第43話「心の天秤」
登ってきたバウハウンド(?)から逃げるため、サリナは、ユナを抱きかかえたまま、何度か跳ね、また手ごろな枝に着地ならぬ着枝した。
「キリがねえな」
多少動いたところで、景色は変わらなかった。相も変わらず、数えきれないほどの赤紫の目がこちらをにらみつけている。移ってきたこの木も、バウハウンド(?)たちが登り始めた。
「このままぴょいぴょいって、街まで逃げるのは?」
「ダメだ。こいつらを街に連れていくのも、ギリークを置いていくのもありえねえ」
さっき消えたと思っていた暗闇が、じわりとユナの心を包んでいく。
てっきり晴れたかと思っていた心は、まるで天秤のように、出来事という重りがどちらに来るかで簡単に振れた。右にも左にも、晴れにも雨にも、希望にも絶望にも、光にも闇にも。
「それに、重いしな」
そう言ってサリナは、ユナに重いぞと鼻で笑う。
「そんな重くないもん!」
こんな状況でも茶化してくるサリナは、ユナの心をほぐした。
心の天秤に、光という重りが一つ。
「まあそれを抜きにしてもだ。あいつは絶対街には連れてけねえ。さっきの咆哮、あいつだけは絶対やべえ」
ユナは、さっき探知でひっかかったあの魔物を思い出す。恐怖が背筋を駆け抜けた。
天秤の逆の皿に、闇の重りが一つ。
「うん…。あれはやばいよ、師匠。でも、あんなの逃げったって仕方ないよ」
「それでもだ。俺たちは冒険者だからな」
「冒険者だったらお金のためにまっすぐ逃げるよ」
「ハハッ!まあそうだな。命あっての物種だ。でもな、冒険者にだって、守りたいものがあるんだ」
「守りたいものって?」
ユナの中でふと浮かんだのは、ふうちゃんとるーちゃんだ。
(でも、るーちゃんはさっき逃げられちゃった)
ユナは、それが自分のせいだとわかっているのに、逃げ”られちゃった”なんて思っていることに気づいた。
闇に重りが一つ。
「絆だよ。街には俺が育った孤児院がある。もちろんレイナもいるしな。それにギリーク。あいつとは腐れ縁だが、見捨てるにはいい奴すぎる。そして、弟子、お前だよ」
「私…?」
「ああ。そうだぞ、ユナ」
光に重りが一つ。
また、ユナの心が晴れた気がした。
「っと!」
そんなこんなで話していると、またバウハウンド(?)が木を登ってくる。
サリナはまた跳ねた。
(師匠はこんなにまっすぐなのに、私は…)
その思考という出来事は、また一つ、闇に重りを増やした。
子どものユナが、自分の心をうまくコントロールできないのは当然のことだ。だが、それに気づいて、自覚しまうという歪な成長をしたユナは、それを許せないでいた。また一つ、重りが増える。重りが増すたびに、不安定さが増していく。
ドゴォン!!
