの。ほら、普通の人が北海道の原野で野生動物を観察する仕事をしたい、冬山で自分が雪洞掘って生で動物を見たい、って言っても、サラリーマンが休みに旅行するぐらいが関の山で、そんなことで稼げるわけがないの。でもあんまり優秀だと出来ちゃう。質の高い論文ガンガン書いて、あっちこっちの学会で発表して称賛されて、それでは希望を通してやろうか、地位もやろうかと」
「それでずっと北海道に単身赴任だと」
「そういうこと」
「お母さんはお父さんと違って普通の人なの?」
「世間一般から見たらわからないけど、研究者たちの中に入ったら普通か普通以下なんじゃないかな」
佳代は苦い顔をした。その顔を見て、奈菜はこの話題を切り上げた。
「今年は可愛い子が入ったな、って丸沼が言ってたんだが、上野君のことらしい」
天文同好会に入ったばかりの頃、四年の先輩からそう言われた。上野、とは佳代の旧姓である。佳代はそれまで可愛いなどと言われたことがなかったので、舞い上がってしまった。もし馴れ初めについてさらに聞かれたら奈菜にそんな話をしようと思っていたのだが、奈菜は学校の友達の話などを始めたのでそこで終わってしまった。だがこの子も女の子だし、いずれそうしたことを話す機会もあるだろう。
食後に秀郎から電話が来た。若い頃の話を娘としたばかりなので、少しどきりとした。元気なの? ちゃんと食べてるの? と秀郎に聞くと、元気だ、ちゃんと食ってるよ、などと返事が返ってきた。
「そっちはまだ秋だろ。こっちは寒いよ。そろそろ雪が降りだすんじゃないかな」
そんな話の後に、ちらりと次にいつ帰るのかと聞いてみた。
「俺に会いたくなった?」
家族を心配するような素振りはなく、夫は冗談めかしてそんな言葉を気楽に言うのだった。その後、年末までは無理だな、と答えがあった。佳代は奈菜の作文のことをかいつまんで話した。
「娘にどんな人かわからないと思われるのは、父親としてつらいものがあるね」
年末の前に休みが取れそうだったらそっちに行くけど期待しないで、と秀郎は少し沈んだ声になった。
「ところで」
佳代は話題を変えた。
「丸沼先輩に質問があるんだけど」
この言い方は学生時代のものだ。佳代は大学にいた頃、わからないことがあるとしばしば先輩の秀郎にこう言って尋ねていた。
「なんだね、上野君」
学生の頃、秀郎は佳代に質問されれば、こう返していた。
「曲がるガラエポを見たんだけど信じられる?」
「曲がるんならそれはガラエポじゃない。もしそれがガラエポだって言うならガラスかエポキシ樹脂かどっちかがおかしい、としか言えない。それ、どこから来たガラエポ?」
「ごめん。それは社外秘」
「会社員は面倒くさいね」
その日の電話はそこで終わった。