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終章 声に咲けぬ花 その④鳴子愛良の風景


 翌日。

 目が覚めて一番にアナログ時計を確認すると、お昼前を指していた。克己おじさんも芙美恵おばさんも、それぞれとっくに仕事とパートに行ってしまっている。

 とんでもない寝坊だった。それまでは六時に起きて、夏休み限定メニューの早朝トレーニングに励んでいたのに。それに、芙美恵おばさんが起こしに来なかったことも珍しい。

 ……いや、昨日帰宅した俺はかなり疲れた顔をしていただろうし、気を遣われたんだろう。

 昨日、恋人の声に好意の花が咲かなくなったことを知った俺は、その事実を笑顔の裏に隠した。そうして何事もない風を装って学校へ戻り、募金活動の仕上げを完了させ、手を振ってみんなと別れた。

 友人の声に咲く花と、恋人の声に咲かない花と、自分の声に咲く二つの花。それらを見続けるのは精神的にきついものがあったから、晩ご飯とお風呂を済ませると、泥のように眠ってしまったんだ。

 俺は体を起こすと、ベッド棚にある、折りたたまれたメガネを取ってかけた。

 レンズに度は入っていない。他の人には見えない花を、目で追ってしまうのを誰かに指摘された時、目が悪いせいだと言い訳するためにかけている。

 中学一年の時から愛用しているので、もはや体の一部になりつつあった。だから、睡眠時以外は、かけていないと落ち着かなかった。

 考えなければならないことがある。

 愛良先輩の声に〝パンジー〟が咲かなくなった件だ。花が咲かなくなる理由を、俺は一つ知っている。つい先月も経験した……。でも、信じられなかった。信じたくないと目を逸らすんじゃなくて、信じられないと目を、咲かない花を疑っている。

 俺を好きだと言ってくれた愛良先輩のまなざしも、声も、高鳴ったこの胸も、嘘偽りはなかった。というか、愛良先輩はそんな嘘をつく人なんかじゃ絶対ない。

 一方で、言い様のない不安がのしかかってもいる。けれどじゃあ、どうして花は咲かないんだろうか、なにが起っているんだろうか、と。嘘じゃないなら、無意識下での変化が花に表れたとか?

  ……しかし、だとしたら花が一つも咲かないのは変だ。二つどころか、一つさえも、どんな状態の花も咲かなかったんだから。

 そこまで考えて、俺はガシガシと頭を掻いた。


「一人で考えてたって仕方ないよな……」


 ベッド棚の端で充電していたケータイに手を伸ばした。充電用のアダプターを外していると、ランプがチカチカと点滅している。

 開いてみると、不在着信が五件きていた。発信者は五件とも愛良先輩で、表示された着信時刻によると、一件は昨夜、他四件は今日の午前中となっていた。


「やっばい、全然気がつかなかった……。どんだけ熟睡してるんだよ、俺の野郎」


 折り返すため、操作ボタンを押そうとすると、ピリリリリ、と着信メロディーが流れた。


「わっ! っとと、えーっと、は、はい! もしもし?」


 急に鳴り出すものだから驚いた。その際に通話ボタンを押していたらしく、通話中の文字が画面に表示されていた。慌てて耳へ持っていき、応答した。


「……もし、もし? どいち、くん……?」


 電話口に出た相手は、樵田蛍だった。


「なんか、驚いてたけど、だいじょうぶ?」

「……蛍?」

「そう、だよ? どうし、たの?」


 どうしたの? じゃないだろうと思った。蛍本人から電話がかかってくるなんて生まれて初めてだ。俺にしてみればそりゃもう一大事。

 冷静ぶっている蛍に、鼻息荒くこの感動を伝えてやろうかとも考えたが、寸前で思い留まる。ああ、そうか、通話が珍しくなくなるくらい理音と連絡を取っているのか、と合点がいったためだ。

