序章 声に咲く花 その⑤帰り道の風景
夕日が山に呑み込まれていく。別れを告げるように蛙たちがゲコゲコと鳴いていた。どこからともなく夕餉のニオイが漂ってきて、空腹を自覚させられる。思いのほか勉強に集中していた俺たちボランティア部員は、完全下校時刻ギリギリで学校を出た。
普段であれば数名の運動部員がたむろしている校門にも、人っ子一人いなかった。代わりに生活指導の先生が待ち構えていて、「お前らで最後だぞー」と怖い顔をしていた。「さようなら」と逃げるように通り過ぎ、バス停へ急いだ。
バス停にはちょうどバスが来ていた。電光掲示板の文字を確認し、背後にいる愛良先輩に向かって、振り返りざま叫ぶ。
「愛良先輩! 上りのバスです!」
「うん!」
愛良先輩が走る速度を上げた。俺は運転手さん目がけて手を大きく振り、乗車をアピールした。その甲斐あって、無事間に合うことができた。
「それじゃあお先にね、二人とも気をつけて帰るのよ! Vi ses!(ヴィ セス)」
軽やかにステップを上がり、愛良先輩が手を振った。俺は肩で息をしている蛍の分も振り返しておく。その際、運転手さんと目が合ったので、発車を待ってくれた感謝を込めて頭を下げておいた。
バスを見送ってもなお、蛍は息が整っていなかった。
「大丈夫か? 別に蛍は走らなくてもよかったのに」
俺と蛍が乗るバスは下り方面。愛良先輩が乗った上り方面は、隣町の松谷市へ向かう。俺がダッシュしたのは、バスの発進を待ってもらうためだったから、蛍は歩いてきても問題はなかった。
「ど…くっ…、ご…」
謝罪の言葉に咲く二つの〝ラベンダー〟は俯いていた。花が下を向くのは、怒りと悲しみ。しかし花を見るまでもない。蛍は悔いた顔で下唇を噛んでいた。
これは自分への怒りだろうか。でも、いったいどうして……?
花で感情を察することはできても、その感情の出どころとなる心の動きがわからない。最近そういうことが増えた。昔はもっと共有できていたのに。
疲れが色濃く残った表情を浮かべている蛍に、鞄からペットボトルを差し出した。
「ポカソ飲みな」
ここに千足とか、クラスのうるさい男子たちがいたら、騒がれただろうか。こんなことくらい幼馴染の間ではささいなこと。……のはずなんだけれど、蛍は中々受け取ろうとしなかった。夕日に染まったペットボトルを、大きな目でしげしげと眺めていた。
「どした? 毒なんか入っちゃいないよ」
俺が言った冗談に、蛍は笑った。瞳を潤ませて、くしゃっと笑っ……た――? どきん、と変な風に心臓が波打った。そのせいで、掴んでいたペットボトルを放してしまった。あっ! と思った瞬間、どこからか、にゅっと長い手が生えてきて、ペットボトルをキャッチした。
度肝を抜かれた俺は、大声を上げて飛びのいた。そのおかげで、死角になっていた部分を把握することができた。
得体の知れない長い手は、もちろん霊的な存在ではなくて、正真正銘人間の手だった。
「悪い。……驚かせた」
初めて見る顔だった。おそらく流石町の人ではない。身を屈めていたそいつが、ゆっくりと居住まいを直していく。それにつれ、俺と蛍の顎も持ち上がっていった。
かなり背の高い男だった。それだけじゃなくて、かなり顔の整った男でもあった。それこそ、千駆と張り合う貴公子だった。服装はつんつるてんのジャージとTシャツとういう、お粗末なものだったけれど。
「これ」
貴公子がペットボトルを顔の横に掲げた。夕日に照らされたその姿は、テレビドラマのワンシーンのようだった。
何度か呼びかけられて、ハッと我に返る。見事な絵面に目を奪われていたようだ。