激しい戦闘の音が近くでした。
「師匠!」
「わかってる。だけど、まだ策がねえんだ」
サリナはユナに生きろと励ましながら、徐々に戦闘を続けているギリークのもとに近づいていた。しかし、その裏で考えていた窮地を脱する策が思いつかないままでいた。
声がすぐそこに聞こえような近くまでたどり着いた。
「オラア”ッ!!!!!」
群れの一部が弾け跳ぶ。その中心にはギリークがいた。状況は酷く、ギリークも得物の大戦斧も血まみれだ。
「ガハハハハッ!!!」
それでもまた降りかかってきた次の群れを薙ぎ払う。
数が多くなりすぎてうまく連携できていないバウハウンド(?)たちの、攻撃のテンポが遅れているのが不幸中の幸いか。退けるたびにギリークは一息つくことができていた。一息ではなく、一笑していたが。
「師匠…あれは…」
ユナは呆れが真っ先に来た。血まみれでも笑いながら戦えるなら、全然余裕なんじゃないかと。しかしサリナは違ったようだ。
「ここで待ってろ!!」
サッとユナを枝に降ろし、群れが弾けた間隙を縫って、ギリークもとにまごうことなく着地する。
「おい!ギリーク!!」
サリナの呼びかけに呼応するように群れが襲い掛かり、ギリークが薙ぎ払う。それに巻き込まれないように、サリナは身を捩って躱す。
「ラア”ッ!!!!!」
「くっ!」
サリナはギリークとの付き合いが長いからこそ知っていた。ギリークは戦闘狂と呼ぶに相応しい冒険者で、ソロのくせに大戦斧なんて使っているから傷が絶えないことを。
そして、戦闘に夢中になって、血を流しすぎてハイになること、それが限界の一歩手前の合図だということを。
だが、それをサリナは責めない。今までこんな状況になったのを見たのは一度だけだった。それこそ、今回のようにパーティーを組んで、緊急依頼を一緒にこなしていた時だ。ギリークがソロでも着実に階位を上げていることからも、その一度だけだったことがわかる。
「ギリーク!!おい!!逃げるぞ!!」
サリナの呼びかけも虚しく、敵味方関係なく薙ぎ払うギリーク。ジリ貧のまま、焦りが募っていく。
それを見て、ユナはまた一つ、重りを増やした。
「師匠!!」
その様子を見て、ユナは居ても立っても居られず叫んだ。
「ガハハッ!!!!」
だが、サリナは返事をする余裕がない。代わりに響くのは、先ほどより少し弱々しいギリークの笑い声だった。
ユナがてっきり余裕だと思ったギリークは、もう限界だったようで、そこに入ったサリナもバウハウンド(?)相手では分が悪い。しかし、ユナにはこの状況をどうにかする術が思いつかない。
るーちゃんは去り、ふうちゃんの無事はわからず、魔法は使えず、ボスに怯えて探知も止め、足元の枝の下には敵がもうすぐそこまで登ってきている。
「はぁ、はぁ」
闇という重りが、一つ、一つと増え、光を上回っていく。
「はァ、ハァ、は、はあ」
ユナの中で、暗闇ともまた違う、希望も絶望も混ざったような、ひどく薄汚い鮮やかさを持った、ざわざわと、ドロドロとしたナニかが、足元から這い上がってくるような気がした。
チリチリと、脳裏に【モンスターテイマー】というスキルがチラつく。
ますます呼吸が乱れる。それを振り払う術が、ユナにはこれしか思いつかなかった。
「…はああっ!!!」
枝から飛び跳ね、サリナのもとへ。
「バカ、弟子が!!」
ギリークが薙ぎ払い、そのまま大戦斧を御しきれず倒れた。それでも笑っている。
そうして開けた一瞬に、たまたまユナが落ちる。咄嗟のことでサリナは動けずにいたが、ユナはギリークの巨体のもとに着地し、滑り落ち、なんとか足から着地した。
「グフッ!!」
だが、それがトドメとなって、ギリークの笑い声は聞こえなくなった。気絶したのだ。
ユナは、跳んだ恐怖が今さらきて、その場にへたりと座ってしまう。
「ほんとにっ!!バカ!!」
次の攻撃がきて、サリナが表に立つ。さっきまで凌げていたのは、ギリークの攻撃に追撃していたからというところが大きかったようで、正面から相対してみれば、結果は前回と近しく、何とかギリギリ躱し、いなしきれるかというところだった。
もちろん、群れに敵うはずもない。
「あっ…」
背もたれにしているギリークが気絶していることに気づいたからだろうか、サリナがピンチだからだろうか。ユナは、【モンスターテイマー】というスキルを、咄嗟に使っていた。
「え…?」
だが、それは何の意味もなさなかった。そう、ユナ自身も、契約以外の使い方をロクに理解していなかったのだ。だから、使ったという感覚があっても、何も起きない。
「ユナッ!!!」
呆けたユナを庇うために、サリナが叫ぶ。
「キャッ!!」
ユナの目の前が真っ暗になった。思わず目を閉じたのだ。
ひたり。
おでこにドロリとした何かがつく。
ユナは目を開けた。
「バカ…弟子…」
私という足手まといが、重りがあったから。
ついに、心の天秤は壊れた。