 そして、それをわざわざ口にする野暮はしたくないと思った。幼馴染として三ミリ程度の淋しさを覚えたことも、黙っているべきなんだろう。


「――や、なんでもない。……ん? 蛍、今外にいるのか?」


 ケータイ電話からは、蛍の声以外の音も聞こえてきていた。


「うん。バス停に、いる。理音、くんのお家…行くの」

「そっか。えっと、それで、なんか用か?」

「用っていうほどじゃ、ないけど。……昨日、様子ちょっと変、だったから、大丈夫かなって」


 バレバレじゃないか、俺の野郎。


「理音、くんも、菜花ちゃんも、ち、たるくんも、心配してた、よ」


 まったくもって、何事もない風を装えていなかった不甲斐なさを知らされ、ケータイを持っていない方の手で目元を覆った。


「……面目ないです」

「愛良せんぱいは、不安そうに…してたよ」


 言外に大丈夫? と訊ねられているのがわかり、その優しさに頬が緩んだ。電話だと、声に咲く花を見なくて済む分、気も楽だった。


「うん、ちゃんと話をするよ」

「……一年生の時、愛良せんぱいが、私を部活に、誘ってくれたの。それは、私が、クラスに馴染めてないのと、しゃべれないことを…知って、だったの。本人は、認めない、けどね。そういう、優しい人、なの。だから……」

「ああ、わかってる。心配してくれてサンキュな」

「ううん、『もし、困っていたら、普通に力になりたい』もん」


 少し前、蛍を説得するために口にした言葉が返ってきた。


「じゃあ一つ、ぶっとんだ質問に答えてもらってもいいか?」

「え……? いいけど、なに?」

「もし、人の感情や、好きな人へ向ける好意が、目に見える形であったとして」

「……うん」

「自分の好きな人の感情と、自分へ向ける好意が見えなくなったら……蛍はどう思う?」


 蛍は、驚いたように小さく息を飲んだ。当たり前か、こんな変ちくりん過ぎる質問をされたら、誰だって言葉に詰まるだろう。


「形が見える理由は判明してない。けど、もうずっと見慣れた光景なんだ。家族とか友達の形は変わらず見えるのに、恋人だけが見えない」


 フォローのつもりで言葉をつけ足した結果、仮定の話から、ぐっと身近な話へと距離が狭まった気がした。焦って弁解の言葉を探す最中、電話口からぼそぼそとこぼれる声が聞こえてきた。


「……っか、ど…ちくんが言っ…た花…て、そういう……。それで、ど…ちくんは……」

「? 蛍、なに? なんて言った?」

「う、ううん……その、そう、だなぁ……愛に変わったんじゃ、ないかな?」

「……んと、愛の形もあって、好きが愛に変わったなら、ちゃんと見えるはずなんだ」

「あ、そうじゃなくて…ね、見える側の、こと」

「どういうこと?」

「見える側が、その恋人を愛するように、なった…から。恋人の感情も、好意も、愛も、見なくても大丈夫なくらい、心が近づいた。そういう、可能性…ない?」


 微笑みを湛えている声に、目の前がキラリと光る。一瞬のまぶしさと、ハッと目の覚める懐かしい感覚に襲われた。他の誰にも出せない、蛍にしか出せない答えだと思った。


「……すごいな。蛍はむかつくかもしれないけど、俺、蛍に恋をして、失恋をしてよかった――」


 気がつけば、そんな自分勝手な言い分を口走っていた。事実ではあるんだけれど、蛍の思いから目を逸らし続けていた俺の言えたことじゃない。俺はおそるおそる耳を澄ませて蛍の様子を探った。


「――う…ん。なんか、ちょっと、ムカつく、かも……? でも、土一くんが、そう思ってくれる…私に、なれたのは、今日までの私を…一緒に育んでくれたのは、土一くん、なんだよ」


 その声を聞きながら俺は、カタクリのお墓の前で触れた、蛍の手のひらの温度を思い出していた。

 今、言葉もなく、目と目を合わせることないけれど、心と心が通じ合ったんじゃないかと期待した。間もなくして、俺と蛍はどちらともなく「ありがとう」を伝えると、通話を終わらせた。