「悪い! ちょっとボケーっとしてた! ナイスキャッチしてくれてありがとう!」
気まずさを誤魔化そうとしているのか、自分の朗らかさが平常時より増量していのがわかる。ポカソを受け取るために伸ばした手の動作も、舞台演劇風に仰々しくなっていた。そんな様子を不審に思ったのか、貴公子は動かず、じっと俺を見ていた。その眼差しは夢でも見ているみたいで。なんと言うか、本当に掛値なしのイケメンだった。
「これ」
「う、うん、ありがとう」
「……飲んでもいい?」
予想だにしていなかった質問をされ、それまでとは違った意味で硬直する。なにも答えられないでいる間、貴公子はなにかぼそぼそとしゃべっていた。聞き取ったそれらをつなげると、
「歩き回って喉が渇いた。自動販売機を探していたけれど、全然見つからなかった。少しでいいから飲ませて欲しい」
ということだった。
「えーっと、これは蛍、……彼女にあげようと思っていたんだけど」
そこまで言い淀んで、横を窺った。蛍は、どうぞと言わんばかりにコクコク頷いていた。
違和感が残っている。さっきの笑顔とか、変な鼓動とかがそのままになっていて、後味が悪かった。しかし、蒸し返せる状況じゃなかった。
結局俺は、謎の貴公子にペットボトルを手渡すしかなかった。
「いいよ。よかったら全部飲みなよ」
「仏、地獄で」
「は? ……あ。ああ、ことわざか。地獄で仏に会ったようってやつ。いや大げさだな」
「じゃあ、飲む。いただく」
「あ、うん、どぞどぞ」
掴みどころのない奴だと思った。物言いも間も風変りだし、表情の動きも少なくて感情が読みづらい。
ゴキュゴキュゴキュゴキュ――ッ。
すさまじい喉の音を鳴らして、貴公子君はポカソを飲み干していった。気持ちのいい飲みっぷりだったし、本人も気持ちよさそうにしていた。
……読みづらいことないかもしれない。
「――はぁっ。……ありがとう、ちょーうまかった」
〝ネモフィラ〟
春の空を思わせる青い花の花輪が一つ、大きく咲いた。青ということは、ネモフィラ・インシグニスブルーと呼ばれる品種だ。
「兆、十の十二乗うまかった」
「あ、そっちの、数字の兆なんだ」
言い回しが個性的だ。
「制服、千場高校の人?」
華麗な容姿に似合いの花を咲かせた貴公子君は、俺と蛍を見比べ、交互に指さしながら訊ねてきた。
俺は肯定の返事をし、蛍はコクコクと頷き返した。
「どう……?」
言葉足らずだけれど、話の流れ的に学校の雰囲気を訊かれているんだろう。
「普通の学校だよ。学校案内のパンフレットには、生徒数が少ないため生徒間の交流が密であり、教員による指導も細やかに行えます、なんて書いてあったと思う」
貴公子君は思案顔で頷いていた。それから、蛍へ顔を向けた。交差する二人の視線。貴公子君は蛍からの言葉を待っているんだろうけれど、それはできない相談だ。話題を引き受けようと口を開こうとする。その前に、
「アンタ、口利けないのか? それともパフォーマンス?」
顔の整った背の高いそいつが不躾に言った。〝ネモフィラ〟が枯れないところを見ると悪意はない。けれど、蛍が身を竦めたのがわかった。
うかつだった。最近じゃ面と向かってそういう言葉を浴びせる人がいなかったせいで、完全に油断していた。悪態をつきそうになるのを堪え、その代わり、一歩前へ踏み出した。
「それがどうかした?」
高い位置にある顔をまっすぐ見上げ、端的に言った。背の高いそいつは少し目を見開いた後で、「いや」と否定の一言を口にした。
「ふっ…! あっ…!」
突然、蛍が吠えた。
なんて言いたいのかまでは察せられなかったが、抗議の意味合いが強く含まれた語調だった。慣れない大声を出そうと力を振りしぼったのか、体勢が前のめりになっている。