 直後、俺は背中からベッドに倒れ込み、叫ぶ。


「あーーーー! 助けられてばっかりだ、俺は!」


 スプリングが跳ね返って揺れる視界の中で、理解したことがある。きっとこんなに助けてもらっている俺は、その命も人生も、俺一人のものじゃない。

 そして、たぶんそれって、ものすごく恵まれたことなんだろう。


「……あぁどうしよ。むちゃくちゃ愛良先輩に会いたい……」


 幸せの中にいる俺が、一番幸せを分かち合いたい相手は、愛良先輩しかいなかった。そのためにも、きちんと話をするべきだ。

 ケータイを眼前へ持ってくる。着信履歴を開き、愛良先輩へ電話をかけた。ツーコールの後、相手が出る。


 ――はぁ~い 「はぁ~い」


 声がダブって聞こえてきたのは、ケータイの故障だろうか。


「もしもし? ……って、切れてる?」


 ケータイへ当てた耳に「ツー、ツー」という無機質な電子音が届いた。ついでに、自室の襖の方からも声が届く。


Tjenaシェナ~! 先輩彼女選手権、後輩彼氏思いで賞の愛良先輩はここよ?」


 バシーン! と北西弟を思わせる勢いで登場したのは、我が恋人の鳴子愛良その人だった。空色のワンピースに素足。髪はいつものように編み込んではいるが、ポニーテールにはしていなかった。

 信じられないタイミングで現れた恋人を前に、俺は呆気にとられていた。

 すると、ピロピロリンとご機嫌なメロディーを奏でて、ケータイがメールを受信した。後でそのメールを読んで知るのだが、送信者は蛍で、内容は――


【言い忘れたけど、バス停で愛良先輩に会ったよ。何度電話しても土一君が出ないから、乗り込むって息巻いてました。】


 ――とのことだった。

 おそらく確信犯。故意に言い忘れたに違いなかった。


「――すみません、お待たせしました愛良先輩! どうぞ!」


 Tシャツとカーゴパンツに着替えた俺は、襖を開け、廊下で待たせていた恋人を招き入れた。

 しゃがんで待っていた愛良先輩は、ぶすっとした顔で俺を見上げると、不服そうな態度を崩さずに部屋へ入ってきた。


「せっかく恋人の部屋へ来たのに、まさか開口一番に出ていけって言われるとは思わなかったわ」


 背を向けたまま俺を一瞥する。


「出ていけなんて言い方してませんって」


 数分前、突如訪れた恋人に俺はとにかくまず退室を願い出た。

 というのも、爽やか清楚なワンピースに身を包んだ愛良先輩に対し、彼氏たる俺の格好ときたらド級のパジャマ。アセヨレのスポーツウェアだ。いくらなんでもあんまりだろう。

 ただでさえ、俺と愛良先輩は外見的に釣り合っていない。たとえるならペガサスとコーギー。でも、コーギーにもコーギーなりのメンツがある。


「着替えのためなんですから仕方ないでしょう」

「女子じゃあるまいし、別に私がいたって問題ないじゃない」


 つまらなそうな口振りで言い、ベッドに腰を下ろした。ピョン、と跳ねるように着席するものだから、反動で体が上下に揺れている。座り方のせいでワンピースの裾が引き上がったこととか、投げ出された足の白さとかが、目に毒だった。

 ……って、いかん、いかん。俺はこれから真面目な話をするんだ。


「愛良先輩こっち、この勉強机のイスに座ってくれませんか」

「? どうしてよ?」


 この無防備系彼女は、そんな背中や肩を露出した服で男の部屋に入るリスクというものを、これっぽっちも理解していない。

 これで男子大学生たちに手も握らせてないとか、嘘みたいだ。きっと絵理沙さん選りすぐりの紳士だったんだろう。

 俺が譲らなかったので、愛良先輩は不承不承、イスに移動した。代わりに俺がベッドへ腰を下ろす。

 本題を切り出す前に、ふと気になったことがあった。


「そういや、どうやって家に上がったんですか? 鍵かかってましたよね?」

「玄関前で芙美恵さんに会ったのよ。土一の様子を見に、お昼休みを利用して帰って来たっておっしゃっていたわ。……なぜか私を家へ上がらせただけで、またお仕事に戻ってしまったのだけど」

「……そうですか。どうしてでしょうね」


 愛良先輩に調子を合わせて答えておいた。夕方、パートから帰ってくる芙美恵おばさんとどんな顔をして会えばいいのか、今から背中がむず痒くなってきた。


「私も聞きたいんだけど、……どうして電話に出てくれないのよ?」


 不在着信に関しては第一に謝り、熟睡していて気がつかなかったと釈明した。愛良先輩は「疲れてたなら仕方ないけど。でも……」と納得のいっていない様子。

 昨日の俺の挙動について思うところがあるんだろう。ややあってから、俺は本題を切り出す。


「愛良先輩に大事な話があります。さっき電話したのは、その件で会えないかを聞くためでした」

「大事な話? ……な、なによ」

「昨日、愛良先輩は俺に聞きましたよね。理音と柏葉さんの声に咲く花の話をした時に、『ねえ、私の声にもちゃんと咲いてる?』って……」


 愛良先輩は怪訝な顔で頷いた。俺は息を吸い、一気にしゃべる。


「咲いていなかったんです、本当は、愛良先輩の声に〝パンジー〟は咲いていなかったんです。二つどころか、一つも。そしてそれは、今も」


 赤い〝チューリップ〟を二つ咲かせる俺に対し、


「……どういう、こと? だって、……え?」


 愛良先輩の声には一つだって〝パンジー〟が咲くことはない。

 その表情は、単純に花が咲かないことを不思議がっている。しかし、花が咲かない意味を思い出したのだろうか、怯え切った表情へと変わっていった。

 愛良先輩は堪らず、跳ねるように立ち上がった。


「そんなはず、ないじゃない……そんなはずないわ! だって私、土一のこと好きよ? 大好きだもの!」


 左手を胸に当ててそう主張した。

 恋人の思いを聞いた俺は、無意識下で俺を嫌いになった線が消えたと思い、胸を撫で下ろしていた。そこへ、正面から強い衝撃を受けた。猛然と両肩を押され、ひっくり返された。

 なにが起ったのだろうかと視覚が情報を集めようとする。すると、見慣れた天井と、切羽詰まった顔をした愛良先輩が俺を見下ろしていた。垂れ下がった金髪が綺麗だった。どうやら一人安堵している隙に、愛良先輩に組み敷かれたらしい。

 ……普通逆だろと、いまいち現実を受け入れ切れていない脳みそで考えていた。掴まれた両肩に爪が食い込んでいる。痛みで顰めた顔が拒絶めいて映ったのか、愛良先輩は怖れるように掴んでいた手を離すと、膝立ちになった。俺はベッドに両手をついて、後ろへと下がりつつ上半身を起こした。

 そうこうしている間に、愛良先輩はなにを思ったのか、ワンピースの脇にあるファスナーを下ろし始めた。更に肩ヒモに手をかけ、するりと腕を引き抜いた。


「土一、ねえ、本当よ……?」


 そう言いながら、反対の腕も引き抜く。当然ワンピースは重力に抗えず落ちていった。俺は、それを追いかけるようにして顔を伏せた。ワンピースは腰の辺りで留まっている。


「あ、愛良先輩、なにしてるんですか!」

「……土一になら、私が好きなあなたになら、ぜんぶを見せられるわ。これで、信じてくれる?」

「いや、その、そうじゃなくて、俺……は、ぇえ!?」


 衣擦れの音がしたかと思ったら、ベッドの下に白いなにかが落とされた。よく見えなかったけれど、ヒモ状の輪っかがついている、レースっぽい生地のもの。これって、した……ぎ!?


「好きよ、土一。ねえ、こっちを向いて、私を見て」

「む、無茶言わないでくださいよ!!」

「こっちを見なさいってば!」


 両手で頬を挟まれ、顔を無理やりに持ち上げようとされた。ほのかな石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。心臓が尋常じゃないほど暴れ回っていて、ともすれば口から飛び出そうだった。

 俺は半ば意地になって抵抗していた。見たくない訳じゃない、むしろ見たい。でも今見てしまうのは弱みにつけこんでいるみたいで嫌なんだ。

 頑なに拒んでいた俺の頬を、温かな雫が叩いた。それは二度、三度と続き、俺はおそるおそる顔を上げていた。そこには、悲しみの淵で泣いている恋人がいて。それは、新雪のようにしろかった。愛良先輩以外の景色が消えて、視界いっぱいを愛良先輩で埋め尽くされる。