蛍が怒るなんて珍しかったから、ついつい目が行ってしまった。まるで、追いつめられた小動物が精いっぱい威嚇をしている風に見えた。その反応は、図星を指されて逆上しているみたいでもある。
「く…の、しっ…! き…い…!!」
そう叫ぶやいなや、胸の前でぎゅっと握っていた手を、貴公子君へ目がけて突き出した。
「……え?」
それは思いがけない出来事だった。意外にも力が強かったのか、はたまた、当たりどころが悪かったのか、貴公子君の細い身体が揺らめいたので、つい支えてしまった。条件反射だった。おっと。悪い。いや別に。そんな短い言葉のやり取りを、なんとも言い難い空気の中で交わした。
蛍はといえば、貴公子君を突き飛ばした直後、脱兎のごとく逃げ出していた。しかし鈍足のため、その背中はあまり遠ざかってはいない。追いかけようと身をひるがえし、やっぱり急停止。
「えっと、あー、次来るバス下りだから。きみ、たぶん上り……松谷市方面行きでしょ!?」
とりあえずそれだけを告げて、貴公子君とは別れた。
進んでいく蛍の後姿を追いかけていき、町役場前にさしかかったところで並走することができた。蛍は、レースを終えた競走馬並みに気が立っている。
「はーい、ペースダウンして! はい、もっと落としてー。もっとー。はい、もっとー。はい、歩こう!」
落ち着かせるために指示口調で誘導し、徐々にペースを落とさせ、最後には歩かせることに成功した。蛍は「ふー、ふー」と呼吸を乱したまま、それでも歩き続けていた。その隣で俺は、貴公子君を突き飛ばす直前の言葉を思い出していた。
『く…の、しっ…! き…い…!!』
前半の部分は、なにかを必死に言葉にしようとして、できなかったもどかしさが伝わってきた。後半は簡単だ。きらいって言ったんだ。蛍がここまで怒りを表に出すのも、こんな風に誰かを嫌うのも本当に珍しかった。そしてなにより〝ラベンダー〟ではなく、〝マーガレット〟が咲いたのには驚いた。
〝マーガレット〟は純白の花びらと、黄色の花芯が印象的な花。「好き、嫌い」と交互に言いながら、花びらを一枚ずつ散らして相手の気持ちを占う。その恋占いに使われたのが、この清楚で初々しい花だ。
蛍の声に〝ラベンダー〟以外の花が咲くのは初めてだった。〝ラベンダー〟と同じく、三輪一組となって咲いていた。
それが思いがけない出来事だった。だから俺は気の利いたセリフの一つも言えずに、蛍の後を歩いているんだろう。
岐路に差しかかり、蛍と手を振って別れた。一人になると、なにかを奪われそうな漠然とした予感が胸に立ち込めた。もしかしたらそれは、蛍の〝マーガレット〟を考えてのことかもしれない。モヤモヤした思いを抱えたまま、俺は雪村家に帰った。
芙美恵おばさんと先に晩ご飯をいただいた。克己おじさんは、お風呂を出る頃に帰ってきた。
自由な時間を過ごして、寝る前に秀作兄さんに電話をかけた。時刻は十時過ぎ。迷惑な時間帯と思うだろうか。ところがどっこい、そのくらいの時間帯でなければ、秀作兄さんは家にいないのだ。
電話は、近況報告や世間話などの他愛のない話に始まって、体調管理のこと、ご両親が心配していることしっかり伝えて終えた。久しぶりに声を聞いたら、その声に咲く花も見たくなった。電話じゃあ、さすがに声に咲く花を見ることはできない。
その夜は、懐かしい夢を見た。声に咲く花を見るきっかけをくれた秀作兄さんと話したためか。それとも……。
蛍の声に咲ける花〝マーガレット〟。
新たなその花はいったいなにを意味しているのか。
この時の俺はまだ知る由もなかった。
序章 了
第一章へ続く