「好き。好きよ、土一。本当に好きなの……。花が見えなくちゃ、私の好きは信じてはもらえない?」


 堪らなくなるセリフを吐いた恋人を遮二無二抱き寄せて、腕の中に閉じ込める。


「きゃっ」

「信じてます……! 俺、信じてますから、ていうか疑ってません!」

「…………ふぇ?」

「花が咲かなくても、愛良先輩が俺を思ってくれている気持ちを信じてます! 疑ってなんかないです! それを伝えたかったんです、伝えようとしてたんです!」

「……ほん、とう……?」


 耳の後ろの方から聞こえてきた弱々しい声に、俺は「本当です」と答えながら、抱きしめる腕の力を強めた。愛良先輩はもぞもぞと身じろぎをし、肩甲骨辺りのTシャツをぎゅっと握った。


「どうして咲かないのかしら……」


 その声色は、見知らぬ街で迷子になった子どものように心細げだった。


「どうして咲かなくなったのかはわかりません。でももし、好意を失ったことを意味しているなら、それは花が間違ってると思う」

「……うん」

「あと、これは蛍に言われた言葉を踏まえての発言なんですけど、いいですか?」

「なぁに?」


 密着していた体を離し、顔を見て話しができる距離を作った。意図を察した愛良先輩がそれに応じてくれる。

 束の間、見つめ合った。愛良先輩は、あどけなさを覗かせている表情をしていた。まなじりではまだ涙が光っていたので、人差し指の背でそっと掬い取る。そう頭では思っていたはずが、どこで伝達を間違えたのか、気がつけば花の蜜に誘われる蝶々のように、自然と唇を寄せていた。俺は愛良先輩のまなじりにキスをしていた。


「……あっ。……ふふ、涙にキスなんて家族にも誰にもされたことない……!」


 千駆や理音がやるならまだしも、俺には似合わない行動だ。けれど、小さくつぶやいた愛良先輩の声ははしゃいでいたし、許されるだろう。


「愛良先輩の声に〝パンジー〟が咲かなくても、もしまた咲いても、どっちでもいいんです。花の咲く景色が、俺がずーっと見てきた当たり前の世界ですけど、そんなもん覆されてもいいくらい、愛良先輩が――」


 俺の声に咲く花も、他の景色も見ない。ただ真っ直ぐに、愛良先輩だけを見つめて言った。


「愛良が、特別なんだ」

「っ……ばかぁ! そこは好きって、い、い、言うところでしょお~!」


 再び泣き出した愛良先輩に目いっぱい抱きつかれた。少し前から思っていたけれど、この人は涙もろい。


「……そこがまた可愛いんだけど……」


 俺はボソッとつぶやいた。


「ちょっと、ねえ聞いてるの!? 好きって、言いなさいよ……私は何度も言ったじゃない!」


 首にしがみついたまま、ぐずり始める愛良先輩。素肌の背中に手を添えて支え、後頭部ら辺の髪を撫でた。金色の髪は、サラサラとして冷たくもなく温かくもない、不思議な感触がした。

 もっと撫でていたい欲望を堪え、手を後頭部から愛良先輩の耳へ移動させて髪をかけた。ちょこんと顔を出した耳に口を近づけて、言う。照れ臭いから、囁く声量で。


「俺も好きです、愛良先輩」

「ひゃあっ」

「……ぅお!」


 耳を襲うくすぐったさから身を捩って逃げたため、愛良先輩のあいらせんぱいが俺の視界に舞い戻ってきた。


「お、おっき――ぃぶっ!?」

 

顔面目がけた右ストレートが華麗に決まった。慈悲のない威力にデジャヴュを覚える。


「す、すみません……でも、実はずっと当たっててドキドキしまし、ぶへっ!?」

「ばか! ばか! 台無しじゃないのよ!」

「い、いて! いてて! すみませんって!」


 平手打ちを受けながらも、俺はベッドの下の方に蹴飛ばされていたタオルケットを手繰り寄せると、そちらを見ないようにして愛良先輩に放った。攻撃を止めた愛良先輩は、「さいってー」だとか「私がどんな気持ちで」だとかを愚痴っていた。

 もういいわよ、と言われて視線を戻すと、愛良先輩はタオルケットをしっかりと体に巻きつけていた。うーん、タオルケットになりたい。


「……土一には、私の名誉のために言っておくことがあります」

「は、はい」

「簡単に……、軽い気持ちで脱いだんじゃ、ないのよ……?」


 睨みつけているようでもあり、俺の顔色を窺っているようでもある目つきだった。

 それにそのつもりだったらソレ用の下着を選んできたし――と口早につけ足された赤面必須な言葉は聞き流して、俺は両手を振る。


「いやいやいや、わかってますよもちろん! 俺のために仕方なくしてくれたことだってわかってます。簡単とか軽いとか、そんな風には思ってないです!」

「……それなら、よかったわ」


 あからさまにホッとした愛良先輩に、しばし退室していると告げた。服を着直してもらうためだ。

 その間に俺は台所へ行こう。考えてみれば、この夏の日差しの中を来てくれたのに、冷たい飲み物すら出していない。……ぐー。

 ついでに、朝食も昼食も食べていないがらんどうの胃袋へ、いい加減食べ物を入れてやらなければ。


「――あ、待って!」


 廊下に出た俺を、愛良先輩が引き止めた。巻きつけたタオルケットを手で押さえながら小走りで駆け寄ってくる。襖を閉めようとしていた手を止め、人間一人分の隙間に気持ち身を乗り出した。


「なんですか」

「うんとね……」

 言い難いことなのか、愛良先輩は顔の下で小さく手招きをした。俺は肩を下げ、首を伸ばした。内緒話を待つように右耳を差し出して、顔だけが境界線を越えた状態になった。


「土一――」


 左頬に愛良先輩の指先が触れた。内側へ行くようにと指に促され、正面を向く。その途端、目の前に金色に煌めく影が差した。小さくて柔らかくて滑らかななにかが、口に寄せられている。ゼロの距離に愛良先輩がいた。目を閉じていた。


「……んっ?」


 キスをしている。そう理解したまさにその時、唇に触れていた微熱が遠のいていった。世界はスローモーションに回っていて、彼女が目を開き、してやったりと意地悪く、けれど最高に美しく笑うまでの時間が、フィルム写真のように俺の目に焼きついた。


「ファーストキちゅ、もーらい!」


 噛んだのか、わざとなのか判断に困った。左頬に添えられたままの手が、遠慮のない力で俺の顔を室外へ押し出す。続けて、映画やドラマの撮影時にカットをかけるような音を立てて、ムードもなにもなしに襖はぴしゃりと閉じられた。

 俺は目を白黒とさせ、しばし呆然とした。が、やがて微笑むと階段に向かって歩き出した。

 時折、襖がガタガタと揺れていた。まだ触れた微熱が残っている気がする。無性に笑みが込み上げて止まらない。

 俺はギ、ギ、ギ、と鳴る階段を下りながら「あとで仕返ししてやろーっと」と、大声で言った。襖の前で真っ赤な顔をしている恋人の耳にもきっと届いただろう。

 ……かくいう俺も耳まで真っ赤になっているんだろうけれど。

 飲み物を取りに開けた冷蔵庫には、芙美恵おばさんが準備してくれた朝食用のみそおにぎりが三つ並んでいて。俺はそのおにぎりを愛良先輩と二人で食べたいと思い、破顔した。


 恋をしている相手に向けた言葉には、花は二つ咲く。そして、恋が終わると花は咲かなくなる。

 この理に反して、愛良先輩の〝パンジー〟が咲かなくなったことには疑問が残る。

 二つの好意の花どころか、他の条件で咲く一つの花も同時に見えなくなった。けれど愛良先輩の気持ちをたしかめた俺は、あえて深く考えなかった。いつかまた、見えるようになるだろう。なんの確証もなく、そんな風に思っていた。


 ――終わりが来ることなど、知らずに。


 続く

次話で最終話となります。

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